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第13章 クオリアは共振である

クオリアは共振なのだ

ながらく、クオリア論の更新が止まっていた。
これまで探求の中で、わたしはクオリアを なにか実体的なものとして想定していたが、
クオリアは実体ではなく、共振そのものだということに気づいたからだ。
いや、もちろんクオリアが物質やエネルギーのようなものではなく、
それ以外の非実体的なものであることは頭でもからだでもよくわかっているつもりだった。
だが、それを言葉にしようとしたとたん、それが主体となったり客体となってしまう。
二元的な言葉のマジックにかかってしまうのだ。
今わたしたちの持つ言語では共振そのものをうまく捉えることができない。

共振には主体も客体もなく、どちらからともなく起こるものだ。
クオリアは主体ではない。共振そのものである。
だが、言語は主語と述語の構造に囚われている。
クオリアは生命にしか感じることができない。
だが、生命がなにか物質と共振してクオリアが生じるのではない。
生命がクオリアと共振するのでもない。
生命もクオリアも共振そのものなのだ。
言葉ではこれ以上どうしてもうまく言うことができない。
このデッドロックにぶつかって、わたしは
主語述語ではない新しい言語を発明するしかない、というところに追い込まれた。
そこでこの二三年足踏みをしていた。
だが、主語述語を使わない言語などすぐに発明できるものではない。
だから、からだに潜り込んでいたのだ。

からだに起こっていることに耳を澄ませば、そこで起こっているのが
純粋な共振であることがだんだん分かってくる。
踊りもまた生命の共振である。
ひとつの動きも無数の細胞生命の共振からなる。
だが、それを言葉にしようとしたとたん、大技をくらって投げ出されてしまう。
たとえば、これまでわたしは次にように書いてきた。
<わたしたちのからだは100兆個もの細胞からなる共振体である。
それぞれの細胞生命があるゆるクオリアと共振している。>

真っ赤な嘘だ。
そうではなく、生命もクオリアも実体的なものではなく共振そのものなのだ。
生命もクオリアもただ共振そのものである。
生命という実体がクオリアという別の実体と共振しているのはない。
一体これをどう言えばいいのか。
それをいう言葉はまだない。
からだや生命で起こっていることを言葉にすることができない。
解けない謎だ。
だからただ私たちは踊ることしかできない。
踊りは共振そのものである。
今日は今私たちがこの巨大な解けそうもないデッドロックに
ぶつかっていることを伝えることができるだけだ。
私はこのデッドロックを解決できずにまもなく寿命を終えるだろう。
わたしが倒れたあと、誰かがバトンを受け取ってこの巨岩をぶち抜いてほしい。
前章でわたしは次のような図を掲載した。
超ひも理論のカラビヤウ空間という6次元の微細次元でひもが共振しているさまを
描いたものだ。



図1 ひもは絶えず出会い、新しい共振パターンを生成している

だが、こんな絵も誤解を生むだけだ。
これを見ればひもがあたかもなにか実体的なものであるかのように受け取ってしまう。
だが、実際には、ひもは実体ではない。
ひもも生命やクオリアと同じように絵に描けるものではないのだ。
私たちが知るような物質でもエネルギーでもなく、
それらを生成する始原の未知のものなのだ。
その未知のものこそ共振そのものである。
ひも理論が生まれてから30年以上になるが
足踏みを続けているのは、やはり科学者たちも共振そのものを捉える論理を見つけられなからだ。
なにか、人類の知性にとんでもない革命が起こらない限り、
いまのままでは共振を捉えることができないまま足踏みが続くだろう。

この後私は方向を変え、このデッドロックを大きく迂回して、
情報とクオリアとの巨大な違いについて探求をすすめるるつもりだ。
できることから、坑道を掘り進めるしかないからだ。
それは、これまで別個に探求してきた「クオリア論」、「共振論」、「生命論」などの
枠組みをすべて壊してあらたな統合を探るものとなるだろう。


ここまで書いてきて、
これ以上進めないところまで来たことを知る。
これまで別個に掘り進めてきた、「生命論」、「クオリア論」、「共振論」は、
ひとつに統合されなければならない。
それは、新たに書き起こされる「共振する生命」という実践的な文章において
実験されるだろう。


解くとは、
より深い混沌の闇との多次元的な連関を開くことなのだ。


「共振する生命」を読む



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