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十体論
世界共創―リゾクラシー
2010年4月24日

生命共振

共振塾の根幹は、生命共振にある。
いかに生命共振を媒介するか。
すべてはそこにかかっている。
サブボディ技法と、土方舞踏の型の双方を学ぶことによって
生徒の生命が生命共振によってひとりでに自分独自の踊りを創造する。
その創造性と固有性を発揮するプロセスを媒介するのが本質だ。
共振タッチや指圧を学ぶのは、生命が持っている原生的な生命力を思い出すことによって、
生命共振が発揮されるからだの状態に持っていくことが目的だ。
生命の原生力には、現代の日常のからだが忘れさっている自己治癒力も含まれている。
創造性とは、生命が受けた固有の軋みを、自己治癒力によって軋み返しをする動きの表れである。
受けた軋みが固有のものであるかぎり、軋み返しによって出てくる創造性も
世界でたったひとつの固有のものとなるのは当然だ。
生命はこの力によって40億年の間に無限の多様性を発揮してきた。
私たちはほんの百年に満たない期間、命を借り受ける。
その間に固有の創造性を発揮して、こうも生きることができる、
受けた傷をこうして軋み返しをすることによって創造性に転嫁することができる、
という発見を命に返す。
命の悠久たる創造の流れに参加することによって、命に帰っていくのだ。
その時、個としての死は何ら恐れるものではないことがわかる。
私たちはただ一切と共振している生命なのだ。



2010年8月27日


微細共振から始める

世阿弥が発見した序破急は、生命共振として捉えるとその必然性がよくわかる。

能において、ひとつの能の序は、長い渡り廊下を静かにからだを運ぶ動きからはじまる。

その序の運びの時間を通じて、踊り手は現実の日常世界から、

能が成り立つ現幻虚実が混交する異世界に入っていく。

観客もまた、その時間を共有することによって、踊り手と共に異世界に導かれていく。

 

細胞レベルの微細共振からはじめる

  

サブボディ舞踏もまた、通常の序破急では静まり返った静寂体になり、

生命の呼吸に耳を澄まし、かぎりなく微細な細胞レベルのクオリア共振から始める。
ときにはその慣例を打ち破り、異なる始まりを工夫することもありうるが
それは通常時の序破急を序とし、破の始まり方になる。
通常の序よりも、はるかに難しい始め方になる

 
序破急の序は、なぜ静かかつ微細な動きから始めるのがいいのか。

人間を脱いで、生命の世界に移行するためにその時間が必要なのだ。

 

あらゆる共振は微細な細胞生命から始まる。

細胞生命が共振しなければあらゆる共振は起こらない。

だから、共振は細胞レベルから始めるのが鉄則だ。
生命の呼吸に身をゆだねるのがもっともいい。
そして、一つ一つの細胞生命の微細ゆらぎに耳を澄ます。

もし、粗大な動きからはじめてしまえば、

見る人はそれを人間の動きとして捉えてしまう。

そうすると美醜・良否というさまざまな二元判断や価値観が、

見る人を捉えてしまう。

それでは駄目なのだ。

人間ではなく、生命になることが必要だ。
 

序破急の序が大事なのはそのゆえだ。

序においては目には見えないレベルのかすかなかすかな

命の異次元とのふるえから始める。

そしてその兆しを秘める。

すべての動きは動き以前の不可視の生命共振から始まるのだ。
そして、異界と交感する存在として、様々な人間以外の動きを工夫する。
傀儡体、ヒューマノイド、ベルメールなどもその一例だ。
秘筋、秘腔、秘膜、秘液、秘関など各自の秘密の部位から始まる。

何が起こっているのかわからない不思議な世界を創造する。

その不思議と共振することによってはじめて観客も日常の人間の世界から

生命の微細な非二元かつ多次元共振の世界に入ることができるようになる。

 

序において、限りを尽くして、人間を脱ぎ、

生命そのものに変成する。

序の如何によって、破・急の異次元開畳・異界転生が生きてくる。

どんな奇想天外な想像もつかない異世界にも、

観客とともに踊りこむことができる。

それができてはじめて生命の舞踏と言える。

一朝一夕にはかなわない。

日頃からの意識を止め、透明な生命になる長い長い修練によってのみ、

それが可能になる道が開く。

 

 

2010年8月17日

あらゆるものを共振として捉え直す 

 

これまで実体と思い込んでいたものを共振として捉え直すこと、

これがこれからのわたしの仕事となるだろう。

これまでのわたしの思考は、生命論においてもクオリア論においても

生命やクオリアをどこかで実体的なものとして捉える

観念の実体論的旧習に囚われていたことに気づいた。
自分自身の共振論で、あるゆるものは共振だと捉え返そうとしていたにもかかわらず
観念は旧来のまま、生命やクオリアをどこかで実体的なものと思いなしてしまっていた。

全部一からひっくり返されねばならない。

生命は根源的に共振現象である。
生命はあらゆるものと微細に非二元かつ多次元的に共振している。
共振によって生命は生命でありえている。

生命が感じるクオリアも実体ではなく、共振そのものである。

赤のクオリアなどない。

赤を感じる生命共振現象があるだけなのだ。

あらゆるクオリアは共振そのものである。
ここから再出発しよう。

共振と捉え返すことによって
これまでどこか胡散臭いものとして見られてきた催眠や自己催眠、憑依などの現象も
ただただ生命クオリアの共振だと捉えれば何ら胡散臭いものではないことがわかる。
舞踏における成りこみも共振によって成り立っている。
夢は生命の内的な記憶とその日の体験のクオリアとの間での共振によって生成するものだ。
アニマなどの元型も共振という捉え方で解けていきそうな気がする。
うまく解けないまま措いておいた謎が次々と解けていく。
闇の中を暗中模索で掘り抜いてきた無数の坑道群がすべてつながる広場に出た感じだ。
しばらくはこの広場を探索することにしよう。
おそらくはもっと深い闇にであうことになるだろうが。



2010年8月19日

世界を共創する方法が見えてきた 

 

ダンサーは生命共振だけによって世界を共創することができる。
この間の実験的授業でその可能性がおぼろげだが確かに見えてきた。
私のしている仕事は、土方が切り開いた生命の舞踏の技術を生徒に伝えているだけだが
それだけで、生徒一人ひとりが土方レベルのスーパークリエイターに育っていく。
土方の時代は、土方一人が飛び抜けた創造力をもっていたので、
土方が踊り手たちの踊りを一から十まで振付ねばならなかった。
だが、みんなが土方レベルの創造者となれば、特別な振付家の存在は必要なくなる。
ただ、それぞれが固有のクオリアで踊りを創り、お互いの固有の世界クオリアを共有して
いくつもの多様な世界を共振によって共創することができるようになる。
いままでは頭の中でだけ存在していた未来社会の雛形である
無限に豊かな生命の多様性が許される世界を実際に創り出すことができるのだ。
こんなとんでもないことができるのは、ダンサーだけだ。
ほかの芸術分野は、視覚や聴覚や言葉といったひとつのチャンネルしか使えない。
踊りだけがからだや動きを含めた全チャンネルを使う総合芸術である。
全チャンネルを開くことによってだけ、
チャンネル分化以前の生命の非二元世界に触れることができる。
意識を止めてからだごと生命共振の創造力を発揮できるのだ。
つくづく踊りの世界に入ってよかったと思う。
おそらく私の生命が踊りの可能性を予感して私をつき動かしてくれたのだ。
踊り手すべてが土方レベルになったとき、
生命共振による世界共創のモデルができる。
何年か前まではほんのかすかな予感でしかなかった
リゾクラシー世界実現の可能性が透けて見えてきた。
生きてる間にここまでこれようとは思っていなかった。







2010年7月9日

ひとつになるという共振の奇跡

最終週のサブボディ・コーボディ劇場で、
はじめて踊り手たちの研ぎ澄まされた
生命共振がではじめた。
ごく瞬間的な奇跡的な共振が起こることによって、舞台がひとつになる瞬間だ。
共振には主体も客体もない。
踊り手が自我や自己を消すことによってのみ純粋な生命共振が現れる。
そうだ。これを見たかったのだ。
長いあいだ闇をかき分け転びつつまろびつつ歩いてきたのはすべて
これを見たかったからなのだ。
個々の踊り手がいくら優れた技量を見せても
舞台がひとつになっていない踊りを見るのはただ寒い。
全員がひとつになってひとつの世界を創造するということがもっともかんじんなことだ。
土方の舞踏をはじめ、これまでの舞台でもひとつに結晶することはあった。
だが、それはただひとりの優れた振り付け家の絶妙な采配に従って
踊り手が練習を重ねて実現されるものだった。
そうではなく、踊り手が自我や自己を消して生命になることによって起こる
透明な生命共振を見ることができるようになった。
生まれてはじめてだ。
こんな奇跡的なものを目にしたのは。
もちろん、まだほんのかすかなその始まり、
生まれたばかりの胎児のような段階に過ぎないとしても。
このために生きてきたのだと気づかされた。



2010年8月1日

世界を共に創る

おそらく、人が己れの自我や自己を消して、
ただ、微細に共振する生命になったときに、
一緒に命の望む世界を創ることができる。
そういうことが実際にこの社会で行われるようになるには
五千年か一万年くらいかかるかもしれない。
自我や自己という人間の形態は、これまでの人類の前史が不幸にも
支配権力や国家を生み出してしまった残滓にすぎない。
だが、命が命令や支配や差別や競争だのを望んでいないのは紛れもない事実だ。
そうである限り、いつかは人類は命の声を聴いて自我や自己を脱ぐ日が来るだろう。
そして生命共振だけでこの世をやっていく方法を見出すだろう。
今私たちが踊りの世界から特権的な振付家の振付や指示によってではなく
生命共振だけで小さな世界を共に創るというつたない実験を試みているのも、
その遠い未来の日を予感するからだ。
これは私にとって見果てぬ夢だった未来社会の萌芽形態だ。
舞踏家とはこの世でもっとも微細な震えるような命の声を聴けるもののことなのだ。



2010年7月29日

リゾクラシーが地についてきた

夏期集中ワークショップでは、今年の前期で実験したことを
一ヶ月に集約して世界共創技法を磨く実験を進めている。
三週目になる今週は、毎日生徒にひとつの自分固有のクオリアを見つけてくるように宿題を出した。

昨日出てきたクオリアは次のとおりだ。
・溶岩流
・実を結ばない花
・宇宙的螺旋
・塩されたかたつむり
・不安定な大地

今日は
・粘液
・エイジング
・破裂的解放
・結晶化
・重たいスノーライオン

これを各生徒が発見した調体法でシェアした。
アメリカの生徒が二人いて、なかなか早口の癖が治らないので聞き取れず、
早口の矯正に苦労したが、なんとか5人で十個のクオリアを共有した。
十種類のコーボディの群れの動きで、十種類の世界をシェアすることになった。
これを明日は個人のサブボディのソロと、最適の組み合わせを見つけていく。
サブボディとコーボディ世界の組み合わせパターンは無数にありうる。
その中から最適の一つを実験によって見出していく。
最初のポジショニングと肝要なタイミングはサブボディが用意するが
実際にはフリーリゾナンスで、無数のバリエーションが生まれていく。
やる前は拙速かとも危惧していたがやってみれば生徒は皆対応してくる。
この技法が定着すればいよいよリゾクラシーによる世界共創技法の基礎が完成することになる。
長年追求してきた夢がいよいよ実現される日が来た。
踊りの創造の世界からたった一人の振付家が彼のイメージに沿って
他の踊り手の動きを振り付けてひとつの世界を作り出すのではなく、
踊り手間の生命共振だけで世界を創りだすこと。
振付家やディレクターという特権的な立場なしに世界を創ることができるのだという
事例とその技法を共有する術を実際に創りだすこと。
若年の日々を過激派のリーダーとして過ごした私は
その中で自分が運動に引き込んだ多くの共を死なせて、
二度と政治指導者の立場には立つまいと決心した。
だがそれだけでは足りない。
この世から政治や権力を消滅させる道を見出すこと、
それが生涯の課題だった。
その課題が踊りの創造という限られた狭い世界ではあるが
いよいよ実現しつつある。
この技法を世界全般に拡張していくにはまだまだ未知の課題をクリアしていく必要があるだろう。
やがてこの世の権力者が気づいて弾圧に乗り出してくるかもしれない。
それらすべての困難を乗り越えて、生命共振だけで世界がやっていける
国家も政治もないリゾクラシー世界が実際に実現するには、
何千年もかかるだろう。
だが、わたしはここまででいい。
あと数年か十数年でこの世から居なくなるだろう。
生きている間に原理とその祖型だけは見出すことができたのだから悔いなく死ねる。
あとは後世の人々の仕事だ。


2010年7月24日

世界を共に創るための技術

今月、来月の夏期集中ワークショップは、
生命共振を伝えることに重点を置いている。
毎日を生命の呼吸から始め、
生命が無数の多次元的クオリアで世界と共振していることを感じる。
自我や自己ではなく、生命として踊るにはこれが欠かせない。
そして、この二週間自分のサブボディの踊りを探求すると同時に
他の人のサブボディに自由に共振して動くフリーりゾナンスを続けてきた。
来週からは生命共振をもとにひとつの世界を共に創る
グループリサーチを始めることができそうだ。
私のイメージに従って群れの動きをするのではなく、
自分がどんな世界で踊りたいかを探り、
その世界をコーボディの動きで創るのだ。
すでに3月から6月の長期コースの生徒は、
虫の歩行の虫が這うクオリアを ひび割れたコップだの、潰れたトマトだの、
秘密の笑みだの、歪んだ種だのという、固有のクオリアに替えて動く応用に入っていた。
そして、生徒が練習をガイドするときには、
自分固有のクオリアを他の生徒に課す、さまざまなう練習法を編み出してきた。
その手法はサブボディの動きの探求だけではなく、みんなで共有すれば
コーボディの群れの動きを創りだすことにも応用できる。
いつのまにか、群れの動きをグループリサーチで創造する技術が完成していた。
そして、群れの動きを創りだすことは、世界を創りだすことなのだ。
自分が踊りたい世界を、踊りの世界では群れの動きで創りだすことができる。
生命共振だけでひとつの世界を創りだすことができるのだ。

簡単に整理しておこう。

1 調体技法を身につける

サブボディ技法では、毎日を調体から始める。
日常意識を止め、さまざまなクオリアに共振するからだに変成する。
調体には、0番の呼吸から、11番のコーボディ調体まで12種類ある。
これらを駆使すればほぼあらゆるクオリアに共振して、さまざまな者に変成することが容易になる。
まず、生徒はこの調体をたっぷり身につける。
自分のからだがさまざまなものに変成することを知る。
そしてまず、自分のからだの闇を探り、さまざまなかすかなクオリアを見つけては
そのクオリアにしたがい増幅して体ごと乗り込むことでさまざまなサブボディに成り込む。

2 固有のクオリアを見つけ言葉にする


自分ひとりで探体するときは、クオリアはからだで感じるだけで
言葉にする必要はない。
だが、他の人と共有したいときは、的確な言葉でそれを示す必要がある。
そのクオリアを虫の歩行の虫が這うクオリアに替えて練習しあう。
今年の前期の生徒は実に多くのクオリアを発見した。
それを列挙しておこう。
これらは世界を共に創るための共有財産だ。

ひび割れたコップ
秘密の笑み
潰れたトマト
小さな火山
システムエラー
腐った果物
死にかけの花
歪んだ種
潰れた根
小さな悪夢
泣いている化石
歪んだ鏡
気化する細胞
流れ星
ネオンライト
濡れた靴下
壊れたテレビ
眠り込む時計
―などなどだ。
これらはだれでももっともっと見つけ出すことができるだろう。

3 互いに他の人のクオリアに成り込む

これらのクオリアを他の人にお題として与えあって互いに変成しあう。
これがグループリサーチだ。
基本の寸法の歩行や虫の歩行を学んだ生徒なら、
やすやすと他の人から与えられるクオリアに体ごと成り込むことができるようになる。

4 自分が踊りたい世界を探る

自分の命が受けた世界からの軋みや歪みのクオリアを探る。
からだの闇には無数の世界から受けた圧迫や歪のクオリアが潜んでいる。
それを探り、命が踊らなければならない世界のクオリアを探る。
その世界を群れの動きで創りだす。
1~3に述べた技法を使えば、だれでも自分が踊りたい世界を
群れのコーボディの動きで創りだすことができる。

深海流のゆらぎ
背後霊
偽の子宮
蠢く林
押し寄せる圧迫
石をぶつけられる
棒で追い立てられる
転石群
悶える化石
ヒューマノイドの群集

5 世界変成の序破急を見つける

さまざまな世界クオリアのうちから、サブボディの序破急に応じて
いくつかの世界を創り、その中で踊る。
そこで出てくる踊りは自分の命にとってのっぴきならない必然的なものになる。
命に刻み込まれた世界との軋みのクオリアだから、、
自ずから鮮深必の必の動きが出てくるのだ。

これが世界を共に創る技術だ。
ここまで創り上げるのに20年かかった。
この原理になっている生命共振を身につけることが必要不可欠だった。


2010年7月22日

生命共振を世界に!

何を一番やりたいんだい?
命に問い続けてきたが、とうとう命が答えを出してくれた。
生命共振を世界に!

すでに共振塾は、単なる舞踏創造のための学校ではない。
生命共振を世界に満たす共振者を育てる場に変わってきている。
それがこの数年間に起こっていた深層変動の中身だ。
こうなることははじめから分かっていた。
命がそう志向していたからだ。
だがからだの闇のさまざまな傾性がひとつに統合されるには
十余年の時が必要だった。
リゾネットは、生命共振を世界に広げるためのネットワークとなるだろう。
もっと言えば、生命共振だけでやっていけるリゾクラシー世界を創るための
リゾーム・ノマドの運動体なのだ。
今日、このサイトの冒頭に、
生命共振を世界に! とつけ加えた。
まだ、それは小さなつぶやきのようなものに過ぎない。
この小さな変化が何を意味するかは、
じょじょに明らかになっていくだろう。


(この項は、からだの闇、多重日記、共振日記のすべてに
関わるので、三つすべてに掲載します)

2010年7月18日

リゾクラシーへの深層変動


無性にタバコが吸いたくなって、半年ぶりに吸った。
からだの中でなにかわけの分からないものがうねっていた。
そのうねりに耳を澄ましていると、
自分の深部で大きな傾性の変動が起こっていることが感知された。
どう生きていくかというレベルの生の志向性が変わってきている。
それがハイデガーのいう情態性の変化として現れてきている。
不意にタバコが吸いたくなるときはいつもこれに関係している。
存在の深層の志向性や傾性の変化が、情動を突き動かし、
それが奇妙な体感や嗜好性の変化として現れてくるのだ。
今年になって、様々な面で変動が相次いでいた。
①生命の本質が多次元共振にあることに気づいて、
共振塾の授業を、生命の微細な多次元共振を感じ取ることから始めるようになった。
②具体的には、毎日の調体をこれまでのように
個人個人がゆらぎ瞑想によってサブボディモードになるだけではなく、
それを群れのからだで行うコーボディ調体をメインにした。
③コーボディ調体から、群れで動くコーボディ練習にダイレクトに入るようになった。
去年までのアメリカ流のグループインプロビゼーションの方法をすべてやめて、
集合的無意識に触れながら、命の微細な共振を感じて動くフリーリゾナンスを中心にした。
生徒自身が無数の共振パターンを自由に創造できる場を増やしていった。
④すると長年自分の本当にやりたかったことがじょじょに透明に見えてきた。
俺はこの生命共振を世界に伝えるために生きているのだ、ということに気づいた。
生命共振だけで社会をやっていくリゾクラシーのあり方を見つけるために、
いまここでみんなと実験しているのだ,ということが分かってきた。
⑤振付家の独断で踊りを創造するのではなく、
踊り手自身で最適の共振パターンを自在に創造していくことで、
より面白い多様性に満ちた踊りが生まれてくる。
それは前々から追求しようとしていたことだが、実践的な方法が見つかっていなかったのだ。
だが、とうとうそれが見つかった。
なんのことはない。
私自身が障害になっていたのだ。
自分の思う共振パターンを生徒に押し付けていた。
それを一切やめたことが、今年の大変化につながった。
⑥この変化は、舞踏創造方法の変化というにとどまらない。
人間社会のありかたに拡張していくことができるものだ。
人間社会だけがあらゆる生物の中で国家や暴力や強制や支配を使って社会を運営している。
だが、他の生命はすべて生命共振だけでうまくやっている。
人間だけがこれまでの歴史の前史で身につけた野蛮な方法に囚われている。
それは支配や強制に代わるもっと良い共振の仕方が見つかっていなかったからなのだ。
だが、とうとうそれは見つかりつつある。
まだわずかな意識を止めることを学んだ舞踏家の間で、
生命共振によってひとつの世界を創っていくという
小さく限定された抽象的な空間でそれが可能になりつつあるというだけだが、
原理だけはクリアになってきた。
あとは長い社会との関わりの中で、さまざまな現実的な条件に応じて
現実化していかねばならない。
何百年、いや何千年もかかることかもしれない。
人類は国家という野蛮な装置をこしらえあげるのに、
何千年もついやしてきた。
それを廃棄するにも,長い時間がかかるだろう。
だが、生命共振による永続革命はついにもっとも小規模な
実験的かつ抽象的な場でに過ぎないが、いま、始まりつつあるのだ。

(以下は個人的な人格統合の話題に触れるので、
「多重日記」での展開に移行します。
興味のある方は、ここをクリックしてお進みください。)


2010年7月10日

静かな世界共振革命

スイスのアスカが新しい舞踏コースを開くと連絡があった。
Crick here for flyer
こうして,世界の各地に散った研修生たちが,少しずつ地域に練習拠点を見つけ,
世界各地での活動をつなぐリゾネットを産婆していくのが私の次の段階の仕事になる。

リゾネットは、生命共振だけで世界をやっていくリゾクラシーという
新しい世界システムを創造するための世界規模の実験装置だ。
これまで共振塾で行なってきたことも、すべてリゾクラシーを
いかに実現することができるかを探る実験の一環でもあった。
生命の舞踏は、多次元で共振している命が新しい共振パターンを発明していくことによって生まれる。
舞踏の公演やワークショップにはごく小規模の地域に根を張ったコミュニティがあればいい。
ほんの少しの地域とのつながりがあればいいのだ。
ただ多くの異なる地域とつながったワームホールのようなネットワークが望ましい。
そして、それはすでに出来かけている。
スイス、スペイン、トルコ、アメリカが今のところ先行しているが、
他の地域の生徒もじょじょに動き出そうとしている。
あともう少しだ。
10年前私が世界を公演とワークショップをして回ったときは、
それまで日本の京都の私の家を拠点に世界中の踊り手やクリエイターとの交流を図った
ダンシング・コミューンのネットワークに参加した人々が各国でそれを支えてくれた。
パリのサンチャゴ、アムステルダムのデビッド・ザンブラーノ、
ストラスブールのマーク・トンプキン、ブダペストのアンドレアとチボー、
シナゴーグ・チェーンのオーガナイザーだったルーマニアのマリア、
スロバキアのチョビ、ユーゴスラビアのグループ、カラカスのコントラダンザ、
チェンマイ大学のジェイ、ジャー、そして、インド,ダラムサラで迎えてくれた
ルンタ・プロジェクトの中原さんと明美さん、
多くの人に支えられて地球を3周ほどした。
今度は、世界各地に散った生徒たちのネットワークが、
生徒たちの交流を支えるだろう。
りソネットはネットワークとそのネットワークを駆けまわるリゾーム・ノマドの群からなる。
各国の拠点を旅して回る国際水準のサブボディ・コーボディをもつ群れも
年々共振塾で生み出されている。
リゾネットを通して生命共振が,どのように周囲の世界を変えていくか。
どんな大海も一粒の水滴からはじまる。
生命共振による静かな世界革命はすでに始まっているのだ。



2010年6月20日

透明共振場の生成

実現してみて、はじめて分かった。
なぜ15年前からずっと私が熱病にとりつかれたように
砂漠で迷子にこだわってきたのか。
それは思いのほかとても恐ろしい世界だったのだ。
そこでは微細な生命共振が透明に起こっている。
すべての瞬間を何も考えずにただただ命の共振するままに動くしかないのだ。
意識を保ったままでは遅れて不透明に浮き上がってしまう。
意識的な目で見て反応しようとなど考えていると、
無様にもそれが見ているものの目に止まってしまう。
意識では間に合わなくて不透明なからだが見透かされてしまうのだ。
実現してみるまでは、何を実現したいのかも知らなかった。
微細な生命共振だけが透明に見える場を生成すること。
それが無意識裡に私をつき動かしてきたものだったのだ。
自我や意識が出てきたり、三次元的なまなざしが出てきたら、
無残にもその不透明さをさらけ出してしまうしかない場。
目腐れの目や秘膜で動く生命になるしかない場、
そういう恐ろしい場を作り出したかったのだ。
そこではすべてが透明になる。
そこでは透明体になるしか存在が許されない。
そんなものがあり得るとは想像もしなかった。
私が一番ぶったまげた。
思いもかけず、
生命の透明共振場が突然目の前に出現したのだから。
今はただ驚くしかできない。
いったい何事が起こったのか、
それはやがてじょじょに明らかになっていくだろう。



2010年6月13日

砂漠で迷子

「砂漠があるの。
その中に蠢くひとつの群れ、蜜蜂の大群、
入り乱れるフットボールの選手かトゥアレグぞ族の集団。
私はこの群れの縁に、その周辺にいる
――でも私はそれに所属している、
私はそれに私の体の先端で、片手か片足かで結ばれているの。
私には、この周辺が私に唯一可能な場所で、
もしこの混乱の中心に引きずり込まれてしまったら死んでしまうこと、
でも同じくらい確実に、この群れを手放してしまっても、死んでしまうことが分かっている。
私の位置を保つのはやさしいことではなくて、
立っていることさえとても難しいほどなの。
なぜかっていうと、この生き物たちは絶え間なく動いていて、
その運動は予測不可能で、どんなリズムも持っていないから。
あるときは渦をまくし、北のほうへ向かうかと思うと突然東に向きを変えて、
群れをなす個体のどれ一つとして他の連中に対して同じ位置にとどまったままでいない。
だから私も同じように絶えず動き続けている。
――こういったことは皆んひどい緊張を強いるけれど、
ほとんど目も眩むほどの強烈な幸福感を私にもたらしてくれるの。」


ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』第二章の冒頭に出てくる
とびきりの分裂病者の夢だ。
サブボディとコーボディの関係にはこの夢の主人公と群れとの関係に似たところがある。
群れと個とが、成員とその集団というふうには画然と分かれていない。
サブボディかと思うといつのまにかコーボディになってしまっている。
コーボディはいつどこででも切断され、
単独サブボディにもなり、またいつでも群れになることができるリゾームだ。
1995年のワークショップで、いきなりサンチャゴがこの砂漠の群れをやりだしたときには驚いた。
そのとき私は熱心なドゥルーズの読者で、この夢はほとんど暗記するほどよく覚えていたからだ。
サンチャゴとの第二の出会いだった。
そして、舞踏とフランスの現代思想がほとんど同じことを別個に追求していたことをも知った。
人間は終わった。で、われわれの次のあり方はなにか、という課題だ。
<リゾーム>というあり方を提起したのが、ドゥルーズ=ガタリの上の著書だった。
「リゾームのどんな一点も他のどんな一点とでも接合しうるし、
また蜜蜂の群れのように分離可能である。
モグラの穴のように常に多数の入り口を持ち、
どこへでもつながり、群れにも個にも姿を変え、
絶えず生成変化を続けている。」

土方が「静かな家」で到達したありとある背後世界と交感し、
気化と物質化の間で、無限の変容を続ける最後の舞踏と、
ドゥルーズ=ガタリのリゾームは全く同質である。
どちらも、今ある人間の日常のあり方からの必死の脱出を模索していたのだ。
この両者の等質性に直面したのは、おそらく世界で私一人だったろうと思う。
いや、今は亡きサンチャゴもこのことに薄々は気づいていた。
だからこそあんな奇跡のような激しい出会いが起こったのだ。

今週は、この<砂漠で迷子>を気化体のコーボディ=サブボディでやってみよう。
15年間も温めてきたリゾームの群れのイメージだ。
今頃になって実験の可能性が出てきた。
気化体が鍵になった。
全員がすでに気化した死者の群れである。
最初は砂漠で迷子になったノマドの群れとしてさまよっている。
その中で誰かがサブボディに変容すると、
ほかの人々も共振して姿を変える。
一人が群れに帰ると別の誰かが素っ頓狂な夢を見だす。
……
先週はホール内だけで透明共振劇場を実験した。
今週はこの<砂漠で迷子>でそれをやると、
庭や外界に所構わず展開することができる。
だが、それ以上に、これを通じて踊り手がサブボディとコーボディの不思議な関係を
からだで味わい体得することができるということが一番大きい。
命の謎は絶対に頭で考えていても届かない。
からだでなりこむ以外ないのだ。
共振の実験の種は尽きない。
はてもなく面白いことになっていきそうだ。



2010年9月13日

より深く世界と関わっていく
 

共振ワークは、これまで以上により深く世界と関わっていこうとする試みだ。
長らく長期研究生との閉じられた世界で、さまざまな共振実験をしてきたが、
そこで得られた共振技法を広くオープンワークショップの参加者とシェアしていく道を探る。
実はこの7月、8月の集中ワークショップでは、今年前期でやったことを一ヶ月に凝縮して行った。
やる前はとても無理だと思っていたが、可能だと分かった。
今度はその一ヶ月でやったことを、ダラムサラへの旅人相手に、
一週間という短期間でどこまでのことができるか、凝縮できるだけ凝縮してみる。

旅人は長期受講生とは違い、何の準備もないまま好奇心で飛び込んで来る人達だ。
より、一般社会の人たちに近い。
それは今までの授業から一般に人にも通用するよう、
余計な物をできるだけそぎ落とす厳しい作業だ。
共振ワークを、舞踏愛好者たちだけの狭い世界にとじこめておくのではなく、
より広く世界に開いていくための、試金石だ。
全部必要だと思ってやっていたことも、吟味すると、結構無駄なことや、
冗長な回り道をしていたことがわかる。

これはなかなかいい仕事になりそうだ。


2010年9月18日

はじまり

毎朝ベランダに出て山を見ながら、
一日をごく微細な生命の共振を感じることからはじめる。
これがもっともいい一日をはじめるコツだ。
樫の木の梢に止まっている鳥は、
ただ透明にあらゆるものと共振している。
かれらはとても優れた透明共振体のお手本だ。
何も考えず、ただ万物と共振している命であること。
わたしちのからだは10兆個の細胞からなる。
体内には100兆個のバクテリアが棲んでいる。
わたしたちはそれら巨大な数の細胞生命の共振体なのだ。
それだけではない。
命は目の前の山々の緑や鳥や虫たちと共振している。
いや、共振には主体も客体もないので、
主語と述語で語る言語ではうまく伝えられない。
ただ、万物が共振している。

共振しているのは目に見えるフィジカルなものだけではない。
細胞に刻まれた無数の記憶が共振している。
原初生命時代から今日まで40億年の生命記憶が共振している。
記憶や夢や想像や妄想や情動や欲動など、
目には見えない内クオリアが互いにあらゆるものと共振している。
生命とはこれらの無数の共振のつながりなのだ。
生命の共振を感じるとは、
これら非二元かつ多次元に重層する共振の無限のつながりを感じることだ。
生死や時を超えた無限の共振を感じる。
わたしはそれを感じるのが一番好きだ。
それを好み、それを味わい、それを楽しむ。
それだけでいい。
休みの日はただそうして過ごす。
ぼんやりとそうしているうちに、
なにかとんでもないことを思いついたりする。
自分でも想像もしなかったことが自由なクオリア共振からどんどん転がりでてくる。
日常のこだわりや囚われから離れて、
これが生命が一番創造的になる状態だからだ。
ヒマラヤに来て、サブボディメソッドや、共振技法が次々と生まれてきたのも
この状態を保ってきたおかげだ。
来週から始まる共振ワークでは、
ここから始めてみようと思う。

読者の方にもお勧めします。
ただ、命がいろんなものと共振していることを感じることから
一日をはじめて見てください。
命は自分の知らない計り知れぬ創造力を持っているのです。



2010年5月9日

命に触れる



命の動きは、意識の動きとずいぶん異なる。

まずはそれをつかむことが、からだの闇への坑口だ。

意識はただ一つことを線状に追って動く。

これに対して命はたえず、無数のものと多次元同時的に共振している。

これが最も大きな違いだ。

 

もうひとつ、意識がうまくつかめないことがある。

私たち人間のからだは約十兆の細胞からなる。

一つひとつの細胞が命を持っている。

それに加え体内にはそれの十倍のバクテリアの細胞生命も共生している。

百兆以上の細胞生命が共振しているのだ。

そして、無数の物やエネルギーやクオリアと共振している。

私たちが自分の命と思っているものはじつはこの無数の細胞の共振なのだ。

意識は自分がひとりだと思っている。

自分の命も自分ひとりのものだと思っている。

だが、命は一だの二だのという数で数えられるものなどではなく、

ただ無数の共振のつながりなのだ。

 

細胞生命は体内だけではなく体外の無数の生命とも共振している。

各細胞には40億年前の生命誕生以来の経験が細胞や遺伝子に記憶され

時を越えて保存されている。

それらの生命記憶として保存された内クオリアは、

たえずその都度出会う外界と共振する外クオリアとも共振している。

内クオリアと外クオリアの微細な差異によって変化を知る。

これが命の基本的な世界認識の方法だ。

それは40億年間続いてきている。

一秒も途絶えたことがない。

 

私たちはこの40億年つづいている命の悠久の流れから

ほんの百年足らず、人間の個体という命の形を借り着するだけなのだ。

百年足らずが終われば速やかに借り着を脱ぎ、悠久の命に帰る。

それまでにどれだけ創造を命に返すことが出来るか。

それが大きな問題である。

少しでもそれが出来れば、個体としての死はなんら悲しむべきことでもない。

個体としての仕事を終え、成果を命に返し、

ふたたび悠久の命の流れに帰っていくことができる。

 

だが、意識は数えられない世界や、

多次元同時共振などの世界に慣れていないので、

上に述べたほとんどのことは直ちには受け入れがたい。

いつまでも抵抗を示す。

だから、命に触れるにはまず意識を止めることが必要になる。

 

ゆらぎ瞑想

 

[ゆらぎ瞑想]などで意識をかぎりなく鎮める。

心地よいゆらぎに耳を澄ます状態になれば、次に進む。

 

ゆらぎの速度を極端に落とす。

するといままで気付かなかったもっとかすかなクオリア流が

からだを流れていることに気づくことができる。

それをたっぷり味わう。

そして、どれくらい多次元同時の共振が起こっているか

耳を澄ます。

 

多次元ゆらぎ瞑想

 

次の「多次元ゆらぎ瞑想」を行ってみる。

 

生命は実に重層的な多次元世界をゆらいでいる。

決して二元論的ゆらぎなどしていない。

そう見えるのは、私たちの脳が

二元論的思考の習慣に根深く

囚われているからである。

 

二元論的観念から逃れられないわれわれは、まだ意識が鎮まらない段階では

自分自身が次のようにゆらいでいると、自己解釈しがちである。

 

前―後ろ

右―左

元気―不元気

調子がいい―調子が悪い

からだが重い―からだが軽い

好きだ―嫌いだ

近寄りたい―遠ざかりたい

安心―不安

 

これは生命に対する完全な誤解である。

生命はこういう二元論など知らない。

それどころか驚くほど高次元な世界に生きている。

人間の意識が囚われている二元論などにおかまいなく

たとえばどの瞬間もつぎのように多次元的にゆらいでいる。

 

重い(重力とのゆらぎ)

明るい(光とのゆらぎ)

寒い(温度とのゆらぎ)

ビビビ(音とのゆらぎ)

面白い(情動ゆらぎ)

あれ?(記憶ゆらぎ)

うねる(動きゆらぎ)

ぼおっ(夢とのゆらぎ)

ふうっ(空気との呼吸ゆらぎ)

もごもご(音像ゆらぎ)

ふわー(胎児の頃の羊水ゆらぎ)

お母さん・・・(幼児記憶ゆらぎ)

どうしてるかな(遠い友人のクオリアゆらぎ)

…………

 

命はほんの一瞬間に、ざっとこれぐらいの多次元クオリアと共振している。

いやこんなもんじゃない。

何百億もある脳細胞が、同時に無数の内クオリア、外クオリアと共振しているのだから、

意識などでは追い切れない。

意識はそれを無理やり二元論的言語思考の狭い世界に閉じ込めようとする。

意識がたどっているのは、

脳とからだの細胞が各瞬間に行っている無数の共振のうちの

何億分の一のごくごくわずかの部分のニューロン発火に過ぎない。

だが、意識は自分がすべてだと勘違いしている。

 

生命ゆらぎは超多次元で起こっている。

それは三次元空間や二元論的思考に囚われたわれわれの

ありとある二元論的解釈を受け入れることができるほど深く多次元的である。

意識が生命をどう誤解していようと

生命にとってはお構いなしだ。

生命は意識の勘違いを咎めもしない。

 

だから、いつまでたっても意識は命の実態に触れることができないのだ。

命に触れるには、ただ意識を止め、

二元論的思考法の習慣に囚われないように、ツリー思考から離れ、

多次元連結的なリゾーム思考の世界に降りていく。

ただ、命が無言で行っている多次元共振を感じるだけでいい。

 

やがて、この多次元同時共振が命の実態であり、

それを味わうことがなんと心地よいことか、

からだに染み込むまでこれを続ける。

 

 

2010年6月14日

胎児の呼吸

私たちがしている呼吸は大きく二種類に分かれる。
肺を通じて行っている外呼吸と、細胞単位で行っている内呼吸の二種類だ。
呼吸をするとき、常にこの二種類を意識するのがいい。
いつも肺呼吸と細胞呼吸の二重の呼吸をしていることを味わう。
肺に吸い込んだ空気中の酸素が、赤血球に運ばれて各細胞にまで届けられる。
呼吸をするとともに、腕や足を伸ばしたり、ねじったりすると、
各細胞にまで酸素が行き渡っていくのを感じることができる。

そして、私たちが胎児のとき、どんな呼吸をしていたのかを思い出してみる。
羊水の中に漂う胎児の口も鼻も気管も肺も水に満ちていて、外呼吸はしていない。
胎児の血液中には母親の体内から酸素に満ちた血液が送り込まれている。
その血液が体中の細胞に行き渡っていく。
胎児が行っているのは細胞の内呼吸だけだ。
大人のように二重ではなく一重の呼吸なのだ。
いわば胎児は体中で世界を呼吸している。
胎児が行っていただろう内呼吸をやってみる。
すると、なんとそれはこれまで行ってきた<生命の呼吸>そのものではないか。
いろんなリズムで体中の細胞の共振パターンが変化し、
からだが伸び拡がったり、縮んだりしている。
それを味わう。
肺呼吸以外のもっとゆっくりしたさまざまなリズムで
生命の呼吸が行われている。
自分が胎内で<生命の呼吸>だけをしていたころを思い出す。
その呼吸はいまもからだで続いているのだ。
肺呼吸のリズムにマスキングされて、聴きとりにくくなっているけれど、
耳を澄ませばかすかに生命の呼吸を感じることができる。
自分が人間であることなどまだ知らなかった、
胎児の頃からそれを続けていることを思うとなんとも懐かしくなってくる。
私たちが自我や自己であるだけではなく、
生命であることを感じとる、これはとてもいい方法である。



2010年4月26日

産婆法と生命共振

共振塾の根幹は、生命共振にある。
現代の人間社会が忘れ去っている生命共振をいかに取り戻すか、それは人類史的課題なのだ。
今月から、長期生は、産婆法を学ぶ過程に入る。
これまでも、生徒は自分のサブボディのかすかな誕生の息吹に耳を澄まし、
それを誕生させる産婆としてやってきたのだが、
一定の段階から以降は、他の人のサブボディをわがことのように感じ取る産婆になる訓練を積むことが
より一層深くサブボディー・コーボディプロセスをたどるために必要になる。
体の深いところでは自分のサブボディと他人のサブボディの差異などなくなり、
サブボディとコーボディの差異さえもなくなる。
そういう非二元域に降りていこう。
産婆法は次の五つが主要なポイントになる。

1 自我や自己に囚われない生命共振を開く
2 自他に囚われず、サブボディ・コーボディ誕生の手助けをする
3 ツリーリゾーム技法
4 リップル技法
5 エッジワーク


これらは次のようなステップで進む。
1 とりあえず、朝の調体をガイドすることから始める。
2 調体とその次の探体で探るクオリアとの最も良い連関をみつける。
  探体では、秘膜、秘液、秘腔、秘筋、秘関、秘神、秘眼などの秘蔵クオリアを探る。
  また、各種の歩行やさまざまな十体につながる個別練習に入る。
3 調体、探体、創体の総合的連関を探求する
  創体では、各自のサブボディ・コーボディを踊りに創りあげていく。
  各十体への道筋を明らめる。
  静寂体、衰弱体、受動体、原生体、気化体、異貌体、傀儡体、
ボトム体、巣窟体、女体、憑依体、透明体、各種コーボディなどなどが、一般的な十体であり、
これを各自独自の十体にまで固有化していくプロセスがこれから始まる。
それらをどう導くかが、今後の課題となる。
今年は変則的に来月から数人の短期生を迎えることとなった。
だが、これは共振塾に新たな可能性をもたらすチャンスともなった。
長期生はかれらに、自分が得たものの打ち最良のものをシェアすることから始める。
いままでは秋になって、はじめて新人へのガイドをする訓練を始めていたのだが、
春から自己探求と、産婆法の習得を同時進行的に進めることができるようになった。



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