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十体論
7 キメラ体

2010年10月9日

キメラ体


長期生の
Ikukoが、キメラ体の優れた練習法を見つけだした。

体の一部が木に、他の部分が牛になるというように

異なるクオリアがからだの中で共存したり、入れ替わったり、

相互浸透が起こったりと、さまざまな変容が起こる。

これを次々と展開していく。

次のごとくだ。

 

牛・木

鮭の頭・少女のからだ

イス・けだもの

狂王・少女

鏡・猫

トンボ・人形

武将・女王

馬の顔・乞食

スプーン・老婆

小さな花・虫

棒・仮面

ホタル・熊

メスカリン手・羅漢・剥製

板・紙・死者

 

これらのクオリアを実際にからだのあちこちに染み込ませていく。

異質なクオリアがからだの中で出会う。

その体感がえも言われず新鮮だ。

何かとんでもないことがからだの中で起こっている。

そういう体験ができる。

 

次の段階は寄りあって進む二人のからだでこれを行う。

どちらかのからだのどこかが木に変成する。

他方のからだが牛になっていく。

途中で入れ替わる。

二度三度入れ替わる場合もある。

これもまた、実に面白い。
そして次のキメラ変成がはじまる。

デュエットの新しい境地がどんどん開いていく。

 

キメラ(キマイラ)はギリシャ神話に登場する想像上の動物で、

ライオンの頭とやぎの胴体、蛇のしっぽを持つ。

それぞれの頭を持つとする説もある。
口からは火炎を吐く。

 

あらゆる創造は異なったクオリアの共振によって生成する。

それを思えばキメラは創造においてきわめて普遍的な現象なのだ。

 

ダダイズムの「手術台の上でミシンとこうもり傘が出会う」という

ダダの出会いを思い出すまでもない。

舞踏はダダやシュルレアリズムの精神をからだで継承し、深めるものだ。

キメラは、二つ三つの異なるクオリアの出会いから始まるが、

これが異次元クオリアとの出会い、

背後世界との関わり、

地下や、天上の元型との出会いへと

発展していくと、からだじゅうが異質なクオリアの住みかとなる

巣窟体にいたる。
だが、巣窟体や透明体は究極のからだの謂である。
まずは、たっぷりとキメラ変成を鍛錬することをお薦めする。

これを発見したIkukoは、これによってはじめて

変成とは何かがからだでわかった、という。

読者のかたがたにもお薦めする。

上に並べたような異質なクオリアは

いくらでも見つかる。

からだが驚くような面白い出会いを見つけてください。

それだけでも極めて創造的なからだになれます。



2010年10月10日

生存のキメラ

からだの中の微細な亀裂に耳を澄ます。

たったこれだけのことができるかできないかで

人生は大きく変る。

現代社会に適応して生きていくためには、

からだの闇で生じる微細な違和感などにいちいち耳を傾けていれば

歩くことができない。

多くの日常体はそんなものを大股で跨ぎ越して顧みない。

そうでもしないと危うい自分のアイデンティティを守っていけないのだ。

だが、そういうあり方がなんだか偽物だと感じてしまうときがある。

無理してしまっている自分に気づく。

歩みを止める。

病気や失職などマイナスの事件がきかっけになってくれることが多い。

それまでの忙しい日常の時間から降りる。

するとごくごく微細な命のつぶやきが聴こえてくる。

かすかな軋み、ねじれ、ほんの少しの違和感、そういうものに耳を傾ける。

 

わたしの人生では父母の都合で、何回も母が変わり、家が変わり、

住む場所が変わった。

幼なじみや友人や同級生の顔がごそっと入れ替わった。

その都度、幼い命は目もくらむような異界の暗がりに落ち込んだ。

何回もその転落を経験するとやがて幼い命は学習しだす。

この世界が一様な空間ではないこと。

さまざまな生存条件が入り交じるキメラ状になっていること。

そこで生き抜くには自分をさまざまに変形する必要があることを学ぶ。

 

とりわけ、生まれ故郷だった和歌山を離れ、

はじめて大阪という都会で棲息する人間に接したとき、

まるでエイリアンの群れだと感じた。

田舎では出会う人がみな見知った顔である。

ひとはみなぶらぶらゆっくり歩いている。

ところが都会では見知らぬ人が無表情に高速度ですれ違っている。

田舎の人が人間ならば、ここの人は人間の形をしたロボットに違いない。

もしここの人が人間ならば、田舎の人はいったいなんなんだ?

 

思春期のはじめに都会に触れたとき、すざまじい亀裂を感じた。

それは終生わたしの感受性の固有の傷として刻み込まれた。

おなじ傷を持った人はすぐ分かる。

土方巽もそうだった。

秋田から東京に出てきた彼は強烈な亀裂に直面した。

そして、からだの闇の奥深くにしまいこんだ。

彼が踊るときにはその潜んでいる亀裂のクオリアが血液のようにほとばしり出る。

金属棒で脳みそをかき混ぜられるような体感、

周りの人皆が金属の神経で出来ているかのような違和感、

だからことさら鶏を抱えたまま舞台の上を転げまわる必要があったのだ。

何時までも芽が出ず立つこともできない種子になってうずくまり続けることが踊りだったのだ。

偽の人間の皮を脱いで、死者に化けることが生き返ることだったのだ。

私にとっての和歌山と大阪との落差、

土方にとっての秋田と東京の落差は、

単なる田舎と都会の違いなどではない。

まったく文化の質が異なるのだ。

秋田や和歌山の田舎とは古代から延々と変わらず続くアニミズムの世界だ。

そこでは死者と生者が共振して交感している。

近代の都会にはそんなものはない。

健康な生者だけがあくせくと生存競争をさせられている牢獄のような場所だ。

わたしにも土方にも大阪や東京の生活はそんなふうに見えた。

最近なくなった畏友速水智也子さんも、和歌山の最奥・熊野の出で、

おなじく熊野と大阪の巨大な亀裂を抱えて生きていた。

何日も彼女のからだに成り込んで一緒に歩くと、

どんな気持ちで生きていたのか、ありありと共振できる。

死んだひとは生きていた時よりもはるかに身近な存在になる。

 

命に亀裂をもたらすキメラのクオリアは、

何も田舎と都会に限らない。

自分の中の女性性と男性性、

子どもと大人、

思考と感情、

強さと弱さ、

高貴と下劣、

人間として複雑な布置の中で生きる中で、無数の亀裂が命にキメラを刻印する。

日常体ではこれらの亀裂のクオリアは等閑視されている。

そんなものはないと、大股で跨ぎ越すのが日常体だと言ってよい。

それくらい粗雑でなければ自己だの自我だのという厄介なものを守っていけないのだ。

ある日、きみはそれらに守る価値がないことに気づく。

自己だの自我だのとは、懸命にでっち上げ続けることによってのみ

存続している幻想であることに気づく。

その幻想を勇気を出して脱いだときに、

からだの闇で行き違い齟齬し合っているキメラ状のさまざまなクオリアに出会うことができる。

それらの収拾のつかないリゾームが自分の命の実情であることに出会う。

そして、それを受け入れる。

それだけでいいのだ。

それだけでそれまでのニセの生存からおさらばできる。

からだの闇で異質なクオリアが出会うたびに新しいクオリアが生まれる。

それが生命の創造性だ。

現代社会に適応しているニセの自分を脱ぐだけで、

一生この生命の創造性と共に生きていけるようになる。

跳ぶんだ、今。
そんな命の声が聞こえてきたら、チャンスを逃してはならない。
今の暮らしをやめて行き先なしの旅に出るんだ。
それが命と一つになる道だ。