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十体論
6 気化体
 
 2014年6月30日 
気化体の先生・雨期の雲

ようやく、舞踏祭の写真のすべてをアップし終えた。
ベランダでぼんやりしていると、下の谷のほうから一群の雲が登ってきた。
お、白龍君かい、とカメラを構えた。
わたしは谷あいを登る白龍のような雲の動きが大好きなのだ。
だが、今日の雲は谷筋を登り始めたかと思うまもなく、
先端が崩れ、異様な形が次々と現れては消える
無限の変容芸を見せたあと、みるみるうちに霧散していった。
わずか十分ほどの間の出来事だった。
消失。
温かい空気は水分の含有量が深いため、
上空から降りてきた雲の水滴が空気のなかに気化してしまったのだ。
雲の動きは気化体の無限の師である。
今日はこの予想外の雲の消失がわたしの先生になった。
無限の異様な変容から消失まで、しばらく見習って踊った。
この二週間、長時間コンピュータ画面と格闘していじけたからだが、
久しぶりに生き返るような気がした。
わたしにとって雲は、もっとも古くからの踊りの相棒だ。
ハワイの上空を流れる早い雲の変容、
東京のからっ風のなかに舞い散るビニール袋の変形、
ヒマラヤ上空の無限変容する雲、などなど
からだに幾つもの雲のクオリアが棲みついている。
血の気が多い若い頃は、その素早い変容ぶりに共振した。
今驚いて共振するのは、その消失の見事さだ。
いのちの非望のありかがすっかり変わったようだ。

気化体は、土方が創出した、いのちの非望を踊るからだである。
叶えられぬ不可能な望みの強度によって、
物質的なからだを捨てて気化するまでに至るいのちの必然を踊る。
自分の願いではない。
いのちが勝手に気化してしまうのにただただ従う。
脱自し、ただただかすかな空気の動きにさえ動かされる
もっとも柔軟な受容体となる。
だが、たんなる動きだけではない。
それはただちに消失してしまう。
この消失をどう踊ればいいのか。
見えなくなってしまった雲の行方に追いすがり、
からだが見えない世界に拡散するまで密度を逆に運び、
気配を消すこと。
無限に静まりかえること。
そして、物質化
気化と物質化は硬貨の両面である。
死者の技法の両極である。
土方の最期のソロ『静かな家』は、
気化と物質化を無限回往還しながら踊られた。
今日の雲の先生は谷向こうの森のなかに消えていった。
森の精に変容したのだろうか。
見えないからだになって、かすかなクオリアの誘いに従うこと。
そこから、新しい変容が生まれる。
あとは、面々の計らいにて候、だ。


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気化するからだ 
 2014年4月2日

長年の切望が気化するからだの奇跡を生んだ


土方巽は若い頃から、さまざまなからだの変容の可能性を探り続けていた。
ある日、土方は妻の元藤あき(火偏に華)子に、
「歪むってのはどういうからだだろうねぇ?と、
問うともなしにつぶやいたという。」
また、気化するからだについても長年探求し続けた。
だが、それを実現するのは、1973年の「夏の嵐」の中の「少女」ソロと
同年秋の「静かな家」の最後のソロを待たねばならなかった。
衰弱体がはじめて映像に捉えられた1972年の「疱瘡譚」では
まだ気化するからだは出てこない。
気化体という技法はまさしく、死んだ姉と合一するための
土方巽の畢竟の発明なのだ。

「静かな家」

2 重要

「死者は静かにしかし限りなくその姿を変えるのだ

彼等は地上のものの形をほんのふとした何気なさで借用することも珍しくない。

 
この無限変容する死者のほとんどすべては、気化体で踊られる。

3 「灰娘」

魂と精霊

ゆくえ

もうだれも訪れない

もう誰も眠れない

○かんの花

○過度の充実が来て彼女はとほうもない美しい者になった

○死者達のさまざまな習慣を覚えた

○馬肉の夢

○座しきから引き出されてきた男

○イスに座って狂った大人子供=ケダモノ

○裸でカンチェンの出だしを踊る

○フラマンの寝技をつかう

○嵐が来た朝

○物質化

 
一行目が、精神と魂で始まり、最終行が物質化で終わることに注意。
物質化する以前の振りはすべて気化体で踊られる。

 

15 ゆるやかな拡散

 

    いっ気に気化状態へもってゆかぬよう心掛けるべし。

    気化状態のなかでこそ展開がこころみられるべきだ。

    この問題もやがてはっきりするだろう。


ほとんどすべての振りは気化体と物質化の間で踊られる。
<気化状態のなかでこそ展開が試みられるべきだ。>
という自戒を銘記しよう。

4 (気化)

 

一番―花、雨、少女、全部使う

   仮面、あるいは虫

   人形―灰娘―洗たく―もう誰も訪れない

二番―走って鳥から少女、少女気化して座り技

三番―魔女A気化する

四番―赤いシャケの頭にかかわる魔女気化している

五番―馬肉の夢を見る大魔女気化している

六番―さまざまなゆくえが気化している

   水、お盆―遠い森ー死者


以上を押さえた上で、気化体に触れた第4節を読む。
一番は、気化のための心身の準備である。
花、雨、少女と死んだ姉にまつわるあらゆる振り付けを通過しながら、
じょじょに姉のクオリアと共振合一していく。
二番、土方の家では蕎麦の出汁を取るために鶏を飼っていた。
鳥と少女はどちらも姉につながる。
座り技とは、座位から足を上げ、足から気化していく第一段階だ。
三番―魔女Àとは、魔女の初心者だ。気化を試みるがまだうまく気化しない。
四番―土方は、気化を支えてくれるあらゆるクオリアを身体中に探す。
第一節で、床の顔を続ける中で、時折からだの闇から顔を出す、
鮭の顔をした異貌の自己が気化を助けてくる。
五番―土方の姉も夢見たであろう、もう一度家族で囲む馬肉の食卓を。
故郷への切々たる死んだ姉の非望が、
土方のからだに気化という奇跡をもたらす。
あり得るはずのないことが起こる。
それが二十年賭けて練り上げた技術の粋だ。
大空へ舞い上がった死んだ姉=土方は、上空で
お盆に故郷へ帰る多くの死者と出会う。
川や湖や海岸線などの水や遠い森が故郷への道標となる。

そして、
地上のものの形をほんのふとした何気なさで借用する。

気化するからだと物質化の間で踊られる「静かな家」の基礎は
こうして築かれた。


この記事は「十体論」シリーズにも収録しています。



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2010年6月5日

来し方とゆくえ――非空非時への拡張

気化体、気化するからだへと変成を進めていくなかで、
これまで、わたしたちの動きが知らず知らずのうちに、
近代西洋の三次元的な物理的な動きに囚われていたことに気付かされる。
粗大身を止めるとは、こういう物理的な動きを捨て、
異次元と交感する気化したからだへと変成を進める必要がある。
そのために大事なのが「来し方」と「ゆくえ」だ。
これまでのからだの単なる三次元空間での動きの中に、
その動きの来し方とゆくえを付け加えて拡張していく。
来し方もゆくえもどこかで気化して異次元にまぎれていく。
ゆくえの方は古風な英語に"Whereabouts"というのがあって使えるが、
来し方という名詞は、過去(Past)という時間概念だけのものしかないので、
"Wherefrom"という副詞にSをつけて、"Wherefroms"という名詞を造語して使うことにした。
気化したからだは見えなくなってどこかへゆくえ知らずになってしまう。
と思っていると、知らぬうちに何処かからやってきて
ずいぶん前からそこにいたかのように居座っている。
土方の短詩に、
「目をかけてやった記憶もないのに、
庭に来て座っているものがある。
「夏だな」」
というのがある。
クオリアはいつもそのように知らぬ間にどこかからやってくる。
どこから来たのかと問うても、答えは時空の中にない。
命のクオリア共振には物理的な時空は必要ないのだ。
記憶や夢や想像が物理的な時空に属さないのと同じだ。
来し方とゆくえは、不可視の異世界と交感するための符牒のようなものだ。
その札を持っていると、いつのまにか背後世界との交信が始まっている。
そのように異世界と交感する非空非持のなかに動きの概念を拡張していく。
気化体の練習を組み立ていると、これまでの自分がいかに
近代西洋流の三次元時空に囚われていたかがよくわかる。

一番 呼吸調体――生命の呼吸へ

たとえば、調体ゼロ番の呼吸調体は、生命の呼吸というものにすっかり広がった。
物理的な肺での外呼吸だけではなく、細胞が行っている内呼吸をからだで味わうためには
想像力の大きな助けが要る。
足裏の湧泉や、額で呼吸する。
やがてはからだのどこでも呼吸できるようになる。

二番 ゆらぎ調体――気化調体へ

これまで、からだのゆらぎだけにとどまっていたが、来し方やゆくえを入れて
背後の異次元とのあいだでゆらぐようにする。
つねに、先祖や死者や夢や消えた記憶などの異世界のあいだでゆらぐ。
これらのことが日常になるまで続ける。

七番 リゾーミング調体――背後世界とのコンタクト

これまで、リゾーミングは、体の一部から変成が始まって、
全身に波及していく変成技法にとどまっていた。
だが、からだだけではなく背後世界との交感によって変成が起こると
捉えれば、リゾーミングは背後世界とのコンタクト技法に成長する。
いや、もともとそうだったのに、意識で整理するときに
それを等閑視して見落としてしまっていたのだ。

この拡張はまだまだ進んでいくだろう。
ようやく多次元・非二元の生命世界へ
からだで入っていく方法がすこしずつ見つかってきた。
毎日がエキサイトとスリルに満ちた冒険になってきた。


2010年6月29日

真夜中の気化調体

今年の冬頃から、左腕が挙がらなくなった。
無理に挙げようとすると痛む。

50肩の症状だった。明け方に特に痛みが増した。
だが、最近は夜中にも痛みで目がさめることがある。
風呂に入って温めるか、動かすと痛みが引くので、
夜中でも寝床でからだを動かす。
そんな中で、気化調体が見つかった。
あらゆるマイナス条件はプラスに転化することができるというのが、
ずいぶん前に見つけた真実だ。
マイナスがひどい場合ほど、得るものも大きくなる。

調体4番はもともと獣調体と名付けていた。
四ツ位になり、背骨と四肢を様々な方向に動かしていく。
そこからさまざまな生き物のリズムに成り込んでいくものだった。
これを座位で行ない、じょじょにうねりを微細化し
多次元化していくと、気化調体になることを発見した。

1 物理的多次元化

まず、骨盤から三次元方向に回す。
水平、矢状、戸板次元に一回ずつ回し一筆書きのように
その螺旋をつなげる。
それをからだの各部で行ない、じょじょにランダムな方向に広げていく。
同時にサイズを微小化する。
無限小の螺旋がランダムにつながると、気体の流体力学的な動きが実現する。
さらに、行方と来し方(こしえと読んで、ゆくえの逆の意味に使う)が気化する。
どこに行くのか,行方知れず、
どこから来るのか、来し方知らず、と
異界と交錯していく。

2 クオリア的多次元化

舞踏における気化は,単に気体になることではない。
姿の見えないあらゆるものに変容することだ。
行方と来し方の気化がそれを導いてくれる。
背後の見えない世界に気化して消えていき、
またどこかから立ち現れてくる。
細胞の呼吸、生命記憶、胎児の夢、見知らぬ情動、
体内の音楽、関係の非望、世界感覚などなどが
つぎつぎとからだをめぐり、気化する。

3 自他分化以前の非二元界へ

やがて、サブボディとコーボディの境界も気化する。
自他、心身、内外、類個、生死といった二元的な境界がすべて気化してしまう
非二元界にはいる。
時間も空間もない非空非持の国。
ここが生命の地だ!

日常世界で合意された三次元的現実の中で踊られる
あらゆるダンスと異なり、
生命の舞踏はあらゆる背後世界から非空非持の非二元世界までを
ダイナミックに往還する。
このダイナミック・ループこそが、
生命クオリアの運動領域だからだ。





キメラ体

2010年10月9日

キメラ体


長期生の
Ikukoが、キメラ体の優れた練習法を見つけだした。

体の一部が木に、他の部分が牛になるというように

異なるクオリアがからだの中で共存したり、入れ替わったり、

相互浸透が起こったりと、さまざまな変容が起こる。

これを次々と展開していく。

次のごとくだ。

 

牛・木

鮭の頭・少女のからだ

イス・けだもの

狂王・少女

鏡・猫

トンボ・人形

武将・女王

馬の顔・乞食

スプーン・老婆

小さな花・虫

棒・仮面

ホタル・熊

メスカリン手・羅漢・剥製

板・紙・死者

 

これらのクオリアを実際にからだのあちこちに染み込ませていく。

異質なクオリアがからだの中で出会う。

その体感がえも言われず新鮮だ。

何かとんでもないことがからだの中で起こっている。

そういう体験ができる。

 

次の段階は寄りあって進む二人のからだでこれを行う。

どちらかのからだのどこかが木に変成する。

他方のからだが牛になっていく。

途中で入れ替わる。

二度三度入れ替わる場合もある。

これもまた、実に面白い。
そして次のキメラ変成がはじまる。

デュエットの新しい境地がどんどん開いていく。

 

キメラ(キマイラ)はギリシャ神話に登場する想像上の動物で、

ライオンの頭とやぎの胴体、蛇のしっぽを持つ。

それぞれの頭を持つとする説もある。
口からは火炎を吐く。

 

あらゆる創造は異なったクオリアの共振によって生成する。

それを思えばキメラは創造においてきわめて普遍的な現象なのだ。

 

ダダイズムの「手術台の上でミシンとこうもり傘が出会う」という

ダダの出会いを思い出すまでもない。

舞踏はダダやシュルレアリズムの精神をからだで継承し、深めるものだ。

キメラは、二つ三つの異なるクオリアの出会いから始まるが、

これが異次元クオリアとの出会い、

背後世界との関わり、

地下や、天上の元型との出会いへと

発展していくと、からだじゅうが異質なクオリアの住みかとなる

巣窟体にいたる。
だが、巣窟体や透明体は究極のからだの謂である。
まずは、たっぷりとキメラ変成を鍛錬することをお薦めする。

これを発見したIkukoは、これによってはじめて

変成とは何かがからだでわかった、という。

読者のかたがたにもお薦めする。

上に並べたような異質なクオリアは

いくらでも見つかる。

からだが驚くような面白い出会いを見つけてください。

それだけでも極めて創造的なからだになれます。



2010年10月10日

生存のキメラ

からだの中の微細な亀裂に耳を澄ます。

たったこれだけのことができるかできないかで

人生は大きく変る。

現代社会に適応して生きていくためには、

からだの闇で生じる微細な違和感などにいちいち耳を傾けていれば

歩くことができない。

多くの日常体はそんなものを大股で跨ぎ越して顧みない。

そうでもしないと危うい自分のアイデンティティを守っていけないのだ。

だが、そういうあり方がなんだか偽物だと感じてしまうときがある。

無理してしまっている自分に気づく。

歩みを止める。

病気や失職などマイナスの事件がきかっけになってくれることが多い。

それまでの忙しい日常の時間から降りる。

するとごくごく微細な命のつぶやきが聴こえてくる。

かすかな軋み、ねじれ、ほんの少しの違和感、そういうものに耳を傾ける。

 

わたしの人生では父母の都合で、何回も母が変わり、家が変わり、

住む場所が変わった。

幼なじみや友人や同級生の顔がごそっと入れ替わった。

その都度、幼い命は目もくらむような異界の暗がりに落ち込んだ。

何回もその転落を経験するとやがて幼い命は学習しだす。

この世界が一様な空間ではないこと。

さまざまな生存条件が入り交じるキメラ状になっていること。

そこで生き抜くには自分をさまざまに変形する必要があることを学ぶ。

 

とりわけ、生まれ故郷だった和歌山を離れ、

はじめて大阪という都会で棲息する人間に接したとき、

まるでエイリアンの群れだと感じた。

田舎では出会う人がみな見知った顔である。

ひとはみなぶらぶらゆっくり歩いている。

ところが都会では見知らぬ人が無表情に高速度ですれ違っている。

田舎の人が人間ならば、ここの人は人間の形をしたロボットに違いない。

もしここの人が人間ならば、田舎の人はいったいなんなんだ?

 

思春期のはじめに都会に触れたとき、すざまじい亀裂を感じた。

それは終生わたしの感受性の固有の傷として刻み込まれた。

おなじ傷を持った人はすぐ分かる。

土方巽もそうだった。

秋田から東京に出てきた彼は強烈な亀裂に直面した。

そして、からだの闇の奥深くにしまいこんだ。

彼が踊るときにはその潜んでいる亀裂のクオリアが血液のようにほとばしり出る。

金属棒で脳みそをかき混ぜられるような体感、

周りの人皆が金属の神経で出来ているかのような違和感、

だからことさら鶏を抱えたまま舞台の上を転げまわる必要があったのだ。

何時までも芽が出ず立つこともできない種子になってうずくまり続けることが踊りだったのだ。

偽の人間の皮を脱いで、死者に化けることが生き返ることだったのだ。

私にとっての和歌山と大阪との落差、

土方にとっての秋田と東京の落差は、

単なる田舎と都会の違いなどではない。

まったく文化の質が異なるのだ。

秋田や和歌山の田舎とは古代から延々と変わらず続くアニミズムの世界だ。

そこでは死者と生者が共振して交感している。

近代の都会にはそんなものはない。

健康な生者だけがあくせくと生存競争をさせられている牢獄のような場所だ。

わたしにも土方にも大阪や東京の生活はそんなふうに見えた。

最近なくなった畏友速水智也子さんも、和歌山の最奥・熊野の出で、

おなじく熊野と大阪の巨大な亀裂を抱えて生きていた。

何日も彼女のからだに成り込んで一緒に歩くと、

どんな気持ちで生きていたのか、ありありと共振できる。

死んだひとは生きていた時よりもはるかに身近な存在になる。

 

命に亀裂をもたらすキメラのクオリアは、

何も田舎と都会に限らない。

自分の中の女性性と男性性、

子どもと大人、

思考と感情、

強さと弱さ、

高貴と下劣、

人間として複雑な布置の中で生きる中で、無数の亀裂が命にキメラを刻印する。

日常体ではこれらの亀裂のクオリアは等閑視されている。

そんなものはないと、大股で跨ぎ越すのが日常体だと言ってよい。

それくらい粗雑でなければ自己だの自我だのという厄介なものを守っていけないのだ。

ある日、きみはそれらに守る価値がないことに気づく。

自己だの自我だのとは、懸命にでっち上げ続けることによってのみ

存続している幻想であることに気づく。

その幻想を勇気を出して脱いだときに、

からだの闇で行き違い齟齬し合っているキメラ状のさまざまなクオリアに出会うことができる。

それらの収拾のつかないリゾームが自分の命の実情であることに出会う。

そして、それを受け入れる。

それだけでいいのだ。

それだけでそれまでのニセの生存からおさらばできる。

からだの闇で異質なクオリアが出会うたびに新しいクオリアが生まれる。

それが生命の創造性だ。

現代社会に適応しているニセの自分を脱ぐだけで、

一生この生命の創造性と共に生きていけるようになる。

跳ぶんだ、今。
そんな命の声が聞こえてきたら、チャンスを逃してはならない。
今の暮らしをやめて行き先なしの旅に出るんだ。
それが命と一つになる道だ。

 

 

 


巣窟体

巣窟体へ変成するには、まず、

長く静かな生命の呼吸で静寂体になることからはじめる。
内と外に等価に半分ずつ開く。
内にも外にも囚われない透明なからだ(心身状態)になる。
(長く経験をつんできた産婆コースの人は、
さらに主なチャンネルのそれぞれで透明になるよう制御する。
これが透明体につながる坑道である)

そして、背後世界の微細なクオリアに耳を澄ませながら、灰柱を運ぶ。
背後世界とは、単なる物理的な背後ではない。
他界、過去の世界、人間以前だった世界、海洋生物や単細胞だったころの世界、生命誕生時の原生世界、
地底の世界、死の世界、地殻変動の世界、マグマ、天上の世界、無数の元型の棲む世界、真空の宇宙空間、
ほかの星、銀河、ブラックホール、宇宙創成時の時空、ストリング共振の世界など、ありとあらゆる異次元、異界を指す。
これら異界との間で微細に震えている命のゆらぎに聴きこむ。
そして、異界からくるクオリアをまとう。
からだの各部、秘膜や秘腔、秘液の各層に、それらのクオリアが巣喰う。
からだ中が外に出たがっているサブボディの胎児の巣となる。
それら外に出たがっているサブボディたちの動きを最小限のサイズに留め、
無数の異次元と重層的に共振する巣窟体に変成する。
記憶や夢、からだの闇の原生体や異貌体の息吹、背後世界のクオリア、死者の呟きなどが
無限に重層化した異界とのクオリア共振を運ぶ巣窟のからだに変成する。

その巣窟と背後の世界を運びながら、命に聴く。
巣喰っているサブボディたちにたずねる。
誰だい、今日サブボディ
となって出たがっているのは?
そのサブボディがからだの形を決める。
形が決まればそこで長い生命の呼吸を感じ、各種のサブボディになりこむ。


2010年5月28日

「虫の歩行」最終行の秘密

今まで10年以上、毎年「虫の歩行」の練習と授業をやってきた。
だが、昨日の晩まで私は、その最終行の意味を深くつかむことがてきていなかった。

「虫の歩行」

1.右手の甲に一匹の虫
2.左首筋からうしろへ降りる二匹目の虫
3.右の内ももから上がってくる三匹目の虫
4.左肩から胸を降りる四匹目の虫
5.五匹目 自分で知覚
6.あっちも こっちもかゆい その場にいられない かゆさに押し出される
7.あごの下 耳のうしろ ひじのうしろ 膝のうしろ ベルトのところ に
五百匹の虫
8.目のまわり 口のまわり 耳の中 指の間 すべての粘膜に五千匹の虫
9.髪の毛に虫
10.毛穴という毛穴に虫
11.その毛穴から 内臓に虫が喰う 三万匹
12.さらに侵食し 毛穴を通って外に出る虫 身体のまわり 空間を虫が喰う
13.さらに空間の虫を喰う虫
14.その状態に虫が喰う
15.(樹木に五億匹の虫――中身がなくなる)
16.ご臨終です (意志即虫/物質感)」


第16行は次の二文からなる。
「ご臨終です。(意志即虫/物質感)」
”It's your end. (The will is bug, or sense of matte)"

私にはその括弧内の文が、不必要な蛇足に思え、
詩としての美を損ねていると感じて、受け取ろうとせずにどちらかというと無視していたのだ。

だが、今週水曜日に育子のガイドで虫の歩行の授業を行い、
翌木曜日は近くのカングラ・フォートという古い遺跡に行くことにしていた。
その前夜、夜中の3時頃、突然その最終行が光を放って輝き始めた。
そうか、そうだったのか。
そこに「虫の歩行」第二ステージへの扉を開ける秘密のカギが隠されていたのだ。
(意志は虫、あるいは物質感)
という一行には、次のような土方巽の遺志が秘められていた。
「後世の舞踏を学ぶ生徒諸君、
最初はまず、この虫の歩行をテキスト通り学びたまえ。
君は君の遺志で歩くのではなく、
からだを這う虫が君を動かすままに動きたまえ。
それが第一段階だ。
そして、それに習熟したら、つぎは第二段階に進むのだ。
第二段階では、テキストの虫の位置に、任意の
物質感覚を代入して行いたまえ。」


第二段階の練習は、具体的には次のように行う。
カングラフォートは、古い石造の遺跡が崩れかけ、
古い樹が茂り、複雑な地形と布置を形作っている。
その中に気になる地形が見つかったら、
その地形にゆっくりと歩み入る。
そして、右手の甲が布置の中の何らかのクオリアと微細に共振し始めるのを感じる。
石の模様や陰り具合と共振して、震え始めたり。揺らぎ始めたりする。
何がが起こるかは命に任せればよい。
次に首すじから背中にかけて、布置のなかのなにかのクオリアとの共振が始まる。
ゾクッとしたり、背後世界から死者が話しかけてきたり、と命に任せる。
次は内腿を地中に潜んでいたクオリアが這い上ってくる。
・・・
このように、土方の虫の歩行のテキストの序破急に沿って、
1行目から最終行まで、虫を何らかの物質感との共振に置き換え、
それによって動かされるからだに変成していく。
ここで土方が述べている物質感とは、正しく生命が感じているクオリアそのものだ。
だから、物質・非物質に関わらず、あらゆるクオリアとの共振を開けばよい。
記憶や夢や情動や妄想が、ところかまわず発生してそれによって動かされる。
これはもう、これから学ぼうとしている土方の最終的な境位である巣窟体そのものだ。
別の言葉で言えば多次元微細共振体だ。
なんと、虫を物質感に置き換えるだけで、
これまで初心者向けのテキストとばかり捉えていた「虫の歩行」が、
土方の最終境地にまで至る普遍的な奥義を秘めている舞踏譜に変貌したではないか。
余分なものだと私の狭い美意識によって今まで受け取ることができなかった最終行に
なんとこのテキストを単純な初心者用の舞踏テキストから、
普遍的な生命の舞踏のための多次元微細共振体になるテキストへと
ジャンプさせる秘密が隠されていたのだ。
それを解くのに十年かかったことになる。
余計だったのは私の狭い美意識の方だったわけだ。

かつてニーチェは言った。
「深淵を秘めよ。どこに?
表層に深淵を秘めるのだ!」
まさしく誰に眼にも触れうる表層に、
深淵への鍵が秘められていたのだ。

本当はこれ以外にも、私がなんとなく忌み嫌って遠ざけてきたものの中に、
こんな大事な鍵がいくつも秘められていたのに、
私はそれらをことごとく見失ってきたのかもしれない。
十分に考えられることだ。
舞踏を暗いからと遠ざけてしまう人は生涯その深みに触れることができない。
中島みゆきや山崎ハコの歌を同じ理由で遠ざけてきた人が
命の深みから遠ざけられてしまうようなものだ。
しばらく、自分が苦手としてきたものの中に
潜んでいるかもしれないものを探ってみよう。



2010年5月22日

量子的泡と土方の巣窟体

図1 相対性理論までの空間概念
図2 量子論以後の空間概念


まず、上の図をごらんいただきたい。
量子論以前の科学では,空間は一様であると信じられていた(図1)。
細分化していっても一様に静かな空間が広がっているだけである。
だが、量子物理学が登場して以降、空間を微細化して,量子論的レベルを超えた途端
天変地変のようなとんでもない変化をしているという驚くべき事態に遭遇することになった(図2)。
「空間は泡立ち,荒れ狂って、ねじれた形をとる。
ジョン・ホイーラーはこれを量子的泡と名付けた。
この空間では、左右、前後、上下という馴染み深い概念が(さらには,過去と未来の概念さえ)意味を失う。」
(ブライアン・グリーン『エレガントな宇宙』)



生命もまた,この多次元的に量子的に泡立つクオリア共振を生きている。
土方巽の最後の衰弱体は、自分の人体でこの多次元微細共振している生命の
量子的泡の領域に入っていこうとした最初の試みだった。
からだを鎮め、灰柱の境地まで持っていく。
そのからだをできるだけ静かに運ぶ。
凡庸な眼で見ている限りは、かれのからだはただ不規則ランダムに揺らいでいるだけかのように見える。
だが、その実態は、時空を超えて超複雑なクオリア共振を行っている。
土方の遺した寸法の歩行や虫の歩行、静かな家の舞踏譜の世界にからだで入っていけば
彼がどんな世界でゆらいでいたのかが体得できる。
その内容の一端は、舞踏論17章以降をご覧頂きたい。
これをなんと呼べばいいのか。
わたしは土方の愛用する巣(目の巣、森の巣・・・)が無数にからだじゅうに満ちた状態として
巣窟体と呼ぶことにした。
あるいは無粋だが多次元共振体ということもできる。
巣窟体は、絶えず多次元的に無数のクオリアと共振している
生命の実相に近づこうとするときに編み出された。
からだじゅうの10兆個の細胞が多次元的に呼吸し、
新たなクオリア共振パターンを創発し、夢をみている。
実技ガイドで述べた「多次元微細呼吸」技法が必要になるのはここから先だ。
土方のからだも無限の異界と共振し、異様なクオリアをはらんで量子論的に泡立っている。
それは奇しくも,極微細な時空で量子的に泡立っている世界のありさまとそっくりな様相を示している。

量子的に泡立つ空間も、生命もクオリアも、
11次元のカラビヤウ時空で共振しているひもによって生み出されているからだ。



2010年3月11日

からだの闇の仮の見取り図

1998年にはじめて来て以来、ヒマラヤも12年になった。
瞑想していると、これまでに盲滅法、手当たり次第に掘り進んできたからだの闇の坑道が、
ずいぶん透けて見えるようになっているのに気づく。
これまでのあらゆる苦し紛れの試行錯誤を統合し、
ひとつのパースペクティブの中に位置づけることが出来そうだ。
いままで出来なかった、学期のはじめにこれから一年間のざっとしたオリエンテーションが
できるようになってきたこともこれと関係している。
そう、いつの間にか、ずいぶんと透明度が増している。
いままで、段階論に囚われるのがいやで、採らなかった伝統的な瞑想法の中の
粗大身(グロスボディ)、微細身(サトルボディ)というような区分けも、
それを仮の見取り図とはっきりさせれば採用できるよい方便であることにも気づいた。
あらゆる見やすい見取り図はトリックでもある。
これに囚われて、からだの闇が実際に今見えているようなものだと錯覚してはならない。
非二元かつ多次元時空は、例えてみれば次の図のように、入り組んでいる。


前だと進んでいるといつの間にか後ろに向かっている。
上だと思ってよじ登っていると、着いたのは地獄の底だったというようなことがしょっちゅう起こる。
だが、なんの当てもなしに歩くよりは、仮のものであるにせよ
何らかの見取り図がある方が歩きやすい。
それを非二元かつ多次元世界を歩くための仮の地図だとわきまえてさえいればいいのだ。
からだの闇にはどんな見知った段階的構造も、上下の階層制もない。
そのことをはっきり押さえておくこと。
歩き始めのときには、これらの坑口のありかや、歩き方をガイドした導きが役に立つ。
だが、それを信じないことが大事だ。
とくに創造のなかでは一切の理論や図式を潔く忘れ去ること。
それを忘れないで欲しい。

三界トラベル

からだの闇を歩くとき、三つの異なる世界を横断するのだと承知していることは役に立つ。
三つの世界というのは比喩のようなものだ。
実際には非二元かつ多次元なのだから数え用もない世界だから。
三つというのは二元論の囚われから脱出するための必須の通り道だ。
古来からの伝統的な瞑想の世界でも、三つの世界として捉えてきた。

1 日常界 
私たちが人間として生活している日常世界だ。
古来、粗大身(グロスボディ)の世界と呼ばれてきた。
微細身と比べれば、はるかに粗大(荒っぽくて粗雑なこと)な動きや判断からなる。
それら粗大な動きや感覚、判断、思考をすべて止めることによって
微細なものに耳をすますことができるようになる。
調体(コンディショニング)とは、呼吸やゆらぎ瞑想などによって
この粗大な日常体と日常思考を脱ぎ捨て、微細界へ降りていくことだ。

2 微細界
伝統的な瞑想技法では微細身(サトルボディ)と呼ばれてきた。
日常体の粗大な動きや思考をすべて止めると、
日常界では見過ごしてしまうほどかすかなクオリアのゆらぎに気づくことができるようになる。
どれくらいかすかかというと、何億何兆倍もかすかで微細な、あるかなきほどのものだ。
日常体はそんなものが存在することすら知らない。
わたしも12年前ヒマラヤへ来て、ダライラマの書を通じてはじめて微細身のことを知った。
サブボディは、通常下意識のからだ(サブコンシャスボディ)のことだと
説明しているが、もうひとつの隠れた意味は、サトルボディのことでもある。
サブボディとサトルボディ(微細身)はほとんど同義である。
ただ、サブボディ技法では、伝統的な瞑想法では使わない動きのチャンネルを開き、
動く微細身である衰弱体になりこむ修練を通して、からだの闇を縦横に旅する。
伝統的な技法では開かない体感や動きのチャンネルをはじめ、
映像・音像・情動・関係・世界などのあらゆるチャンネルを開いていく。
その点だけが異なる。
衰弱体を、動く微細身であると位置づけるのは、今年が初めてである。
これによって、いままで闡明できなかった伝統的な瞑想法の世界と、
土方舞踏の世界とのつながりを明らかにすることができるようになった。

3 非二元界

三つ目の世界は、名づけにくい。
非二元かつ多次元の誰も見たこともない世界だからだ。
昔は融即界と呼んでいた。
日常世界の論理とはまったく異なる論理によって動いている。
生命の感じるクオリアの世界だ。
神話的な世界や伝統技法の中では、神や仏が動き、変容する世界として捉えられてきた。
サブボディ技法では自分のからだをさまざまな十体に変成させて、
この世界をからだで縦横に歩きまわり、動きまわり、踊り、旅をする。
変容する十体にみずから成り込むのが
伝統技法にはないサブボディ技法の特徴である。

ともあれ、これが三界の簡単な仮の見取り図だ。
くれぐれも旅の指針としてだけ、参考にして欲しい。
実体ではない。
三つの世界は縦横に絡み合い、浸透しあっている。
日常体の粗大な神経や感覚では気づかないだけだ。

以前に作成した図解ツアーも、それが仮の見取り図だと了解しながらたどれば、
役に立つかもしれない。
図解ツアーにはじめにというページを付け加えて、
それが仮のパースペクティブを与えるものであることを強調した。
いまではあまり使わない古い概念や技法も含んでいるが、
すべて試行錯誤の中の実験だった。
これからも実験は続く。
サボボディ技法を学んだ生徒たちによっても、
世界中でからだの闇を旅する様々な実験が続けられている。
それらの実験はすべて遠くで共振しあっている。
もう誰にも全容は捉えられない多次元リゾームになった。
ただ、これらを通じて世界が限りない多様性と共振に満ちた豊かなものになっていけばいい。



憑依体

2010年10月5日

憑依体

あれから43年にもなるのか。
1967年10月8日、羽田弁天橋の上で、
大阪府立大手前高校の同級だった京大生山崎博昭が倒れた。
1960年6月15日の安保反対闘争で、東大生樺美智子さんが虐殺されて以来
学生運動で出た二番目の死者だった。
それ以来、私たちの闘いは過激さを増していった。
そして、次々と死者が出た。
京大の後輩辻敏明、高校時代の盟友橋本憲二が、内ゲバで命を落とした。
高校時代、「死地へ!」という詩を書いて自分を鼓舞した私は死ぬことができず、
わたしのすぐとなりにいた友人が命を落とした。
20代、30代とわたしの眠りの中に彼ら死者が頻繁に訪れた。
40代で踊りをはじめて京都に戻ったとき、かれらは一斉に殺到して
わたしから眠りを奪った。
じょじょにわたしは彼らがわたしのからだを通じて踊りだしたがっていることに気づいた。
よっしゃ、自由に使いな、
好きなように踊ってくれい!
それからだ、彼らがどんどん踊りを創り始めたのは。
俺の処女作「伝染熱」の真の作者は山崎博昭だ。
翌年の「夢魔熱」は辻敏明が踊りまくり、
「暗黒熱」には橋本憲二も出てきて俺のからだは大賑わいだった。
わたしのからだを若くして死んだかれらがのっとったかのように
世界中を疲れを知らずに踊り続けた。
各国で踊るたび、俺たちは各地の死者と共振した。
インド・ダラムサラでは、中国の支配に抗って死んだ200万人のチベットの死者たちと、
ブダペストでは1956年のハンガリア革命の死者たちと、
パリやストラスブール、ヨーロッパの各地で第二次世界大戦の死者たちと、
東欧各地のユダヤ教会・シナゴーグで踊ったときは、
戦後50年ぶりに開かれた堆くホコリが積もった教会の空間を
無数のアウシュビッツの死者たちが飛び交っていた。
生命の舞踏の中では生者も死者もない。
まして不遇の死を遂げたクオリアほど共振しやすいものはない。
憑依という現象は、生命にとっては何ら珍しいものではない。
生命は生死を超え、時を超えて無数のクオリアと共振している。
ただ、そんなことが起こっていることを理解することができるまでに
十年以上かかった。
利己的な自我に毒された意識を脱ぐには時間がかかる。
だが、生命は世界中の人が、人間や自我を脱ぎ去る日まで踊り続けるだろう。
自我や権力に替わって、生命共振だけで世界がうまくやっていける日まで
生命の舞踏は止むことがないだろう。
長いデモクラシーの幻想に支えられた国家が、
生命のリゾクラシーにとってかわる日がいつかは来る。
それは確実だ。
国家を支えてきた人間の利己的自我への囚われも、たかだかここ数世紀のことだ。
こんな馬鹿げた状態への囚われを命が脱ぎさる日が来るのは目に見えている。
奴隷制社会が消え、封建制社会が消えたように、
資本制社会もやがては消え去る。
山崎博昭よ、辻敏明よ、橋本憲二よ、
俺達の望んだ国家なき未来はきっとくる。
安らかに眠れ。
俺もあと少しで人間のからだという借り着を脱いで生命に帰る。


元型体
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元型は、本能に似ている。
どちらも、遺伝子に書きこまれた種特有のクオリア共振パターンだ。
本能はからだや動きの自動的反応をもたらし、
元型は人類共通の想像力の共振パターンである。
動物は本能だけを持つが、大脳が発達した人類の脳には想像力の共振パターンが刷り込まれている。
赤い炎を見て動物は怯え、人間は炎の規模によって安堵するか、逃げ出すかの反応の幅がある。
蛇や獣に出会ってギクッとするのは本能であり、
闇の中になにか得体のしれないものの気配を感じるのは元型の働きである。
人間の力では及びもつかない出来事や力に対する畏怖が、特有のクオリア共振パターンを創りだした。
人類は民族や文化の違いを超えて、神や、悪魔や天国・地獄という元型を共有している。
ユングは個人的無意識よりもさらに深層に集合的無意識の層があると発見したが
そこは種特有の共振パターンである元型に満ちている。
もっとも原始的な元型は太母(グレートマザー)や、アニマ・アニムスなどである。
精霊や、神、悪魔、英雄、トリックスター、老賢人、少女、天使、妖怪変化、魑魅魍魎など
無数の元型がからだの闇の深層でうごめいている。
時には動物の姿で現れる時もある。
ユングは、元型とは想像力の形式であり、内容ではないと繰り返し注意した。
それは無限に変容し、姿形を変える。
からだの闇の探索を続け、多くのサブボディやコーボディを掘り出してきたあかつきに
かならず、何らかの元型に出会う時期が来る。
それは無意識の働きなので、意識で予期することも統御することもできない。
元型との出会いは予告もなくいきなり向こうからやってくる。
なにものかに襲われると感じる時もある。
とりつかれると感じて、誰もが身を引く。
元型に出遭ったときのエッジ反応だ。
だが、そのエッジを克服して、元型を引き受けそれになり込み踊る。
元型の力はこの上もなく強烈である。
限り無く豊かであると同時に支配し食べ尽くす恐ろしさを合わせ持つ。
取り憑かれてしまうか、それを創造に転化できるか、ぎりぎりのたたかいとなる。
このたたかいは、無意識の力に囚われたままでいるか、それをコントロールし
透明に脱ぎ着できる自由を獲得するかの別れ目になる。
自我という現代最強の元型に囚われたままの人間でいるか、
自我をはじめとする無数の元型から自由な生命共振を生きる未来の人間になるかの境目なのだ。
すすんで元型に身を預けるとき、私たちは元型体となる。
そこではサブボディとコーボディの違いも消える。
自他分化以前のサブ=コーボディになる。非二元体である。
それはとてもつもなく奇妙な心地と体感がする。
自分が自分でなくなるのだから、最初はとても怖く何が起こっているのか奇妙な謎に包まれる。
自分に何が起こっているかが透明に見え、自在に共振に身をゆだねられるようになったとき
それは究極の透明体であり、共振体でもある。
透明さとはなにか分からない、長年私はこの謎を探求してきた。
今ようやくそれがどういうものかおぼろげに透きとおってきた。
元型体は、透明共振体の別名なのだ。


透明体
2010年8月8日

透明なデュエットへ

7月最後の週は、土方の最後の舞踏譜「静かな家」の第一節を学んだ後、
各自が一ヶ月を統合するソロを創った。
そして、もうひとりがそこに多次元微細共振体で入る。
毎日の調体で、日々生命の多次元共振とより一層の微細クオリアに
耳をすますことができるよう多次元細分化調体を繰り返し行なった。
そのせいか、週末になってみれば、いつのまにか、
15年も前に夢に描いていた「透明なデュエット」が実現していた。
待ち望んでいたものが、予期せぬ時にいつしか訪れている。
不思議な世界だ。

「透明さ」について、そレがいかにすれば実現するのか
15年前にはまったく知らなかったことに気づく。
ただ、予感だけあったのだ。
15年前に知らなかったものとは、

①「透明さ」を実現するためには、自我や自己を止める技法を身につけねばならないこと。
②そして、非二元かつ多次元世界で微細に共振している生命になること。
③微細クオリアによってのみ動かされる透明共振体になる多次元化と微細化の訓練を積むこと。

これらためにサブボディメッソド15年間の休みない深化が必要だった。
それによってようやく土方舞踏の豊潤な果実を味わう道が開いた。
掘れば掘るほど、土方が驚くべき生命の謎の深みを探っていたことがわかるようになった。
土方舞踏の比類ない花はすべて、この深い謎と秘密によって支えられていることを。


共振体
2010年10月2日

共振体

美は共振にあり。
これがヒマラヤへ来てからのもっとも深い発見だ。
命が震えてやまない胸に来る美は、
思いがけぬ共振が出現した瞬間に生まれる。
なぜだかは分からない。
サブボディは下意識のからだであり、
コーボディは共振するサブボディである。
いつもそう説明しているが、本当のところ
両者がどう関係しているかは深い謎の中にある。
通常の論理の言葉ではとらえられない。
サブボディだと思っていたものが突然コーボディに変わっている時がある。
いったい何が起こったのか?
自他の境界線が突然曖昧になる。
類と個が別物ではなくなる。
命とは何なのか?
四十億年つづいている全体の命と,個の命はどう関係しているのか?
そういう非二元世界のことは、ことばで説明することはできない。
群れの下意識はとらえようがない。
ただとびきり美しい瞬間がある。
なぜだかも分からない。
ただただ胸に来る。
命にとって美は深い謎なのだ。
分からないから探求し続ける。
願わくば一緒にこの美しい謎を探求する人が増えて欲しい。
これだけは言える。
この謎は一生かけて探求する値打ちがある。
Leeに,騙されたつもりで共振の謎に取り組みなさい。



2010年4月24日

生命共振

共振塾の根幹は、生命共振にある。
いかに生命共振を媒介するか。
すべてはそこにかかっている。
サブボディ技法と、土方舞踏の型の双方を学ぶことによって
生徒の生命が生命共振によってひとりでに自分独自の踊りを創造する。
その創造性と固有性を発揮するプロセスを媒介するのが本質だ。
共振タッチや指圧を学ぶのは、生命が持っている原生的な生命力を思い出すことによって、
生命共振が発揮されるからだの状態に持っていくことが目的だ。
生命の原生力には、現代の日常のからだが忘れさっている自己治癒力も含まれている。
創造性とは、生命が受けた固有の軋みを、自己治癒力によって軋み返しをする動きの表れである。
受けた軋みが固有のものであるかぎり、軋み返しによって出てくる創造性も
世界でたったひとつの固有のものとなるのは当然だ。
生命はこの力によって40億年の間に無限の多様性を発揮してきた。
私たちはほんの百年に満たない期間、命を借り受ける。
その間に固有の創造性を発揮して、こうも生きることができる、
受けた傷をこうして軋み返しをすることによって創造性に転嫁することができる、
という発見を命に返す。
命の悠久たる創造の流れに参加することによって、命に帰っていくのだ。
その時、個としての死は何ら恐れるものではないことがわかる。
私たちはただ一切と共振している生命なのだ。



2010年8月27日


微細共振から始める

世阿弥が発見した序破急は、生命共振として捉えるとその必然性がよくわかる。

能において、ひとつの能の序は、長い渡り廊下を静かにからだを運ぶ動きからはじまる。

その序の運びの時間を通じて、踊り手は現実の日常世界から、

能が成り立つ現幻虚実が混交する異世界に入っていく。

観客もまた、その時間を共有することによって、踊り手と共に異世界に導かれていく。

 

細胞レベルの微細共振からはじめる

  

サブボディ舞踏もまた、通常の序破急では静まり返った静寂体になり、

生命の呼吸に耳を澄まし、かぎりなく微細な細胞レベルのクオリア共振から始める。
ときにはその慣例を打ち破り、異なる始まりを工夫することもありうるが
それは通常時の序破急を序とし、破の始まり方になる。
通常の序よりも、はるかに難しい始め方になる

 
序破急の序は、なぜ静かかつ微細な動きから始めるのがいいのか。

人間を脱いで、生命の世界に移行するためにその時間が必要なのだ。

 

あらゆる共振は微細な細胞生命から始まる。

細胞生命が共振しなければあらゆる共振は起こらない。

だから、共振は細胞レベルから始めるのが鉄則だ。
生命の呼吸に身をゆだねるのがもっともいい。
そして、一つ一つの細胞生命の微細ゆらぎに耳を澄ます。

もし、粗大な動きからはじめてしまえば、

見る人はそれを人間の動きとして捉えてしまう。

そうすると美醜・良否というさまざまな二元判断や価値観が、

見る人を捉えてしまう。

それでは駄目なのだ。

人間ではなく、生命になることが必要だ。
 

序破急の序が大事なのはそのゆえだ。

序においては目には見えないレベルのかすかなかすかな

命の異次元とのふるえから始める。

そしてその兆しを秘める。

すべての動きは動き以前の不可視の生命共振から始まるのだ。
そして、異界と交感する存在として、様々な人間以外の動きを工夫する。
傀儡体、ヒューマノイド、ベルメールなどもその一例だ。
秘筋、秘腔、秘膜、秘液、秘関など各自の秘密の部位から始まる。

何が起こっているのかわからない不思議な世界を創造する。

その不思議と共振することによってはじめて観客も日常の人間の世界から

生命の微細な非二元かつ多次元共振の世界に入ることができるようになる。

 

序において、限りを尽くして、人間を脱ぎ、

生命そのものに変成する。

序の如何によって、破・急の異次元開畳・異界転生が生きてくる。

どんな奇想天外な想像もつかない異世界にも、

観客とともに踊りこむことができる。

それができてはじめて生命の舞踏と言える。

一朝一夕にはかなわない。

日頃からの意識を止め、透明な生命になる長い長い修練によってのみ、

それが可能になる道が開く。

 

 

2010年8月17日

あらゆるものを共振として捉え直す 

 

これまで実体と思い込んでいたものを共振として捉え直すこと、

これがこれからのわたしの仕事となるだろう。

これまでのわたしの思考は、生命論においてもクオリア論においても

生命やクオリアをどこかで実体的なものとして捉える

観念の実体論的旧習に囚われていたことに気づいた。
自分自身の共振論で、あるゆるものは共振だと捉え返そうとしていたにもかかわらず
観念は旧来のまま、生命やクオリアをどこかで実体的なものと思いなしてしまっていた。

全部一からひっくり返されねばならない。

生命は根源的に共振現象である。
生命はあらゆるものと微細に非二元かつ多次元的に共振している。
共振によって生命は生命でありえている。

生命が感じるクオリアも実体ではなく、共振そのものである。

赤のクオリアなどない。

赤を感じる生命共振現象があるだけなのだ。

あらゆるクオリアは共振そのものである。
ここから再出発しよう。

共振と捉え返すことによって
これまでどこか胡散臭いものとして見られてきた催眠や自己催眠、憑依などの現象も
ただただ生命クオリアの共振だと捉えれば何ら胡散臭いものではないことがわかる。
舞踏における成りこみも共振によって成り立っている。
夢は生命の内的な記憶とその日の体験のクオリアとの間での共振によって生成するものだ。
アニマなどの元型も共振という捉え方で解けていきそうな気がする。
うまく解けないまま措いておいた謎が次々と解けていく。
闇の中を暗中模索で掘り抜いてきた無数の坑道群がすべてつながる広場に出た感じだ。
しばらくはこの広場を探索することにしよう。
おそらくはもっと深い闇にであうことになるだろうが。



2010年3月28日

すがすがしい未到の風

コーボディ坑道の様子は、今まで掘り慣れてきたサブボディ坑道と様子が違うことに気づいた。
なんだかもっと複雑に入り組んでいるようなのだ。
あるいは異なると思っていたものが意外なほど隣接していたりする。
コーボディ坑道はサブボディ坑道に比べてより一層非二元かつ多次元が輻輳しているようだ。

先週生徒とともに掘りすすんだ

目腐れコーボディ
秘液コーボディ
よじれ返しコーボディ

の三つのコーボディ抗をもう少しつぶさに調べてみよう。

目腐れ抗は、
最初、目を閉じてゆらぎ瞑想をすることから始まった。
別に眼を閉じることを指示しているわけではないが、
最も心地よいゆらぎを探そうとすると自然と誰もが目を閉じる。
目を閉じた状態では、闇の中にかすかなクオリア流動が起こっていることを感じ取ることができる。
映像チャンネルにも、かすかなイメージの流れとして、登ってくる。
それは内クオリアの流れである。

外光に反応する外クオリアの刺激は内クオリアに比べて何億倍も強烈である。
だから、はじめは片目のまぶたにわずかな隙間を作って、そこから入っていくる
ごくわずかの闇とあかるみの感じが、かすかな内クオリアと半々につりあう状態をつくる。
それが内クオリアと外クオリアを半々に感じる透明覚の入口になる。

そして、じょじょにもう少し目を開けて外光が入っても、
内クオリアを感じ続けることができるようにじぶんで訓練していく。
そして、じょじょに半眼や、眇目、白目、端目、歌舞伎目、ガラス玉の目など、
もっと見開いた状態でも内クオリアを半々に感じ続けることができるまでに持っていく。
このプロセスを身につけるには本当に長い訓練がいる。
わたし自身、何年もかかった覚えがある。
だが、これを群れでやると、なんだかみんなが同じくらいの下意識状態を共有することによって
意外と簡単に、外クオリア半分、内クオリア半分という状態に似た状態になることができた。
他の人の動きも夢のなかの出来事のように感じ取れて、
目に映っている光景が、外クオリアなのか内クオリアなのかが判然としない
白昼夢を見ているかのような下意識状態になるからだと思われる。
自分の夢のなかに他人が入ってくるのか、他の人の夢のなかに自分が入っていっているのかも
はっきりと区別できない状態だ。

おそらく、この自他未分化、内外一如の状態が実現できるのがコーボディの特徴だ。
ただ座ったままの瞑想ではなく、からだを動かしながら群れで瞑想状態に入る
サブボディ・コーボディ技法ならではのことだ。
この状態はいままで、ドリームワークとして特別に日を決めてやっていたワークとも
非常に良く似ている。
はじめに、違うことと捉えられていたことが、意外に紙一重の距離で隣接していることに
気付かされると言ったのはこのことをも含む。
あらゆるものの布置が異なって現れる。
非二元界の新たな地図を書き直さなければならない。
とても二次元の紙に書けるほど簡単なものではないが。

よじれ返しコーボディのプロセスでも
これはかつてエッジワークでやっていたこととそっくりだなと感じた。
みんなが自分の人生で受けた傷や圧力や歪みを相手に与え合う。
押し合いへし合いしながら、互いにどんな人生を送ってきたのかを
体感で共有し交換しあう。
自分だけのことだと思っていたものが、意外とみんな同じような体感を請け負っていたのだと
深く生命共振レベルから共有しあうことができる。

秘液抗も、今までなら各人のからだにもっとも低い下等生物的な傾向性を探って
原生体を探りだすことに留まっていた。
だが、これもみんな一緒に粘菌やプランクトンに変成して、
くっつき合ったり、ゆらぎあったりすることで、
より自然に群れだった頃の体感をからだで味わうことができる。
そうだ。生命が単細胞生物だった当初の30億年間は、
個などはまだ出現していなかった。
個と群れを分かつクオリアなどなかったのだ。
ただただ、生命は群れだった。

今年はさまざまなコーボディ抗を掘り進め旅しながら、
この長い長い群れとしての時間を、何度も何度も味わい直そう。
自他未分化なクオリアのリアリティをからだで知り、
共有しあうことが最も肝心なことなのだ。
頭だけでは絶対に得られないものがここには厳然とある。
この群れになりこむプロセスを深く長くたどる中で、
はじめて個の意識や、自我や自己が変成し始めるのだろう。
自我や自己は、誰かに捨てろといわれて捨てられるものではない。
自分で変えようと思っても思うだけで変わるものでもない。
からだで自我のない状態のすばらしさを知り尽くすことではじめて変わっていく。
意識しなくても知らない間に命は余計なものを脱ぎ捨ててしまう。
これこそ長年探し求めていた坑道だ。
とうとう、それを実地体験できる坑道が見つかったことになる。

コーボディ抗が開く地平は予想以上に、
これまでとは根本的に異なるパラダイムの転換をもたらしてくれそうだ。
意識優先の意識という現代特有の狭い認識法から脱出する旅だ。

からだに当たる風がこんなにすがすがしく心地よいのは、
これが人類にとって前人未到の非二元界の風だからだ。


世界共創―リゾクラシー

2010年8月19日

世界を共創する方法が見えてきた 

 

ダンサーは生命共振だけによって世界を共創することができる。
この間の実験的授業でその可能性がおぼろげだが確かに見えてきた。
私のしている仕事は、土方が切り開いた生命の舞踏の技術を生徒に伝えているだけだが
それだけで、生徒一人ひとりが土方レベルのスーパークリエイターに育っていく。
土方の時代は、土方一人が飛び抜けた創造力をもっていたので、
土方が踊り手たちの踊りを一から十まで振付ねばならなかった。
だが、みんなが土方レベルの創造者となれば、特別な振付家の存在は必要なくなる。
ただ、それぞれが固有のクオリアで踊りを創り、お互いの固有の世界クオリアを共有して
いくつもの多様な世界を共振によって共創することができるようになる。
いままでは頭の中でだけ存在していた未来社会の雛形である
無限に豊かな生命の多様性が許される世界を実際に創り出すことができるのだ。
こんなとんでもないことができるのは、ダンサーだけだ。
ほかの芸術分野は、視覚や聴覚や言葉といったひとつのチャンネルしか使えない。
踊りだけがからだや動きを含めた全チャンネルを使う総合芸術である。
全チャンネルを開くことによってだけ、
チャンネル分化以前の生命の非二元世界に触れることができる。
意識を止めてからだごと生命共振の創造力を発揮できるのだ。
つくづく踊りの世界に入ってよかったと思う。
おそらく私の生命が踊りの可能性を予感して私をつき動かしてくれたのだ。
踊り手すべてが土方レベルになったとき、
生命共振による世界共創のモデルができる。
何年か前まではほんのかすかな予感でしかなかった
リゾクラシー世界実現の可能性が透けて見えてきた。
生きてる間にここまでこれようとは思っていなかった。







2010年7月9日

ひとつになるという共振の奇跡

最終週のサブボディ・コーボディ劇場で、
はじめて踊り手たちの研ぎ澄まされた
生命共振がではじめた。
ごく瞬間的な奇跡的な共振が起こることによって、舞台がひとつになる瞬間だ。
共振には主体も客体もない。
踊り手が自我や自己を消すことによってのみ純粋な生命共振が現れる。
そうだ。これを見たかったのだ。
長いあいだ闇をかき分け転びつつまろびつつ歩いてきたのはすべて
これを見たかったからなのだ。
個々の踊り手がいくら優れた技量を見せても
舞台がひとつになっていない踊りを見るのはただ寒い。
全員がひとつになってひとつの世界を創造するということがもっともかんじんなことだ。
土方の舞踏をはじめ、これまでの舞台でもひとつに結晶することはあった。
だが、それはただひとりの優れた振り付け家の絶妙な采配に従って
踊り手が練習を重ねて実現されるものだった。
そうではなく、踊り手が自我や自己を消して生命になることによって起こる
透明な生命共振を見ることができるようになった。
生まれてはじめてだ。
こんな奇跡的なものを目にしたのは。
もちろん、まだほんのかすかなその始まり、
生まれたばかりの胎児のような段階に過ぎないとしても。
このために生きてきたのだと気づかされた。



2010年8月1日

世界を共に創る

おそらく、人が己れの自我や自己を消して、
ただ、微細に共振する生命になったときに、
一緒に命の望む世界を創ることができる。
そういうことが実際にこの社会で行われるようになるには
五千年か一万年くらいかかるかもしれない。
自我や自己という人間の形態は、これまでの人類の前史が不幸にも
支配権力や国家を生み出してしまった残滓にすぎない。
だが、命が命令や支配や差別や競争だのを望んでいないのは紛れもない事実だ。
そうである限り、いつかは人類は命の声を聴いて自我や自己を脱ぐ日が来るだろう。
そして生命共振だけでこの世をやっていく方法を見出すだろう。
今私たちが踊りの世界から特権的な振付家の振付や指示によってではなく
生命共振だけで小さな世界を共に創るというつたない実験を試みているのも、
その遠い未来の日を予感するからだ。
これは私にとって見果てぬ夢だった未来社会の萌芽形態だ。
舞踏家とはこの世でもっとも微細な震えるような命の声を聴けるもののことなのだ。



2010年7月29日

リゾクラシーが地についてきた

夏期集中ワークショップでは、今年の前期で実験したことを
一ヶ月に集約して世界共創技法を磨く実験を進めている。
三週目になる今週は、毎日生徒にひとつの自分固有のクオリアを見つけてくるように宿題を出した。

昨日出てきたクオリアは次のとおりだ。
・溶岩流
・実を結ばない花
・宇宙的螺旋
・塩されたかたつむり
・不安定な大地

今日は
・粘液
・エイジング
・破裂的解放
・結晶化
・重たいスノーライオン

これを各生徒が発見した調体法でシェアした。
アメリカの生徒が二人いて、なかなか早口の癖が治らないので聞き取れず、
早口の矯正に苦労したが、なんとか5人で十個のクオリアを共有した。
十種類のコーボディの群れの動きで、十種類の世界をシェアすることになった。
これを明日は個人のサブボディのソロと、最適の組み合わせを見つけていく。
サブボディとコーボディ世界の組み合わせパターンは無数にありうる。
その中から最適の一つを実験によって見出していく。
最初のポジショニングと肝要なタイミングはサブボディが用意するが
実際にはフリーリゾナンスで、無数のバリエーションが生まれていく。
やる前は拙速かとも危惧していたがやってみれば生徒は皆対応してくる。
この技法が定着すればいよいよリゾクラシーによる世界共創技法の基礎が完成することになる。
長年追求してきた夢がいよいよ実現される日が来た。
踊りの創造の世界からたった一人の振付家が彼のイメージに沿って
他の踊り手の動きを振り付けてひとつの世界を作り出すのではなく、
踊り手間の生命共振だけで世界を創りだすこと。
振付家やディレクターという特権的な立場なしに世界を創ることができるのだという
事例とその技法を共有する術を実際に創りだすこと。
若年の日々を過激派のリーダーとして過ごした私は
その中で自分が運動に引き込んだ多くの共を死なせて、
二度と政治指導者の立場には立つまいと決心した。
だがそれだけでは足りない。
この世から政治や権力を消滅させる道を見出すこと、
それが生涯の課題だった。
その課題が踊りの創造という限られた狭い世界ではあるが
いよいよ実現しつつある。
この技法を世界全般に拡張していくにはまだまだ未知の課題をクリアしていく必要があるだろう。
やがてこの世の権力者が気づいて弾圧に乗り出してくるかもしれない。
それらすべての困難を乗り越えて、生命共振だけで世界がやっていける
国家も政治もないリゾクラシー世界が実際に実現するには、
何千年もかかるだろう。
だが、わたしはここまででいい。
あと数年か十数年でこの世から居なくなるだろう。
生きている間に原理とその祖型だけは見出すことができたのだから悔いなく死ねる。
あとは後世の人々の仕事だ。


2010年7月24日

世界を共に創るための技術

今月、来月の夏期集中ワークショップは、
生命共振を伝えることに重点を置いている。
毎日を生命の呼吸から始め、
生命が無数の多次元的クオリアで世界と共振していることを感じる。
自我や自己ではなく、生命として踊るにはこれが欠かせない。
そして、この二週間自分のサブボディの踊りを探求すると同時に
他の人のサブボディに自由に共振して動くフリーりゾナンスを続けてきた。
来週からは生命共振をもとにひとつの世界を共に創る
グループリサーチを始めることができそうだ。
私のイメージに従って群れの動きをするのではなく、
自分がどんな世界で踊りたいかを探り、
その世界をコーボディの動きで創るのだ。
すでに3月から6月の長期コースの生徒は、
虫の歩行の虫が這うクオリアを ひび割れたコップだの、潰れたトマトだの、
秘密の笑みだの、歪んだ種だのという、固有のクオリアに替えて動く応用に入っていた。
そして、生徒が練習をガイドするときには、
自分固有のクオリアを他の生徒に課す、さまざまなう練習法を編み出してきた。
その手法はサブボディの動きの探求だけではなく、みんなで共有すれば
コーボディの群れの動きを創りだすことにも応用できる。
いつのまにか、群れの動きをグループリサーチで創造する技術が完成していた。
そして、群れの動きを創りだすことは、世界を創りだすことなのだ。
自分が踊りたい世界を、踊りの世界では群れの動きで創りだすことができる。
生命共振だけでひとつの世界を創りだすことができるのだ。

簡単に整理しておこう。

1 調体技法を身につける

サブボディ技法では、毎日を調体から始める。
日常意識を止め、さまざまなクオリアに共振するからだに変成する。
調体には、0番の呼吸から、11番のコーボディ調体まで12種類ある。
これらを駆使すればほぼあらゆるクオリアに共振して、さまざまな者に変成することが容易になる。
まず、生徒はこの調体をたっぷり身につける。
自分のからだがさまざまなものに変成することを知る。
そしてまず、自分のからだの闇を探り、さまざまなかすかなクオリアを見つけては
そのクオリアにしたがい増幅して体ごと乗り込むことでさまざまなサブボディに成り込む。

2 固有のクオリアを見つけ言葉にする


自分ひとりで探体するときは、クオリアはからだで感じるだけで
言葉にする必要はない。
だが、他の人と共有したいときは、的確な言葉でそれを示す必要がある。
そのクオリアを虫の歩行の虫が這うクオリアに替えて練習しあう。
今年の前期の生徒は実に多くのクオリアを発見した。
それを列挙しておこう。
これらは世界を共に創るための共有財産だ。

ひび割れたコップ
秘密の笑み
潰れたトマト
小さな火山
システムエラー
腐った果物
死にかけの花
歪んだ種
潰れた根
小さな悪夢
泣いている化石
歪んだ鏡
気化する細胞
流れ星
ネオンライト
濡れた靴下
壊れたテレビ
眠り込む時計
―などなどだ。
これらはだれでももっともっと見つけ出すことができるだろう。

3 互いに他の人のクオリアに成り込む

これらのクオリアを他の人にお題として与えあって互いに変成しあう。
これがグループリサーチだ。
基本の寸法の歩行や虫の歩行を学んだ生徒なら、
やすやすと他の人から与えられるクオリアに体ごと成り込むことができるようになる。

4 自分が踊りたい世界を探る

自分の命が受けた世界からの軋みや歪みのクオリアを探る。
からだの闇には無数の世界から受けた圧迫や歪のクオリアが潜んでいる。
それを探り、命が踊らなければならない世界のクオリアを探る。
その世界を群れの動きで創りだす。
1~3に述べた技法を使えば、だれでも自分が踊りたい世界を
群れのコーボディの動きで創りだすことができる。

深海流のゆらぎ
背後霊
偽の子宮
蠢く林
押し寄せる圧迫
石をぶつけられる
棒で追い立てられる
転石群
悶える化石
ヒューマノイドの群集

5 世界変成の序破急を見つける

さまざまな世界クオリアのうちから、サブボディの序破急に応じて
いくつかの世界を創り、その中で踊る。
そこで出てくる踊りは自分の命にとってのっぴきならない必然的なものになる。
命に刻み込まれた世界との軋みのクオリアだから、、
自ずから鮮深必の必の動きが出てくるのだ。

これが世界を共に創る技術だ。
ここまで創り上げるのに20年かかった。
この原理になっている生命共振を身につけることが必要不可欠だった。


2010年7月22日

生命共振を世界に!

何を一番やりたいんだい?
命に問い続けてきたが、とうとう命が答えを出してくれた。
生命共振を世界に!

すでに共振塾は、単なる舞踏創造のための学校ではない。
生命共振を世界に満たす共振者を育てる場に変わってきている。
それがこの数年間に起こっていた深層変動の中身だ。
こうなることははじめから分かっていた。
命がそう志向していたからだ。
だがからだの闇のさまざまな傾性がひとつに統合されるには
十余年の時が必要だった。
リゾネットは、生命共振を世界に広げるためのネットワークとなるだろう。
もっと言えば、生命共振だけでやっていけるリゾクラシー世界を創るための
リゾーム・ノマドの運動体なのだ。
今日、このサイトの冒頭に、
生命共振を世界に! とつけ加えた。
まだ、それは小さなつぶやきのようなものに過ぎない。
この小さな変化が何を意味するかは、
じょじょに明らかになっていくだろう。


(この項は、からだの闇、多重日記、共振日記のすべてに
関わるので、三つすべてに掲載します)

2010年7月18日

リゾクラシーへの深層変動


無性にタバコが吸いたくなって、半年ぶりに吸った。
からだの中でなにかわけの分からないものがうねっていた。
そのうねりに耳を澄ましていると、
自分の深部で大きな傾性の変動が起こっていることが感知された。
どう生きていくかというレベルの生の志向性が変わってきている。
それがハイデガーのいう情態性の変化として現れてきている。
不意にタバコが吸いたくなるときはいつもこれに関係している。
存在の深層の志向性や傾性の変化が、情動を突き動かし、
それが奇妙な体感や嗜好性の変化として現れてくるのだ。
今年になって、様々な面で変動が相次いでいた。
①生命の本質が多次元共振にあることに気づいて、
共振塾の授業を、生命の微細な多次元共振を感じ取ることから始めるようになった。
②具体的には、毎日の調体をこれまでのように
個人個人がゆらぎ瞑想によってサブボディモードになるだけではなく、
それを群れのからだで行うコーボディ調体をメインにした。
③コーボディ調体から、群れで動くコーボディ練習にダイレクトに入るようになった。
去年までのアメリカ流のグループインプロビゼーションの方法をすべてやめて、
集合的無意識に触れながら、命の微細な共振を感じて動くフリーリゾナンスを中心にした。
生徒自身が無数の共振パターンを自由に創造できる場を増やしていった。
④すると長年自分の本当にやりたかったことがじょじょに透明に見えてきた。
俺はこの生命共振を世界に伝えるために生きているのだ、ということに気づいた。
生命共振だけで社会をやっていくリゾクラシーのあり方を見つけるために、
いまここでみんなと実験しているのだ,ということが分かってきた。
⑤振付家の独断で踊りを創造するのではなく、
踊り手自身で最適の共振パターンを自在に創造していくことで、
より面白い多様性に満ちた踊りが生まれてくる。
それは前々から追求しようとしていたことだが、実践的な方法が見つかっていなかったのだ。
だが、とうとうそれが見つかった。
なんのことはない。
私自身が障害になっていたのだ。
自分の思う共振パターンを生徒に押し付けていた。
それを一切やめたことが、今年の大変化につながった。
⑥この変化は、舞踏創造方法の変化というにとどまらない。
人間社会のありかたに拡張していくことができるものだ。
人間社会だけがあらゆる生物の中で国家や暴力や強制や支配を使って社会を運営している。
だが、他の生命はすべて生命共振だけでうまくやっている。
人間だけがこれまでの歴史の前史で身につけた野蛮な方法に囚われている。
それは支配や強制に代わるもっと良い共振の仕方が見つかっていなかったからなのだ。
だが、とうとうそれは見つかりつつある。
まだわずかな意識を止めることを学んだ舞踏家の間で、
生命共振によってひとつの世界を創っていくという
小さく限定された抽象的な空間でそれが可能になりつつあるというだけだが、
原理だけはクリアになってきた。
あとは長い社会との関わりの中で、さまざまな現実的な条件に応じて
現実化していかねばならない。
何百年、いや何千年もかかることかもしれない。
人類は国家という野蛮な装置をこしらえあげるのに、
何千年もついやしてきた。
それを廃棄するにも,長い時間がかかるだろう。
だが、生命共振による永続革命はついにもっとも小規模な
実験的かつ抽象的な場でに過ぎないが、いま、始まりつつあるのだ。

(以下は個人的な人格統合の話題に触れるので、
「多重日記」での展開に移行します。
興味のある方は、ここをクリックしてお進みください。)


2010年7月10日

静かな世界共振革命

スイスのアスカが新しい舞踏コースを開くと連絡があった。
Crick here for flyer
こうして,世界の各地に散った研修生たちが,少しずつ地域に練習拠点を見つけ,
世界各地での活動をつなぐリゾネットを産婆していくのが私の次の段階の仕事になる。

リゾネットは、生命共振だけで世界をやっていくリゾクラシーという
新しい世界システムを創造するための世界規模の実験装置だ。
これまで共振塾で行なってきたことも、すべてリゾクラシーを
いかに実現することができるかを探る実験の一環でもあった。
生命の舞踏は、多次元で共振している命が新しい共振パターンを発明していくことによって生まれる。
舞踏の公演やワークショップにはごく小規模の地域に根を張ったコミュニティがあればいい。
ほんの少しの地域とのつながりがあればいいのだ。
ただ多くの異なる地域とつながったワームホールのようなネットワークが望ましい。
そして、それはすでに出来かけている。
スイス、スペイン、トルコ、アメリカが今のところ先行しているが、
他の地域の生徒もじょじょに動き出そうとしている。
あともう少しだ。
10年前私が世界を公演とワークショップをして回ったときは、
それまで日本の京都の私の家を拠点に世界中の踊り手やクリエイターとの交流を図った
ダンシング・コミューンのネットワークに参加した人々が各国でそれを支えてくれた。
パリのサンチャゴ、アムステルダムのデビッド・ザンブラーノ、
ストラスブールのマーク・トンプキン、ブダペストのアンドレアとチボー、
シナゴーグ・チェーンのオーガナイザーだったルーマニアのマリア、
スロバキアのチョビ、ユーゴスラビアのグループ、カラカスのコントラダンザ、
チェンマイ大学のジェイ、ジャー、そして、インド,ダラムサラで迎えてくれた
ルンタ・プロジェクトの中原さんと明美さん、
多くの人に支えられて地球を3周ほどした。
今度は、世界各地に散った生徒たちのネットワークが、
生徒たちの交流を支えるだろう。
りソネットはネットワークとそのネットワークを駆けまわるリゾーム・ノマドの群からなる。
各国の拠点を旅して回る国際水準のサブボディ・コーボディをもつ群れも
年々共振塾で生み出されている。
リゾネットを通して生命共振が,どのように周囲の世界を変えていくか。
どんな大海も一粒の水滴からはじまる。
生命共振による静かな世界革命はすでに始まっているのだ。



2010年6月20日

透明共振場の生成

実現してみて、はじめて分かった。
なぜ15年前からずっと私が熱病にとりつかれたように
砂漠で迷子にこだわってきたのか。
それは思いのほかとても恐ろしい世界だったのだ。
そこでは微細な生命共振が透明に起こっている。
すべての瞬間を何も考えずにただただ命の共振するままに動くしかないのだ。
意識を保ったままでは遅れて不透明に浮き上がってしまう。
意識的な目で見て反応しようとなど考えていると、
無様にもそれが見ているものの目に止まってしまう。
意識では間に合わなくて不透明なからだが見透かされてしまうのだ。
実現してみるまでは、何を実現したいのかも知らなかった。
微細な生命共振だけが透明に見える場を生成すること。
それが無意識裡に私をつき動かしてきたものだったのだ。
自我や意識が出てきたり、三次元的なまなざしが出てきたら、
無残にもその不透明さをさらけ出してしまうしかない場。
目腐れの目や秘膜で動く生命になるしかない場、
そういう恐ろしい場を作り出したかったのだ。
そこではすべてが透明になる。
そこでは透明体になるしか存在が許されない。
そんなものがあり得るとは想像もしなかった。
私が一番ぶったまげた。
思いもかけず、
生命の透明共振場が突然目の前に出現したのだから。
今はただ驚くしかできない。
いったい何事が起こったのか、
それはやがてじょじょに明らかになっていくだろう。



2010年6月13日

砂漠で迷子

「砂漠があるの。
その中に蠢くひとつの群れ、蜜蜂の大群、
入り乱れるフットボールの選手かトゥアレグぞ族の集団。
私はこの群れの縁に、その周辺にいる
――でも私はそれに所属している、
私はそれに私の体の先端で、片手か片足かで結ばれているの。
私には、この周辺が私に唯一可能な場所で、
もしこの混乱の中心に引きずり込まれてしまったら死んでしまうこと、
でも同じくらい確実に、この群れを手放してしまっても、死んでしまうことが分かっている。
私の位置を保つのはやさしいことではなくて、
立っていることさえとても難しいほどなの。
なぜかっていうと、この生き物たちは絶え間なく動いていて、
その運動は予測不可能で、どんなリズムも持っていないから。
あるときは渦をまくし、北のほうへ向かうかと思うと突然東に向きを変えて、
群れをなす個体のどれ一つとして他の連中に対して同じ位置にとどまったままでいない。
だから私も同じように絶えず動き続けている。
――こういったことは皆んひどい緊張を強いるけれど、
ほとんど目も眩むほどの強烈な幸福感を私にもたらしてくれるの。」


ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』第二章の冒頭に出てくる
とびきりの分裂病者の夢だ。
サブボディとコーボディの関係にはこの夢の主人公と群れとの関係に似たところがある。
群れと個とが、成員とその集団というふうには画然と分かれていない。
サブボディかと思うといつのまにかコーボディになってしまっている。
コーボディはいつどこででも切断され、
単独サブボディにもなり、またいつでも群れになることができるリゾームだ。
1995年のワークショップで、いきなりサンチャゴがこの砂漠の群れをやりだしたときには驚いた。
そのとき私は熱心なドゥルーズの読者で、この夢はほとんど暗記するほどよく覚えていたからだ。
サンチャゴとの第二の出会いだった。
そして、舞踏とフランスの現代思想がほとんど同じことを別個に追求していたことをも知った。
人間は終わった。で、われわれの次のあり方はなにか、という課題だ。
<リゾーム>というあり方を提起したのが、ドゥルーズ=ガタリの上の著書だった。
「リゾームのどんな一点も他のどんな一点とでも接合しうるし、
また蜜蜂の群れのように分離可能である。
モグラの穴のように常に多数の入り口を持ち、
どこへでもつながり、群れにも個にも姿を変え、
絶えず生成変化を続けている。」

土方が「静かな家」で到達したありとある背後世界と交感し、
気化と物質化の間で、無限の変容を続ける最後の舞踏と、
ドゥルーズ=ガタリのリゾームは全く同質である。
どちらも、今ある人間の日常のあり方からの必死の脱出を模索していたのだ。
この両者の等質性に直面したのは、おそらく世界で私一人だったろうと思う。
いや、今は亡きサンチャゴもこのことに薄々は気づいていた。
だからこそあんな奇跡のような激しい出会いが起こったのだ。

今週は、この<砂漠で迷子>を気化体のコーボディ=サブボディでやってみよう。
15年間も温めてきたリゾームの群れのイメージだ。
今頃になって実験の可能性が出てきた。
気化体が鍵になった。
全員がすでに気化した死者の群れである。
最初は砂漠で迷子になったノマドの群れとしてさまよっている。
その中で誰かがサブボディに変容すると、
ほかの人々も共振して姿を変える。
一人が群れに帰ると別の誰かが素っ頓狂な夢を見だす。
……
先週はホール内だけで透明共振劇場を実験した。
今週はこの<砂漠で迷子>でそれをやると、
庭や外界に所構わず展開することができる。
だが、それ以上に、これを通じて踊り手がサブボディとコーボディの不思議な関係を
からだで味わい体得することができるということが一番大きい。
命の謎は絶対に頭で考えていても届かない。
からだでなりこむ以外ないのだ。
共振の実験の種は尽きない。
はてもなく面白いことになっていきそうだ。



2010年9月13日

より深く世界と関わっていく
 

共振ワークは、これまで以上により深く世界と関わっていこうとする試みだ。
長らく長期研究生との閉じられた世界で、さまざまな共振実験をしてきたが、
そこで得られた共振技法を広くオープンワークショップの参加者とシェアしていく道を探る。
実はこの7月、8月の集中ワークショップでは、今年前期でやったことを一ヶ月に凝縮して行った。
やる前はとても無理だと思っていたが、可能だと分かった。
今度はその一ヶ月でやったことを、ダラムサラへの旅人相手に、
一週間という短期間でどこまでのことができるか、凝縮できるだけ凝縮してみる。

旅人は長期受講生とは違い、何の準備もないまま好奇心で飛び込んで来る人達だ。
より、一般社会の人たちに近い。
それは今までの授業から一般に人にも通用するよう、
余計な物をできるだけそぎ落とす厳しい作業だ。
共振ワークを、舞踏愛好者たちだけの狭い世界にとじこめておくのではなく、
より広く世界に開いていくための、試金石だ。
全部必要だと思ってやっていたことも、吟味すると、結構無駄なことや、
冗長な回り道をしていたことがわかる。

これはなかなかいい仕事になりそうだ。


2010年9月18日

はじまり

毎朝ベランダに出て山を見ながら、
一日をごく微細な生命の共振を感じることからはじめる。
これがもっともいい一日をはじめるコツだ。
樫の木の梢に止まっている鳥は、
ただ透明にあらゆるものと共振している。
かれらはとても優れた透明共振体のお手本だ。
何も考えず、ただ万物と共振している命であること。
わたしちのからだは10兆個の細胞からなる。
体内には100兆個のバクテリアが棲んでいる。
わたしたちはそれら巨大な数の細胞生命の共振体なのだ。
それだけではない。
命は目の前の山々の緑や鳥や虫たちと共振している。
いや、共振には主体も客体もないので、
主語と述語で語る言語ではうまく伝えられない。
ただ、万物が共振している。

共振しているのは目に見えるフィジカルなものだけではない。
細胞に刻まれた無数の記憶が共振している。
原初生命時代から今日まで40億年の生命記憶が共振している。
記憶や夢や想像や妄想や情動や欲動など、
目には見えない内クオリアが互いにあらゆるものと共振している。
生命とはこれらの無数の共振のつながりなのだ。
生命の共振を感じるとは、
これら非二元かつ多次元に重層する共振の無限のつながりを感じることだ。
生死や時を超えた無限の共振を感じる。
わたしはそれを感じるのが一番好きだ。
それを好み、それを味わい、それを楽しむ。
それだけでいい。
休みの日はただそうして過ごす。
ぼんやりとそうしているうちに、
なにかとんでもないことを思いついたりする。
自分でも想像もしなかったことが自由なクオリア共振からどんどん転がりでてくる。
日常のこだわりや囚われから離れて、
これが生命が一番創造的になる状態だからだ。
ヒマラヤに来て、サブボディメソッドや、共振技法が次々と生まれてきたのも
この状態を保ってきたおかげだ。
来週から始まる共振ワークでは、
ここから始めてみようと思う。

読者の方にもお勧めします。
ただ、命がいろんなものと共振していることを感じることから
一日をはじめて見てください。
命は自分の知らない計り知れぬ創造力を持っているのです。



2010年5月9日

命に触れる



命の動きは、意識の動きとずいぶん異なる。

まずはそれをつかむことが、からだの闇への坑口だ。

意識はただ一つことを線状に追って動く。

これに対して命はたえず、無数のものと多次元同時的に共振している。

これが最も大きな違いだ。

 

もうひとつ、意識がうまくつかめないことがある。

私たち人間のからだは約十兆の細胞からなる。

一つひとつの細胞が命を持っている。

それに加え体内にはそれの十倍のバクテリアの細胞生命も共生している。

百兆以上の細胞生命が共振しているのだ。

そして、無数の物やエネルギーやクオリアと共振している。

私たちが自分の命と思っているものはじつはこの無数の細胞の共振なのだ。

意識は自分がひとりだと思っている。

自分の命も自分ひとりのものだと思っている。

だが、命は一だの二だのという数で数えられるものなどではなく、

ただ無数の共振のつながりなのだ。

 

細胞生命は体内だけではなく体外の無数の生命とも共振している。

各細胞には40億年前の生命誕生以来の経験が細胞や遺伝子に記憶され

時を越えて保存されている。

それらの生命記憶として保存された内クオリアは、

たえずその都度出会う外界と共振する外クオリアとも共振している。

内クオリアと外クオリアの微細な差異によって変化を知る。

これが命の基本的な世界認識の方法だ。

それは40億年間続いてきている。

一秒も途絶えたことがない。

 

私たちはこの40億年つづいている命の悠久の流れから

ほんの百年足らず、人間の個体という命の形を借り着するだけなのだ。

百年足らずが終われば速やかに借り着を脱ぎ、悠久の命に帰る。

それまでにどれだけ創造を命に返すことが出来るか。

それが大きな問題である。

少しでもそれが出来れば、個体としての死はなんら悲しむべきことでもない。

個体としての仕事を終え、成果を命に返し、

ふたたび悠久の命の流れに帰っていくことができる。

 

だが、意識は数えられない世界や、

多次元同時共振などの世界に慣れていないので、

上に述べたほとんどのことは直ちには受け入れがたい。

いつまでも抵抗を示す。

だから、命に触れるにはまず意識を止めることが必要になる。

 

ゆらぎ瞑想

 

[ゆらぎ瞑想]などで意識をかぎりなく鎮める。

心地よいゆらぎに耳を澄ます状態になれば、次に進む。

 

ゆらぎの速度を極端に落とす。

するといままで気付かなかったもっとかすかなクオリア流が

からだを流れていることに気づくことができる。

それをたっぷり味わう。

そして、どれくらい多次元同時の共振が起こっているか

耳を澄ます。

 

多次元ゆらぎ瞑想

 

次の「多次元ゆらぎ瞑想」を行ってみる。

 

生命は実に重層的な多次元世界をゆらいでいる。

決して二元論的ゆらぎなどしていない。

そう見えるのは、私たちの脳が

二元論的思考の習慣に根深く

囚われているからである。

 

二元論的観念から逃れられないわれわれは、まだ意識が鎮まらない段階では

自分自身が次のようにゆらいでいると、自己解釈しがちである。

 

前―後ろ

右―左

元気―不元気

調子がいい―調子が悪い

からだが重い―からだが軽い

好きだ―嫌いだ

近寄りたい―遠ざかりたい

安心―不安

 

これは生命に対する完全な誤解である。

生命はこういう二元論など知らない。

それどころか驚くほど高次元な世界に生きている。

人間の意識が囚われている二元論などにおかまいなく

たとえばどの瞬間もつぎのように多次元的にゆらいでいる。

 

重い(重力とのゆらぎ)

明るい(光とのゆらぎ)

寒い(温度とのゆらぎ)

ビビビ(音とのゆらぎ)

面白い(情動ゆらぎ)

あれ?(記憶ゆらぎ)

うねる(動きゆらぎ)

ぼおっ(夢とのゆらぎ)

ふうっ(空気との呼吸ゆらぎ)

もごもご(音像ゆらぎ)

ふわー(胎児の頃の羊水ゆらぎ)

お母さん・・・(幼児記憶ゆらぎ)

どうしてるかな(遠い友人のクオリアゆらぎ)

…………

 

命はほんの一瞬間に、ざっとこれぐらいの多次元クオリアと共振している。

いやこんなもんじゃない。

何百億もある脳細胞が、同時に無数の内クオリア、外クオリアと共振しているのだから、

意識などでは追い切れない。

意識はそれを無理やり二元論的言語思考の狭い世界に閉じ込めようとする。

意識がたどっているのは、

脳とからだの細胞が各瞬間に行っている無数の共振のうちの

何億分の一のごくごくわずかの部分のニューロン発火に過ぎない。

だが、意識は自分がすべてだと勘違いしている。

 

生命ゆらぎは超多次元で起こっている。

それは三次元空間や二元論的思考に囚われたわれわれの

ありとある二元論的解釈を受け入れることができるほど深く多次元的である。

意識が生命をどう誤解していようと

生命にとってはお構いなしだ。

生命は意識の勘違いを咎めもしない。

 

だから、いつまでたっても意識は命の実態に触れることができないのだ。

命に触れるには、ただ意識を止め、

二元論的思考法の習慣に囚われないように、ツリー思考から離れ、

多次元連結的なリゾーム思考の世界に降りていく。

ただ、命が無言で行っている多次元共振を感じるだけでいい。

 

やがて、この多次元同時共振が命の実態であり、

それを味わうことがなんと心地よいことか、

からだに染み込むまでこれを続ける。

 

 

2010年6月14日

胎児の呼吸

私たちがしている呼吸は大きく二種類に分かれる。
肺を通じて行っている外呼吸と、細胞単位で行っている内呼吸の二種類だ。
呼吸をするとき、常にこの二種類を意識するのがいい。
いつも肺呼吸と細胞呼吸の二重の呼吸をしていることを味わう。
肺に吸い込んだ空気中の酸素が、赤血球に運ばれて各細胞にまで届けられる。
呼吸をするとともに、腕や足を伸ばしたり、ねじったりすると、
各細胞にまで酸素が行き渡っていくのを感じることができる。

そして、私たちが胎児のとき、どんな呼吸をしていたのかを思い出してみる。
羊水の中に漂う胎児の口も鼻も気管も肺も水に満ちていて、外呼吸はしていない。
胎児の血液中には母親の体内から酸素に満ちた血液が送り込まれている。
その血液が体中の細胞に行き渡っていく。
胎児が行っているのは細胞の内呼吸だけだ。
大人のように二重ではなく一重の呼吸なのだ。
いわば胎児は体中で世界を呼吸している。
胎児が行っていただろう内呼吸をやってみる。
すると、なんとそれはこれまで行ってきた<生命の呼吸>そのものではないか。
いろんなリズムで体中の細胞の共振パターンが変化し、
からだが伸び拡がったり、縮んだりしている。
それを味わう。
肺呼吸以外のもっとゆっくりしたさまざまなリズムで
生命の呼吸が行われている。
自分が胎内で<生命の呼吸>だけをしていたころを思い出す。
その呼吸はいまもからだで続いているのだ。
肺呼吸のリズムにマスキングされて、聴きとりにくくなっているけれど、
耳を澄ませばかすかに生命の呼吸を感じることができる。
自分が人間であることなどまだ知らなかった、
胎児の頃からそれを続けていることを思うとなんとも懐かしくなってくる。
私たちが自我や自己であるだけではなく、
生命であることを感じとる、これはとてもいい方法である。



2010年4月26日

産婆法と生命共振

共振塾の根幹は、生命共振にある。
現代の人間社会が忘れ去っている生命共振をいかに取り戻すか、それは人類史的課題なのだ。
今月から、長期生は、産婆法を学ぶ過程に入る。
これまでも、生徒は自分のサブボディのかすかな誕生の息吹に耳を澄まし、
それを誕生させる産婆としてやってきたのだが、
一定の段階から以降は、他の人のサブボディをわがことのように感じ取る産婆になる訓練を積むことが
より一層深くサブボディー・コーボディプロセスをたどるために必要になる。
体の深いところでは自分のサブボディと他人のサブボディの差異などなくなり、
サブボディとコーボディの差異さえもなくなる。
そういう非二元域に降りていこう。
産婆法は次の五つが主要なポイントになる。

1 自我や自己に囚われない生命共振を開く
2 自他に囚われず、サブボディ・コーボディ誕生の手助けをする
3 ツリーリゾーム技法
4 リップル技法
5 エッジワーク


これらは次のようなステップで進む。
1 とりあえず、朝の調体をガイドすることから始める。
2 調体とその次の探体で探るクオリアとの最も良い連関をみつける。
  探体では、秘膜、秘液、秘腔、秘筋、秘関、秘神、秘眼などの秘蔵クオリアを探る。
  また、各種の歩行やさまざまな十体につながる個別練習に入る。
3 調体、探体、創体の総合的連関を探求する
  創体では、各自のサブボディ・コーボディを踊りに創りあげていく。
  各十体への道筋を明らめる。
  静寂体、衰弱体、受動体、原生体、気化体、異貌体、傀儡体、
ボトム体、巣窟体、女体、憑依体、透明体、各種コーボディなどなどが、一般的な十体であり、
これを各自独自の十体にまで固有化していくプロセスがこれから始まる。
それらをどう導くかが、今後の課題となる。
今年は変則的に来月から数人の短期生を迎えることとなった。
だが、これは共振塾に新たな可能性をもたらすチャンスともなった。
長期生はかれらに、自分が得たものの打ち最良のものをシェアすることから始める。
いままでは秋になって、はじめて新人へのガイドをする訓練を始めていたのだが、
春から自己探求と、産婆法の習得を同時進行的に進めることができるようになった。



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