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十体論
4 体底体
2010年10月12日

体底体(ボトム)

体底体(ボトム)は、いまだに探求中の謎である。
からだが感じている微細な違和感を増幅していくと、
追い詰められた小さな体になってしまうことがある。
とりあえずそれをボトムという仮の名で呼んでいる。
ボトムとは何か、はっきり分からないままその仮説を
生徒のからだで探求してもらって仮説の裏づけをとろうとしているといってよい。

わたしは踊るとき存在の底から踊る以外ないと思っていた。
それ以外の踊りなど見る価値も見せる値打ちもない、と。
あるとき、これ以上ないというところまで小さく縮みこんだからだになりこんだとき妙に落ち着いた。
これ以上はもう追い詰められようがない。
開き直って、窮鼠猫をさえ噛む切羽詰った命になった。
それがからだの底、ボトムという仮説との出会いだ。
からだの闇は広大無辺だ。
本当は底などないのはよく分かっている。
底というのは、ひとつの一時的な比喩に過ぎない。
もっともか弱く、もっとも小さく閉じこもったからだになる。
とりあえず、それを底と呼んでいるが、それに限ることはない。
いろんな底があるだろうと思う。
少なくとも、小手先だけの踊りではなく、
もっと深いところからの踊りが出てくる場所だ。
そこから踊りだす。
長い経験の中で、
自分の底を見つけられる人とそうでない人がいる。
追い詰められた果ての自分、
小さくうずくまって震えている自分、
そういう自分を認められない人がいる。
底に至るエッジは思いのほか強烈である。
そのエッジを突破する術はまだ見つかっていない。
おそらく時が必要なのだ。
たち(性質)によるとしか言えない。

わたしについて言えば、今年、今まで底だと思っていた底が割れた。

13年前に石と呼んでいるボトムボディを見つけたときは、
これ以上もう追い詰められることはないと妙に開き直ることができた。
あらゆる場所で石になって転がりだすと、そこから無数の踊りが噴出してきた。
だが,今から見ると,その時の踊りは自分のもっとも深い悲しみの底には一指も触れていない。
底どころか、ごく浅瀬で踊っていたと恥ずかしくなる。
あの頃の踊りには観客に対するりきみや威嚇が出ていた。
見知らぬ国の観衆の前で丸裸の小さなからだになったとき、
身を守ろうとする小さな自我が死んでなかったのだ。
わたしの最も深い悲しみとは母とうまく共振できなかったことだ。
あらゆる関係で愛に失敗し続けてきたのも、どこかでそのことと関わっている。
いままでそれには触れることができなかった。
触れようとした途端自分が破裂してしまいそうで恐ろしかった。
ようやくその恐れを越えて母を踊ることに取り組めるようになってきた。
母を踊るとは愛の失敗を踊ることと同義であることも分かってきた。
もうこれ以上自分から逃げ続けるわけにもいかない。
だが、今こう言えるのはこれまで自分の底だと思えるところで踊ってきたからだ。
十年経って底板が外れて新たな深淵が顔を出した。
そういうことだと思う。
新しい深淵に触れることはいつだって底なしに恐ろしい。
だがこれが命の現実なのだ。



2010年9月26日

ごく微細な不快体感に耳を澄ます

フォーカシングのジェンドリンのいうフェルトセンスと、
ミンデルのエッジクオリアとは、どこかでつながっている。
どちらも不快な体感だ。
日常意識では気にもとめないほどの微細なものがフェルトセンスで、
それが嵩じて、身動きがとれないほどになったものがエッジワークの対象となるエッジクオリアだ。
それらはみな命がどこかで感じている歪みだ。
なにかがうまく行っていない、どこかおかしい、というものだ。
そんなクオリアは日常的にいつもからだの中でうごめいている。
それに耳をすますことが、創造的に生きる極意だ。
命が何らかの違和感を感じることから、その違和を突破するために
生命にとって必要な創造が起こる。
私にとって、これらの不快な体感こそが人生の最大の友だ。
それにま向かうときは不快で仕方がないが、
その不快の向こう側にだけ創造が生まれる。
不快さを避けてばかりいると、何も創造が生まれない。
快適さや愉快さや楽しさは真の創造の敵でさえある。
それらはただ味わって通りすぎればいいものだ。
これを勘違いしている人が多い。
楽しさから大した創造が生まれたためしはない。



2010年9月25日

からだの底から踊る

存在の底から踊る。
からだの闇は広大無辺だ。
本当は底などない。
底というのは、ひとつの目安に過ぎない。
もっともか弱く、もっとも小さく閉じこもったからだになる。
とりあえず、それを底と呼んでいる。
少なくとも、小手先だけの踊りではなく、
もっと深いところからの踊りが出てくる場所だ。
そこから踊りだす。
長い経験の中で、
見つけられる人とそうでない人がいる。
追い詰められた果ての自分、
小さくうずくまって震えている自分、
そういう自分を認められない人がいる。
底に至るエッジが強烈なのだ。
そのエッジを突破する術はまだ見つかっていない。
おそらく時が必要なのだ。
たち(性質)によるとしか言えない。
だが、すくなくともある人にはとても有効である。
とりあえず、からだの底から出てくる踊りを見つけるために、
当面はこのボトムボディという仮説にしたがって探ってみる。


2010年4月6日

ボトムへ、命の底へ

からだの闇の歩き方は実にいろいろある。
最初のうちは、右も左もわからないからただむやみにうろつきまわるしかない。
地図もなく、先人の旅行記もなかった。
ずいぶん思いがけぬ危険な目にもあった。
共振塾を始めた頃は、毎日新しい坑道を掘り進めながら、
安全だと確認できた道にガイドしていた。
だが、予期できぬことは次から次へといくらでも起こった。
初期の生徒とのスリルに満ちた共同作業だった。
今年はヒマラヤへ来て12年。
からだの闇の歩き方のガイドの仕方がいつの間にか変わっているのに気づいた。
広大無辺なからだの闇をただむやみに歩き回っていては、
いつまでかかるかわからない。
貴重な鉱脈のみつけかたをガイドできるようになってきた。
貴重な鉱脈とは創造性の鉱脈だ。
それを掘り当てれば無限の創造性が湧出してくる、そんな場所がある。
ずっと前から掴んでいたのだが、言葉ではなかなか捉えることができず、
生徒を上手くガイドすることも出来なかった。
今年になって、いきなり下意識の群れのからだになりこむ、コーボディ坑道が開けたことによって、
言葉の説明抜きに群れのからだごとそこへ運んで行く手法が発見された。
<そんな無茶なことをしてもいいのか!?>
という自分の中の意識のブロックを脱ぐのに、何年も掛かっていたのだ。
妨げていたのは老婆心という超自我のひとりだった。
からだの闇の豊穣な創造の鉱脈に至る坑道とは何か。

今年堀り進めているのは、
1)命が感じている有るか無きかのかすかな歪みのクオリアを探る
2)歪みや圧迫を極限まで辿ったときに現れる命の底のからだになる。
3)底のからだから出てくるかすかな命の息吹をたどり、別の命に転生する。
4)ひとりではなく、)群れのからだ(コーボディ)で、このプロセスのすべてを一緒に味わう。

――これらだ。
言葉では説明できないことは、からだでともに味わうしかない。
上の1、2、3、に書いたことも仮の言葉だ。
ほんの目印のようなもの。
実際にはこれらの何万倍も複雑なクオリアを生徒たちはからだで味わい、
無数の未知の動きが創発され、それらを共振によってシュアしている。
言葉と実際に起こっていることの間には巨大なクレバスが存在する。
踊り手とは黙ってそのギャップをからだで超え、行き来するものの謂だ。





2010年10月20日

土方の箱とボトムボディ

土方には「箱におさめられるからだ」というのがある。
長い間謎だった。
その謎がようやく解けた。

土方巽の最後の舞踏譜「静かな家ソロのための覚書き」の解読を生徒と共に進めてきた。

舞踏譜の読み方には幾重もの段階がある。

まずは何度も何度も通読することだ。

次にその意味を探って解読する。
エジプトのロゼッタ石の解読と同じ作業だ。

この段階で英語への翻訳も行なってきた。

私が訳したものを英語圏の生徒、オディールに味わってもらう。

大事なことは国際的に通用するベーシック英語に翻訳することだ。

この作業がもっとも困難をきわめた。

土方の原文は日本語としても超難解な隠語や暗喩に満ちている。

読み始めた最初の10年間はまるでロゼッタストーンさながらの謎だらけだった。
長い足踏みを続けたあと、最近すこしずつ読めるようになってきた。

そんなとんでもない土方の日本語を
どの国の人にも読めるように

わずか千語以内の語彙しか使わないベーシック英語に置き換える。

散々苦労しながら、翻訳し、

英語がそんなに得意ではないIkukoにもすんなり感じ取れるかどうか、吟味してもらった。

いくつかの特殊な用語には脚注や図解で補った。

その作業がほぼ完了した昨日から

やっとからだで読む体読の段階に入ることができるようになった。

 

一人が朗読するのを聴きながら自分のからだの動きに落としていく。

それを続けてはじめて発見したことがある。

それが土方の関節の小箱だ。

狂王は箱におさめられる

 

箱になった鳥

 

関節の小箱―ハンス・ベルメール―武将―王女―虎

 

武将は女王になり、女王は関節の箱におさめられるだろう。

その箱のなかからの生まれ変わりがフーピーという踊り子である。

  

箱はなんども出てくるので以前から気になっていたが

よく分からないまま、なんとなしに通り過ぎていた。

だが、体読によって自分のからだを小箱に詰め込んでいくと、

「何だ、これは!

ボトムボディとまったく同じ体感じゃないか!」と気づいた。

そうだったのだ。

土方はとっくの昔からボトムボディを踊っていたのだ。

まるで自分の発見でもあるかのように思い込んでいた自分が恥ずかしい。

ビデオを振り返りながら、小さく折りたたまれた土方の写真をキャプチャーした。

そうだ。私たちが探求してきたボトムボディそのものだ。

土方の踊りはそのボトムボディと気化体、獣体、異貌体、巣窟体などのキメラ変容によって

構成されている。

それらの総称として土方は衰弱体と呼んでいたのだ。

衰弱体がなかなかつかみにくかったは

その内容が以上のようなさまざまなからだのキメラや巣からなるからだということも分かった。

22歳のとき土方の舞踏公演を見てからちょうど40年経つ。

ようやく、ほんの少しからだで分かってきた。



 


大野一雄のボトム

大野一雄さんの写真の中から、あえて一般に流布されている
両手を上げて空に広がっている写真以外のものを集めた。
どうか、これらを命の目でとくと味わって欲しい。
大野さんのあの独特の極めポーズだけが世界に流布し、
あたかもそれが大野さんの舞踏スタイルでもあるかのような誤解がひろがっていることに
長い間強い危惧を抱いてきた。
西洋の大野さん系の舞踏家から影響を受けた人々の舞踏スタイルも
多かれ少なかれ、その流布された写真ポーズから影響を受けている。
それを見るたび身を切られるように辛くなる。
なんと文化は伝わりにくいものか、と。
それはたしかに、大野さんの踊りの中の花のひとつには違いないだろう。
だが、花が花だけで花になることはありえない。
花は目には見えない暗闇の中の秘密や謎に支えられてはじめて花となるのだ。
大野さんは踊りの中で膝から下の世界を模索し、死者と対話し、
生死のエッジとま向かう中から、最適の瞬間をつかんであのポーズをとったのだ。
大野一雄の息子の義人さんはいう。
「『膝から下の世界」という世界を一雄はもう一つ持っている。
そこにもう一つの宇宙がある。
『膝から下の世界』というのは大事です。
モダンダンスなんかでは、上に、重力に逆らってというふうな思いが強いでしょう。
一雄の場合は、本人がそう感じたとき、反対に落下します。
その時の落下する速度は凄いです。
あっという間に床に行ってます。」
(『大野一雄 魂の糧』)
だが、写真家にとって、うつむいて膝から下の世界をまさぐっているような図は、
おそらく絵にならないと判断されたのだろう。
謎や秘密に触れているみすぼらしい姿の写真など数えるほどしか撮られていない。
その写真家の美意識や判断が大野さんの舞踏の世界を歪め、
上滑りのBUTOHのイメージを世界にまき散らしてしまった。
大野一雄の舞踏のもっとも深い花と謎と秘密は、
そこにあるというのに見過ごされてしまうこととなった。
その誤ったイメージに毒された西洋圏の舞踏家や生徒に数多く出会った。
そのとんでもない悲しい誤解を解くために、大野さんの写真の中から
両手を上にあげていない写真だけを探して上に紹介した。
ほとんど無視されて撮られていないから、見付け出すのに苦労した。
幸い手持ちの資料の中から池上直哉氏の膨大な写真の中から
わずかながら集めることができた。
感謝します。
見やすい大きい花と違って、謎も秘密も目には見えない。
それに触れた命が微細にふるえているだけだからだ。
ただ、日常意識を止め、思考をやめたときにだけ、
生命が震えるように何か見えないものと共振していることが感じ取れる。
そして、本当の花もその心の目にだけ映る。
いや心というとまだ人間の枠内を離れることができない。
こころでさえなく、命になって大野さんの舞踏世界の奥底を感じてください。
人間の持ち物をすべて投げ捨てないと触れられない世界がこの世にはあるのです。

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2010年10月16日

ボトムの底が割れる


これまでこれが自分の底だと思っていたものの底板が割れ、
新しい闇がその深い闇の入り口を見せる瞬間がある。

それまで底だと思っていたものが、いかに浅瀬だったか、思い知る。
たまったもんじゃないが、

そんなことが起こるものからだの闇が底なしの迷宮だからだ。

底とは一体なんなのだろう。

長年踊ってきながら、うまく説明できないのはなぜだろう。

底とは固定したものではなく、どうやらひとつのリゾームであるらしい。

リゾームの特徴は変形自在であるばかりではなく、入り口が無数にある点にある。

それを痛感したのは、Ikukoが新しい底への坑口を示したときだ。

長期生は二学期になると毎週自分の授業を行うようになる。
その日、わたしは念願の生徒になってからだの闇を堀り進むことができる。

Ikukoは、ホワイトボードにこう書いた。

  

「Find most

 small body

   uncomfortable body

   warped body

   hate body

   dirty body

 

Try various shape!

Finally choose one!」

 

Small や uncomfortable, warped はこれまでもやってきた。

だが、4番目のhateと5番目のdirtyという規定はわたしには新鮮だっった。

そうか、これは私にとって内視盲点だったと目からウロコが落ちる思いがした。

 

自分の中でもっとも憎んでいるものとは、

わたしの中の小さな自我だ。

サブボディたちも彼らが生まれたのはみな幼児期だから

それぞれに小さな出来そこないの自我を持っている。

それを踊った。

すると、次から次へと新しいボトムボディが生まれてきた。

 

母の子宮だと信じていた世界がニセの子宮に急変したとき

わたしの小さな自我はまわりのものすべてが信じられなくなって、

どんなに優しくされても、愛していると言われても、

どうせお前もそのうち化けの皮を脱いでニセだったことを示すのだろうと、

肘で小突いたり、邪険にしたり、
考えられる限りのむちゃくちゃをするのがわたしの小さな自我たちの習性だった。

それではすべての愛が失敗に終わるのは眼に見えている。

 

その無残な愛の失敗を踊った。

それこそ今の私にとってもっとも必要な踊りだった。

 

オディールとわたし、そしてIkukoがそれぞれのボトムを見せた後、

Ikukoはそのみっつのボトムからボトムへ変成する踊りを創るように指示した。

 

一見無茶な要求だと感じながらも、それを退けて三つのボトムからボトムへ

変成する踊りを創ってみると、他の人のボトムと自分のボトムが奇妙な迷路を経て

変容しながらつながっていった。

自分でも驚くような新しい発見があった。
これまでのボトムだと思っていたものの底が割れ、
新しい未知の闇がぱっくり口を開けた。
その先は底なしの闇が拡がっていそうだ。

その気づきはからだにあってまだ言葉にはできない。
それはわたしのからだの闇の中のもっとも深い悲しみにつながっている。
それらはアウシュビッツの死者や、モンキーとして撃ち殺された
アマゾンのナンビクワラの人々の悲しみと見えない通路で共振している。
だが何がどう起こっているのかはわからない。
この混沌から踊りが析出されるまでは、それ相応の時間がかかる。

言葉にしてはいけない段階がある。

これからしばらくその未知の体感をからだに探っていこう。

どうやら十年ぶりに思いがけず掘るべき坑道が見つかったようだ。