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第9章 異界ゆらぎ
  


●楽しいときは踊らない

「わたしは楽しいときには踊らないことにしているのですよ」
――長い間土方巽のこのことばが魚の刺のように
からだの闇に突き刺さっていた。

半分は分かるが、半分は謎だった。
わたしのからだの中に、
楽しい踊りに感応する要素があることを
否定できなかったからだ。
昔幼い頃から踊るのが好きだった。
幼年期に町内会で見た近所の老婆や老人が見せる
卑猥な芸に驚いた。
「おおおそそ」という出し物や、裸のフリチン踊りに
手放しで笑い転げる町内会の雰囲気にたまげていた。
小中学時代には町の盆踊りに興じた。
高校時代には紀伊半島を徒歩で一周しながら
村々の盆踊りをはしごして飛び入りで村の娘たちと踊った。
どの村も一見の異界からの訪問者を暖かく迎えてくれた。
若い頃はバレエやダンスの公演があれば
必ず最前列か最後列の席を取り、一緒になって踊った。
最前列では脚を自由に動かせるし、
最後列では上半身をどう動かしても後ろで迷惑になる
観客がいないからだ。
40代になって青年期の政治闘争で受けた
執行猶予期間が明けて外国を旅行できるようになると
各国で伝統舞踊や民族舞踊を学んだ。
インドネシア、タイ、インド、東欧、南米、ハワイ……、
どの国の踊りも大好きだった。
ヨーロッパやアメリカでは都市ごとの
コンタクトインプロジャムやトレーニングキャンプを渡り歩いた。
だが、ここ十年、ぷっつりとそれが已んだ。
いつの間にかわたしもまた楽しいときには踊れなくなっていた。
わたしの中の軽薄なダンスが死んだ。
何かが、はた、と変わったのだ。
だが、この自分の中に起こった変化を
長いこと理解できなかった。

いったいなにが起こったのか?
どうも今わたしの命が求めている
サブボディの踊りは
楽しいときにリズムに乗って踊る踊りとは
どこかが違うのだ。
だが、何が違うのか、というとなかなかはっきりしなかった。

●冷えたからだ

「舞踏とは冷え切ったからだになって
はじめて踊れるものなんですよ」
――これは、大野一雄の息子さんの大野義人の言葉だ。
昔の舞踏仲間から転送されてきた
桂勘からの手紙の一節にあった。
大野一雄と競演するときの義人はいつも
石像か、氷像のように突っ立ていた。
ひたすら、魂の霞のように踊る一雄の舞を
引き立たせるべく<動かない>を踊った。
大野義人もまた決して楽しいときに踊る人ではあるまい。
今のわたしも楽しいときには踊れない。
わたしの命が創りだしたいのは、
楽しいときに踊る踊りとは根本的に違うものだ。
どこが違うのか?

それがからだで分かったのは、
ハンガリーで、わたしの踊りを長年プロデュースしてくれていた
人の結婚式に招待され、踊りを請われたときだ。
よい友達だったし、長年世話になってきた人だ。
なんとか一肌脱ごうとしたが、
からだがピクリとも動こうとしなかった。
わたしのサブボディは結婚式の楽しい場では
踊ることを拒否したのだ。
そのときのことを何度も噛み締めているうちに不意に気づいた。
楽しいときに踊る踊りは<元型>にとりつかれている。
伝統的な踊りも民族的な踊りもまた、
<踊りという元型>に囚われている。
その<元型>を命がけで脱ぎ捨てたときに
はじめてサブボディが顔を出す。
人類史の中で、絶対的創出といえる
たった一つの踊りが発明される。

そういうことだったのだ。
私のからだの闇に突き刺さっていた刺が
わたしに告げようとしていたものは。
踊りに付きまとう既成概念がある。
踊りは楽しいものというのもそのひとつだ。
それがもっとも踊りを誤解させる<元型>であり、元凶だ。
<元型>に取り付かれている間は、本当の踊りにはたどり着けない。
わたしは、なんと長い間、この<踊りという元型>に
囚われていたことだろう。


●異界ゆらぎ

毎日命に聴く。
「ほんとうに創りたい踊りとはどういうものなのか?」
サブボディ・メソッドにしたがってからだの闇から出てくる
生徒の踊りはすべて味わい深い。
毎日そのサブボディのなかに入って一緒に踊る。
毎日少しずつ自全の旅が深まり、広がっていく。
だが、自全の闇は限りなく深い。
いつも、まだ自全を踊りきっていない、
というクオリアが感じられる。

このさき、このサブボディはどうしたがっているのか?
どんな次元を開きたがっているのか?
どうすればその次元を開くことができるのか?
どうすれば今よりもっと自分の深いところから
出てくる動きになるのか?
少しだけ、その手がかりが見えてきた。

冷えたからだになる。
あらゆる生体のクオリアを極限まで鎮める。
動きも体感も情動も鎮まりかえるところまで鎮める。
すると、かすかな生命クオリアのゆらぎだけを
身にまとったからだになることができる。
そのからだこそあらゆる異次元と交感できる状態なのだ。
生と死、有と無、時と非時の間でゆらぐ。
異界ゆらぎに変成する。

異界ゆらぎ。
からだじゅうのあらゆる部位が異界との間でゆらぐ。
60兆の細胞という細胞があらゆる異次元との間でゆらぐ。
背後から他界の死者が顔を出そうとしては引っ込む。
地中から胎児の記憶がほとばしる。
無数の悪夢がよみがえり消える。
時を超えた多数多次元のクオリアが呼吸する。
見かけはほとんど動かない。
ただゆらいでいる謎を運ぶからだになる。

何でもいい。きみの人生にとって最大の未知のものと
既知のものとの間でゆらぎたまえ。
自分固有の囚われ、自分だけが握り締めているこだわり、
自分を封じ込めている最大の問題、
脱出したいと考えている嗜癖、悪癖、思考癖、
もっとも解きがたい疑問、
自分とは誰なのか?
自分の固有性とは何なのか?
こだわりのあるものならどんな問いでもいい、
自分の中の謎をゆらぐ。
自分の意図、傾向、希望、問題、心身症状をめぐって、
生命ゆらぎのレベルまで降りて、
その最初のクオリアゆらぎをつかむ。
そして、そのゆらぎにしたがい、励まし、
からだ全体を注ぎ込んで踊る。
そのとき、そのからだは、からだ全体で
その謎を根源から問う何ものかに変成する。
意識レベルに顕れる以前の、クオリアゆらぎから踊ることで
その全体をつかむことができる。
もっとも、単刀直入に行くとは限らない。
途中で別のチャンネルが開いてくればそこも旅する。
自全の中はあらゆる迷路でつながっている。
その迷路をすべてたどるなかで、
少しずつ闇が透けてくる。
たぶん何年も、何十年もかかるかもしれない。
それでいい。
ただその謎を踊り続けることで、
踊ること自身が、自分にとっての謎を解くツールになる。
自分にとって解かねばならない謎に立ち向かうことが人生だ。
うまく立てないと感じているなら立つと、非立のあいだでゆらぐ。
声を使えないことが問題なら、声と非声のあいだでゆらぐ。
もし愛が謎なら、愛と非愛のあいだでゆらぎたまえ。
時が謎なら時と非時の間でゆらぐ。
欲と非欲、自我と非我、心と無心、……
生命を解きたければ生と死のあいだでゆらぎ続ける。
そんなとてつもない難問は頭で考えていても
休むに似たりだ。答えが見つかるわけがない。
ことばは生命を探る最適のツールでは決してない。
だだ全身で生命ゆらぎのレベルから
ゆらぎ続けることによってのみ、
その問いを実践的に問い続ける人生を送ることができる。
そのとき踊りは単なるからだの動きではなく、
生命の問いを問う肉体の哲学に変成する。
ことばによってではなく、存在ごとその問いを問う生命体に
転生しうるのだ。

その最大の闇をめぐる異界ゆらぎに至る道が序破急だ。
その序破急にきみにとっての最深の謎を秘めよ。
謎が深ければ深いほど、重ければ重いほど、
花はおのずからその浮力によって浮かび上がる。

踊りという<元型>の囚われを脱げ。
ダンスを脱げ。
舞踏という既成概念を脱げ。
白塗りを脱げ。
Butohを脱げ。

それらすべてを脱ぎ捨てなければ
どこへもいけないことを知れ。



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