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第7章 生命と機械の棒 


歯医者に行くたび、土方を思う

不思議なことに、歯医者に行くたび、診察台の上に横たわると、土方巽の舞踏譜の一節が浮かび、そこにこめられていた独特のクオリアのうねりが見えてくる。あの歯科医特有の無機的な設備と土方になんの関係があるのだろう。

歯医者の診察台に横たわり、腑抜けのように口をあけたままの姿勢で私は、私のサブボディが活性化し、土方の舞踏譜を解読していく営みをずっと楽しんでみていた。

それが、3度目の今日になって、初めて歯医者の近代的な診察台の装置がなぜ土方を呼び出したのかが突然腑に落ちた。

解剖芸者

機械の棒で操作される魂の中心

機械がつくるさびしい関係を告知せよ」

気味悪く光る金属棒で頭の中の魂がかき回される土方の人生体感が、歯医者の診察台の上で味わう微細なドリルだのバキュームだので頭蓋内をかき回される体感にそっくり共振したのだ。

秋田で生まれ、秋田で育った土方が東京に出てきたとき、そこで出会うあらゆるものが、まるで魂をかき回し操作する金属棒のように感知されたのだ。モダンダンスのセオリーも、都会の冷たい人間関係も、すべてが土方にとっては金属棒だった。こんなさびしい人間関係に平気な都会の人間は、すでに機械の棒で魂が操作されているに違いない。

この金属棒こそ土方が得た秋田と東京の間できりもみ上に落下していく飛行機のような衝撃体験であった。

少年期和歌山で育ち、思春期に初めて大阪に住むようになった私も、これと同じ体験をもった。和歌山のあのちいさな海辺の町の暖かい人間関係の世界が人間の世界なら、大阪のこの無表情にすれ違うだけのさびしい人間関係に堪えられる人々とはいったい何なのだ。

金属棒の感触が混じっている奇妙な人間たち――まるでエイリアンの国に紛れ込んだかのような、異邦人体験を味わった。

その後40年も大阪京都で暮らすうち、知らぬ間に私の脳や胸の一部も金属棒にすりかえられていた。

私の母は他人の不幸もまるで自分のことのように感じて苦しむことのできる共感力を持っていたが、都会暮らしを続けるうちいつしか心が他人の不幸に共感して動かなくなっているの気づいて驚いた。

今の社会とは人間をヒューマノイド化してしまう装置なのだ! わたしが日本を脱出してヒマラヤに移住した最大の動機はたぶんそれだったことに今頃になって気づいた。

おまけに、秋田や和歌山とは無数の精霊や死霊が行き交う多次元変容流動世界だったが、都会はそんなものが存在しないのっぺりとした三次元空間の中に収まっているかに見えた。

土方は、自分だけに見える多次元変容流動の世界を、巧妙に隠す必要を感じた。それが秘兆のまなざしである。

「癇の花

患部ではなく全体的患部

岩の蝉のできの悪い眼

見ることを禁じよ」

眼疾のまなざしをまとうことによって、多次元変容流動を透明に見透かしている自分の目を隠す。花は秘されねば花とはならない。

皮膚への参加

ちいさな頭蓋の中の小さな花、

それはそれは細い細い視線、

神経は頭の外側に棒を目撃した、

その棒を額でより分けている視線。」

土方は、現在の都会の人間がこうむっている変化に敏感であった。いつも魂を操作する金属棒と人間の神経の関係を凝視していた。

頭の中と眼の中を凝視する

――その熟視の状態を熟視する

――外側からそれを眺めれば停止したようにも見えよう

――視線へ

――細い細い棒へ」

近代の金属棒の働きに熟知することによって、土方はこの神経と視線と棒の関係すべてを自らの変容技法に転化することができた。

自らの踊りの中で、この細い細い棒を動かすこと、それによって、人々すべてが金属棒で操作される魂の持ち主――形は人間の姿をしている、だがもはや魂は半ば抜き去られ、機械と化している現代の人間のあり方を逆照射する技術を身につけた。

(それが後期70年代初期の土方のソロを特徴付ける「臨生のまなざし」である。これについては第4章 「臨死臨生」を参照してください。)

人間が人間でなくなっていく瞬間の微細な感覚を磨くこと。生命体としての微細な原感覚を鋭敏に研ぎ澄ますことが必要だ。土方が切り開いた舞踏の世界に降り立っていくためには、この原生感覚がなくてはならないものとなる。だが、舞踏家としてだけではなく、人として、人間から転げ落ちてヒューマノイド化させられないために、生きる技法として必須のものなのだ。

(人間のヒューマノイド化については、[共振日記――共振力を失ったヒューマノイドの地球]を参照してください。)


●歯医者の診療台の舞踏

歯医者に行くと、いつも土方巽の体感と同期する。

今日もじわじわと戦後すぐ秋田から東京に出てきた土方に変成して行った。

歯茎に麻酔を打たれ、口に中にさまざまな金属棒が突っ込まれ、電気ドリルが鋭い回転音で回っている。助手がいないのか私はバキュームのパイプをつかまされ口の中に固定しなければならない。すこし場所を間違うと舌の裏の粘膜を吸い込んでしまって痛む。奥歯一本を抜かれる間わたしはほとんど気を失って、もう一つのからだが、診療台の上で奇妙な舞踏を始めるのを見ていた。

手足が萎縮し、小刻みに震えよろめいている。その姿は何かを嫌がっている動きのように見えた。嫌がっているのだが、自由に肢体を操れないため、逃れようとしているのか、逆に喜びにむせいでいるのか、どちらとも取れるようなあいまいでおぼろげな動きになる。

土方が最後期の舞踏で見せた衰弱したからだは、秋田の農家の家の薄暗い奥部屋で寝たきりになったままの病人の見る夢に見ていた。

「寝たり起きたりの病弱な人が、家の中の暗いところでいつも唸っていた。畳にからだを魚のように放してやるような習慣は、この病弱な舞姫のレッスンから習い覚えたものといえるだろう。彼女のからだは願いごとをしているような輪郭でできているかに眺められたが、それとてどこかで破裂して実ったもののような暗さに捉えられてしまうのだった。だれもが知らない向こう側の冥(くら)さ、この暗いは甦りめいた始まりを覚えていなかっただろう。」

『病める舞姫』のなかの最も美しい一節のひとつが甦り、わたしのからだに降りてくる。

インド人の歯科医には見えない次元で微細に踊りながら、このいやがるクオリアにはどこか深い味わいがあることに気づいてきた。

いやがるクオリアの中には、強い生きようとする生の傾向がある。心地よく生きたいから、苦から逃れようといやがりのたうつのだ。どんなみすぼらしいからだになってもなお、保たれている生体としてのもっとも根源的なクオリアだ。

だれもが小さいころ、土を掘っていて誤って傷つけてしまったミミズが激しくいやがってのたうつダンスに肝を抜かれて見入った体験があるだろう。生きとし生けるものは自分の生が損なわれようとすると全力でいやがりのたうって逃れようとする。

今の現代社会の日本人が失ってしまったのは、この生体として最も根源的な、いやがるクオリアの動きである。よほどひどい目に遭わされているのに、(この世とはこんなものだ)と騙されて眠り薬を効かされ、じっと耐えている。

歯科医の診療台の上で出てきた舞踏は、その日本人が陥った状態から逃れでようとする土方巽の渾身の舞踏だった。極限まで無力に衰弱したからだに変成して、なお残るかすかな生命のはしくれで、現代の日本人が陥ってしまっている<死>の世界から逃れでようとする土方の生命が見せた生を求める原生クオリアだった。それを土方は現代日本人に気づかせようとしたのだ。

わたしも日本で長く暮らしたため、このいやがるクオリアの動きをずっとからだの奥に忘却したままだった。それを思い出すために、こんなヒマラヤくんだりまで来て歯科医の診療台の上にからだを投げ出す必要があった。

秋田から上京してきたばかりの土方のからだは、東京という街全体がこんな金属棒やわけの分からない機械に魂をいじられ整形される、歯科医の診療台に感じられて、いやがりのたうっていたのだ。土方はそういう、自分のからだの奥底で蠢く微細なクオリアを見つける天才だった。

今日のわたしたちでも、よくよく意識を鎮め、原生感覚を取り戻していけば、誰もが、自分のからだの闇に蠢きひしめくクオリアを捉えることができるはずだ。

もしうまくそれを取り出し、踊りにすることができれば、誰もがあの土方のように奇想天外な自分だけの舞踏の創始者になることができる。



●押し出されて出てくる動き

歯医者の診療台の上に横たわったときに出てくる舞踏は、いわば、生命体が異様な状況に閉じ込められたときに自然に出てくる拘禁反応のようなものだ。

今日も歯医者の診療台に横たわったとたん、ウミウシに変成したからだが、足先からもごもごと蠢きだしそこから逃げ出す道を探りはじめた。

「押し出されてくる出てくる動き」と土方は言った。

「踊りは押し出されて出てくる動きじゃなければだめだ」

押し出されて出てくる動きには、意識の関わらない生命体としてのどうしようもないクオリアがある。

それと比べると意識が思いついた動きや自我が自分を「表現」しようとする動きは、人間の社会規範に囚われていてなんとも薄っぺらい。

舞踏とはこの、三次元や四次元を当たり前の合意的現実とする日常界に異次元の、多元変容する生命界からいやおうなく押し出されて出てくる動きなのだ。

下意識のからだ、サブボディには「押し出されて出てくる動き」が、出てこれないまま無数のnot-meや解離された衝動として詰まっている。

日常界に安住する人は、そんな異世界が存在するなどと夢にも思っていないから舞踏を見ると驚く。そして、激しく反発し、否定する。打ち消してなかったことにしようとする。その野生的な生命の世界に蓋をして日常界に安穏と戻っていく。

だが、一度見てしまった舞踏は、それに共振した下意識のからだの中で踊り続ける。サブボディは伝染力が強いのだ。

そして、25年ほどからだの闇で無意識裡に踊り続けた後、ようやく意識が気づくところとなる。

……(あれ?もしかしたら、わたしが本当に生きたいのはこんな踊りを踊ることだったのかもしれない)……

わたしが踊り手として生きようと決心したのは、20歳のときに土方の「ギバサン」という暗黒舞踏公演を見てからちょうど四半世紀経った45歳のときだった。そのときわたしは25年前に見た土方の舞踏から受けた衝撃が、まるで大きな釣鐘にゴーンと頭をどつかれた響きが、25年間鳴り続けていたことを知ったのだ。

わたしも、わたしの踊りを見た人が25年ぐらい後に、舞踏家になろうとするような踊り手になりたい、とそのとき思った。

一度受けた強烈なクオリア共振は、この粗大な日常界とは別の異次元で、まったく当初の新鮮さを失わないで鳴り響き続けていることもそのとき思い知った。(これはいったいなんなのだ?)そのとき抱え込んだ疑問はいまだに懐き続けている。

その後、ひも理論を知ることによって、この宇宙が、わたしたちの知る4次元以外に、不可視の微細な7次元を含む11次元からできているという説を知って、ああ、あの衝撃はこの微細な異次元でなり続けていたのか、と納得することができた。


粗大界と微細界をつなぐ妙間次元

ウミウシになったまま、からだに起こっているさまざまなクオリアに聴き入った。まず、口の中で高速に回転し続けているモーター音が脳みそをかき乱し狂わせてくる。モーター音には自然界の音がもっているf分の一ゆらぎがないから生体に辛いのだ。コンピュータの中に仕込まれている風冷モーターの音もf分の一ゆらぎがないので、鎮まりたいときには大きな障害となる。これに反して、たとえば雨期の今は窓を開ければごうごうという川水の音が絶えず鳴り響いている。だが、水や風や生き物の出す音はすべてf分の一ゆらぎを持っているので生体として気にならない。それどころか心地よいのだ。

生命は、f分の一ゆらぎのクオリアを聴く力を持っている。絶えず聴き入りそれと共振しながら、生きているのだ。

台上のウミウシは相変わらず、口を開いたまま、足指だけがこっそりと歯科医の目を盗んでかすかにのたうちはじめている。自由を奪われた顔のぴくぴく、頬のもわもわと足指が共振している。

そのクオリアゆらぎに聴き入っていると飽きない。人間はどんな微細なクオリアゆらぎにも聴き入る力を持っている。

そうだ! ここが踊りの発生地点なのだ! 

――と不意に気づいて飛び上がりそうになった。

粗大界のフィジカルな動きと、微細界のクオリアの動きのかかわりの間で踊りは生まれる。

わたしは長い間、わたしたちがどうして、粗大な時間次元と粗大な空間次元に属しながら、なぜ、微細次元で生起しているクオリアをキャッチすることができるのかを考え続けてきた。

そして、その疑問を解決するためには、時間でも、空間でもない別の次元を通じて、生命体は粗大次元のフィジカルなからだの微細な変化と、微細界でのクオリアのゆらぎを結びつけているのではないかという仮設に到達した。

とりあえずこの媒介次元を<妙間次元>と呼ぶことにした。

踊りはまさにこの妙間次元で発生する。

フィジカルなからだの動きを最小限度まで微細にしていく。そして、その微細な動きとクオリアの微妙なかかわりに耳を澄ます。これが舞踏のアルファでありオメガでもある。つまり、そのすべてがこの粗大界の動きと微細界のクオリアの微妙なつながりから生まれるのだ。妙間とはまたわれながらよく名づけたと思う。微妙極まりない妙間を生きる。それが舞踏の創造だ。

微細でゆっくりした動きに徹しないと、この妙なる連関を聞き続けることはできない。舞踏の微細な動きには必然性がある。ダンスの粗雑な動きをすべてそぎ落とさなければ、この妙間次元に降りることができないのだ。

大きな動きには、日常体のからだが快感に襲われるという大きな落とし穴がある。よく動けば日常体のからだが気持ちよくなってしまう。すると、こんな微細な妙間次元のクオリアゆらぎなどに、聴き入ることができなくなる。取るに足りないつまらない世界に思えてしまうのだ。それほど日常体の快感は大きい。それに囚われていると微細ゆらぎなどマスキングされてしまうのだ。

舞踏は粗大な空間で踊るのではない。粗大な時間にも属さない。非空非時の妙間を踊るのだ。大昔から気づいていたことだが、ここまではっきりと断言することができなかった。

 

 

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