舞踏論   土方巽に捧げる
第3部 21世紀の「病める舞姫」


305章 からだの無用さを知った老人の縮まりと気配り

 

逃しがちだが、次の一文には、
『病める舞姫』のエッセンスが込められている。

からだの無用さを知った老人の縮まりや気配りが、私のまわりを彷徨していたからであろう。

私の少年も、何の気もなくて急に馬鹿みたいになり、ただ生きているだけみたいな異様な明るさを保っていた。

らだの無用さを知った老人とは、舞踏の原基である衰弱体そのものである。
『病める舞姫』では、土方は衰弱体という言葉を使っていないが、実質上ここで行った作業の本質は、衰弱体のありとあらゆる現れを取り出し、定着したことにある。70年代の旺盛な舞踏活動とこの『病める舞姫』における作業によって、後年土方は衰弱体こそが舞踏のメートル原器であると断言することができた。

「健康幻想というものがありますが、・・・そんな健康幻想の方向に一緒になって走るのではなく、自分の体を衰弱させて、衰弱した物差で健康というものの幻想をじっと測ってみようではないか――このような天邪鬼なメートル原器を作ろうとおもって私は頑張ったわけです。
これは日本の古典伝統にある<翁>などのように脱水した、枯れとかわびとか言われる一種の身体を名指して言っているのではありません。
そうではなくて、猛烈な衰弱体とでも言うべきものが私の舞踏には必要だったんです。」
(講演『舞踏行脚』 1984年)


健康なからだは社会で有用とされ、労働や消費に脳心身が取られてしまっている。それに必要な粗雑なものしか見えない。
そのからだごと幻想を脱ぎ捨てなければ、繊細な命のふるえには気づくことができない。
これは1968年の『肉体の叛乱』を最後とした前期暗黒舞踏の限界を思い知った土方の転換をうながした覚醒であった。
ダイナミックな踊りや人目を驚かす実験だけではもうどうにも届かない、そんな思いにふけっていた土方の夢枕に死んだ姉さんが現れてささやいた。

「私はわたしの身体の中に一人の姉を住まわしているんです。……そしてこう言うんですね。「お前が踊りだの表現だの無我夢中になってやっているけれど、表現できるものは、何か表現しないことによってあらわれてくるんじゃないのかい。」といってそっと消えて行く。だから死者は私の舞踏教師なんですね。」
(講演『風だるま』 1985)


健康な人間という幻想に囚われているかぎり、人は自己を表現しようと無我夢中になる。だが、それでは命に届かない。私にも届かないよ、と告げられたのだ。『肉体の叛乱』以前のダイナミックかつアグレッシブな舞踏を封印し、70年代の衰弱体舞踏への大転換をもたらしたのは死んだ姉との生命共振の力である。
命から命へ伝わる舞踏とは何か。
もう一度、冒頭の文をからだで読み返してみよう。


「そうらみろや、息がなくても虫は生きているよ。あれをみろ、そげた腰のけむり虫がこっちに歩いてくる。あれはきっと何かの生まれ変わりの途中の虫であろうな」。言いきかされたような観察にお裾分けされてゆくような体のくもらし方で、私は育てられてきた。
からだの無用さを知った老人の縮まりや気配りが、私のまわりを彷徨していたからであろう。
私の少年も、何の気もなくて急に馬鹿みたいになり、ただ生きているだけみたいな異様な明るさを保っていた。

猛烈な衰弱体という、土方がつかんだメートル原器とは、
まずこのからだの無用さを知った老人であり、その縮まりと気配りに疑いもなく共振して、ただ生きているだけみたいな少年土方である。
老人の縮まりと気配りとは何か?
それは単に物理的なからだの伸縮ではない。
ここで起こっているのは、さまざまな背後世界と共振し、見えない世界に触手を伸ばして微細に伸縮する生命クオリアを生きる老人と、少年土方の生命共振による混融である。
ここに『病める舞姫』の主要登場人物である、病める舞姫としての老人、それと共振混融する少年土方、そして、見えない背後世界という三者がすべて顔を揃えている。
『病める舞姫』とは、この三者の多次元共振による無限変容が主な内容である。
『病める舞姫』ではこのあと、この衰弱体の老人がさまざまな<病める舞姫>に変容し、それと共振する<土方少年のからだ>も背後世界にまきこまれて千変万化していく。
もうひとつの重要な主人公である<見えない世界>がさまざまな形でそこに作用する。
この三者の共振変容が『病める舞姫』全編に展開されていく。
だが、ここではまず、その基礎をみっちりからだで体験することが大事だ。
今日の一文を舞踏譜として、全脳心身でなりこんでみよう。
それが衰弱体というメートル原器をからだに当てることだ。

からだで読む

 
 生命は40億年前海底の熱水噴出孔まわりの高温域で生まれ、
当初の数億年間をその環境下で過ごした。




生命遡行瞑想

からだの無用さを知った老人の縮まりと気配りとは何かをからだで知るには、まず、老人のたたずまいに共振して「私の少年」がそうなったように、「ただ生きているだけみたいな」生命になることが必要だ。
生命遡行瞑想を通じて、40億年前に誕生したばかりの、もっともひ弱な原初の生命になりこんでみよう。
まだ自分が何かも知らない。
ましてからだの有用性などなにひとつ知らない。
ただ生きている原初の細胞生命になる。
くわしいやり方は、実技ガイドの「生命遡行瞑想」を参照いただきたい。
簡単に述べると、

ゆらぎ瞑想
心地よい場所を見つけて、生命の呼吸、ゆらぎ瞑想などで
心身を鎮める。

原初生命瞑想

40億年前に誕生したばかりの原初生命細胞になりこむ。
海底の熱水噴出孔(上図)のまわりで生命は生まれ、数億年間をその環境で過ごした。
生命は熱水噴出孔から程よい距離をとった高温域で生長した。
いわばその環境が生命のふるさとである。
細胞生命が持つ原初的なクオリアのすべてはその環境下で身につけたものだ。
3.原初生命エッジを味合う
すこしその場所から離れると冷たい死の世界だ。
熱水に近づきすぎても死が待っている。
細胞はおそらく細胞からの排出物によってできた薄いフィルムに守られたコロニーの中でのみ生存することができた。
生き続けることができた。
すべての細胞には、<冷たさ>に対する鋭敏な内クオリアが原初の生命記憶として植え付けられている。
すこしでも温度の異変があれば収縮して身を危険から守るというもっとも原初的な反応だ。
心地よい温度から離れることに対するもっとも根源的なエッジ・クオリアをすべての細胞が持っている。
熱水噴出孔に近づきすぎると、死が待っている。
まわりはまだどう共振して良いか知らない死んだ事物ばかりだ。
だが、つねに原初生命はそれらのものに取りかこまれていた。
なにか見知らぬものがからだに触れると、まず縮まる。
そして恐る恐るいかに共振出来るかをさぐる。
まわりの海流によって動かされることもある。
生命にはそれらのありとあらゆる危険に対する記憶が内クオリアとして刻み込まれていった。
やがて何億年もその経験を繰り返す中で、生命はほんの少しでも温度が上昇したり、低下したりするかすかな兆候に対しても、いかなる変化速度が危険であり、安全圏であるかを学習していった。
それが細胞生命が得た原初の<気配り>である。
生命記憶の積み重ねによる学習によって予測能力を<気配り>として身に着けていった。
それらの内クオリアを総合したものが生命の叡智と呼ばれるものである。
<温冷クオリア>とともに、<上昇下降クオリア>も原初細胞にとって重要な生存クオリアである。
たまたまコロニーから離れた細胞は、熱水孔から吹き上げる上昇水流に巻き込まれて浮揚していくこともあったろう。
暖かい水流に浮かぶのは心地が良い。
だが、どこへ連れて行かれるかもわからない。
<浮揚するクオリア>が現在でもいまだに不安と心地よさの両方を持っているのはそのためだ。
そして、運悪く上昇水流から離れて、冷たい水域へ沈んでいくときは、まさしく死の危険へまっしぐらに落ちていく。
<落下するクオリア>が恐怖クオリアと結びついているのはそのためだ。
<温冷>、<上昇下降>クオリアととともに、もうひとつ、
<群れから離れるクオリア>もまた原初生命時代から蓄積されてきた重要な生死エッジクオリアである。
コロニー近くで群れていれば、生存に適度な環境であり、安全である。だが、たまたま群れから離れて流されると、死の危険と隣り合わせである。もちろん、未知のものとこれまでにない新しい共振の仕方を創発するチャンスでもある。
新しい共振パターンのうちいくらかはこういう群れから離れた特異個体によって創発されたのかもしれない。
40億年の歴史の中で、生命は群れに対する両義的なクオリアを身につけていった。
<自我のクオリア>はおそらくこの群れと個をめぐるクオリアに関わる起源を持つであろう。それはまた別に機会に探求することとしよう。

操体呼吸による伸縮でからだをほぐす

準備:操体呼吸をしながらからだを伸縮する。
息を吐きながらからだの一部を伸ばす。腕でも足でも体側でもどこからはじめてもよい。
最大にストレッチしたところで息を吸い、その部位に空気を送る。
しばらくそのまま待つ。そして一気に脱力する。
この脱力呼吸をしながらストレッチとシュリンクをまんべんなく全身各部で行なう。

伸縮しながら秘膜に耳を澄ます

任意の形でゆっくり縮んでいく。
そして、任意の形にゆっくり伸び広がっていく。
体全体ででも体の一部伸縮でもよい。
そして大事なのはダンスのように単に物理的に伸縮するのではない。
からだのまわりの見えない秘膜が背後世界と共振して、さまざまなクオリアを発するのに耳を澄まし続ける。
この無用老人教師の気配りとは、見えざる背後世界の声を聞き続けることだ。
畏怖する心で細心の注意を払って耳を澄まし続ける。
どこで踊るときでも、この絶えず異界に耳を澄まし続けることを常習とすること。
それが舞踏家としての日々の訓練だ。
これから先も同じ調子で少しずつ『病める舞姫』の一行一行をからだで読み深める。
判断や分析は有害無益だ。
分からなくても分からないなりに、分からないものになりこむ。
夢をみるときと同じ態度を保つ。
分からないということがとても重要なのだ。
何が何だか分からないものになるのが、「からだのくもらしかた」の第一の要諦である。


縮まりと気配り瞑動

瞑想状態でからだを動かすことを瞑動と呼ぶ。
サブボディモードで探体するのは、この瞑動である。
生命遡行瞑想から続けて、原初生命になりこみながら、まわりの変化や迫り来る危険に反応する縮まりと気配りを体験する。
実技ガイドの生命遡行瞑想には、多人数でこれを行なえる場合、ひとりのサブボディに対し、他の人がまわりからいろいろな刺激を与える方法を書いている。
ひとりで行う場合は、まわりの世界の変化を想像して、それにどういう生命反応が出てくるかに耳を澄ます。
ゆっくりとおそるおそる動きながら、異変を察知すると生命は必ず収縮する。そしてしばらく様子を見てまたゆっくりと伸縮を繰り返す。縮まりが連続して起こる場合はふるえになる。
いろいろなサイズ、リズムでふるえ、ゆらぎ、ちじまり、伸びていく。
じょじょに原初生命からさまざまな種の生きものになりながら、だんだん、速度やサイズ、強度を多様に変えていく。
からだ全体の反応が出てくることもあれば、からだの一部分、あるいはごく微細な細部での反応、頭で思うだけの反応など、じょじょに多次元化していく。
20分間この探体を続けた後、一度休憩し、探体でであったもっとも面白い動きをたどりなおしてみる。それが今日のサブボディの収穫だ。からだにそれを書き込み、これを毎日貯めていく。

クオリアの雲をまとう

その毎日貯め込んでいく自分固有のクオリアを、実際にからだの各部や、からだのまわりの秘膜層の空間に、配置する。
303章で書いた「からだのくもらしかた」第二ステージだ。

斜め前には死んだ婆さんのクオリアの雲をまとう。
背後には、爺さんのクオリアの雲を背負う。
額からは見えない触覚を伸ばし、空気中の不可視の精霊と戯れる。
指の間にはまさぐった母親や愛人の肌のクオリア、粘膜のクオリアが漂っている。
足の裏には、これまで歩いた道や登った山、まさぐった海岸の砂のクオリアが棲みつく。
脊髄には一匹の小さな蛇を棲みつかせる。
・・・・・・
このようにして、無数のクオリアの雲を幾重にもまとうからだに生成変化していく。
それが舞踏者が「からだをくもらす」毎日の日課だ。


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