舞踏論   土方巽に捧げる
第3部 21世紀の「病める舞姫」


304章 そげた腰のけむり虫

 

これからじっくりと『病める舞姫』の一行一行を
からだで読み進んでいこう。
何だか分からないものになるのが大事であると前章で書いた。
ただ、第一節冒頭は、土方がことのほか言葉をひねってある。
独特のことばで煙に巻くことで、未来の読者を
遠く深い未知の異次元へ招きこもうとしている。
すこしだけ、そのひねりを巻き戻しておこう。
まずは、冒頭の息をしなくても生きている、
そげた腰のけむり虫だ。
ここには『病める舞姫』の最重要事が
幾層にも塗り込められている。
文の冒頭に最深の秘密を凝縮して埋め込むのが、
土方の文の序破急の特徴であることを
わたしたちは「静かな家」から学んだ。


そうらみろや、息がなくても虫は生きているよ。

●からだで読む


呼吸せずに生きている虫になる。
彼らは、動物や人間のように肺呼吸をしない。
生命は40億年の生命史の中で
種に応じて無数の呼吸法を獲得した。
人間がそれを知らないだけだ。
まずは、その人間の思い込みを脱ぐ。
魚はエラで呼吸し、虫は気管で呼吸する。
そこから体液を通じてからだじゅうの細胞に酸素が送られ
細胞は内呼吸と呼ばれる細胞呼吸をしている。

細胞呼吸

わたしたち人間のからだを構成する100兆個の細胞も
赤血球が運ぶ酸素を受け取り、細胞呼吸を行なっている。
肺で行なう外呼吸に対し、内呼吸と呼ばれる。
これが生命にとっての普遍的な呼吸である。
古細菌の仲間には、酸素呼吸をしないものもあるが、
ここでは措く。

生命の呼吸

からだの各部の細胞が酸素を受け取ると、すこしだけ
元気になる。そして、すこしふくらんだり動いたりする。
ほんのわずかな変化だが、人間のからだを構成する
100兆個の細胞がすこしずつふくらむと、総体として
全身がすこし前後左右上下に広がり伸びる。
ゆっくりと十秒間から一分間くらいかけて
全身がふくらみ、また縮んでいく。
それを「生命の呼吸」と呼ぶ。
クレニオ・セイクラル技法を通じて
この「生命の呼吸」が発見された。
毎朝の調体の最初にこの「生命の呼吸」を味わう。
ゆっくりとからだ全体がほんの少し広がっていくのを感じる。
人間を脱ぎ命になるための最良の呼吸法だ。

胎児の呼吸

胎児の呼吸はこの生命の呼吸である。
だれもが子宮の胎水の中で十ヶ月間、
この生命の呼吸を行なっていた。
意識的な記憶はなくても、下意識のからだはこの胎児期の
生命の呼吸を覚えている。
下意識のからだであるサブボディは、
この生命の呼吸のリズムでゆっくり広がり、縮み、
命のふるさとで心地よく安らぐことができる。
日常の速度やプレッシャーに苛ついたり傷ついたりしている
脳心身を癒すのにもっとも適した呼吸法のひとつである。

虫の息

日本語で虫の息というと、瀕死のひとの
あるかないかのかすかになっていく呼吸を指す。
誕生前の生命の呼吸に近づき、そしてやがて
外呼吸も内呼吸も止まって死に至る。
生死の境を踊る舞踏では、
虫や石や瀕死の衰弱体に成り込むときはこの虫の息を使う。
能にも、からだの底の肛門のまわりの体底筋だけを使う
呼吸法がある。
サブボディ技法ではそれをボトム呼吸の第三段階に位置づけている。
いつかそれに触れるときがくるだろうが、
いまはかすかな虫の息だけでいい。
虫の息、あるいは生命の呼吸を毎朝続けて、
生命のかすかな息吹に耳を澄まし続けてください。
この生命の呼吸は、
後に「胎児のドリーミング」、「胚児のドリーミング」、
「生命遡行瞑想」、「人生遡行瞑想」などの
調体・探体法につながっていく大事なものだ。


「あれをみろ、そげた腰のけむり虫がこっちに歩いてくる。
あれはきっと何かの生まれ変わりの途中の虫であろうな」
言いきかされたような観察にお裾分けされてゆくようなからだのくもらし方で、私は育てられてきた。


●からだで読む

 
 けむり虫とその転生

そげた腰のけむり虫になりこむ。
誰もが知っている蚊柱だ。
妖精のような細い腰を持った
空中で舞うユスリカの群れになる。
絶えず姿と場所を変える気化したからだになりこむ。

老人はそれを
「あれはきっと何かの生まれ変わりの途中の虫であろうな」
と鋭く観察する。
少年土方にならって、それをおすそわけしてもらう。
生死を超えてさまざまな生き物や死物に転生変容していく
生命の謎にからだごと踊り込む。

「輪廻転生など信じない」というような
賢しらな分別知が出てきたら、直ちにそれを鎮める。
それは現代の物質科学に囚われた狭く貧しい知性なのだ。
そんなものをかなぐり捨てる。
何百万年もかけて研ぎ澄まされてきた
アニミズム的な生命の叡智は、
生命共振を忘れた現代科学などより、
よほど精密な観察眼を持っていた。

けむり虫の正体であるユスリカは、
アカムシと呼ばれる長い幼虫時代を
人家の近くを流れるドブ川で過ごす。
そこには風呂場から流れこむ人間の細胞の死骸や、
台所から人間の食い物の残飯などが集積する。
それらはまず、細菌によって分解消化され、
それを喰った原生動物がアカムシの餌になる。
運悪く魚に見つかったアカムシは
ただちに魚の細胞に転生する。
人の死んだ細胞がその循環を通じて新しい生命に転生する。
成体となったなったユスリカは、
空中に集い、性の饗宴をひらく。
まずオスのユスリカが集い、蚊柱のなかで激しく舞い踊る。
その羽音を聞きつけてメスが蚊柱に飛び込む。
めくるめくすばやい螺旋の飛翔の中で、
奇跡のように空中で首尾よく交尾したカップルは
つながったまま群れを離れ、水辺に急ぎ産卵して、死ぬ。
蚊柱はまさに生と性と死の祭典なのだ。
かれらけむり虫が人家のそばで棲息し、
人間の死せる細胞を転生させるいきものである点を
老人の観察は鋭く捉えている。
まさしく「何かの生まれ変わりの途中の虫」なのだ。
命はこうした転生変容を40億年間日々続けてきた。
わたしたちもまた、その命の変容流動を踊ろうではないか。
「静かな家」において、土方が最重要事として特記した
「無限変容する<死者>となる」
とは、こういうことなのだ。


注意していただきたいが、わたしはここで何らかの
宗教的な輪廻転生の教義を語っているのではない。
前近代の宗教的な知も、現代の似非科学的な知も
どちらにも囚われぬ透明な生命の姿を、
この老人のアニミズム的な元型的まなざしが
捉え得ていたことを述べている。
わたしたちは、あらゆる時代の知の限界を超えて
新しい生命に対する透明な知を築き上げる必要がある。
私たちは今持てる生命と死についての浅い知識にくらべ、
何百万倍も深い未知の闇を前にしているのだ。
それをからだで探求することが、土方も志向した
「生命の呼称で呼ばれうる舞踏」
を生きることである。



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