舞踏論   土方巽に捧げる
第三部 21世紀の「病める舞姫」


第303章
 からだのくもらし方

 

「からだのくもらし方」とは、舞踏の基礎の基礎になるいのちの技法だ。
では、そのからだのくもらし方をいかに身につけることができるか。

土方は、『病める舞姫』を単行本として出版する際に次の文の最初のニ行を、雑誌連載時の記事に書き加えた。
全文を書き終えて全貌が明らかになった後、
じつに的確な『病める舞姫』の世界への最初の関門を周到に設けたのだ。 

[そげた腰のけむり虫]

「そうらみろや、息がなくても虫は生きているよ。あれをみろ、そげた腰のけむり虫がこっちに歩いてくる。あれはきっと何かの生まれ変わりの途中の虫であろうな」。言いきかされたような観察にお裾分けされてゆくようなからだのくもらし方で、私は育てられてきた。からだの無用さを知った老人の縮まりや気配りが、私のまわりを彷徨していたからであろう。」 

これが関門だ。
誰かがいう。
ほら見ろ。息がなくても虫は生きている。

そげた腰のけむり虫とは、ユスリカなどが立てる煙のような蚊柱を指す。
人や動物の体温で温まった微細な上昇気流を察知しては集まってきて空中で見事な交尾の群舞を見せる。

それを「なにかの生まれ変わりの途中の虫であろうな」と土地の老人がいう。

少年土方はそう言い聞かされ、何の疑いもなくそういう土俗の観察法をお裾分けしてもらいながら育った。

それが土方が身につけたもっとも大事なもの、「からだのくもらし方」だった。
土方はここで惜しみなくその極意を読者に開いている。
遠慮は無用だ。
私たちもまた、それをお裾分けしてもらえばよい。

それに対して、内心で、「私は生まれ変わりなど信じない」というような違和感や批評意識が立ち上がってきたら、直ちにそれを鎮める。
それは現代世界で教育された自我の反応だ。
「私は」というとき自我が立ち上がっている。

自我は物質科学的な二元論に囚われた、狭い現代的な知に過ぎない。
40億年の歴史を持つ命はそんなものとはお構いなくあらゆるものと共振している。
その生命共振が起こっているからだの闇に、もっと深く耳を澄ます。
そういう日常世界の二元論的な判断や思考が眠り込むまで
からだに耳を澄まし続ける。

アニミズム的な、あらゆるものが変容流動する見方は、人類に普遍的な<元型>として無意識の世界深くに潜んでいる。きみも夢の世界でその豊かな共振世界に毎夜触れている。

起きているときは、それはごくごくかすかなもの、あるかないか分からない微細なものとしてしか感じ取れないが、それを妨げている強大な意識を止めさえすれば誰もがそれを感じ、共振することができる。

現代人にあっては意識がそれを遮断し、解離しているだけだ。

そこでは、人間だけではなく、息のない虫も含めたあらゆる生きとし生けるものが、そして、命のない死者や事物が、見えない「背後の世界」とひとしく共振している。

私たちのからだの闇深くひそむ無意識世界でも同じことが起こっている。

そして、その世界を縦横に旅することができたことが、土方があの比類の無い創造力と無限の変容力を身につけた秘訣なのだ。
土方はここでそれを未来の読者とシェアできるように
第一章冒頭にこの関門を置いた。

ただひとつの、土方と私たち現代人の違いは、土方が注意深くその祖型的な生命共振の感じ方、「からだのくもらし方」を保ち続けたのに対して、現代人は、それを「無意識」として解離してしまっているところにある。

その無意識世界の解離をゆるめ、それをからだで感じ取ることができるような「からだのくもらし方」を共有すること、それがもっとも肝心なことなのだ。

これが、最初に述べたように、この世界に入るには、調体によって意識を鎮め、日常思考を止めなければならない理由だ。

『病める舞姫』をからだで読むとは、この「からだのくもらし方」によって読み、くもらしたからだの動きと変容を身につけることである。

からだをくもらし、からだの闇の不分明な闇で起こることをすべてを起こるがままに受け入れ、感じ、増幅すること。
からだが動き始めたらそれについていくこと。

エッジ

こういう未知の世界に触れるとき、多くの現代人は居心地がが悪くなるだろう。
からだで飛び込もうとすればするほど、いやな感じに付きまとわれるかもしれない。
たとえ、とてもいやな感じや忘れていたトラウマなどがぶり返したとしても、
受け入れ、生命共振現象として肯定すること。

それらに出会ったとき誰のからだにも起こるいやな不快な感じを<エッジ>と呼ぶ。
私たちの日常的な意識や自我が解離している下意識界での生命共振現象と出会ったときに発生するものだ。

<エッジ>にぶつかったら、それを否定する自我がもっと鎮まるまで調体を続けてください。
その自我が覚醒したままでは、土方がもっとも伝えたがっている「からだのくもらし方」をおすそわけしてもらうことができない。
否定ではなく、あらゆる不思議な出来事や変容を不分明なまま、疑いもなく受け入れ分かち合うことが、古代から続いているアニミズム世界の住人の原理であり、私たちの下意識・無意識世界の原理だ。
別の言葉で言えば、生命共振という原理によって動いている世界なのだ。

この第一関門をくぐりぬけることのできるくもった脳心身状態になるために、毎朝、ゆらぎ調体やふるえ調体によって、日常的な心身を限りなく鎮めてください。

それがからだに染み付いてきたころ、次の節に進むことにしよう。

 「からだのくもらしかた」の第二のステージ

 共振塾で「病める舞姫」を共同研究するようになって、10年が過ぎた。
そして、当初理解していたここに書いたような解釈だけでは、一面的にすぎることに気づくようになった。

「からだをくもらす」とは、実際にからだのまわりの見えない秘膜の各層に、実際にクオリアの雲をまとって生きることなのだ。
舞踏を何十年も続けていると、からだの各部の踊り場や、からだの周りの空間に、無数のクオリアが棲みつくようになる。そして、踊るときはそれらのクオリアの雲とからだが自然に共振する。
それは振りつけた踊りであれ、即興で踊るときであれ、変わりはない。
からだの周りにまとったクオリアの雲と踊る。

「からだの無用を知った老人の縮まりと気配り」とは、このからだの周りの見えないクオリアの雲f、を呼吸するように広げては縮まることを細心の繊細さで行うことだ。

だが、その雲は本人にしか分からないものだから、観客にとっては、踊り手が何をしているのか、分からない。
その分からなさが、観客にとっては、不可思議で奇妙なものに見える。ただただ陰気な空気が漂っているようにしか、感じられないかもしれない。何人かはその気色悪さに耐えかねて、席を立つだろう。かまわない。何人かは、その気色悪さの正体が何であるのか確かめたくて席に残るだろう。
そして、踊りが進むに連れて、もし踊り手が十分な序破急や、ためなどの力量を持っていれば、その分からなさを破って、じょじょに生命共振が始まる。
共振によって、踊り手と観客の間の二元的な境界が消え、ひとつになる。
踊り手がいのちのクオリアの雲、目に見えない奇妙なものに耳を澄まし、共振していることが、見ている人にも、見ている人自身のからだの闇の、普段は気にも留めていないかすかなクオリアとの共振が起こるようになる。
その生命共振の軌跡を引き起こすことのできる踊り手になるために、わたしたちは日々精進しつづける。
24時間を通じて、からだの闇のかすかなかすかなクオリアに耳を傾け、その共振をからだで透明に踊れるようになるための精進だ。
「病める舞姫」を探求するとは、そのいのちの微細な共振に耳を澄ます多数多様な方法を学び、鍛錬することだ。
これについては、おいおい明らかになっていくだろう。


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