舞踏論   土方巽に捧げる

第25章 
探体技法 <鮮・深・必> 

からだの闇の掘り進め方がある。
その探体技法が<鮮深必>だ。

 まず探体の第一段階は<鮮>のクオリアを見つける。

意識を鎮めて、秘関、秘筋、秘腔、秘膜などを開きつつ、からだをいろいろな方法で変化させて、命が新鮮だと感じられるサブシグナルを見つける。
ふと、珍しい、面白い、目新しいと感じるクオリアだ。
それを見つけたら、そのからだの感じに従い、付いていく。
からだ全体で乗り込み、極限まで増幅する。
それで第一段階のサブボディが見つかる。
この段階ではあらゆる方面に広げるといい。

第二段階は<深>の探体だ。

<深>とは、なぜか分からないが自分の深部に引っかかってくる動きだ。
からだの闇のクオリアはすべて時を超えて多次元的に共振しあっている。
その生命共振のネットワークが布置だ。
その中で、引っかかりを感じた動きは、布置のなかのいずれかの問題につながっている。
遠い昔にからだの闇に沈んだままのユングの言う「影」(=劣等人格、副人格)や、サリバンのいう「ノット・ミー」などの表向きの自分から切り離された、解離された人格やくぐもりのいずれかと共振している。
もっと昔、乳児期や胎児期の生命傾向、さらに細胞生命に刻み込まれた原初生命記憶などと共振しているクオリアもみつかる。
それらの深部の生命共振のネットワークと響きあうクオリアを見つければそれに従い、増幅し、サブボディの動きに育て上げる。
それらは、原生体、異貌体などの重要なサブボディとなる。
これまではただ全般的にからだの闇に耳を澄まし、新鮮なクオリアを見つける練習だったのに対し、一気に深みに入ることになる。
そこではさまざまなエッジと出くわして当惑したり、思わぬ苦痛に出会うことになるので、共振タッチから指圧に進んで、からだの布置の変動からくる戸惑いを自分で癒し鎮めつつゆっくり進むことになる。
急いでは無理がたたってどこかで立ち往生してしまう生徒が続出するからだ。

その進展具合に注意深く耳を澄ませつつ、大多数の生徒がその次の段階に進む準備ができていると確信できたとき、第3段階の<必>の探体に入る。

これまでに見つかっている<鮮>や<深>のサブボディを統合し、さらに自分の命にとって本当に必要な踊り、生きるために必須の舞踏を見つける。
それは自分が囚われている諸問題に直面し、それに取り組み自分がこれまで囚われてきた見えない力と対決し、そこから自分を解放する闘いの段階である。
それができると、からだの闇の見えない囚われを再編するような命にとっての創造となる。
すべての創造は常に命がこうむってきた圧力や制約によって生じたよじれを、よじり返す命の<よじり返し>である。
最初から難しい囚われに取り組む必要はない。
からだの闇には無数の囚われやくぐもりが存在しているので、そのなかからまず今の自分に取り組めるかぎりの問題に直面し、それをよじり返し、再編する。
再編するたびに、それまで手がつけようがない思われてきた問題もじょじょにほぐれてくる。
もしどうしても身動き取れないエッジにぶつかったときは、共同のエッジワークでみんなで助け合う。

サブボディを生きるとはこのプロセスを無限に繰り返し、らせん状に深めていくことである。
サブボディ舞踏とは命にとっての必須の踊りを求め続けることなのだ。

問題はあくまでテンポの適正さである。
サブボディを産婆するひとは、自分を捨てて生徒のサブボディ・コーボディにもぐりこみ、そのかすかな産声に耳を澄まし続けなければならない。
早すぎた無理な要求は生徒をつぶしてしまうことになる。
遅すぎると誕生の最適の機会を逃してしまう。
サブボディの産婆になるとは、一生自分を捨て去っていく修行である。
これほど困難なことはないが、またこれほど生きる値打ちのある生き方もまたとない。


1 鮮

からだの闇を探りながら、これまでに味わったことのない新鮮なクオリアに触れたら、迷わずそれについていく。どんなものでもいい。
これまで閉じ込められていた日常体のくびきを破るものならなんでもいい。
善悪、良否の判断をしない。
今までそれに囚われてとんでもない目にあってきたのだから。
あるかないかのかすかなシグナルに、からだごと乗り込んで増幅していく。
極限まで増幅して、そのクオリアが導く世界を探索する。
出てくる新鮮な動きをとことん味い、自分のからだを拡充し、解放していく。

2 深

鮮のなかで見つかったサブボディの体感や動きのクオリアと、
からだの闇に眠っている内クオリアとの結びつきを探る。
なんだか分からないが、この動きはからだの深いところとつながっていそうな気がする
というものにぶつかったら、とことんそれを探求する。
自分にしかない、かすかなひっかかりのようなクオリアだ。
思い出せない夢や、潜在記憶、命の固有のこだわり、
それらは無意識領域にあるため、意識では取り出せない。
ただからだごとサブボディに乗り込んで味わっているうち、
それらの潜在クオリアが共振してうごめきだす。
とりわけ、秘関や、秘腔、秘筋など、下意識の管轄化にある部位を
さまざまに動かしているうちに、そこに長年封印されていた内クオリアが動き出す。
それは世界のどこにもない自分固有の命のふるえだ。
意識、下意識の区分を超えて、自分の全体がひとつになっていく。
それに従い、増幅していくと、かけがえのないたったひとつの動きが出てくる。
それを命の絶対的創出にまで磨き上げていく。
<鮮深必>の深は、ただ深いというだけでは足りない。
本当は神と書きたいところなのだ。
神というと宗教がかるので使えないが、なにか訳の分からない神秘的なものが絡みついている。
ただ、くすんでいるような陰気な雰囲気や、謎めいた秘密が潜んでいる感じが欠かせない。
生命共振には、憑依や共時性など、理性では説明の付かない不思議さや不気味さが含まれている。
全部言葉で説明できるようなものだけなら、からだで踊る必要などないのだ。
この問題はさらに深められねばならない。


3 必

人間を超えて、命に至るのっぴきならない道を見つけるのが必だ。
生きるためになくてはならない踊りを見つける。
朝にそれを見つけたら、夕べに死すとも可なり、というような必須の創造だ。
なかなかそんなものが簡単に見つかるわけはない。
だが、生きるために必要なのっぴきならない創造とは何なのかを探り続けることが、生きることなのだ。
日々刻々命に聴き続ける。
何が一番したいのかい?
どんな世界を創りたいのかい?
これは自他の分け隔てを超えた命の世界へ至る道なのだ。




<必>の三要素

自分の命にとって本当に必要な踊り、生きるために必須の舞踏を見つけるのが、<必>の探体だ。
それは自分が囚われている諸問題に直面し、それに取り組み、自分がこれまで囚われてきた見えない力と対決し、そこから自分を解放する闘いの段階である。
それができると、からだの闇の見えない囚われを再編するような命にとっての創造となる。

すべての創造は常に命がこうむってきた圧力や制約によって生じたよじれを、よじり返す命の<よじり返し>である。


と、実技ガイドの<鮮深必1>で書いた。
これをもう少し詳しく述べよう。
よじれやよじれ返しを圧力や制約として捉えている限り、よじれがすべての創造の父であり、よじれ返しが創造のすべての母であるとはいい切れない。
だが、それらを生命が受け入れざるを得ない宿命のようのものと拡張して捉えれば、命にとっての<必然的な創造>に至るには、次の三つの契機がある。

1 よじれ


ひとつは、ここで述べているように、命がこうむってきた無数の圧力や制約条件と、それによって生じたよじれをじっかりと捉えることである。
すべてのサブボディは社会や世界からの何らかの力によって、日のあたる場所で生きることを許されず、からだの闇の奥底に追い込まれてきた命の傾性である。
サブボディの被ったよじれをできるだけ微細に、忠実に捉えることから始める。

2 よじれ返し


よじれの動きをどこまでも追求していくと、やがて命からのよじれ返しの動きが出てくる。
わかりやすく言えば、腕をねじられれば、命は反対方向に動いてそれから逃れようとする。
単に物理的な圧力だけではなく、自分のクオリアに生じたバイアスのようなものを感じる。
すると、よじれやバイアスや自分の制約に対してそれを打ち破る動きがでてくる。
そのよじれ返しがでてくる必然的なタイミングを捉えることだ。
どんな動きにもたったひとつの必然的なタイミングがある。
その瞬間を捉えればどんな見苦しい動きでも美に転化する。
それが序破急マジックだ。

3 非二元一如


よじれとよじれ返しをとことんやっていくと、
やがて、よじれもよじれ返しも何でもござれ、という境地になる。
自他や内外に囚われた二元的なツリーの世界では、よじれまたはよじれ返しとなるが、命の棲む非二元の世界には本当はそんな区別などないことがわかってくる。
どんなよじれでもよじれ返しでもやってこい、すべて踊ってやるというリゾームに転化する。
非二元一如の命に転生する。
それがどんな踊りになるかは各人の発明に属することだ。
ともあれ、鮮深必の<必>の踊り、<生命にとっての必然的な創造>にいたるには、上の三つの契機をたどることが必然だと思われる。
それによって命と世界との関係の全貌がはじめて顕わになるからだ。


お互いが互いのサブボディの産婆になるには、自分を捨て去り、どんなサブボディがどんなタイミングで出てこようとしているかに耳を澄まし続けることが必要だ。
それは困難に満ち、おびただしいサブボディの堕胎や流産を経験することになる。
産婆はその非を自分以外の誰にもかぶせることはできない。
サブボディ自体は胎児であり、その宿主である各人も自分のからだの闇にサブボディがいるることなど知らないからだ。
すべての責を引き受けなければならないのが産婆の宿命だ。
堕胎や流産に出会うことほど悲しいことはないが、またあらゆる苦難を乗り越えて、サブボディの誕生を迎えること程おおきな喜びもない。
それはその宿主が栄えある創造者に脱皮する瞬間だからだ。
産婆は天国と地獄の間をひっきりなしに行き来する稼業だ。

 


←BACK(第23章) ■ NEXT→(第25章)