舞踏論   土方巽に捧げる

第24章 気化する


<気化する>は、土方舞踏の根本技法のひとつである。
三次元の物質世界で踊られる凡庸なダンスと、
生命の多次元世界を縦横無尽に往還する舞踏とを分かつものだといっていいほどだ。

気化は「静かな家」の舞踏譜において、もっとも根本的な技法のひとつとして据えられている。
夏の嵐の「少女」を見ていると、はじめから終わりまで気化し、物質化し、また別の仕方で気化するという
Xによる還元と再生を重層的に繰り返しているといっていいほどだ。
土方は講演するときや、ワークショップでは<衰弱体>について語り続けた。
気化については一般人にはひとこともしゃべっていない。
一般的な言葉としてはたしかに衰弱体が適切である。
いきなり気化するなどと沈理の言葉を使われても、日常的な意識には受け入れることができない。
だが、彼自身の踊りは、一般向けの衰弱体よりもはるかに先の、
<気化体>を行っていたのだ。
考えれば当たり前のことだ。
舞踏家が書いたり、人にしゃべったりすることは、
すでに自分の中で当たり前になった安定した事柄についてである。
だが、からだはいつも自分にとって出来るかできないかのぎりぎりの
闇に身を投げて不可能な技法に挑戦しつづけている。
それが舞踏家だ。
衰弱体はまだ可視的な存在である。だが、気化体は不可視である。
命やクオリアが不可視なように、命の舞踏を求めれば不可視の存在になること抜きにありえない。
意識にはそんなことはもとより不可能なこととしてはじめから考えることができない。
私がいままでそれを見ぬくことができなかったのも、
自分の自我や自己に囚われていたからだ。
だが、それにかかずらわっている時間はもうない。
原生体や異貌体の追求は、もうここらでいいだろう。
命へ、不可視の命へ、なりこんでいくことに集中するべきときだ。
<気化>はそのための根本技法なのだ。
それはわたしが長年追求し続けてきた透明体へつながるものだ。
あるいは気化体は透明体そのものなのかもしれない。
土方の舞踏譜で、<気化する>という言葉が頻出することは前から気づいていたが、
それが土方の最後の踊りのもっとも本質的な試みであることに気づかなかった。
不覚だが意識はいつもこんなぼんくらなものだ。今更驚くことじゃない。
さて、本題に入っていこう。
「「静かな家」ソロ 覚書き」の第二節は、特別に「重要」という小見出しがつき、
この部分だけカギカッコでくくられている。
(節番号は著述の便宜上私がつけたものなので括弧でくくっておく。
第一節から読み返すには ここをクリック

(第二節)
重要
死者は静かにしかし限りなくその姿を変えるのだ
彼等は地上のものの形をほんのふとした何気なさ備用(ママ)することも珍しくない。」


ここに土方巽の最後の舞踏公演となった「静かな家」で、彼がしたかったことのすべてが凝縮されている。
土方はただ「静かにしかし限りなく姿を変える死者」を踊ってみせた。
死者ははじめから物質的なからだなど持たない不可視の、いわば気化した存在である。
「舞踏とは死に物狂いで突っ立つ死体である」という土方による定義を思い出すまでもない。
死者を踊る舞踏とは何かを、土方はこの最後のソロで技術の限りを尽くして踊ってみせた。
不可視の存在を踊る技法の根幹のひとつが気化である。
もうひとつの根本的な技法が「Xによる還元と再生」であるが、それは別の節で触れよう。

(第三節)
「「灰娘」
魂と精霊

ゆくえ
もう誰も訪れない
もう誰も眠れない
○かんの花
○過度の充実が来て彼女は途方もなく美しい者になった
○死者たちのさまざまな習慣を覚えた
○馬肉の夢
○座敷から引き出されてきた男
○イスに座って狂った大人子供=ケダモノ
○裸でカンチェンの出だしを踊る
○フラマンの寝技を使う
○嵐が来た朝
○物質化」

この節の最後が物質化で、結ばれていることに注目してもらいたい。
これは一行目の「魂と精霊」以降、最後の行に至るまでのすべてが
気化したからだで踊られていることを意味している。
虫も、ゆくえも気化したからだに属する。
○かんの花以降の○で示された行は、第一節の
「雨の中で悪事を計画する少女」が
計画している悪事の具体的な内容である。
土方が長い年月をかけて死んだ姉の見ただろう夢に入っていってつかんだ
姉の夢見た悪事の内容である。

(第四節)
「一番―花、雨、少女、全部使う
     仮面、あるいは虫
     人形―灰娘―洗たく―もう誰も訪れない
二番―走って鳥から少女、少女気化して座り技
三番―魔女A気化する
四番―赤いシャケの頭にかかわる魔女気化している
五番―馬肉の夢を見る大魔女気化している
六番―さまざまなゆくえが気化している
    水―お盆―遠い森―死者」

この節は、気化にまつわる振付部分を時系列的従って詳しく書き記したものだ。
ここで死んだ姉は虫や鳥、少女から、
魔女A、赤いシャケの頭にかかわる魔女、馬肉の夢を見る,大魔女、
そしてさまざまなゆくえへとめまぐるしく変容する。
気化するといってもそれは単純なプロセスではなく
ここで見るように複雑極まりない変容に継ぐ変容と流動を続けていくものである。
これによって土方は生命のクオリア変容の実態をつかんだのだ。
生命はここで見るように多次元的に微細に無限変容と流動を続けている。
それを踊ろうとすれば、絶対にここで示されたような複雑な変容を伴うものでしかありえない。
それを難しいからとはしょってしまえば、意識で単純化してしまうことになる。
だが、今世紀の意識で単純化された生命の姿などもう誰も見たくないではないか。

後の節で、土方は気化に関する技法の留意点を書き記している。

(第十五節)
「ゆるやかな拡散
  一気に気化状態にもってゆかぬよう心掛けるべし。
  気化状態のなかでこそ展開が試みられるべきだ。
  この問題もやがてはっきりするだろう。」


気化状態の中で試みられる展開とは、まさしく
第四節で記された少女から魔女、大魔女、ゆくえへと至る
微細かつダイナミックな変容を指している。
もともと気化した不可視の死者なのだから、
気化状態の中で展開されるしかないのも必然である。

気化するという身体技法は、
座った姿勢から、人間のように立ち上がるのではなく
湯気のようにゆらぎ立つ技法を指す。
だが、身体技法だけでは気化は成就しない。
自我や自己という余計なものの気配を消すことができることが
踊り手にとってもっとも重要な資質である。
いつまでたっても私という意識を消すことができない人が多い。
それだけでも長い修練の要る技法であるのに
その気化する技法をさらに細分化して微細に展開する心身技法が
どんなに高度で繊細なものか、ほんのすこしだけでもやってみようとすれば
そのあまりの高度な繊細さにたまげてしまうほどだ。
だが、それを身につけることが命に至る道だとすれば
どれだけ時間をかけてもたどる値打ちのある道なのだ。
土方はたった一回だけその道行きを身をもって示してくれた。





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