舞踏論   土方巽に捧げる

第24章 大野一雄さん、106歳おめでとうございます。

大野さん、106歳。
最後に大野さんにお会いしたのは、
1997年頃の大阪公演だ。
公演後大野さんは会場の出口に裸で立ち、
観客に挨拶してくれていた。
日本を離れようとしていたわたしは、
おそらくこれが最後だろうという気持ちで
大野さんのからだを抱きしめた。
子供のように小さいからだだった。

今日はそれから15年、
大野さんも今頃は冥界でクラゲとなって
旧戦友たちと泳いでいるだろう。

大野さんにまつわる幾つかの思いを垂れ流す。

大野一雄のボトム

大野一雄は不幸な誤解にさらされてきた。
好意ある追従という誤解に。

大野一雄さんの写真の中から、あえて一般に流布されている
両手を上げて空に広がっている写真以外のものを集めた。
どうか、これらを命の目でとくと味わって欲しい。
大野さんのあの独特の極めポーズだけが世界に流布し、
あたかもそれが大野さんの舞踏スタイルでもあるかのような誤解がひろがっていることに
長い間強い危惧を抱いてきた。
西洋の大野さん系の舞踏家から影響を受けた人々の舞踏スタイルも
多かれ少なかれ、その流布された写真ポーズから影響を受けている。
それを見るたび身を切られるように辛くなる。
なんと文化は伝わりにくいものか、と。
それはたしかに、大野さんの踊りの中の花のひとつには違いないだろう。
だが、花が花だけで花になることはありえない。
花は目には見えない暗闇の中の秘密や謎に支えられてはじめて花となるのだ。
大野さんは踊りの中で膝から下の世界を模索し、死者と対話し、
生死のエッジとま向かう中から、最適の瞬間をつかんであのポーズをとったのだ。
大野一雄の息子の義人さんはいう。

「『膝から下の世界」という世界を一雄はもう一つ持っている。
そこにもう一つの宇宙がある。
『膝から下の世界』というのは大事です。
モダンダンスなんかでは、上に、重力に逆らってというふうな思いが強いでしょう。
一雄の場合は、本人がそう感じたとき、反対に落下します。
その時の落下する速度は凄いです。
あっという間に床に行ってます。」
(『大野一雄 魂の糧』)


だが、写真家にとって、うつむいて膝から下の世界をまさぐっているような図は、
おそらく絵にならないと判断されたのだろう。
謎や秘密に触れているみすぼらしい姿の写真など数えるほどしか撮られていない。
その写真家の美意識や判断が大野さんの舞踏の世界を歪め、
上滑りのBUTOHのイメージを世界にまき散らしてしまった。
大野一雄の舞踏のもっとも深い花と謎と秘密は、
そこにあるというのに見過ごされてしまうこととなった。
その誤ったイメージに毒された西洋圏の舞踏家や生徒に数多く出会った。
そのとんでもない悲しい誤解を解くために、大野さんの写真の中から
両手を上にあげていない写真だけを探して上に紹介した。
ほとんど無視されて撮られていないから、見付け出すのに苦労した。
幸い手持ちの資料の中から池上直哉氏の膨大な写真の中から
わずかながら集めることができた。
感謝します。
見やすい大きい花と違って、謎も秘密も目には見えない。
それに触れた命が微細にふるえているだけだからだ。
ただ、日常意識を止め、思考をやめたときにだけ、
生命が震えるように何か見えないものと共振していることが感じ取れる。
そして、本当の花もその心の目にだけ映る。
いや心というとまだ人間の枠内を離れることができない。
こころでさえなく、命になって大野さんの舞踏世界の奥底を感じてください。
人間の持ち物をすべて投げ捨てないと触れられない世界がこの世にはあるのです。

形と魂をめぐる伝統的な誤解

よく大野さんと土方の違いを説明するのに、
「形が魂に追いすがる」と、
「魂が形に追いすがる」
という言葉が引用される。
多くの西洋の友人はそれを真に受けている。
だが、それは頭のいい批評家がでっち上げた物語にすぎない。
大野さんも土方も、どちらも上の両者を往還して踊っていた。
片道通行などあるわけがないのは、
からだで踊ろうとしたものならばすぐに分かる。
フィジカルな外クオリアと、メンタルな内クオリアが
ひとつに融け合ってはじめて動きが踊りに昇華する。
大野さんがニューギニアから引き上げてくる船上で
多くの戦友が飢えや疲労で命を落とし、海の藻屑と消えていったとき、
彼らを踊ろうと心に決め、クラゲの踊りを繰り返した。
それを21歳の土方が見て衝撃を受け、
「劇薬ダンス」と名付けた逸話はよく知られている。
それ以後二人の共振は、
物質的なからだと目に見えない異界を往還して踊るという
一点で結びついたのだ。
共振とはどちらからともなく起こるもので
主体と客体の違いなどない。

土方が突然衰弱体舞踏に転換していった70年代は二人はもっとも
遠くで共振していいた。
その間、土方は1974年の「静かな家」で、
気化と物質化を往還する衰弱体技法として仕上げ、
その自在に変容し往還するものを<死者>と呼んだ。

1980年代になって、
大野一雄が「ラ・アルヘンティーナ」と「わたしのお母さん」
という2つの代表作の振り付けを土方に頼んだのは、
大野さん自身が自分に必要なものとは何かを
土方がよく知っていることを知尽していたからだ。
土方が大野さんの代表作である2つの踊りに持ち込んだものを
一言でいえばボトムである。
大野さんはもともと天性の即興ダンサーで、
クラゲの踊りを踊らせたらいつまでも踊れる人であることを
土方はよく知っていた。
その大野さんの天性の踊りをもっとも引き立てるものとは何か、
それこそがボトムなのだ。

アルヘンティーナの冒頭、
豪華なドレスをまとう大野さんを観客席に座らせ、
首がカクカク動く傀儡の動きで立ち上がらせたのも
それがもっとも対照的にクラゲの踊りを引き立てるものであったからだ。
その後も、各章の繋ぎ目ごとに静止や棒杭だのという
ボトムを効果的に挿入した。
とりわけ、グランドピアノを運び入れ、
その前に身じろぎもしない大野さんを立たせたのは、
後半の鳥の踊りなどの大野さんの踊りをもっとも支えるものこそ
思い切り長い静止であることをよく知っていたからだ。

ともあれ、舞踏は土方と大野さんという稀代の共振から始まった。
それだけは覚えていていいのだ。




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