舞踏論   土方巽に捧げる

第233章 いのちが震える踊り

ー世阿弥と土方巽


いったいなぜ、ある特定の踊りだけが
命を震わせる力を持っているのか。
生涯忘れることのできない刻印を命に残すのか。
長年その秘密を探り続けてきた。
わたしの知るかぎり、世阿弥と土方巽もまた
同じ問いを問い続けた。

世阿弥は「花伝書」で次のように書く。


「花ト、面白キト、メヅラシキト、コレ三ツハ同ジ心ナリ。
イヅレノ花カ散ラデ残ルベキ。散ルユエニヨリテ、咲ク頃アレバメヅラシキナリ。能モ、住スル所ナキヲ、マヅ花ト知ルベシ。住セズシテ、余ノ風体ニ移レバ、メヅラシキナリ。」


晩年の「花鏡」では、さらにこれが深められる。


「面白き位より上に、心にも覚えず「あっ」という重あるべし。
これは感なり。
これは、心にも覚えねば、面白きとだに思わぬ感なり。
易には、感という文字の下、心を書かで、
咸ばかりを「かん」と読ませたり。
これ、まことの「かん」には、心もなき際なるがゆえなり。」


「拾玉得花」では、もう一段微細化される。


「以前申しつる、面白きといい、花といい、珍しきという、
この三つは一体異名なり。
これ、妙・花・面白・三つなりといえども、一色にて、
また、上・中・下の差別あり。
妙というは、言語を絶して、心行所滅なり。
言語を絶したりしは妙、
すでに明白となるは花、
一点つくるは面白きなり。
しかれば、無心の感、即心はただ歓喜のみか。
覚えず微笑する機、言語絶して,まさに一物もなし。
ここを妙なるという。
「妙なり」と得る心、妙花なり。
舞歌の曲をなし、意景感風の心耳を驚かすさかい、
覚えず見所の感応をなす。
これ妙花なり。
これ面白きなり。
これ無心咸なり。
この三箇条の感は、まさに無心の切なり。
心はなくて面白きとうけがうは何物ぞ。」

この最後の世阿弥の問いに、
世阿弥を読み始めて何十年かたった今、答えることができる。


「心はなくて面白きとうけがうものは何物ぞ。」


命なのだ。
言語も心も絶した、命の震えをもたらす生命共振こそが、
妙花、面白、無心咸なのだ。

「生命の呼称で呼ばれうる舞踏」を求め続けた土方巽もまた、
この生命の微細な震えこそがたいへんに貴重なものであると、
「静かな家」に刻み込んでいる。
友人の柳田家の庭で予想もしないクジャクに出会ったとき、
土方はそれを貴重な命の震えとしてからだの奥底にしまいこんだ。
土方が稀代の舞踏の振り付けを創ることができたのは、
その内奥の生命の震えが起こるかどうかを基準にしたからだ。

 

「体こそ踊り場であろう。
手の踊り場、尻の踊り場、肘の裏の踊り場等。

この場所が持つ深淵は、この踊り場にはさまってくるものを克服し、

からみつかせる事により成立する。

例えば、柳田家があり、柳田家の庭にクジャクがいるという事をたいへんに貴重なものであるという発見をする。
また、カン工場という場所は、
私にとってなつかしい粉末というものによって語られる。
それらが踊る際の血液になっているのだ。」


命はいつもあらゆるものと、微細に共振している。
そして、その共振が高まり、新鮮な驚きや、胸の震えや、
高鳴りが起こった瞬間を克明に脳裏に刻みこむ。
言語や心を絶した妙花・無心咸は、
意識では創りだすことができない。
からだの闇の深淵に潜む命だけが知っているのだ。
命が震えるかどうか、
踊りを創るとき、そして見るとき、
肝要なことはたったそれだけである



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