舞踏論   土方巽に捧げる
自らを歪ませて生き延びる。軋みは命にとって根源的な経験である

第22章 軋むからだ


土方巽があるときぽつんと、「軋むからだって、どんなんだろうねェ」と問わず語りに言った、
と元藤曄子夫人が書いている。
土方は寝床の中でいつも骨を鳴らして、軋むからだのクオリアを探っていたという。
舞踏家とは24時間からだの闇に坑道を掘り続ける稼業だ。
わたしも長い間この軋みのクオリア坑道を掘り続けてきた。
なぜこれにこだわってきたのか、ことばではうまく言えない。
ただ、通りすぎるわけには行かなかった。
振り返れば自分の踊りのほとんどすべてが、一言で言えばこの軋みのクオリアから生まれてきた。
踊りはいつもごくごくかすかな軋みの感覚から生まれる。
軋みと一言で言っても、その内容は無限の微細なバリエーションがある。
しかも、それらはもっともかすかな、不分明なクオリアなので、なかなかことばでは捉えにくい。
それは命にとって、外界とうまく共振できないクオリアの総称だ。
寒気や怖気や圧迫や束縛など、なにかとうまく共振できないとき、生命に軋みの感覚を覚える。
命が歪む感覚といってもいい。
背中にゾクッと走る悪寒、
皮膚がアルマジロのように変質していく妄想、
死んだ友達に、行くな!と叫んでいる、
突然体がつらくなるのだが何が辛いのかさっぱりわからない、
一人息子を空に放り上げて受けそこねて死なしてしまう夢、
超自我の命令に命がけで抵抗する、
踊りはいつも命ががどこかで軋むかすかなクオリアからはじまる。、
なにかと上手く共振できないクオリアは生命にとってもっとも重要なクオリアだ。
それを敏感に捉えられないと直ちに死をもたらすからだ。
軋みは命にとってのっぴきならない根源的な経験である。
それは命が自らを歪ませ変形させることと引き換えにかろうじて生き延びる行為だからだ。
そして、人間レベルで軋みを捉えれば、もっと複雑になる。
からだの闇の自全(自分の全体)には、じつにさまざまな要素や傾向が渦巻いている。
詳しくは実技ガイドの「自全瞑想」の項をご覧いただきたいが、
自我や超自我や影やアニマなどの多くの元型たちが多次元的に重層している。
それらの要素は互いには見知らぬ者同士で、それらの間はいつも軋んでいる。
意識や自我にとって、下意識のサブボディはすべて見しらぬよそ者であり、
存在など認めていないものばかりだ。
自我意識が見知らぬサブボディに感じるクオリアは激しく否定するエッジクオリアだ。
不快で堪らなくて、直ちに消えて欲しいと感じる。
そして、それがもっとややこしいのは、軋みはそれらの間にあるだけではなく、
それらの要素や傾向はすべてそえぞれ別個の自己像と世界像がセットになった布置を持っていることだ。
軋みはそれらの要素と世界との間でもしょっちゅう生じている。
それらの要素も世界もどちらも絶えず流動しているから絶え間なく矛盾や軋轢が生じる。
軋みのクオリアはそれらすべてが多次元的に重層し、かつ非決定の状態にある事によって生じている。
軋みをうまく一言で捉えられないのは、この複雑さによっている。
命はいつもこの多次元かつ非二元の中にいるから、軋みがどこからくるか、わからないのだ。
ギギっとか、ムギュとか、ミシッとか、擬態語や擬声語などを駆使すればかなり近づく。
だが、数え上げればキリがないほどおびただしくある。
モゾ、ゾクッ、ジリッ、ピキッ、ゴワッ、モワー、グニュ、ヌメー、メソー、ベキッ、グムー
などなどだ。
日本人同士でもうまく伝わるか伝わらないかのぎりぎりにある微妙なクオリアだから、
これらオノマトペが圧倒的に貧しい英語ではとても伝えきれるものではない。
外国の生徒が多い共振塾で、いままでこの軋みのクオリアをうまく扱えなかったのは
言葉の壁にぶつかっていたこともあって、うまく扱えなかった。
今年、2010年になって、言葉で伝えるのではなく、コーボディの群れの体験の中で
からだごとその世界に持っていく方法が見つかって、
ようやくはじめて軋みのクオリアを伝えることができるようになった。

土方はこの超複雑なものを一生かけて探り、からだで表そうとした。
最後の最後にからだの闇から取り出した死んだ姉さんの秘密は土方の命にとって最大の軋みだった。
なぜ大好きな姉さんが東北から都会に女として供出され、死なねばならなかったのか。
無数の秘密に重層的に包まれたその謎を踊ろうとすれば、その多次元そのものを踊るしかないのだ。

「雨の中で悪事を計画する少女
・・・
はくせいにされた春
・・・
気化した飴職人または武者絵のキリスト
・・・
背後の世界
・・・
Xによる還元と再生
・・・」

と、彼の最後の踊りの舞踏譜である「静かな家ソロのための覚書き」が、
何百行にも及ぶ複雑な要素を重層させたものであることはそれによっている。
「これくらい重層しないと「森の顔」ひとつさえでてこない」、
土方の踊りは、もちろん顔だけではなく、からだ全体が多次元を重層してゆらぎ、
しかも絶えず還元と再生を繰り返して姿をくらましている。
何ものによっても捉えられないたった一つの秘密と化す以外なかったのだ。
わたしはそれに巣窟体という名をつけた。
それでようやく土方が何を踊っていたのかがくっきりと捉えられるようになった。
20歳ではじめて土方の踊りに触れて、衝撃を受けてから40年たった今、ようやく
土方の軋みの深みに共振できるようになってきた。
何十年かかっても命にとって解かねばならない謎は、
どんなに解きがたくともやがては解けるときがくるのだ。

土方にとっても、わたしにとっても生きるとは無数の軋みを受け取ることであった。
秋田で育った土方が20歳で東京に出てきたとき、味わったのは、
金属棒で脳みそをかき回されるような体感だった。
冷たい都会の人間関係に命が軋み、
習おうとしたバレエの立とうとして立てない感覚にからだが軋んだ。
普通の人はそういう劣等感を克服して世界に自分を合わせようとする努力のなかに人生を消尽してしまう。
創造家は、命の軋みをいつまでも忘れない。
そして長い年月をかけて生きるために必要な軋み返しの術を編み出す。
創造するとは受け取った命の軋みを、踊りに昇華して打ち返す命の行為なのだ。
生きることが命にとって軋むことであれば、
創造とはいつも軋み返しなのだ。
受け取った軋みのすべてを精密に味わえば、
それが無限の多次元を重層してやってくるものであるかぎり、
それを打ち返す創造もまたそれ以上に重層的非決定にある解けない秘密になる以外ない。
舞踏がいつも非決定のゆらぎの中に身をくらますのは逃れることのできない宿命なのだ。
君の命にとって最も根源的な軋みのクオリアを探せ。
命がゆすぶられてやまないような必然の踊りはそこから生まれる。



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