舞踏論   土方巽に捧げる

第227章 <癇の花>とはなにか

この2012年の夏、インドビザの申請のために久しぶりに日本に帰国したおり
東京で森下隆氏が主催する「土方巽アーカイブ」を訪れることができた。
そこで、癇の花に関する資料を探したところ、
森下氏の好意で、和栗由紀夫氏の私家版「舞踏譜」を拝読することができた。
和栗由紀夫氏の舞踏ノートには、土方巽の発明した<癇の花>という舞踏クオリア群が綿密に記されている。


<癇>とはなにか

この言葉は英訳不能なので、どう翻訳すればよいか
しばらく試行錯誤を繰り返した。
そのうちに<癇>の本質とは、
<生命がうまく共振できなクオリア>である
ことが見えてきた。
共振しようとしてもうまく共振できないとき、
英語ではあらゆる問題やその凝り固まりが癇なのだと、
思い切って<Kan=Disability>と意訳することにした。
<癇>を<生命がうまく共振できないクオリア>として捉えれば
土方の舞踏譜の言葉は多くが広義の<癇の花>に関するものだ。
共振しようとしてもうまく共振できないとき、
生命はただそれに耐えて、よい共振方法が見つかるまで待つ。
だがその間にうまく共振できないクオリアは、からだに変調をもたらす。
さらに、それが続けば長い間に存在自体が<癇>に変成する。
第3部 「病める舞姫」ではそういう人々が主人公として出てくる。

ここでは 
T うまく共振できない癇の体感
U 心身の一部に凝結した癇
V 存在全体が変成した癇

の三段階に分けて紹介しよう。
これらの多彩なバリエーションを通じて、<癇>とは何かをつかみみ取ることがより容易になるだろう。

T うまく共振できない体感

土方は生命がなにかとうまく共振できないときの
一瞬の微細な体感を実に精確に捉えている。
普段は見過ごしがちなこれらの奇妙な体感群に耳を澄まして探れば、
誰もが固有の<癇>を見つけることができる。


えぐられて溶ける
きしむ空気

こめかみから鳥が飛び立つ
こめかみを植物がはう
どこまでも壁に染みる
ヒビが入る
ぶれた花がさまよう
むずがゆさ
もやの中へ消える
ゆくえをからだの中に入れる
メスカリンの神経の重層
一瞬の網の目に捕捉
下痢に雨が降る
人形がぶすぶすと燻る
体の中の針金
体の中を機関車が通過する
余白で成り立つ
俯瞰される
光に襲われる
光の蜘蛛の巣
兎に囓られる踝
内臓が体の外にぶら下がる
内臓から鶴の首が伸びる
内臓の水路を上に辿る
内部に塗り込められる顔
前方にぶれていく顔
剥離
吸い取られる呼吸
埃の飼育
墓守の顔に変貌
奥歯に染みる隙間風
しっぽが生えて開く骨盤
接吻されている老婆
曖昧なものを正確に包囲
木目をたどる指先の感触
水晶に閉じ込められる
無数の視線の通過
空間を裂く視線
耳の内部をさまよう
焦げる羽
胸の小部屋に鍵がかかる
膿をずるずると引っ張る
追いかけられる馬鹿
遠くの森から少女が近づく
闇を携えせり上がる
頭蓋の中に木の葉がはらはらと落ちる

などはその象徴だ。
だれもが無視しているささいなものだが、
よくよく探れば思い当たる微細な体感群だ。
土方はからだの闇に一心に耳を澄ましてこれらのクオリアを取り出した。

U 心身の一部に凝結した癇

そしてそれらはやがて、くぐもり、ひきつり、凝り固まってかさぶたとなる。
心身は一如なので、心の凝結とからだの変形がひとつになるのだ。
これらのかすかな変調も凝り固まると、さまざまな凝結や奇妙な形に固形化する。
土方はからだの踊り場に起こるこれらの変形し歪んだ形を収集しつづけた。
これらがもっとも典型的な<癇>である。

岩の蝉の目玉
引きつったかさぶた

あばたの男
つまむ奇妙な人
ぶれたまま固まる
よだれを垂らす子供
カサカサに乾く内臓
ギブスをはめた人
ゴヤの膿の顔
ざくろ歯の顔
ドライフラワーの顔
内部に塗り込められる顔
前方にぶれてゆく顔
右目と左半分が溶けている顔
暗い煤けた顔
森の顔
爪と歯の起源
目と口の中のほこら
真に救われない顔が出る
老婆の干しぶどうの目

肉の区分けをする男

第V群 存在全体が癇に変成

これらからだの踊り場の変調が凝結して<癇>となる。
やがてそれが全心身に波及すると、不具や奇形となる。
<癇>の最終形態だ。
だが、目をそむけてはならない。
近代の情報管理システムによる「差別語というめくらまし」で
見ないふりをして通りすぎてはならない。
これら、見放された悲惨の極地を踊り、花に転化する生命の舞踏だけが
彼らの不幸と真に共振するものなのだ。

25年間寝たきりのフラマン
いじけた若い墓守
せむし
だらしない少女
ぼおっとした馬
アウシュビッツ
オルガンを弾く幽霊
ソコヒの少女
フラマンの剥製
ミショーの人物
乞食の崩壊
人形がぶすぶすと燻る
仮面の裏の熊の顔
内股のヤモリ
剥製化した蜘蛛の巣
土塊の人形の生成と解体
埃でできている人
壁に塗り込められた人
子供の顔をくわえた幽霊
密度の牛
小児麻痺の狂人
崩れてしまいそうな危うい人
湯気の膿の衣を引っさげた法王
暗い瓶が危うく立つ
紙の上で踊る虫にアウシュビッツが重層する
背後の闇に包まれている少女

・・・など、存在全体が<癇>そのものに変容する。
これらの<癇>をいったい、いかにすれば<花>に昇華することができるか。
それらをただ並べるだけでは美とはならない。
のっぴきならない生命のほとばしりとしての必然の踊りの中で
最適の<序破急>を発見することによってはじめて
胸が震える<花>に転化するのだ。
共振したくて仕方がないが、できない、できない、できない・・・
長い間できないまま、耐えて待って、待って、待って、
ついにひとつののっぴきならない動きが創発される、
その瞬間を捉えて踊ることだ。
そのとき、醜い癇の蠢きが、得も言われぬ美に転化して
あらゆる命が共振を禁じることのできぬ<癇の花>に昇華する。
この極意を極めよ。
からだの闇でうずくまり、くぐもり、ひきつり、
かさぶたとなっているクオリアを掘り出せ。
そして、それがどう動き出したがっているのか、
どんな共振を求めているのか、探り抜け。
誰のからだの闇にも<癇>は存在する。
ただ忘れさり、気づけなくなってしまっているだけだ。

自我という最大の<癇>


自我は癇を知らない。
目を背け、忘れ去ってしまっている。
そんなもの俺の中にはないと、逃げ出そうとする。
実は自我こそ最大の<癇>、<癇の中の癇>なのだ。
自我は自分が<癇の中の癇>であることも、もちろん知らない。
<癇>から目を背けさせる最大の<癌>である。
土方が

「人間の条件をすべて放棄することだけは忘れないでもらいたい」

と言った真意は自我を捨て去れということだ。
その自我を止めなければ、からだの闇の<癇>のクオリアからの
かすかなシグナルを捉えることさえできない。
いつかは最大の<癇>である<自我>をも踊らねばならない日が来るだろう。
その日は遠い。
一番最後になるかもしれないが、自我という<癇>の消滅、
自我という最大の<癌>からの自己治癒は、現代人すべての課題である。



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