舞踏論   土方巽に捧げる

第222章 ヘリオガバルス

22 (ヘリオガバルス

 

   深淵図には複眼よりもむしろ皮膚への参加に注目されねばならない。

   ただ一回のヘルオガバルスがある、

   耐えるもの―それはめくるめく節度の別の顔であった

 

227節の(ヘリオガバルス)は、異色である。
書かれているが、踊られてはいない。
決して踊らないことで、踊っている。


「狂王」ー「ヘリオガバルス」ー「肉体の叛乱」

サブボディにはヘリオガバルス的なところがある。
ヘリオガバルスはローマ帝国史上最悪の狂王として知られている。
胎児見たさに妊婦の腹を切り裂いた信長以上の
奔放恣意・悪逆非道の限りを尽くしたとされている。
土方は「静かな家」でヘリオガバルスを耐えるものの対偶(対極的同一性)として捉えている。
これまでの舞踏譜に何回も出てきた「狂王」とは、土方自身のなかの、荒れ狂う荒御魂、自我が怒りの情動によって膨れ上がった状態をさす。それは「ヘリオガバルス」と遠く共振する。
「静かな家」で限りない衰弱体に到達した土方は、6年前の1968年の「肉体の叛乱」を踊った自分自身の姿が「狂王」や「ヘリオがバルス」に投影されている。
1968年のソロ公演が土方にとって「ただ一回のヘリオガバルス」だった。
「静かな家」では、それが回顧されるだけで、実際には爆発的な踊りは一切でてこない。

「22節 (ヘリオガバルス)

    深淵図には複眼よりもむしろ皮膚への参加に注目されねばならない。

   ただ一回のヘルオガバルスがある、

   耐えるもの―それはめくるめく節度の別の顔であった」

皮膚への参加――ただ一回のヘリオガバルス――耐えるもの――めくるめく節度

これらの一見まったく異なるように見えるものが、じつは同じものの別の顔であると捉えられている。
「めくるめく節度」によって「耐えるもの」とは民衆のことなのだ。

民衆は耐えに耐え続けるだけの存在ではない。
たった一度のヘリオガバルス的爆発の可能性を内に秘めている存在だ。
そのことに気づいたとき、わたしは土方の民衆論の深さにうなった。
舞踏は一見民衆から遠く、前衛的アバンギャルドとしてのみ見られている。
だが、実はその内に耐えに耐え続けている民衆像をくり込んでいるのだ。

 「24節 (ふるえ)

  1、耐え忍ぶ剥製のとほうもないきたならしさ」

何十年も耐え続けて、耐えていることさえ忘れてしまった汚らしい剥製体とは、
民衆のことである。
舞踏家は衰弱の果ての剥製体となって舞台に出るが、
それは観客席にいる民衆自身の真の姿を映す鏡像なのだ。
耐えるものはいつかはヘリオガバルスのように爆発的に踊りでてくる可能性を秘めている。
舞踏家は民衆の自分自身では気づいていない変容や創造の可能性を踊る。


粗大なからだや動きを消す

土方が「静かな家」で敢行した実験は、かつての「ヘリオガバルス的な爆発」を踊った
1968年の「肉体の叛乱」における強いからだや動きはすべて削減されている。
<Xによる還元と再生>は、土方巽の衰弱体舞踏にとって、
最も大事な秘密の変容技法である。
それを、8つのチャンネルに適用して見よう。
各チャンネルは外向クオリアと内向クオリアからなる精細構造をもち、
生命の次元ではあらゆるチャンネルの境界がない非二元域となる。
外向チャンネルとは、物理的な体感や運動のチャンネルであり、
内向チャンネルとはそれらの記憶や夢、想像、妄想などの内クオリアで構成されている。
伝統的なアジアの瞑想思想では、外向的なからだを粗大体(グロスボディ)、内向クオリアからなるからだを微細体(サトルボディ)と呼んでいる。
(サブボディにはもともと2つの意味があり、ひとつは下意識のからだ(サブコンシャス・ボディ)であり、もうひとつはサトルボディである。この2つの言葉を凝縮一体化してサブボディという概念が生まれた。下意識界では、日常界のように意識とからだが分離しておらず、心身一体化している。それを指すためのサブボディという新しい呼称が必要だった。)

粗大な自己的な体感と動きを削ぎ落とす

体感チャンネルは、冷温、痛、圧、触、緊張・弛緩などのからだの状態そのものへの感覚である。
微細な体感としては首元にある血液成分の変化を感知する神経細胞などのはたらきによるものもある。
まず、体感チャンネルから粗大な、物理的なクオリアとその意識を消す。するとそれらの記憶や想像のクオリアだけからなる下意識の微細なからだ(サトルボディ)に変成することができる。
土方の気化体は、魂や精神そのものに変成するための技法である。
そして、同時にアニミズムでは石や傀儡は、浮遊変容する死者の魂の
依代であった。
気化から凝固・液化へと変成する技法を土方は<密度を運ぶ>と呼んだ。<Xによる還元と再生>の応用である。
Xにはどんなものでも代入できる。
からだの一部をそぎ落としたり、ある感覚(視覚・聴覚・触覚など)や神経をそぎ落としたり、減衰することによってさまざまな衰弱体を創造することができる。
<Xによる還元と再生>のように、非常に抽象度の高い水準まで理論を結晶化すると、それは万人に共有できるものとなる。
だれもが固有の衰弱体を創造することができる。
それが理論の力なのだ。

「皮膚への参加」とはなにか?

土方は「静かな家」でつかんだ「皮膚への参加」というモチーフを握りしめ続けていた。
それが数年後の「病める舞姫」において、「からだのくもらし方」という新しい技法に発展深化する。
くわしくは第三部を御覧いただきたいが、
「病める舞姫」の冒頭に出てくる「けむり虫」の歩行、
そして、「からだの無用を知った老人の気配りと縮まりの歩行」とは、
ここにおける「皮膚への参加」から発展深化したものである。
「皮膚への参加」はからだのまわりに拡がっている見えない第二第三の「秘膜を開くこと」へ深化した。
いのちはみなからだの細胞の周りに見えない
秘膜を持っている。
わたしもまた土方にならい、毎日皮膚に成り込み、生命にとっての皮膚とは何かを聴き続けているうちに、深い連関に気付かされた。

「からだの無用を知った老人は、ひとあしごとにからだのまわりの見えない秘膜を
注意深く外界に広げ、異変があれば直ちに縮まり、身を守る。
民衆は皆そうだ。
そうして長い忍従の時を耐えてきた。
歳月を経るごとに、世界に喰われ、からだは傷み、精神も傷つき「病める舞姫」に変成する。
「病める舞姫」=「けむり虫」はその微細な生命共振の秘膜を呼吸するように
恐る恐る広げ、気配りと縮まりを繰り返す。
その「めくるめく節度」によって」耐えるもの」、すなわち民衆のいのちは
すべて「ただ一回のヘリオガバルス」的な爆発の可能性を秘めている。




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