舞踏論   土方巽に捧げる

第21章 人間概念の拡張


土方は、彼の晩年新しい生命の舞踏を担う舞踏家を育てるためのワークショップのために創った
「寸法の歩行」や、「虫の歩行」のテキストに、次代の舞踏家への遺言をこめていた。
小さな細胞生命に成りこんで、「寸法の歩行」が要請する条件をからだに染み透らせてみる。
すると、ここではもはや物理的な世界に属するからだではなく、
その背後の幾多の他界、異次元を荷い、異界と共振するからだになることが要請されていることがわかる。
これまで探求してきた傀儡(くぐつ)体のあらゆる要素がこめられている。
そればかりではない。
土方が行おうとした革命は現代の狭苦しい人間概念を大幅に拡張することにあった。
未来の人間がもつべき世界像=自己像がここに盛り込まれている。

「寸法の歩行」

イ 寸法になって歩行する
ロ 天界と地界の間を歩くのではなく移行する
ハ ガラスの目玉 額に一つ目をつける
ニ 見る速度より 映る速度の方が迅い
ホ 足裏にカミソリの刃
へ 頭上に水盤
ト 蜘蛛の糸で関節が吊られている
チ 歩きたいという願いが先行して 形が後から追いすがる
リ 歩みの痕跡が前方にも後方にも吊り下がっている
ハ ガラスの目玉 額に一つ目をつける
ホ 足裏にカミソリの刃
へ 頭上に水盤
ヌ 奥歯の森 からだの空洞に糸
ル 既に眼は見ることを止め 足は歩むことを止めるだろう
  そこに在ることが歩む眼 歩む足となるだろう
オ 歩みが途切れ途切れの不連続を要請し 空間の拡がりを促す
イ 寸法になって歩行する

イ 寸法が変わらないからだとは、死せる傀儡そのものである。
ロ 人間として歩くのではない。
  背後の世界、天界、地界、からだの闇の異界とともに移行する。
  この世とあの世を媒介する傀儡として移行する。
ハ ガラスの目玉もまた、傀儡のものである。
  そして、額の間のもうひとつの目はこの世だけではなく
  生命の属する多数多様な異界を透明に見通す第三の目である。
ト 蜘蛛の糸で関節が吊られているとは、
  異界のなにものかの力によって動かされる傀儡になることだ。
  一本一本の蜘蛛糸の動きを通じて他界と共振する。
チ 自分の意思ではない、歩きたいという願いはからだから離れたところにある。
  抜けた魂を取り戻そうと、その願いに必死に追いすがろうとする。
リ すでにこの時空には属していない。時を越えて、前方や後方に過去に歩いた痕跡がぶら下がっている。
  これはまさしく生命のクオリアの属する非時非空の世界だ。
ヌ 奥歯の森。森とはすでに失われた東北の山奥や屋久島などにのみ残存する原生林の森だ。
  無限の生命が時を越えて折り重なり、重層する死と生命の森だ。
  その森とからだの空洞が蜘蛛の糸で共振している。
オ 時空は連続していない。無限の時空がつながり、途切れる多数多次元の世界だ。

寸法の歩行が要請するのは、これら多数の異界を引っさげ、それに突き動かされて移動するからだだ。
これが土方が残した舞踏家のための世界像=自己像の条件だ。
なぜそんなものを現代に生きる人々に見せつけなければならないのか?


重層された異界をまとう世界像=自己像

きみの世界イメージが、四次元時空のこの現実世界ならば、
きみの自己は日常体である。
命からはぐれて、散々な目にあっているのにそれに気づくこともない。

きみの世界像がこの世ではない異界と交感していれば、
きみの自己は現代の人間が縛られている桎梏を超えて異次元にひろがる。

世界像と自己像は一体化しているものだ。
世界像と切り離された自己像(アイデンティティ)などありえない。
だが、多くの西洋思想や心理学者や科学者は、
世界像から独立したアイデンティティがあるかのように取り扱っている。
その実は、無意識裡にありきたりの世界像にもたれているだけなのだ。
ハイデガーが「世界内存在」という概念を提起したのはずいぶん前のことだ。
私の世界=自己像という考え方も彼から示唆を受けた。
だが、彼には人類が何万年もの間、アニミズム的世界観をつうじて
無数の異界と交感してきた生命クオリアの多次元的な世界を配慮しえていなかった。
現代生物学者の生命の定義が単に物質過程だけに囚われていることも
生物学者が、生命の非物質過程を解離していることを示している。
誰が考えても、生命が物質的次元だけに関わっているのでないことは明らかなのに、
それは科学のテリトリーではないと、自ら狭い枠にひきこもっている。
どの分野の知も生命の多次元的な全体を捉えようとしない。
世界から切り離された自己、生命から切り離された人間、
人類史から切り離された知、無意識から切り離された意識、
解離され断片化した共同幻想の支配、
それが現代なのだ。

生命の舞踏を志向した土方は、そのことに気づいていた。
だからこそ、生死の異界のあいだで震えている舞踏体となることで
生命の本当の姿を示そうとしたのだ。

死の世界をまとうこと。
私たちの第一の秘膜である皮膚の表皮細胞も死せる細胞である。
私たちは死をまとい、死に守られて生きている。
生命にとって死ほど身近なものはない。
宇宙のすべては死の世界である。
いつも生死の境で震えているのが生命の実態だ。
だが、そのことを忘れ、未知の世界への畏怖を忘れて久しい。
まるで人間だけが存在しているかのように錯覚している。
しかも現代の社会からは、死者、病者、狂者、障害者、犯罪者は
社会の外の病院や刑務者に隔離し、
健康な人間だけが社会的存在を許されている。
あたかも健康な人間だけが世界を支配し、思い通りに変更できるという
思い上がりがこの世に蔓延している。
奴隷制に支えられていた古代ギリシャ世界で
奴隷を排除した市民だけで世界=人間像を構想し、
その狭い「市民=人間」だけによる統治を目論見たのが
民主主義という幻想だ。
その民主主義国家という共同幻想はいまなお
最善の共同幻想として君臨している。
「人間=物質的世界観=民主主義国家」が三位一体となった人間元型が世界を支配している。
それらが現代の人間から生命の無限の創造性を疎外している。
この三位一体の現代の共同幻想構造を根底から覆さないかぎり、
これらの狭い枠組から解放されることはない。
土方は生命の舞踏を通じて人間概念を大きく拡張しようとした。

「人間の条件をすべて捨てる。
これだけは間違わないでください。」

「人間はまだ、これから来る未知の秩序に、百万分の一も触れていない。」


なのに、一体いつまで、こんな狭い幻の監獄で窒息寸前になっているのを我慢しているんだい?

舞踏家が現代に投げかけるのはその問いだ。





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