舞踏論   土方巽に捧げる
 
 キメラ元型の数々


第218章 生命の必然としてのキメラ

生命は同時に無限数のクオリアと共振している。

たったひとつの細胞が、重力と、空気と、光と、温度と、

風と、音と、そして生命内に保存された無数の生命記憶のクオリアと

絶えず多次元的に共振し続けている。

生涯「生命の呼称で呼ばれる舞踏」を追求した土方巽は、

共振という言葉は一度も使っていないが、

彼の舞踏譜から、彼が多次元共振という生命の実相を

誰よりも深くからだで知っていたことが読み取れる。

そのひとつのあかしが無窮道の網の目のはてに出現するキメラだ。

 

 

10 (メスカリン)

 

手の恋愛と頭蓋のなかの模写は断絶してつながっている。

指さきの尖たんにメスカリン注射がうたれる。

そこには小さな花や小さな顔が生まれる。

細い細い糸のあみ物、無窮道のあみの目、

炎を吐く鳥とこっけいな熊が、ゆらゆらと狂王に従う。

そのさなかに頭部がいまひとつのゆくえを追っているのだ。

全てのマチエールは背後によってささえられている。

複眼と重層化は混濁し一体のものとなる

 

11 (キメラ)

 

ベルメール―こっけいな熊へ―馬の顔へ

鹿の視線から―棒へ―乞喰へ―虎

鼻毛の鳥―花―狂王へ―複眼―ゆくえ

虫―犬へ―オランウータン―福助の耳へ

耳がつつかれる―目まい―鏡の表裏へ

複眼のなかでいき絶えているもの

人形―仮面―パパイヤ―ほたる―板の展開

小さな花等がある

馬の顔―少女の顔―犬―スプーン

虫と木の合体―背後へ―ふいに植物の軌跡で展開をはかるものへ

 

 

毎年、この節以降、キメラの練習をやると

決まってとてつもなく面白い踊りが生徒のからだから噴出してくる。

今年もそうだ。

とりわけ、自分固有のキメラを創造すると、

おそろしくリアルな味わいの踊りがでてきた。

なぜ、キメラが強烈なのか。

去年からの不思議だったが、やっとわかった。

 

キメラでははじめイスと牛、石とネコ、など二つのクオリアからはじめ、

じょじょに三つの異なるクオリアをからだに入れる。

狂王、こっけいな熊、炎を吐く鳥の三つのクオリアが

からだに混在するキメラとなる。

そして、そのさなかに頭部がいまひとつのゆくえを追っているのだ。

と、じょじょに第四の異なるクオリアが入ってくる。

第五、第六のクオリアが入ると、第一、第二は一時的に

忘れさられるが、随時思い出したように戻ってくる。

これが第十一節のキメラ変成の連続である。

こうして、キメラの三から無数のクオリアが出入りする巣窟体の多へ、

生命そのものの実相へと変成を進める。

 

キメラの三は、生命の多への入り口なのだ。

これがキメラが持つ無限の創造性の秘密だった。
生徒の生命が知らずと勢いづいていたのだ。
とうとう自分の生命の踊りたい踊りにであったと。
生命は三どころか、たえず、多数多次元のクオリアと共振している。

その生命の実相へ近づいていくことが、踊りのリアルさをもたらしている。
人類の神話の中で多くの元型がキメラであることも、
生命がもともとキメラ的な多次元共振体であることからきている。

生命の呼称で呼ばれる舞踏をめざした土方は、

ついに多次元共振している生命の実相へ近づく道を

からだで切り開いてモノにすることができた。

1972年の『四季のための二十七晩』を見た舞踊批評家の市川雅は、

その驚きを公演直後にこう書き記している。

 

「土方のソロは円熟を思わせ、絶妙に自身の肉体を操っているように見えた。

混沌とした身振りが一度に肉体にとりつくと、こういうことになるかと思うのだが、

肘は屈折し、目は虚空をにらみ、手首はだらりと下がり、膝は宙に漂っている。

肉体の諸部分が絶えずあらぬ方に走りかねない不均衡を示しているにもかかわらず、

その不均衡を自身の肉体の中に包み込むことは難事であり、土方ならではできないことである。

肉体自身が思想にまで昇華されているほどの外姿を示している。

・・・・・・

土方の素晴らしさは、肉体と技術と主題がまったく分離しがたく結ばれている点であろう。」

 

また、『土方巽 絶後の身体』という土方の評伝を書いた稲田奈緒美は、

上の市川の評を引用した後こう続ける。

 

「土方は、四肢、頭、体躯、手先、足先をばらばらかつ微細に動かしており、

何らかのフォルムや、ひとまとまりのフレーズとして認識することは困難である。

身体各部は本来持っていた、手、脚などの役目と名前を失い、それぞれ別の生き物、

あるいはモノのごとくばらばらのままそこに存在する。

・・・・・

それは、私たちが見たこともない、知らなかった身体であるがゆえに不気味であり、

グロテスクであり、また、この世のものではない美しさをたたえている。」

 

市川雅がいうようにこのとき、土方の思想と技術と肉体がひとつになった。

そのターニングポイントとなった技法が、

『静かな家』 第十節から十一節に記されているキメラへの変成だ。

そして、このキメラの節をからだで読み解いたあとは、

実は第一節からずっと、土方がキメラを踊っていたことが分かってくる。

雨の中で悪事を計画する少女

床の顔に終始する

さけの顔に変質的にこだわる

○はくせいにされた春

B

○森の巣だ 目の巣だ、板の上に置かれた蛾

C

○気化した飴職人または武者絵のキリスト

D

○額をはしる細いくもの糸

○乞喰

○猫の腰

○背後の世界

 

これらはすべて第十一節と同じ、キメラの三から生命の多へいたるための舞踏譜なのだ。

上記の四つに分けたAからDの各部分が、三あるいは四のクオリアからなる

キメラになっていることをよく味わっていただきたい。

キメラの三から、四、五、六へと増幅し生命の多へ変成を進めると、巣にいたる。

巣とは生命の多次元共振を暗示する土方独自の用語である。

千本の矢を受けて突っ立つ弁慶の最期を思い出してもいいだろう。

千本の矢がすべて森の巣(世界)と目の巣(からだ)との共振となって微細に震えるからだ、

それが究極のキメラである巣窟体だ。 

 

8 (嵐が去った朝)

 

嵐が過ぎ去った朝、もう誰も私を訪れない←私は立った

武将がそのまま巣になっている

 

巣として突っ立つとは、生命として突っ立つということだ。
土方は何も好き好んで、何をやっているのかまったく分からないキメラや、
それ以上に意味不明なまでに重合した巣窟体を踊っていたのではない。
それが生命の必然だから、避けようもなく踊っていたのだ。

だが、これは土方の生前ほとんど誰にも理解されなかった。




 

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