舞踏論   土方巽に捧げる
第2部 「静かな家」の深淵へ
 
死者の無限変容界
 
第210章 無限変容する死者になる



「静かな家」のソロは、すべて微細な衰弱体で踊られる。
それもただゆっくり動いたり、微細に震えるだけの衰弱体ではない。
気化したり、キメラになったり、箱に詰め込まれる狂王になったり、
虫の怯えや大魔女に変成したり、ついに踊り子フーピーに転生したりと、
死者は無限変容するのだ。
「静かな家」全行には、その無限変容の極意が記されている。
それを見逃さないようにと、土方が「静かな家」第2節で、
わざわざ
「重要」と銘打って刻み込んだ血の文字は
いまだにほとんどどんな舞踏家にも理解されも受け継がれもしていない。
土方死後、無限変容する死者の舞踏は消えてしまった。
それに代わって、群盲象をなぞるがごとき、
土方舞踏のごく一部の外見的なみかけを舞踏と曲解した
「BUTOH」が世界にはびこってしまった。
多くの西洋各国に散会した舞踏のかけらが
近代西洋の身体表現だの自己表現などという「人間的概念」に浸潤され、
形だけの「BUTOH」が流布されている現状を土方は手記で悲憤慨嘆している。
後柱1参照)



2 重要

 

「死者は静かにしかし限りなくその姿を変えるのだ

彼等は地上のものの形をほんのふとした何気なさで借用することも珍しくない。」


からだの闇の深淵を縦横無尽に辿りつくして、
無間地獄も極楽も、全て味わい尽くさなければ
この無限変容する透明な死者になることはできない。
ではどうすればその旅をまっとうできるのか。

古代人類のアニミズム世界ではあらゆるものが無限変容していた。
仏教の三千世界や、神道の八百万の神々というアニミズムを継承した概念には
その無限変容する生命クオリアのありようが受け継がれている。
今日、生徒たちにまずは上の「死者の三千世界変容」の
無数の変容世界の図を見せた。
生命はこれら無数の背後世界と共振している。
そしてそれを情報として受け止めるのではなく、
それらの世界に反応して起こる祖型的な情動や体動で受け止めること。
かすかな生命の共振に触れること。
それらのかすかな震えやすくみやこわばりなどになりこむことを促した。
生命の舞踏はかすかな生命のふるえからはじまる。

これは、「人間」の拡張なのだ。
「人間」の彼方への旅なのだ。
自我や自己という近代的な自己誤解に囚われ、生命共振から切り離された
狭い人間概念を脱ぎ捨てて、生命共振の深淵にまで拡張することなのだ。
新しい生存も世界もそこからはじまる。
舞踏とは「人間」以後の人間のあり方を身を持って探る先駆なのだ。


「人間はまだ神話的秩序や歴史的な秩序、これからくる未知の秩序に、
百万分の1も触れていない。」

「われわれは自己のねどころに何かしら自己でないもの、暗く、思い穴のようなものを感覚する」

「人間の条件をすべて消し去り・・・
自他分化以前の沈理の出会いの関係の場へ下降せよ」

「見えることが腐る地点からしか姿を表さぬもの。
本当に生命を開くとは屍になることにむしろ似ている。」

(『土方巽全集 第二巻 未発表草稿』)


この無限変容する死者になるという極意を身に着けたとき、はじめて
からだの闇の長い旅が、これまでの準備期間を終え、
生命の底なしの深淵への坑道にはいるターニング・ポイントになる。
その固有の深淵への坑道を掘り進める作業の中で、徐々に私たちは気づく。
赤い神様といいい、死者というものが、
その非二元かつ多次元共振する生命クオリアの暗喩であったことに。
人間という借り着を脱いで、生命になったときはじめて、
上の写真に見るような無限の悲惨や不幸とも共振することができる。
それは自我に囚われた「人間」以後の、新しい生存の境地である。
それを呼ぶ名前はまだない。

ここから先の舞踏の練習は、これら無数の背後世界を、
さまざまな気化と物質化の技法を駆使して無限変容しつつさまよい歩く長い長い旅になる。
なぜ踊らねばならないかという自分にとっても未知の謎が隠されている
固有の深淵に至るまで。



(後柱1)
「しばしば舞踏も自我表現上の革新に止まり、<新しい>実験に終わった。
生命の呼称で呼べるものこそ舞踏そのものなのだ。」

(『土方巽全集 第二巻 未発表草稿』


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