舞踏論  第2部 「静かな家」の深淵
 
第203章 「赤い神様」とは何か


2012年の4月第一週、
共振塾ヒマラヤでは土方巽の最後のソロの舞踏譜、
「静かな家」の体読に取り掛かった。
もう三年目になるので、これまでの解読や朗読の段階のつぎに
一つ一つのセンテンスが含む深いクオリアを動きの中で追体験し、
自分固有のクオリアを見つけ出していく体読技法が見つかってきた。
「共振塾ジャーナル」に掲載したものを加筆訂正して
ここに、「舞踏論第二部 静かな家の体読法」としてまとめていくことにする。

1週間で進んだのは小見出しも入れてたった次の7行だ。

1 「赤い神様」

 

雨の中で悪事を計画する少女

床の顔に終始する

さけの顔に変質的にこだわる

○はくせいにされた春

○森の巣だ 目の巣だ、板の上に置かれた蛾

○気化した飴職人または武者絵のキリスト



まず、第1節の小見出しになっている「赤い神様」をからだでつかむまでに
三月いっぱいをかけた。
これは日常体にとってはまったく未知の方向も行く先もわからない
生命の非二元かつ多次元共振世界の暗喩だからだ。
そこでは日常世界ではくっきり分かれている自己と世界が混交してひとつになる。
その混沌世界の旅人になるためには、長い準備が必要とされる。
フクシマショックから始まった世界のクオリアによって
自己に関するクオリアが異常に圧迫され、そのなかで自己とは何か
世界とは何か、命とは何かに関するクオリアが
通常の日常世界の安定を喪失し、何かわけのわからないものに
突き動かされ、翻弄されているクオリアを味わう<世界自己混濁体験>が必要だった。
赤い神様とはまさしくその混濁そのものだからだ。
自分ではないわけの分からないなにものかが、自分を突き動かして踊っている。
そのなにものかを土方は「赤い神様」と名づけた。
土方がこの最後のソロを踊るまでには、
7歳で愛する姉が目の前から消え、数年後に死体となって戻ってくるという
彼にとっての最大のトラウマの呪縛力と格闘する37年間が必要だった。
姉が移住した神戸にその年の夏、土方は単身会いに行っている。
姉は圧化粧と豪華な着物に身を包んでいた。

(なぜ、愛する姉は目の前から消えたのか?
誰が姉を私から引き離したのか?
姉はいったい神戸で何をしていたのか?
あの化粧と着物はいったい何を意味するのか?
なぜ姉は死なねばならなかったのか?)

何がいったい私たちの運命を翻弄しているのか?
そういうわけのわからないものに突き動かされているという
土方の生涯のクオリアが「赤い神様」という言葉が暗喩しているものである。

土方はあらゆる年代で無限回自問自答を繰り返し、
無限回姉の夢を見、姉が見たかもしれない夢をたどっただろう。
成人してからは、姉が故郷を離れざるを得なかったのは
第二次世界大戦を遂行する日本国家が、
徴兵した兵隊の性欲を定期的になだめるために設けた慰安婦という戦争政策の
犠牲になったのだと理解することができた。
でもそれで収まるはずがない。
無数の見も知らぬ男たちの性欲が通過して姉のからだは
いったいどんなひどい悪夢に見舞われただろう。
40年に及ぶ姉の命の追体験が、1行目に結晶した。

雨の中で悪事を計画する少女

床の顔に終始する

さけの顔に変質的にこだわる


悪事とは誰かわけのわからぬものに対する生命のよじり返しの発露である。
復讐しようにも相手は日本国家である。
いったい何ができるというのか。
だが抑えようもなくこみ上げてくる殺意を隠すために
顔は終始のっぺらぼうの床の顔を保たねばならない。
隠そうとしてもさまざまな衝動がさけの顔のようにこみ上げてくる。
からだの輪郭がいつのまにか少女から獣の輪郭に変容してしまっている。
1973年の夏の嵐の中のソロ「少女」の冒頭で土方が踊ったのは、
そういう不可避的な隠すことと見せることの矛盾である。

土方が逢着した最後の踊りのモチーフを理解するには
それぞれが自分の人生の全体もまた何かわけのわからぬものに
規定され強いられ、突き動かされ、翻弄されていることを体感としてつかむ必要がある。
それがフクシマショック以来、わたしたちが体験した疾風怒濤のような一ヶ月だった。
舞踏譜はからだで読むものだ。
静寂体あるいは灰柱で歩きながら、舞踏譜の言葉によって励起される
内クオリアを忠実にたどる。微細なサブシグナルを感じたら、
それに脳心身全体でなりこんでからだの動きにまで増幅いく。
生命の持つ共振性を全開する。
途中で自分固有の記憶や想像に摩り替わっていっても一向に構わない。
というよりそれを増幅して自分固有のクオリアを探る。
それが踊る際の血液になるのだ。
他人から注入された血液のままでは自分の生命の踊りにはならない。
まして土方は舞踏の元型である。
元型クオリアに従うだけでは血液が凝固する。
固有のクオリアを探り、生きたサブボディ・コーボディの血液で
世界でたった一つの踊りを創る。
からだの闇のクオリア流が唯一無二の結晶体に結晶するまで磨き上げる。
それが創造である。
生命のとうとうたるクオリア流の遺産を引き継いで創造が生まれる。
その創造を私たちは生命に返す。
それが舞踏公演であり、ワークショップである。
けっして自分の自我や自己の表現などではないのだ。
そして、やがては自分が受けとった創造の技法を
ほかの人の創造の胎児が無事生まれるように助ける産婆へとつなげていく。

これが土方の舞踏譜を創造の無限宝庫に転化していく体読法である。
静かな家を体読するとは、土方から渡された命のバトンを受け継ぎ、
創造的な生命共振のリレーに参加することなのだ。


○はくせいにされた春

○森の巣だ 目の巣だ、板の上に置かれた蛾

○気化した飴職人または武者絵のキリスト


続く三行は、土方の姉と土方が体験した姉の見ただろう悪夢の中の布置である。
?製にされた春とは、姉が見ただろう悪夢と、
土方自身が襲われた悪夢が渾然一体となった
非二元世界の風景の暗喩である。
姉が持っていた暖かいもの、生気にあふれたもの、姉の青春、姉の貞操、
それらすべてが無残にも奪われ、剥製にされた春のなかにはめ込まれている。

その中で目は腐り果て、替わりにからだじゅうの皮膚が目となり
周りのわけのわからぬものが潜む森の巣と共振している。
巣とは土方独自の用語で、森の巣とは無数の森が重層し、混濁一体化して
私達を取り囲んでいる状態、
目の巣とはからだに生えた無数の第三の目を指している。
舞踏譜の別の場所では目の巣から複眼、そして皮膚への参加と深化されていく。
皮膚への参加とは、サブボディ技法における秘膜において
生命と世界の間で起こっている多次元共振をそのまま受け取る生命になることだ。
板の上に置かれた蛾とは、そういうごくごく微細な共振で震えている自分であり、
また死んで板戸の上に横たわって運ばれてきた姉の記憶と重なっている。
森の巣と目の巣が空間的な世界=自己像の
多次元かつ非二元共振を表しているとしたら、
次の、飴職人ーキリストー武者絵とは
生命の細胞に内クオリアとして刻まれた記憶が
時間の中でめくるめき変容を遂げるさまを暗示している。
若いころに働いた飴をつくる職場の友人の顔は記憶のおぼろげな想起の中で
キリストにも変容し、武者絵のなかの表情ともだぶってくる。
クオリアの無限変容性をここでは指ししめしている。
夢や想像や妄想の中であらゆるものがあっという間に別のものに変容することを
私たちは毎日体験している。
ときに徐々に変容し、ときに瞬時にすりかわる。
ただ、意識はその変容を認めると現実的な統覚を失うので
無意識裡に無視することによって頑固な自分を保っている。
自我やアイデンティティとはその強固なよろいを形成する現代最大の元型である。
人間としての意識を止め、微細な生命になりこんだときにだけ
その無限変容を受け入れることができる。
土方舞踏はそれを要求しているのだ。



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