舞踏論 第二部 「静かな家」の深淵
 

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舞踏論第二部を、加筆訂正しながら再構成しています。
整理の都合上、土方舞踏との出会いを書いた第一部は第1章から、
『静かな家』をあつかう第二部は第200章から
『病める舞姫』をめぐる第三部は第300章から始めることにします。
ゆっくりおつきあいください。


第201章 土方巽の必然


いかに衰弱体の必然と共振できるか


――長年なぜ土方巽が衰弱体に行き着かざるを得なかったのかを
からだの闇にもぐり探究し続けているうちに、
じょじょに土方舞踏の変遷の必然性に共振できるようになって来た。
日本でもそうだが、外国の生徒はきわめて限られた舞踏に関する印象を抱いて
ヒマラヤにやってくる。
まるで群盲象を語るがごとく、各人が異なった破片的なイメージだけを持っている。
誰もが舞踏とは何か、をめぐって問い続け、困惑し、悩んでいる。
なぜ、こんな混乱がもたらされたのか?
誰も土方舞踏の最後の境地を知らない。
舞踏の第二、第三世代は土方舞踏のうちのごく限られた時期の舞踏スタイルを学び、
それをもとに独自に発展させてきた。
わたしはほとんどすべての第二世代、第三世代の舞踏公演を見てきたが
土方の舞踏から受けた巨大な釣鐘で頭を殴られて
25年も鳴り響き続けるような衝撃を受けることは一度もなかった。
なぜ心が動かされないのか?
いったいどこが違うのか?
私にとって長い間の謎だった。
だが、土方巽自身も、舞踏の何たるかを知らないものらによって、
偽りのイメージが外国で流布され、Butohなるものに変質してしまっていることに
深く慨嘆させられていたことを知った。

「驚きのない<新しさ>。
<新しい>実験は美学に過ぎない。
しばしば舞踏も自我表現上の革新に止まり<新しい>実験に終わった。
生命の呼称で呼べるものこそ舞踏なのだ。」
(未発表草稿より)

お前らのやっていることは私らが若いうちにやった
自己表現の新しい実験に過ぎないじゃないか。
しかももっと小さなスケールの実験しかできていない。
そんなものをはるかに通り過ぎた後に衰弱体の舞踏はやってきたのだ。
誰も俺が命がけで伝えようとした舞踏とは何かを分かっていない。
土方はいたずらに安っぽいButohイメージが世界に流布され、
誤解に誤解を重ねていることにいらだっていた。
だが、それをどうしようもないまま、土方は斃れた。

土方の死後、さらに衰弱体を知らないButohが世界を歩き回り、
舞踏の神髄である衰弱体技法は誰にも受け継がれないまま封印されてしまった。
だから今ではもう、何が舞踏なのか、誰にもわからないほど混乱が起こっている。

舞踏のわかりにくさはここからくる。
共振塾の授業で衰弱体の舞踏とそれ以前の土方の舞踏との差異を知らない生徒のために、
何度か土方の一生の舞踏スタイルの変遷を講義するうちに、
この混乱を今のうちに解いておかなければならないと思うようになった。
第二、段三世代の舞踏家は、ほんのある時期の土方の舞踏スタイルに触れ、
そのまま日本各地や外国に拠点を見つけて活動を開始した。
その多くは、アバンギャルド時代の舞踏であったり、肉体の氾濫時代の
大掛かりな仕掛けを駆使した舞踏スタイルなどに影響されて舞踏を開始したもので
そのうち誰一人土方舞踏の総体を身につけたものはいない。
とりわけ70年代以降の衰弱体技法は芦川羊子以外はだれも教えてもらっていない。
その芦川は、自分だけが土方から受け継いだ秘儀をからだに封印したまま
世界に開こうとしない。
だから、すべてのButoh Dancerは、自分がたまたま習ったり、思い込んだり、
囚われたりしている断片的なButoh概念を舞踏だと取り違え、思い込むしかできない。
だが、そんなものを振り回すことは混乱に輪をかけることにしかならない。
舞踏とButohをめぐる不幸な混乱を解くには、
破片的な舞踏イメージから自分を解き放ち、
あくまで舞踏の変遷の総体の歴史を土方巽の一生の必然性において捉え、
共振することから始めねばならないのだ。

<守破離>という必然への道

彼の舞踏の変遷の必然を捉えるには、
茶道や武道における<守破離>のダイナミクスにおいて捉えることが助けになる。

<守破離>とは、茶道を開いた千利休の
「規矩作法 守りつくして 破るとも 離るるとても 本を忘するな」 から来た言葉。
ここから後代の茶道家・川上不白が、「守破離」として「守ハマモル、破ハヤブル、離ハハナルルと申し候。弟子ニ教ルは守と申す所なり。弟子守ヲ習盡し能成候ヘバ自然と自身よりヤブル。これ上手の段なり。さて、守るにても片輪、破るにても片輪、この二つを離れて名人なり。前の二つを合して離れて、しかも二つを守ることなり」とまとめた。
舞踏家になろうと決心した40代のときの私は、<守破離>を知らなかった。
いわんや、学ぶとは何かを知らなかったのだ。
自分を無にして受け入れようとしない限り、何一つ学ぶことなどできない。
だが、当時のわたしは頭でっかちで、すべて頭で理解しようとした。
そして、いたずらな独創ばかりを追い求めていた。
土方にも反抗し、幾度となくさらば土方と叫んだ。
世阿弥の見出した<序破急>に対しても、
へそ曲がりなわたしは<破序急>だの<急序破>などの変形を試み続ける
無残な歳月に明け暮れた。
だが、空転ばかりが続いた。
学ぶとは何かを知り初めたのは、遠藤りょうきゅう氏に、タオ指圧を学ぶことからだった。自我や自己を捨て原始的な共感する心身にならないと、指圧はまったく身につかない
。4年間の空転を体験して、はじめて自我や自己ではどうにもならない世界があることを知った。
その世界の学ぶということの原理を集約したのが<守破離>なのだ。
<守>を極めない限り、<破>はありえない。
<破>を極限まで追求したときはじめて<離>の境位が開けてくる。

<守> 回れないを回る。立てないを立つ

どの道であれ、基本技法を学び極めるという<守>ができないうちは、破も離もありえない。
土方は破のひとであり、離のひとでもあったが、
その一生を振り返ると、<守>を守り続けた期間が意外なほど長い。
土方は19才で郷里の秋田から上京し、モダンダンスやバレエを習い始め、
10数年間は必死でそれを習い覚えようと<守>に耐えた。
後年土方は弟子の前であるバレエの一曲をさらっと踊ってみせ、
これくらいのことがなんなくできるようにならなければ、と漏らしている。
自分の舞踏がこの長い<守>に耐える苦難の中からにじみ出てきたことを伝えたかったのだ。
この時期の土方は、当時のモダンダンスの堅苦しいお家意識に縛られながら、
なんとか、ダンサーとして立とうとあがき続けた。
そのなかで、いくらがんばって踊ろうとしてもうまく踊れない、
回ろうとして回れない、立とうとしても立てない、
というどうしようもないエッジにぶつかった。
がにまたの日本人の脚を持って生まれた彼に、
西洋人のようなすらりとした立ち方もターンも真似できるわけがない。
日本人の土俗的なからだと、西洋の美学の間の矛盾と葛藤をわが身に荷なったのだ。
そのエッジに直面した苦悩と劣等感の中から、
「回れないを回る。立てないを立つ」という
起死回生の<破>が生まれていく必然があった。

1958年、モダンダンスの構成の中の「埴輪の舞」と題された一幕で、
30歳の彼は舞台上で鶏とともに転げまわるソロを踊った。
土方巽という芸名で登場した初舞台であった。
31歳のとき、大野一雄の長男、当時20歳の大野義人と作ったデュオは
三島由紀夫の小説からとった「禁色」という題名の男色がテーマのものだ。
この舞台では大野義人に両股の間で鶏を絞め殺すという振り付けをし、
お約束どおりのモダンダンスを期待する聴衆が顰蹙のあまり席を立って去った。
聴衆に顰蹙を買われたのではない。
顰蹙は彼が戦略的に売りつけたものだ。
初めてのソロは、32歳のときの「種子」と題するものだ。
ここでも種子から芽が出、花が咲きというお定まりの美意識に囚われた聴衆の
期待を裏切り、20分間の間ただ、種子の姿勢を保ったまま、芽を出せない種子を踊った。
<守>を守り抜き、出来るか出来ないかのぎりぎりの極限までたどるときにだけ、
必然の<破>に出会う。

<破> 暗黒舞踏派の結成から「肉体の氾濫」まで

33歳の土方は、モダンダンスの枠を覆すべく暗黒舞踏派を結成する。
モダンダンスの枠などにこだわる限り、所詮井の中の蛙にとどまる。
その小さな水溜りを支えているさらに大きな枠組への囚われが存在する。
土方の<破>は社会全体に歯向かう疾風怒濤の極限まで拡大されざるを得なかった。
社会の既成の概念をことごとく覆そうする試みを続けた。
「レダ三態」で共演した妻の元藤Y子の裸体に絵の具を塗りたくり、
肛門にビー玉を詰め込んだ。
現代音楽の小杉武久が土方のからだにサックス音をぶつけた。
この公演を見た埴谷雄高は、土方の踊りを「胎内瞑想」と呼んだ。
埴谷は、未来の目から現在を見るという独自の思想家だが、
瞑想によってしか触れ得ない異なる現実がそこに出現していることを
震撼する共振によって知ったのだ。
美術家風倉匠との共演では彼の胸に焼き鏝を押し付けて焼いた。
舞台に畳を敷き詰め盲目のあんまの老婆と踊った「あんま」、
大野一雄との「ばら色ダンス」、
写真家細江英光による、「かまいたち」の写真撮影など、
さまざまなジャンルの前衛芸術家との共振を膨らませながら
1968年「肉体の氾濫―土方巽と日本人」に至る。
この伝説的なソロに土方はこれまで学んだテクニックと、
アバンギャルドの実験のすべてを駆使し、
詰め掛けた反体制的な聴衆をさらに煽るかのような眼差しで挑みかかった。
この公演は土方のこれまでの<守>と<破>のすべてを統合し、
極限まで押し詰めるものだった。
<破>を極限まで押し詰めたときにだけ、
<離>の契機がおずおずと顔を出す。
そこで土方が直面したものはなんだったのか?


<離> 衰弱体―人間という元型への囚われを脱ぐ


土方が「肉体への氾濫」でぶつかったのは、
現代社会を閉じ込めているさらに大きな通念である<人間>という元型だ。
<人間>という元型への囚われを脱がない限り、
社会への氾濫もまた、人間の枠内に囚われたままだ。
これが土方が最後にぶつかった必然の課題だった。
人間という現代最大の共同幻想はどのようにして打ち破ることができるか。
「肉体の氾濫」以後の土方は、からだの闇のさらなる未開の闇を探った。
彼のからだに住まわせている死んだ姉とともに過ごす
長い孤独なからだの闇の不思議にからだを共振させる瞑想の時期を持った。
午前中いっぱいは姉の着物を着、長い髪を伸ばし、
姉の魂と共振するからだの闇の不思議を探り続けた。
その挙句に見出されたのが衰弱体だ。

「私は何か、衰弱というメートル原基でもって、
人間の柔らかすぎる生の寸法を計ってみたい。
衰弱といっても日本の古典芸能にある<翁>のような
脱水した枯れとかわびとか言われる一種の身体を名指していっているわけではありません。そうではなくて、
猛烈な衰弱体とでも言うべきものが私の舞踏の中には必要だったんです。」
(公演・舞踏行脚)


肉体の氾濫で出し切ったすべてのテクニックを土方は脱ぎ捨てた。
もう人間のからだを疑わない現代ダンスではない。
死者のからだになりきること。
肉体の氾濫時代の挑みかかる眼差しから、死者のガラス玉の目へ、目腐れへ。
関係の間が腐る、間腐れへ。
自他分化以前の沈理の出会いへ。

これ以後の土方は、生きた人間のからだという制約を離れ、
死者と交感する異界への通路へと踊る場所を移した。
限りなく衰弱したからだになりこまない限り、
人間が見過ごしているかすかな生命の震えは感じ取ることが出来ない。
自我や自己に囚われた人間のままではもう何も出来ない。

「一触即壊のからだ」

「見ることが腐る地点から姿を現さぬもの。
本当に生命を開くとは、屍になることにむしろ似ている。」

「舞踏とは命がけで突っ立つ死体である。」

「人間の条件をすべて脱ぎ去ること、
これだけは間違わないでください。」

「自他の分化以前の、沈理の出会いの場へ降りてゆけ。
舞踏とはそういう関係の根へ降りていく作業なのだ。」
(全集第二巻・未発表草稿)

これが土方が到達した根源的な<離>の境地だった。
これら流布されている土方の言説の断片は、
衰弱体の必然の中で血肉化されなければならない。
Butohの名によって流布されているものの多くは、
土方がその一生をかけてたどりついた衰弱体の必然を知らない。
蟹股や、白塗りや、舞台の仕掛けといった見かけの一部をまねているだけだ。
それだけでは死者とさえ交感する生命の舞踏の沈理の出会いの世界へ降りていけない。
土方の<守破離>の必然と共振できるまで、
踊り続け、挑み続け、からだの闇を掘り続けること。
自我や自己、人間の条件のすべてを脱ぎ捨て続けること。
君自身の必然の<守破離>をたどること。
舞踏とは何かを語るのはそれからでいい。

<未踏の離> 『病める舞姫』―未踏の舞踏へ

土方巽の衰弱体の舞踏は、1970年代の数年間に花咲いた。
そしてその活動がもっとも油が乗り切った1976年、
突然外部からの力で活動を停止させられた。
土方が活動の拠点としていた「アスベスト館」は、
東京の住宅地にあった。活動が活発になるに連れて
異様な風体の舞踏家や観客が詰め寄せることに対し
付近の住民が反対運動を起こした。
何度かの封印・再開を繰り返した後、ついに1976年
土方はアスベスト館を封印せざるを得ない状況に追い込まれた。
衰弱体舞踏の創造をはじめてまだ4,5年しか経っていない。
守破離の<離>はまだ完遂していないのだ。
これからだ、というときに手痛い圧力に見舞われた。
まだまだ踊られねばならないものがいっぱいあるのに、
突如創造の場を失った土方は、沸騰する創造の息吹を抑えられない。
たぎり立つ生命の創造力を封じ込めることは、
どんな力によっても不可能だ。
土方はすぐさま『病める舞姫』の執筆にとりかかった。
そこには踊りの手足をもぎ取られた舞踏家土方が、
筆を咥えた執念の達磨となって、半ば呪文のような奇妙な文体で
まだ踊られていない舞踏が刻み込まれている。
そうだ。
『病める舞姫』は土方から将来の舞踏家に向けて贈られた
これから踊られねばならない未踏の舞踏の宝庫なのだ。
そこには土方が志向した<生命の呼称で呼ばれうる舞踏>
とは何かへのヒントが散りばめられている。
この舞踏論第二部では『静かな家』の深淵を探る。
そして舞踏論第三部で、
『病める舞姫』に秘められた未踏の舞踏を探求する。
『病める舞姫』は『静かな家』以上に読解困難な
独特の文体で綴られている。
長い道程になりそうだ。
この旅の途中でわたしはこの世から姿を消すだろう。
誰かがその後を継いでくれることを信じる。



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