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舞踏論 第一部 ――土方巽に捧げる


第1章 舞踏とはなにか 
 

●青白い人間概念が砕け散った

私は1970年、京都大学西部講堂で行われた土方巽の燔犠大踏艦第1回京都公演の現場で青白い魂を断ち割られて立ちすくんでいた。

暗い舞台に敷き詰められた古畳や戸板の陰に長い間潜んでいた舞踏手たちが、最後の最後に水俣病患者さながらのちぢかんだ手足をもそもそと動かして踊りだしたとき、私は追い詰められて泣いた。私の青白い人間理解はそのとき根底から転倒させられたのだ。

それまで私は西洋哲学から学んだありきたりの人間概念、すなわち頭は理性の座、顔は良識の窓、まっすぐ意志的に動く健康なからだ、肉体の下のほうに欲望がうずまいているというようなピラミッド型の人間理解に囚われていた。だが、土方舞踏の舞踏手たちは、顔の真ん中に無意識を噴き出し、ゆがんだからだは何者かに操られ、乗っ取られ、苦悶にゆがみ、良心なんぞは尻の穴に半分突っ込まれてぶらぶら揺れていた。私の青年期の人間概念はひとたまりもなく砕け散った。それがなんとも爽快だったのだ!

帰りの寂しい夜道、私は彼らの踊りをなぞるように踊り狂った。私は22歳だった。舞踏を生きたいと念った。学生結婚していた私の身重の妻が私の狂態を諫めて止めた。

その一夜以来私は25年間踊らなかった。すぐに生まれた子供の子育てと不慣れな身過ぎ世過ぎに追われて長い間生き迷った。子育てをほぼ終えた年、まとっていたつくりかけの家を脱いで私は一人になった。
私が舞踏家として生きる決心をしたのは、はじめて土方の舞台を見てから25年経た1994年だ。

だが、頭の中で25年前に見た土方の舞踏から受けた衝撃が、まるで巨大な釣鐘で頭をゴーンと殴られたように25年間鳴り響いていたのだ。そのような舞踏を踊りたいと思った。だが、そのときすでに土方はこの世にいなかった。

第2世代、第3世代の舞踏家たちがBUTOHと呼び変えて舞踏を名のっていたが、私にはそれは土方舞踏とはまるで別物に見えた。何が違うのか、直観では違いが分るのだが、それをうまく説明できなかった。舞踏とはなにか。わたしはただ、自分のからだの闇に潜り、土方の踊りから受けた衝撃がどこから生まれたのかを探り続けることしかできなかった。

長い間泣いていた。舞踏とはなにかを探して、闇をさまよい続けていた。からだの闇は寒いところだ。誰もいない。物音一つしない。ただ、真っ暗な暗闇に坑道をひとつ、またひとつと掘り続けるしかなかった。

からだの闇を掘って10年があっという間に過ぎた。私は日本を離れ、世界を踊り歩くことも止めて、ヒマラヤ・インドに小さな練習場を開いた。日本や西洋社会にいては情報が多すぎてからだの闇に耳を澄ますことができないと感じたからだ。ヒマラヤにきて5年が過ぎた。意識を消し、からだや下意識と同じくらいにまで鎮めることではじめてからだの中を流れ変容しているクオリア(意識ではなく命が感じているあらゆるものの質感や、体感、実感の総称)がつぶさに感じられるようになる。そして、それをたどることで、ようやく私は、からだの闇から舞踏の巣を見つける鉱脈にたどり着いた。

私は、土方独りが見つけた舞踏を、誰もが自分のからだの闇を掘るなかで見つけ出すことができる坑道を探していたのだ。土方は自分の舞踏をただ踊って見せることと、自らが踊ることを止めた1973年以後は弟子たちに振付けることで伝えようとした。おびただしい独特の舞踏言語が土方全集や生徒たちのノートから伝わってくる。土方の舞踏と舞踏言語が何を伝えようとしているのか、自分のからだのなかでそれと共振するクオリアを見つけ出す以外に私には方法はなかった。それに十年かかった。

●舞踏とはなにか

土方の舞踏を舞踏たらしめているものが三つある。

1.人間の条件を捨て、死者狂者不具者と共振するからだになる

2.人間界以外の異次元を開畳し、転生する

3.異界からこの世を見つめる臨生のまなざし

これらを抜きに土方の舞踏はない。逆にそれ以外の、白塗りとか、がに股とか、たまたま現われた見かけ上の特徴から理解された舞踏理解は、どうでもよい仮象に惑わされた誤解でしかない。

土方にとって舞踏とは、人間概念を拡張する闘いだった。西洋のダンスは、人間のいわゆる美しい姿や健康的な躍動のみを美とすることでその狭い世界を形作っている。そのいわゆる「美しい」ダンスを青年の土方は踊ろうとして踊れなかった。いわゆる日本人のがに股の足で、バレエやモダンダンスを踊ろうとしてもこっけいでしかない。そこに土方は西洋流の人間概念が、すらっとした肢体、よく伸びる手足、ジャンプなど、理想的な形を美の典型として見せ付けることによって、そうできない人間に対する威嚇としたはたらく残虐さを見てとったのだ。それは狭い人間概念に人を閉じ込めようとするものではないのか。

逆に、いわゆる西洋のダンスが美として認めないもののなかに、これまでにない美を発見すること、これが土方舞踏が掘りぬいた最も本質的な、第一の仕事だった。

●人間の条件を捨てる

土方が舞踏の門下生たちに真っ先に伝えたことは、「人間の条件を捨てる。これだけは間違わないでくださいよ」であった。自分が人間だなどと思い上がっている限り、その枠に囚われ舞踏などできない。異界に転生するためのそれは必須の課題なのだ。

土方の後期舞踏を一貫する衰弱体の収集の作業は、水俣病や、らい病、疱瘡病、老婆、愚者など、世界中の死者狂者疾者不具者と共振するクオリアの中に美を発見することだった。ヒューマニスティックな同情などでそうするのではない。己れのからだの闇のなかに棲む死者狂者疾者不具者が彼らと共振してやまないのだ。それによって近代西洋文化が秘め持ついわゆる健常者以外を社会から掃除して締め出す、近代人間概念のもつ残忍な狭さを撃った。

第二は、土方の作る舞台の位相は、ちょうど世阿弥の夢幻能と同じく、この世の生きた人間ではなく、人間の条件をすべて脱いだところに現われる、もうひとつの人間の層に降りて踊ることだった。生者の次元ではなく、他界や前近代の人間が生きる多次元流動的な世界を開き、そこに転生する踊りを追求した。そこは、人間と動物、生者と死者が等価に関わりあう世界である。近代的な人間の心身を脱落させることによってのみその世界に触れることができる。言うまでもなく土方は、この世界とその世界を自由に行き来する力を開くことで、人間概念をはるかに拡張することができることを身をもって示したのだ。

第三の本質的な特徴は、その異次元の世界から、いわば死者の棲まう他界からこの生きた世界を臨生するまなざしだ。ただ、他界に遊ぶのではない。彼の異界からのまなざしはいつも何事かを強烈に問うてゆらいでいる。それが何であるかは土方の舞踏を前に、各自が自分のからだの闇のどんなクオリアが震えるのかを体験することで知るしかない。言葉でなどいえるものではない。

以上が、もっとも本質的な舞踏の欠かせぬ特徴である。それ以外の見掛け上の特性など、じつは、必ずしもそれである必要はないものなのだ。どうでもよいものだけが、世界にはばかることで、舞踏が長い間誤解されてきた。

●多次元をリゾーム的に流動する

死者狂者疾者不具者との共振、異次元転生、異界からの臨生――これらが舞踏を舞踏たらしめているものである。舞踏が人類の世界史の中で何事か大きな革命でありうるのは、これらによっている。白塗りやがに股などの見かけによってでないことは、明らかであろう。

さらに言えば、土方舞踏が開こうとした新しい人間概念の拡張の試みこそ、かつてフーコーが予言した「人間の死」、いうまでもなく、狭い近代的人間概念を脱いで、新しい生存様式と知の様式を発見していく道を開こうとするさきがけであった。それはとてつもないエネルギーと長い射程をもった、このとんでもなく縮こまった人間概念に支配される現代世界に対する転覆の試みなのだ。

フーコーは大著『言葉と物』の最後のページに、希望に満ちて記している。

「人間は16世紀以後のヨーロッパ文化による、最近の発見であるに過ぎない。おそらく、その終焉は間近いのだ。人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するであろう。」(1966)

そうだ。舞踏が切り開いている、多次元をリゾームのように流動する生き方こそ、近代の狭い波打ち際で震えている人間という砂文字を消し、新しい生を開く大洋の波なのだ。



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