第17章 土方巽の最後のソロ


土方巽は、最後のソロ「静かな家」(1973年)のための
250行に及ぶ詳細な舞踏譜を残している(全集第2巻)。
ここには、彼が1968年の「肉体の反乱」以降、
それまでの挑みかかるような舞踏スタイルを脱ぎ捨て、
人間という現代世界を覆う最大の元型の囚われから脱するために
必然的に到達した衰弱体技法のエッセンスが秘められている。
彼が希求した「命の呼称で呼ばれる舞踏」へ至るための遺言書でさえある。

これが収録されている土方巽全集は1998年に発行されている。
その年から私は世界行脚の旅に出た。
1万冊以上あった蔵書から、たった5冊の書物だけを残して
家も家財道具も書物も300本以上のダンスビデオの収集もすべて処分して旅に出た。
残した5冊のうちの一冊がこの土方巽全集だった。
土方の舞踏譜は、独特の難解な暗喩に満ちているので、
はじめは何を書いているのか、見当もつかなかった。
だが、10年以上もこの深い闇に向き合っているうちに
だんだん自分のからだの闇からつかんだものが、
この舞踏譜の世界につながっていることが感じられ始めた。
全部にではない。まだまだ未解明の部分は数多く残っている。
だがある日、頭ではなくからだで透明に共振できるようになって来た。
ここに来るまでにかっきり10年かかったことになる。

「静かな家」ソロ 覚書き


舞踏譜は全体で250行以上、27節からなる。
今日はその第1節からはじめよう。
節番号も行番号も原本にはない。記述の便宜のために付け加えたものだ。


第1節 「赤い神様」


1.雨の中で悪事を計画する少女
2.床の顔に終始する
3.さけの顔に変質的にこだわる
4.〇はくせいにされた春
5.〇森の巣だ 目の巣だ、板の上に置かれた蛾
6.〇気化した飴職人または武者絵のキリスト
7.〇額をはしる細いくもの糸
8.〇乞食
9.〇猫の腰
10.〇背後の世界
11.〇ごみ処理場
12.鏡をこするとゆれる花影があった
13.納屋の中でもろい物音がくずれた
14.カンコウ場
15.Xによる還元を再生
16.鏡のウラ


一行ずつ見ていこう。

「赤い神様」

まず誰もが最初にこれにつまずくだろう。
赤い神様とはいったいなんだ?
頭で考えているうちは謎は解けない。
ただ意識を止め、土方が踊りながら共振したであろう「赤い神様」と
自分もからだで共振しているうちに、闇が透けて見えてくる。
土方は赤い神様と踊ったのだ。
自分の意志や考えで動くのではない。
なにものかわけの分からないものにいやおうなく突き動かされながら動く。
動かされるといっても衰弱体の動きは、
ごく微細にしかし驚くほど多次元的にゆらぐだけだ。
土方はこの自分を多次元的にゆらがせるなにものかを、
「赤い神様」という象徴的な名前で呼んだ。
この節全体が、この自分を突き動かす得体の知れないものらに満ちている。
それらわけの分からないものら全体のシンボリックな呼称なのだ。

この一語を、西洋人に説明するときには注釈が要る。
神とはユングが発見した集合的無意識を構成する<元型>の一種である。
だが、神の元型は文化圏によって大きく異なる。
ここでいう神様とは、一神教文化の西洋的な神ではない。
日本の神はアニミズムの八百万の神々だ。
その八百万の神々という日本固有の元型を土方は自分なりにひねって
赤い神様と名づけた。
元型に触れるときは、このひねりが重要である。
あるがままの元型と付き合おうとすると必然的にそれに囚われる。
元型とはそういう強い拘束力を持ったものだ。
その拘束から逃れて、なにごとかを創造するには、
元型のもつ拘束力から身をかわすために、必然的に生まれるひねりが必須である。
その身をよじるひねりから、創造が生まれる。
土方は無数の元型をその舞踏に使ったがそれに拘束されてはいない。
元型の力とは何か、それといかに付き合うべきかの智慧は
沈理の世界、非二元の闇を探る旅人には欠かせぬものである。
赤い神様という呼称は、わけの分からない力に身を預けて踊ろうとするものが、
からだを預けながらも、ぎりぎりのところでそれに囚われずに身を守る
根源的な技能を持たねばならない。
それはやはりわけの分からない強い力に身を預け憑依される
あらゆる巫女やシャーマンが持つ伝統的な智慧だ。
その根源的な覚悟がこの赤い神様という呼称に秘められている。

1.雨の中で悪事を計画する少女

土方はからだの闇に死んだ姉を飼っていた。
長年その姉に共振していると、姉との多次元的な関係が透けて見えてくる。
異次元との関係は三次元的な単純なものではない。
姉が立ち上がると土方は転ぶというような複雑な関係だ。
ここでも雨の中で悪事を計画する少女の計画が少しでも進むと
土方は微妙な影響を受ける。
そういう複雑な沈理の出会いを無数に用意しているのが
この舞踏譜である。

少女は土方のアニマである。
舞踏譜の第一行目にアニマを持ってきたことは重大である。
人はその一生を賭けてアニマの謎と格闘しなければならない存在なのだ。
アニマとは内なる異性的要素である。
内なる異性像と外なる異性像は絶え間なく共振している。
恋愛とは内なる異性像と共振する外なる異性との出会いである。
私たちはその内外クオリアの共振になかなか透明に気づけない。
だからいつもなにものかに振り回されてしまうのだ。
アニマとの格闘は終生続く。
土方はこのとき45歳。
大野の代表作である「アルヘンチーナ」も「私のお母さん」も大野のアニマである。
自分のアニマと格闘し続けた土方だからこそ、大野のアニマとの生涯にわたる格闘ともよく共振し、
それを振付けることができた。
大野がアニマを踊ったのは70歳から80歳になってからだ。
若いうちは急ぐことはない。
だが、覚悟はしておくほうがいい。
いつかはアニマを、あるいはアニムスを踊らねばならないときがくる。

2.床の顔に終始する

床の顔とは、人間の表情をそぎ落とした平坦な無の顔である。
灰柱の歩行や寸法の歩行の顔と同様である。
床が踏まれたり汚れたりすると顔も微細に影響を受けひずむ。
そういう微細精妙な顔を保ち続けるのが衰弱体である。

3.さけの顔に変質的にこだわる

床の顔に終始しつつも、
からだの闇から、そこに秘められている思わぬ衝動が突き上げてくる。
偏執狂的な衝動は土方自身の異貌の自己のひとつである。
そういう秘められ、解離されている影の人格たちにもからだを開く。
さけの顔はよく見ると獰猛極まりない。
肉食のさけは鷹同様の鋭い目と尖った口を持つ。
そういう顔にこだわる異貌の自己にも身を預ける。
ただし囚われるのではなく絶妙のタイミングとサイズで
それらが出てくる制御されたやり方で。
その精妙な制御術が衰弱体には必要である。

4.〇はくせいにされた春

はくせいは、衰弱体にとって欠かせぬ変成のクオリアである。
鳥や獣ははくせいにされることで、生きていたときとは異なる時間をまとう。
はくせいはゆっくりと変成する。
50年間蔵のおくに仕舞われていたはくせいを取り出すと、
内部が虫に喰われ、一触即壊の存在になり変わっている。
ここではさらに世界そのものがはくせいと化している。
春の時空そのものがはくせいになった世界で微細に踊る。
春の温かさをはくせいにせよ。
そのほんの温かさによってさえ一触即壊になる世界で踊れ。
それが衰弱体の世界なのだ。

5.〇森の巣だ 目の巣だ、板の上に置かれた蛾

巣は、土方独特の重要な用語である。
巣とは多様なクオリアが渾然一体となったものを指す。
目の巣とは、腐った目や、ガラス玉の目や、死者の目や、眇めや、
病んだ目や、さけや獣の目や、離見の目や、その他もろもろの目の住処であり
それらが入れ替わり立ち代わり現れる。
森はまた、巣同様の、しかし見知らぬクオリアたちの住処である。
森の巣とは、したがって巣の巣、複雑怪奇な多次元混淆世界を指す。
そして、多次元は同時に非二元世界でもある。
たったひとつの死んだ蛾でさえもまた
多次元を変容する非二元融即の世界を孕む存在である。

6.〇気化した飴職人または武者絵のキリスト

土方は若いころ飴づくり職人のもとで働いていたことがある。
その記憶は年月の中で気化し非二元世界の住人となる。
気化するとは、三次元世界の拘束から脱することだ。
だから二次元の絵に描かれた世界とも容易に共振する。
飴職人の顔立ちと、武者絵のキリスト像が混淆し
ゆらぎつつ入れ替わる沈理の出会いが起こる世界にはいる。

7.〇額を走る細いくもの糸
8.〇乞食
9.〇猫の腰


これらの多様なクオリアがからだの各部に巣食う。
無数の舞踏の巣のからだから、
さまざまな内クオリアが立ち現れ、通り過ぎる。
それらの多数多様なクオリアがただ微細なゆらぎとなって暗示される。

10.〇背後の世界

彼を動かすのは不可視の異次元のなにものかである。
それをここでは背後の世界と呼ぶ。
命はいつもそういう世界のクオリアと共振しているからだ。
舞踏家はそういう不可視の世界と微細に共振している命を踊るだけだ。
それらの共振は私たちの意志や考えによるものではない。
それを超えて勝手に起こっている。
舞踏家はただ研ぎ澄まされた異次元への微細感覚を通じて
それらの生命共振にからだを貸す。
背後世界に耳を澄ませ。
きみにとっての背後世界とは何か?
戦争の死者の世界か、思い出せないものの住む世界か、
胎児のころの夢か、秘められた未来への希望か、世界中の不幸か?
それらの世界と共振している命に対する微細覚を開け。
背後世界と踊れ。

11.〇ごみ処理場

背後の世界にふれるには、無数の通路がある。
命が共振しているのは命あるものだけではない。
命あるものと命なきものの共振の場所に降りていけ。
生命発生以来、命はいつも命なき外界と命がけで共振してきた。
日常世界で役目を果たしてただ滅びていこうとしているものら。
ごみ処理場のような壊れ物が集積した場所もまた背後世界への通路のひとつだ。
それらのものはまた異次元に転生していこうとする途上にある。

12.鏡をこするとゆれる花影があった

三次元世界を成り立たせている二元論、有と無の間でゆらぐ
どちらにも属さないものらのクオリアがある。
鏡をこすると花影がゆれる。
いまここではない異次元がふと顔を覗かせる瞬間だ。
日常体はそういうものはなんでもないものとして無視して大股でまたぎこす。
だが、舞踏家はそういう瞬間に敏感だ。
命はそういうものとも共振していることを知っているからだ。

13.納屋の中でもろい物音がくずれた

見えないものらが立てる物音に
命はいつも命がけで耳を澄ましている。
40億年の生命史の中では、予測などできないことが次々と起こった。
一寸先に何が起こるかわからない。
不可視の物音への震え通じて、命は背後の異次元と共振している。

14.カンコウ場

これは記録にないので定かではないが
カン工場にも土方の個人的な思い入れがある。
命をなくしたものがカンに詰められ別の時間をたどり始める。
そしてまた食べられることによって命に同化され別の生命となる。
缶詰は前記のはくせいにも通じる転生のひとつのありかたなのだ。

15.Xによる還元を再生

以上の多くはXによる還元としてまとめられる。
Xによる還元いうのもまた土方の沈理の思想をよく表している。
還元とはあるものからその次元数を差し引くときに物事が変容するあり方である。
Xには何を代入してもよい。
水素が酸化してできる水から、酸素を差し引くと水素に戻る。
三次元の地形から一次元を減じると二次元の地図になる。
そこからまた三次元の地形を再生することができる。
顔から表情を差し引くと床の顔になる。
床の顔にモノマニアックな衝動がこみ上げるとさけの顔がふと現れる。
目の前にある紙から時間を差し引くと過去の樹木になる。
アマゾンの密林だったかも知れない。
死んだ蛾は生きた蛾から時間を差し引かれて静止する蛾となった。
だが差し引かれた時間を加えることで蛾は再生する。
ありとあらゆるものが、この方法で変容する。
命は平気でありとある変容に共振している。
命は日常の人間のように自他、心身、内外、生死などの
二元論に束縛されていないからだ。
変容には自他、心身、生死の境もない。
命が創造する夢の世界には死者やいまここにないものが
境を越えていくらでも登場し交錯する。
沈理の出会いとは二元論や四次元時空を超えた出会いである。
土方の弟子が残した稽古ノートにもこの言葉が見える。
Xによる還元とその再生は、命のレベルで起こっていることに学べという
土方が生徒たちに与えた想像力を鍛える試金石でもあったのだ。
(余談だが、この一行を英語に翻訳するのは実に難航した。
regenerate, replay, reborn, rebirth,,,,日本語の再生は多義語である。
それに「Xによる還元」のXが多義性に拍車をかける。
再生はこれらの英語のすべての意味を統合してはじめて成り立つ。
「Xによる還元を再生」とは、土方が生命クオリアの
多次元かつ非二元の変容流動の機微を精確に捉えようとした沈理の思想が込められている。
非二元界の沈理はとらえどころのなさをもともと持っているのだ。
この節の私の「Xによる還元と再生」の例題も多数多様性を含ませている。)

16.鏡のウラ

鏡の裏には何があるか?
何が見える?
二次元や三次元の低次元思考で考えるな。 
これは異次元界を示す暗喩なのだ。
ただ命になって感じよ。
見えるものと不可視のものの間で共振している命になれ。
生と死のあわいで震えている命になれ。
存在と非存在の境を越えて生きている
透明な命になれ!

土方の最後のソロ、「静かな家」のためのこのメモは
命の呼称で呼ばれる舞踏を開く秘伝書である。

←BACK(第16章) ■ NEXT→