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第15章 なぜ、衰弱体なのか


思えば長いこと土方の衰弱体という謎の周りをさまよってきた。
はじめてそのブラックホールのような穴に転げ落ちたのは20過ぎのときだ。
1970年10月、土方巽燔犠大踏鑑第一回京都公演は、
当時私たち全共闘派学生によって占拠され自主管理されていた京大西部講堂で開かれた。
満員を通り越して壇上の半分まで観客があふれる熱気だった。
その公演を見て、わたしはかなづちで頭を殴られ、人間観が天地逆転反倒するほどの衝撃を受けた。
それから25年間の生き迷いの挙句、私が舞踏家として生きようと決めた年、
京都の左京区の私の借家で土方巽の映画上映会を開いた。
土方の『疱瘡譚』の8ミリフィルムを、そのころまだ存命だった奥さんの元藤Y子さんが東京から自ら運んできた。
「あちこちに貸し出しているうちに、切れたり痛んだりしたので、
もうこれ以上傷つかないように自分の目の前で映写してもらっているの」とおっしゃっていた。
8ミリを見ながら震えが来た。いったいどうして動いているのか、わけがわからなかった。
からだの各部が始終さまざまな方向に揺らいでいる。この世の人間の動きとは思えなかった。
その土方の動きはいまだに網膜に焼きついたままだ。
まねをしようとしても似ても似つかないものになるだけだった。
土方の衰弱体は深い謎としてからだの闇に沈んだ。
ほとんどの日本の第二世代第三世代の舞踏家の公演を見て回ったが、
誰一人衰弱体を踊る人には出会えなかった。
この秘密は自分ひとりで解くしかないものだと観念した。

土方の衰弱体の謎に分け入るには、
土方の舞踏の歴史のなかのひとつの大きな裂け目に気づくことが必要だった。
土方は1968年伝説的となったソロ公演「肉体の反乱」を踊った。
それは土方がそれまで20年間学んだモダンダンスのテクニックを駆使し、
その技術をからだの闇の妖怪が内側から食い破って躍り出したかのような驚愕的で挑戦的な踊りだった。
その激しい肉体の踊りは当時の反体制的な若者に熱狂的に迎えられた。
写真でみただけで私もそれに激しく魅せられた一人だった。
観念ではなく、肉体になれ! 
あらゆる秩序をひっくり返せ! 
土方の踊りはそんな檄を飛ばしているかに受け止められた。

だが、その公演の後、なぜか4年あまり土方は自らの踊りとからだを封印した。
そして1972年の「疱瘡譚」のソロとなって再び舞台に立ったとき、
土方のからだにはもうモダンやダンスのかけらもなかった。
いや、かつての挑みかかるように踊る肉体そのものをそぎ落としていた。
それこそ「死に物狂いで突っ立つ死体」に変貌していた。
いったいどのようにしてこの変貌は可能になったのか。
その謎を解かない限り、衰弱体の秘密は解けない。
わたしは自ら進んで衰弱体の謎というブラックホールの中に
からだごともんどりうって落ちていくことにした。

ヒマラヤに来てから、わたしもまたじぶんの踊る肉体を封印し、
長年水泳やトライアスロンで鍛え過ぎたからだと自我に荒れ狂う意識を止め、
ただただからだの闇に潜る日を続けた。
ある日、土方の全集を読むなかである一節に出会った。
土方は何年間も毎日午前中は死んだ姉の着物を着て過ごしていたという一言だ。

「私は、私の体の中にひとりの姉を住まわせている。
私が舞踊作品を作るべく熱中するとき、私の体の暗黒(やみ)をむしって、
彼女はそれを必要以上に食べてしまうのだ。
彼女が私の体の中で立ち上がると、私は思わず坐りこんでしまう。
私が転ぶことは彼女が転ぶことでもある。というかかわりあい以上のものが、そこにはある。」(『犬の静脈に嫉妬することから』1976年)

ある対談でもこう語っている。
「なぜ、髪の毛を長くしているのか、と聞かれるでしょう。私は死んだ姉を私の中で飼っているんです。
いま二人で住んでいるんです。髪をすくとか、とめるとか、死んだモーションもいっぱいある。
そういうものを自分の中に蓄えているわけです。
朝から昼までは姉のしぐさをする。
着るものでもみな昔の柄です。」
(1969年、画家の宇野亜喜良との対談より)

後年土方が語った「沈理の出会い」とは何かが、ここで示されている。
「私が転ぶことは彼女が転ぶことでもある。というかかわりあい以上のものが、そこにはある。」
たんなる死者との一体化などではない。
土方は何年間もからだの闇に住む死んだ姉が自分のからだの闇をむしって食べるままに任せていたのだ。
それは「肉体の反乱」ではまだ被っていた自分の中の人間の条件を一枚一枚脱ぎ捨て、
生死の境界で震えている生命そのものの領域へ降りていく作業だった。

「自他の分化以前 
(沈理とはそういう暗黒のうたを知ることと考える)。
そういう出会い
(沈理の出会いだ)
舞踏はそういう関係の根へ降りていく作業なのです。

しばしば舞踏も自我表現上の革新に止まり、<新しい>実験に終わった。
生命の呼称で呼べるものこそ舞踏そのものなのだ。

見ることが腐る地点からしか姿を現さぬもの、
本当に生命を開くことは、屍になることにむしろ似ている。

人間はまだ神話的秩序や歴史的な秩序、これから来る未知の秩序に、百万分の一も触れていない。
外側の秩序や、解放感はずいぶん変わったし、発達して、人間をいじめているように見えるけれども、
この奇形的な体を一目見れば、こういうからだの中に隠れていることがわかる。
これからいろんな恐怖に見舞われる機会があるだろう。

われわれは自己の涅処(ねどころ)に何かしら自己でないもの、暗く、重い穴のようなものを感覚する。

隠されている筈のもの、秘められている筈のものが表に表れてきた時は、何でも気味悪いと呼ばれる。
だが、不気味なものとは、新しく出現したもの、意外なものの出現、得体の知れぬ怪奇なもののことではなくて、
その反対にそれはわれわれの良く知っているものであり、親しんだものであり、
人目から「隠れるほど」にわれわれが内密に所有しているもののことである。」
(未発表遺稿より)

これらを読み進むうち、土方があの変貌の期間に何をしていたかがだんだん分かってきた。
土方が旅をしていたのは、近代人が無意識や下意識と名づけ、
日常意識から切り捨て見過ごすことに決めたからだの闇そのものである。
人はそれを「よく知っている」。
奇怪極まりない無意識を内密に所有していることを。
だからこそ醜いものや死から懸命に目をそらし、
美しいものだけでできた自我の幻想に逃げ込みを決めているのだ。
そここそ生命そのものがいきづく世界であるのに。
そこには自我や自己を脱がなければ入っていけない。
ヒマラヤへきて十年、わたしは日常の意識を止め、
生命とは何かをからだの闇に探るサブボディ瞑想を続けた。
観念の瞑想ではなく脳心身全体でからだごとその奇妙な世界に入り込み動きつつ探り続けた。
そこでは生命はこの世の論理が通用する三次元世界ではなく、
リゾーム的な多次元変容論理が支配する多次元迷路で蠢いていた。
その世界を探る中でわたしは土方がとっくの昔にその世界をからだで瞑想して探索していたことを思い知った。
観念で瞑想し、いと高き世界に触れることを夢想する坊主どもの瞑想ではない。
命の世界にからだごと入り、そこで蠢く沈理の出会いを綿密に舞踏に仕上げること。
土方の見出した衰弱体のみが触れることのできる別世界がそこにあることを知った。

生命がいきづいているその世界の未知の論理を踊りで開くことこそが、
自我や自己に囚われた現在の人類にとって未知の秩序が開かれるはじまりであることを
土方はとっくに予言していたのだ。

舞踏は、自らを屍にまで鎮めて、生死の間で震え共振している生命のありようを、
来るべき人類にとっての未知の秩序を、透明に開示するものだ。

舞踏にとって、立ったまま死体となる衰弱体とは、
その生命の世界に入るたった一つのからだの切符なのだ。





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