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舞踏論   土方巽に捧げる
第2部 「静かな家」の深淵へ
 
Flower of 'Kan' (Flower of Disability) 
 

第4章 癇の花
 

3 「灰娘」

 

魂と精霊

ゆくえ

もうだれも訪れない

もう誰も眠れない

○かんの花

○過度の充実が来て彼女はとほうもない美しい者になった

○死者達のさまざまな習慣を覚えた

○馬肉の夢

○座しきから引き出されてきた男

○イスに座って狂った大人子供=ケダモノ

○裸でカンチェンの出だしを踊る

○フラマンの寝技をつかう

○嵐が来た朝

○物質化



6行目の「かんの花」は、長い間謎だった。
だが、土方巽全集に掲載されている生徒の舞踏ノートから、
「癇の花」であることが知れた。
とは、ひきつけやけいれんを表す。
癇癪の癇であり、癲癇の癇である。
だが、土方は癇にもっと深い
人間の宿痾のようなものを含ませている。
生徒の舞踏ノートには「癇の花」が、
いろいろな言葉で変奏されている。

患部ではなく全体的患部」
「岩のセミの出来のわるい眼」
「死にたがっている猫」

―などなど。

こういう不気味な得体のしれないものさえ
<花>に転化するところに
土方舞踏の真骨頂がある。
世界中から醜いもの、穢れたものと蔑まれようとも、
俺はそれを美に転化してやる。
土方の反骨精神は、トリックスターのごとく、
あらゆるものの価値観のテーブルを返して価値転倒し、
不美を美に転換する魔術を編み出した。
どんな醜いものつまらないと思えるものでさえ
踊りの中で最適の序破急を得さえすれば
はっと心をゆさぶる<花>に結晶するのだ。

癇の花の一つ目の変奏、
「患部ではなく全体的患部」には、
わたしたちの存在自体が出来損ないであり、
全体的患部であるという認識を含む。
人間の存在自体が宿痾・宿疾なのだ。
きみの出来損ないの存在そのものを<花>とせよ。

2つ目の変奏、
「岩のセミの出来の悪い目」
芭蕉の有名な句が敷かれている。
「閑けさや岩にしみいる蝉の声」
実際クマゼミの複眼をつぶさに見れば、
どこを見ているのか分からない。
まるで岩に生えた出来の悪い目に見える。
岩に沁み入ったセミの声が
そこで癇癪をおこして滞り、
おできのような出来の悪いやぶにらみの岩の眼に変成している。
そういう眼で歩け。
そういう眼が<花>に転化する
たった一つの瞬間を発明せよ。

3つ目の変奏、
「死にたがっている猫」
そうだ。きみが落ち込み、腐り果て、
もっとも情けない生命の傾性に囚われた、
「死にたがっている猫」を
花に転じてみせよ。

「癇の花」には舞踏の真髄が込められている。
どんなに蔑まれ、憎まれ、貶められているものでさえ、
もっとも美から遠く見えるものでさえ、
最適の序破急をさえ得れば、花に転じることができる。
これほど深い生命共振があろうか。

それは、土方と同時代を生きた
ジル・ドゥールズの生命の哲学に通底する。

@自分の遺伝子を発現させ過ぎないこと
A他者と共にある自分を発現させ過ぎないこと
B他者を発現させ過ぎないこと
C発現したものをすべて世界に住まわせること
D私たちの世界を多様にすること


ドゥルーズも、土方と共に、
この世に生まれてきた個体の生存を無条件に肯定する。
個体のいかなる変異をも肯定する。
たとえ、眼が「出来の悪い岩のセミの眼」になってしまおうと、
それを肯定するのだ。
ドゥルーズは
「このような倫理だけが「愛」である」という。
愛とは西洋的な概念だが、キリスト教の愛も、仏教の慈悲も
生命共振から見れば同じものだ。
わたしにとって愛も慈悲も長い間謎だった。
だが、今なら言える。

愛とは、よい共振の仕方を見出そうとすることなのだ。

そして、癇とは、生命がまだうまく共振できていないクオリアの象徴な
のだ。
生まれてきたあらゆるものによい共振のしかたを見出すこと。
「癇の花」を咲かせることができるかどうかは、
真の舞踏家であるかどうかの試金石だ。
不美を美に転化する舞踏マジックをを磨き抜くことだ。
探れ。
もっとも醜いものが、花に転じる、
序破急舞踏マジックを成就する瞬間を。
きみのからだの闇に、まだうまく共振の仕方が見つかっていない
癇をさぐり、それらをことごとく花に転じよ。
それこそが生命の舞踏創造なのだ。



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第5章 土方はいかに癇を捉えたか



何年か前の夏、インドビザの申請のために久しぶりに日本に帰国した
おり東京で森下隆氏が主催する「土方巽アーカイブ」を訪れた。
そこで、癇の花に関する資料を探したところ、
森下氏の好意で、和栗由紀夫氏の私家版「舞踏譜」を拝読することが
できた。
その詳細な解読には時間がかかるが、森下氏がそこからピックアアップ
した1300の土方巽の舞踏言語から、多くの「癇の花』に関するものを
見つけることができた。
ここでは、森下氏がピックアップした1300の中から
「癇の花」にまつわるクオリアを取り上げる。

<癇>とはなにか。
この言葉は英訳不能なので、どう翻訳すればよいか
しばらく試行錯誤を繰り返した。
そのうちに<癇>の本質とは、
<生命がうまく共振できなクオリア>であることが見えてきた。
<癇>を<生命がうまく共振できないクオリア>として捉えれば
土方の舞踏譜の言葉は多くが広義の<癇の花>に関するものだ。
共振しようとしてもうまく共振できないとき、
生命はただそれに耐えて、よい共振方法が見つかるまで待つ。
だがその間にうまく共振できないクオリアは、
からだにさまざまな奇妙な変調をもたらす。
ここでは <T 癇に関する体感>、
<U 心身の一部に凝結した癇>
<V 存在全体が変成した癇>
の三段階に分けて紹介しよう。
これらの多彩なバリエーションを通じて、<癇>とは何かを
つかみみ取ることがより容易になるだろう。


第T群 うまく共振できない体感

土方は生命がなにかとうまく共振できないときの
一瞬の微細な体感を実に精確に捉えている。
普段は見過ごしがちなこれらの奇妙な体感群に耳を澄まして探れば、
誰もが固有の<癇>を見つけることができる。


えぐられて溶ける
きしむ空気

こめかみから鳥が飛び立つ
こめかみを植物がはう
どこまでも壁に染みる
ヒビが入る
ぶれた花がさまよう
むずがゆさ
もやの中へ消える
ゆくえをからだの中に入れる
メスカリンの神経の重層
一瞬の網の目に捕捉
下痢に雨が降る
人形がぶすぶすと燻る
体の中の針金
体の中を機関車が通過する
余白で成り立つ
俯瞰される
光に襲われる
光の蜘蛛の巣
兎に囓られる踝
内臓が体の外にぶら下がる
内臓から鶴の首が伸びる
内臓の水路を上に辿る
内部に塗り込められる顔
前方にぶれていく顔
剥離
吸い取られる呼吸
埃の飼育
墓守の顔に変貌
奥歯に染みる隙間風
しっぽが生えて開く骨盤
接吻されている老婆
曖昧なものを正確に包囲
木目をたどる指先の感触
水晶に閉じ込められる
無数の視線の通過
空間を裂く視線
耳の内部をさまよう
焦げる羽
胸の小部屋に鍵がかかる
膿をずるずると引っ張る
追いかけられる馬鹿
遠くの森から少女が近づく
闇を携えせり上がる
頭蓋の中に木の葉がはらはらと落ちる

などはその象徴だ。
だれもが無視しているささいなものだが、
よくよく探れば思い当たる微細な体感群だ。
土方はからだの闇に一心に耳を澄ましてこれらのクオリアを取り出した。

第U群 心身の一部に凝結した癇

そしてそれらはやがて、くぐもり、ひきつり、凝り固まってかさぶたとなる。
心身は一如なので、心の凝結とからだの変形がひとつになるのだ。
これらのかすかな変調も凝り固まると、さまざまな凝結や奇妙な形に
固形化する。
土方はからだの踊り場に起こるこれらの変形し歪んだ形を収集しつ
づけた。
これらがもっとも典型的な<癇>である。

あばたの男
つまむ奇妙な人
ぶれたまま固まる
よだれを垂らす子供
カサカサに乾く内臓
ギブスをはめた人
ゴヤの膿の顔
ざくろ歯の顔
ドライフラワーの顔
内部に塗り込められる顔
前方にぶれてゆく顔
右目と左半分が溶けている顔
岩の蝉の目玉
引きつったかさぶた
暗い煤けた顔
森の顔
爪と歯の起源
目と口の中のほこら
真に救われない顔が出る
老婆の干しぶどうの目

肉の区分けをする男

第V群 存在全体が癇に変成

これらからだの踊り場の変調が凝結して<癇>となる。
やがてそれが全心身に波及すると、不具や奇形となる。
<癇>の最終形態だ。
だが、目をそむけてはならない。
近代の情報管理システムによる「差別語というめくらまし」で
見ないふりをして通りすぎてはならない。
これら、見放された悲惨の極地を踊り、花に転化する生命の舞踏だけが
彼らの不幸と真に共振するものなのだ。

25年間寝たきりのフラマン
いじけた若い墓守
せむし
だらしない少女
ぼおっとした馬
アウシュビッツ
オルガンを弾く幽霊
ソコヒの少女
フラマンの剥製
ミショーの鶏の幽霊
乞食の崩壊
人形がぶすぶすと燻る
仮面の裏の熊の顔
内股のヤモリ
剥製化した蜘蛛の巣
土塊の人形の生成と解体
埃でできている人
壁に塗り込められた人
子供の顔をくわえた幽霊
密度の牛
小児麻痺の狂人
崩れてしまいそうな危うい人
湯気の膿の衣を引っさげた法王
暗い瓶が危うく立つ
紙の上で踊る虫にアウシュビッツが重層する
背後の闇に包まれている少女

・・・など、存在全体が<癇>そのものに変容する。
これらの<癇>をいったい、いかにすれば<花>に昇華することがで
きるか。
それらをただ並べるだけでは美とはならない。
のっぴきならない生命のほとばしりとしての必然の踊りの中で
最適の<序破急>を発見することによってはじめて
胸が震える<花>に転化するのだ。
共振したくて仕方がないが、できない、できない、できない・・・
長い間できないまま、耐えて待って、待って、待って、
ついにひとつののっぴきならない動きが創発される、
その瞬間を捉えて踊ることだ。
そのとき、醜い癇の蠢きが、得も言われぬ美に転化して
あらゆる命が共振を禁じることのできぬ<癇の花>に昇華する。
この極意を極めよ。
からだの闇でうずくまり、くぐもり、ひきつり、
かさぶたとなっているクオリアを掘り出せ。
そして、それがどう動き出したがっているのか、
どんな共振を求めているのか、探り抜け。
誰のからだの闇にも<癇>は存在する。
ただ忘れさり、気づけなくなってしまっているだけだ。

自我という最大の<癇>


自我は癇を知らない。
目を背け、忘れ去ってしまっている。
そんなもの俺の中にはないと、逃げ出そうとする。
実は自我こそ最大の<癇>、<癇の中の癇>なのだ。
自我は自分が<癇の中の癇>であることも、もちろん知らない。
<癇>から目を背けさせる最大の<癌>である。
土方が「人間の条件をすべて放棄することだけは忘れないでもらいた
い」と言った真意は自我を捨て去れということだ。
その自我を止めなければ、からだの闇の<癇>のクオリアからの
かすかなシグナルを捉えることさえできない。
いつかは最大の<癇>である<自我>をも踊らねばならない日が
来るだろう。
その日は遠い。
一番最後になるかもしれないが、自我という<癇>の消滅、
自我という現代最大の<癌>からの自己治癒は、現代人すべての課
題である。


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