美とは何か

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美とは何か
 
 
障害の壁を超える共振リゾーム
ハンガリー 2015 
2016年1月1日

生命共振美の探求


私たちが行っているのは、生命共振の美の探求である。
従来、生命共振などというものに誰も目を向けなかった。
そんなものがあることさえ知らない人が多い。
だが、美のもっとも深い本質は生命共振なのだ。
目で見て美しいとか、耳に快いとかの情報レベルではなく、
深い無意識のからだのレベルで、
いのちがクオリア共振によって深く動かされるとき、
人間にとってそれが<美>という経験となる。


その昔、能の世阿弥が行き着いた<幽玄>という美もまた、
微細なあるかないかの、生と死の間でふるえている
生命共振美の発見であった。

土方巽が行き着いた究極の美は<癇の花>である。
にっちもさっちもいかないところまで追い詰められ、
見にくく変形凝固したイノチがなお生きようとする姿であった。

この夏ハンガリーで行った障害者とのワークショップで、
一週間いろいろ練習した中で、一番やりたいのはなにか?
と参加者に尋ねたところ、からだが石に変形した後、
そこから新しいイノチとして再生するというものだった。

この人生ではもう障害を持ったからだからは逃れようがない。
だが、舞台の上で違う生命に転生したいという
切実な希求が込められていた。
そこにこそイノチの究極の美が生成する。
世阿弥の<幽玄>、土方の<癇の花>を通底する普遍的なものは、
<生命共振の美>である。
あらゆる美の根源はイノチのふるえ、生命共振にあるのだ。
人間の自己や自我は諸々の境界に囚われているが、
イノチは国籍や人種、宗教、文化を超えて共振している。
生命が感じるクオリアは自他や生死の境をも超えて共振しているのだ。

これは無数の障壁に満ちた世界を変えていく
ほんの小さな小さなはじまりにすぎない。
これからわたしは、まだまだ未挑戦のさまざまな障害を持った人々との
共同を深めていきたいと思う。
ヨーロッパの友人たちは、盲目の人々との共振や、
さまざまなトラウマに苦しむ人々との共働を計画してくれている。
未知の挑戦になるが、さいわいこれまでの経験を総合すれば、
どんな不都合が起ころうと、それを創造に転化することができる。
創造の世界ではマイナスはマイナスではなく、
創造の資源が埋蔵されている宝庫であることを知っているからだ。
プラスはマイナス、マイナスはプラス。
明るいは暗い、暗いは明るい。
それが舞踏マジックである。

新しい生き方を求める人来たれ、ヒマラヤへ!



『からだの闇』をもっと読む

2011年5月6日
 

美は微細共振にあり

今年の共振塾がはじまって二ヶ月たった。

週を追うに連れて生徒の踊りが味わい深くなっていく。

美が深まっていくのが如実に分かる。

より微細なクオリアに共振している生命の姿が徐々に浮かび上がってくる。

それに触れるほど嬉しいことはない。

共振塾を続けてきてよかったと思う。

毎日のように生徒の誰かの動きがググっと深まる瞬間がある。

それを繰り返し味わっていると、

美が深まるとは、踊りが人間の意識の踊りから、

生命の踊りに近づいていくことだとわかる。

 

美とはなにか。
何十年も問い続けているこの問はもっとも深い謎だったが、
すこしずつ分かってきた。

この問を思弁的にではなく実践的に問うことができるのは
日々美が生成している現場を置いてほかにない。

美とは生命の微細な非二元かつ多次元共振に近づくことなのだ。

粗大な自我の判断や思考に基づく動きは味わいが薄い。

それが取れてくると、意識には何が起こっているのかわからないが、

下意識では互いの生命が微細に共振しているのがわかるようになる。

土方の「静かな家」は、生命の微細共振をかぎりなく重層的にまとっていく構造になっている。

それを一節ごと学んでいくだけで、生徒の踊りが微細化と重層化を深めていく。

今年は4月の終わりから二週間でたった五節進んだだけだが、

生徒の踊りは見違えるように深まってきた。

毎日の終りに全員が数分ずつ踊る。

お互いの踊りが日に日に深まっていくのが誰の目にもはっきりと分かる。
疑いもなく美が深まってきている。
これほど優れた美の教科書はあるまいと思われる。

まさしく、生命の呼称で呼べる舞踏が生成していく。

それを一緒に体験できるようになったことが何より幸せだ。

 

  

 


美はリゾナンスにあり

いままで、長年共振を探求してきたが、
ここまで言い切ることはできなかった。
そもそも,美とは何かを一言で言い切るなんて
おこがましすぎて、発想すらしなかっった。
だが、出会ったばかりの生徒たちの動きの中から、
思いがけぬ美が滲み出る瞬間に触れて
美が生命共振から生み出されていることに気付かされた。
生命と生命の間に見えない共振が起こっていることが
不思議と伝わってくるとき、私たちのなかの何かが動かされる。
震えともおののきとも言えない、もっとかすかな
崇高な美に触れたときにだけ起こる不思議な感動だ。
これはたしかに美だなと感じることができた。
いままで美とは何であるのか、うまく捉えきることができていなかった。
何がどうなったとき私たちは、美を感じ、深く動かされるのか。
美の本質を生命から解くことができていなかった。
だがいま、
美は共振にある。
そう言い切っていいような気がする。
気づきはいつもこんなふうにやってくる。
見知った二つの別だと思っていたものの間に、
不思議なつながりが発見されるというかたちで。
「何だ何だ、そうだったのか。早く言えよ。」
―-これは加藤典洋のことばだが、たしかに気づきはこんなふうに訪れるのだ。
急ぐことはない。
これは今後なお探求されていくだろう。
いまはただ、美とはなにかという生命共振をめぐる新しい探求坑道が
生まれたことだけ銘記しておけばよい。



 

美とはなにか

いきなりとてつもない問いが舞い降りてきた。 

踊りにとって美とはいったいなんなのだろう。
とりあえず、ここから問いはじめるしかない。
踊りの美は時代と共に根本的に変わってきた。

 

太古の踊りは神に捧げられた。

そのもっと前はただ生命のほとばしりだっただろう。

だが、太古の人類は生命に起こる無限のクオリア共振を、

精霊や神のもたらすものだと理解した。

いまでもインドの伝統ダンスはひとえに神に捧げられている。

まさか自分の生命が共振して新しいクオリアを創造しているのだとは

想像もつかなかったのだ。

 

そして、国家ができてからは、王が神の権威を占有し、

踊りは神と王に捧げられるものとなった。

いまだに伝統的な宮廷ダンスはそれを受け継いでいる。

クラシックバレエは、この宮廷の社会秩序に従い、

王子、王女、騎士、庶民という社会秩序を表現している。

 

近代のモダンダンスはこの社会秩序から解放された個人の自我の表現になった。

社会的役割から解放された個が人類史に登場した。

初期のモダンダンス、イサドラダンカンや、ラバンの踊りの持つ

凄まじい破壊力はこれが美の革命だったことを物語っている。

 

そして、コンテンポラリーダンスにいたってさらに自我から自己へ、

人間のもつ可能性のあらゆる問題を踊るものに拡張された。

ピナ・バウシュは現代社会のあらゆる問題をあつかうダンスシアターを創出した。

だが、まだそれは優れた芸術的資質を持った振付家がダンサーの動きを振り付け

総合するという古典的形態のもとにあった。

そして、いまだに「人間」という現代最大の元型に縛られている。

現代社会ではかつて同じ社会に共存していた不具や気狂い、らい病患者などを

社会の表舞台から追放し、隔離し、健康かつ経済活動ができ税を払うことのできる

人々だけを「市民」として扱っている。

精神的・身体的ハンデキャッパーや、死者は
人間以外の世界に解離されてしまった。

その社会では五体満足な健常者による躍動する動きや姿形だけが
健康な美とみなされている。

ほかは醜いものというカテゴリーに封印されている。

 

だが、土方巽はその狭い美の概念枠を破壊し、

大きく生命のもつあらゆる可能性に美を拡張した。

とりわけ彼の最後の舞踏である衰弱体の舞踏は、

世界中の人間の不幸を背負い、共振するものになった。

1970年代の日本で水俣病やらい病に苦しむ歪んだ肢体の不自由な動きを
舞踏に取り入れ
これまで美とはみなされていなかったもののなかに
根源的に新しい生命の美を発見した。

不幸な制限された肢体になろうとも命はなお新しい共振パターンを創発し、
生き延びようとする。

それほど美しいものはないという生命の真実を掘り当てたのだ。

 

私が20代の初期に初めて見た土方の舞踏公演から、

魂を釣鐘で打たれたかのような激しい感動を受けたのは、それによるものだった。

そのとき私の命に何が起こったのか、私には長い間うまく理解できなかった。

だから自ら舞踏家となり、からだで土方舞踏を学び続けた。

そして十余年、その忘れることのできない出来事が、

生命と生命の間に起こった激しい共振だったことが、

それから40年も経つ今になってはじめて分かった。

 

なぜ、土方ひとりがその美を創造することができたのか、

その秘密を探るうちに、誰もが固有の生命の美を創造出来る道が見つかってきた。

意識を止め、命に耳を澄ませば誰のからだの闇からも、

命にとってのっぴきならない動きが出てくる。

だれもが土方同様、世界でたったひとつの生命の美を創造できるのだ。

ようやく生徒の動きからそれがにじみ出てくるようになってきた。

 

この道を突き進めれば、もう特別優れた振付家の演出や振り付けなしに、

生命共振だけでひとつ世界を共創することができるようになる。

それがリゾクラシーだ。

それは踊りの舞台のみならず、世界を変えていく方法にまで生長するだろう。

何千年かかろうと、いつかは敵対的な自我に代わって
生命共振が世界の人類の普遍的な関係になるだろう。
国家や支配技術や権力によって運営される世界に替わって、
どんなか弱い生命にも生きやすい世界を生み出すことができるだろう。
どんな不幸な状態におちいっても、なお新しい生き方を創造し、
その智慧を国境や文化を超えて自由に交換できる日が来るだろう。

命のほとばしりである無限の創造の透明な輝きが世界に満ちるだろう。

この稿は、まだ踊りにとっての美とは何か? にとどまっている。
美とはいったい何なのか?
というより根源的な問がこの先に待ち構えている。
とりわけ、美と生命共振の関係とは何なんだろう。
その問いをじょじょに掘り進めていこう。

私に残された時間はあと数年か、長くて十数年に過ぎない。
この普遍的な問いを問いきる時間はもうないかもしれない。
それでもまったくかまわない。
それまでにひとりでも多くの人にこの問いのバトンを受渡していきたい。
そして、生命共振を世界に拡げる産婆となる人を育てたいと思う。
心ある人はヒマラヤに来たれ。
新しい生き方への門はいつも開かれている。



花と謎と秘密

 

優れた踊りを見ると感動して命に無性のふるえが起こることがある。
それを花と呼ぶ。
なぜふるえるのかは分からない。
ただ命が共振してふるえてやまない。
不思議な現象だ。
花のない踊りはありえない。
それは踊りではない。ただのからだの動きだ。
花はいったいどこからどうして出てくるのだろうか。


 

花は命の不思議な謎に支えられてはじめて花となる。
踊り手はただただ毎日からだの闇に潜り、
この不思議な謎と格闘する。
そこは泥沼のような深い謎の闇だ。
その謎の闇と格闘のなかで、
あるとき結晶化して出てくるものが花だ。
謎が深ければ花もまた深い。
踊り手はただただからだの闇の謎を掘り深める。


 秘密

踊り手はからだの謎の闇の泥沼でもがき、いろいろ動きを工夫して練習する。
それがあるとき踊りに転化する瞬間がある。
からだの動きと命のクオリア流がひとつに結晶したとき踊りになる。
そこには踊り手固有のクオリアがびっしり絡みついている。
それらを踊りに結晶化するのは命の仕業だ。
踊りは踊り手が頭でつくり上げるのではない。
命が(いまだ)とふるえる。
踊り手はその瞬間を狩り取り、すぐさまからだに書き込む。
命の秘密を刈り取るのだ。

花と謎と秘密は、いずれも命に属する。
踊り手は、ただただ命に耳を澄ます。
からだを掘り、耳を研ぎ澄ますのが仕事だ。



花と生命共振


私たちはなぜ、優れた踊りを見るとからだごとゆり動かされるのか。
どこか異次元に存在ごと持っていかれる心地になるのか?
そこでは一体何が起こっているのか?

生涯を通じてこの問を問い詰めた男がいる。
世阿弥だ。
彼はこの命に起こる感動的な出来事を花と呼び、生涯をかけて追求し続けた。
30代から50代にかけて書きついだ『風姿花伝』では、こう述べている。
「花と、面白きと、珍しきと、これ三つは同じ心なり。
いずれの花か散らで残るべき。
散るによりて。咲く頃あれば珍しきなり。
能も、住する所なきを、まず花と知るべし。
住せずして、余の風体に移れば、珍しきなり。」
これに限らず、風姿花伝の花をめぐる言葉はみな味わい深い。
だが、66歳の世阿弥は娘婿の禅竹にこう書き残している。
「以前申しつる、面白きと云い、花と云い、珍しきと云う、この三つは一体異名なり。
これ、妙・花・面白、三つなりと云えども、一色にて、また上・中・下の差別あり。
妙というは言語を絶して、心行所滅なり。
これを妙と見るは花なり。
一点付けるは面白きなり。」『拾玉得花』

この時の世阿弥は生命共振を見据えていた。
一行目の「以前申しつる」は、若年の頃に書いた「風姿花伝」や「花鏡」における
花や序破急の捉え方を指す。
以前は、花と珍しきと面白きは一体であると捉えるところで止まっていた。
ここではそこから一歩踏み込んでいる。
なぜ、ある動きが花になるのか、それを面白いからだとか、
珍しいからだと捉えるのは客観的な理屈付けに過ぎない。
「一点つける」とは、漢文に返り点をつけることを業としていた
日本知識人の理屈付けを指している。
言葉でしかものを捉えられない知識人は理屈を見つけてそこで終わる。
だが、面白いから花だというのは、理屈にすぎない。
本当に起こっている生命共振のふるえを取り逃がす。
命に起こる感動は決して言葉では捉えられない、
言語を絶し、心行も消滅した世界の出来事なのだ。
その非二元の生命共振を指すものとして66歳の世阿弥は、、
これまでの花の上にさらに言葉にできない妙という境地を置いた。
私たちが踊りに深く感動させられるとき、
実際に起こっているのは言語を絶した心行所滅(心身一如となった)生命共振なのだ。
起こっている妙(=生命共振)を妙と見れば、それは花だ。
だが、花と捉えるのは認識であり、言葉による比喩的表現だ。
言葉は、言葉を超えて起こってしまう生命共振そのものではない。
それを面白いから花になるのだとか、珍しいからだと理屈で捉えると、
非二元一如の生命共振からさらに一歩客観へ遠ざかる。
命に起こっているクオリアの共振が情報化される。
理屈で捉えて情報化するのが知識人の仕事だ。
情報は生命共振の疎外態なのだ。
この知的偏向は今に限ったことではない。
古代中世の時代から、日本の知識人は漢文に返り点をつけて解釈することを
自分の仕事だと勘違いしていた。
現代では西洋文化を翻訳して輸入する仕事に変わっただけだ。
世阿弥はそれを一点付けるという皮肉で表す。
だが、生命にとっての美を追求する世阿弥はそんなものにかかずらわっていない。
言葉では決して捉えられない領域で生き死にしている生命に起こる
未知のふるえを探求していたからだ。
世阿弥は若年の、「花=面白し=珍し」という三位一体論から、
「言語を絶した妙」の境地という非二元の生命共振の淵に一歩踏み出している。
この一歩に20年かかっている。
こんなものだ。命に近づく道は遠い。
私たちはあまりに深く意識や言語に囚われてしまっているので、
若年の頃の花=面白=珍という等式の発見を手柄に思って
それが論理的思考にとらわれて、生命共振を見失ってることに気づくまで
20年くらいはあっという間にたってしまうのだ。

妙――生命共振そのもの
花――妙の認知、比喩的表現
面白い――評価
珍しい――客観的理由づけ


この四つの位相の間は目がくらむほど深い。
だが、思考を止め、言葉を離れなければ、生命には至れない。
踊りを追求するときは、こんな言葉をすべて脱ぎ去らねばならない。
認識によって到達した境地をすぐさま脱ぎ捨てからだに帰ること。
言葉を捨てなければ命の声は聴こえないからだ。
勘違いしている人が多いが、踊りは自我や自己の表現などではない。
美は自我や自己が意識でこしらえ上げることができるものではない。
私達にできるのは、意識を止め、
命のふるえをからだに刻みこむことだけだ。
からだを命に起こるのっぴきならない創造の場として捧げだすことができるだけだ。



ミクロの序破急

また、世阿弥は作舞技法としてのマクロの序破急に加え、
一挙手一踏足のミクロの序破急に注意を促している。
命に起こっているミクロの序破急を忘れて
作舞技術としてのマクロの序破急に縛られては生命の踊りなど出てこない。
ミクロの序破急は、命から出てくる必然のものだ。
なにかにねじられたり、押し付けられたり、きしませられたりしたとき、
命は必然的なねじり返し、軋み返しの動きを発明する。
その動きは避けることのできないたったひとつのタイミングででてくる。
命はこののっぴきならないミクロの序破急をよく知っている。

「一舞・一音の内にも、面白きは序破急成就なり。
舞袖の一指し、足踏の一響にも序破急あり。
見所人の「あっ」と感ずる一音にも、序破急あり。
私に云う一調・二機・三声も、調子を含むは序なり。
機を出すは破なり。すでに出声急なり。
この三、心耳に感をなして面白きは、成就なり。
しかれば、万曲に通じて、一風・一音、一弾指の機にあたるも、序破急成就なり。」
『拾玉得花』

序破急は頭で考えて創るものではない。
生命の動きが持っているたったひとつの止むに止まれぬ序破急を発見したとき、
命は否応なく共振させられる。
それが起こってしまうことを、世阿弥は序破急成就と呼んだ。
共振には主体も客体もない。
ただ起こるときにはどちらからともなく否応なく起こってしまう。
それが生命共振だ。
ながく一つことを追求していると、意識や心で起こることではなく、
非二元の生命のレベルで起こってしまうことに気づかざるをえない。
それこそがとんでもないことなのだと。
世阿弥が言語を絶した心行所滅の妙花に行き着いたように、
土方も晩年は生命の舞踏を志向した。
自我だの自己だのにこだわっていては、命に間に合わないのだ。



いかに舞踏を深めるか 

 

土方巽の最後の舞踏となった「静かな家ソロのための覚書き」には、
舞踏を深めるための多くのヒントが隠されている。
舞踏を深めるとは
なにか。
花を深めるのではない。
花を支えている謎を深めるのだ。
自我や自己の表現という近代芸術の地平から、
それを脱いで生命の謎へ降りていく舞踏を踊ることだ。
生命は自己が知らないところで、非二元かつ多次元のクオリアと
共振している。
多数多様な異世界を開畳し縦横無尽に旅する踊りほど深く生命を
踊ることになる。
それをすべて一身にまとい微細で透明な生命共振そのものになることだ。
土方の舞踏譜は260行あまりからなる精細なもので、
一行一行に生命ににじり寄ろうとする土方自身の渾身の研鑽が
こめられている。
土方の踊りが一見何を行っているのかわけが分からないのは、
一瞬一瞬別の異世界と微妙に関わっているからだ。
これほど深く精密な生命そのものになろうとする試みはほかにない。
それは普遍的な誰にもあてはまる原理的なものと、
土方固有の出自や記憶に関わる個別的なものからなる。
普遍的な原理は普遍として学び、
土方固有のクオリアに関するものは、
君自身の固有のクオリアに転換・応用する必要がある。
以下のごとくだ。

第一節 「赤い神様」
誰が君を動かすのか。
赤い神様とは土方を突き動かしていた土方固有の謎だ。
それは土方自身にとってもわけの分からないものだ。
わけの分からないものには、わけのわからない名前をつけるしかない。
君にとっての謎は何か。
どんな未知の力によって君は舞わされているのか。
それを掴むことだ。
そして君にも分からない謎の名前でそれを呼べばいい。

1.雨の中で悪事を計画する少女

これは踊りのライトモチーフだ。
これだけは君自身が見つけるしかない。
メインモチーフのない踊りは見るに堪えない。
見せる必要もない。
なぜいったい君は踊るのか。
命に問え。
なにをいったい一番踊りたいのかい?
生きるために踊らなければならない理由とはなにか。
土方はこのどうしても踊らねばならない踊りに出会うために
45年を費やした。
若い頃の暗黒舞踏やアバンギャルドの実験をすべて脱ぎ捨てて
深いからだの闇の旅の後にはじめて出会えたものだ。
幼い頃に別れざるを得なかった慕っていた死んだ姉をめぐる謎を
土方は一生をかけて踊りに昇華した。
君が君の人生でぶつかった問題をすべて洗え。
君の命を困難に突き落としたものをかたっぱしから探れ。
そして踊ることのできるものからとりかかかっていくことだ。
いくら時間がかかってもいい。
人によってかかる時間は異なる。
大野一雄は彼の渾身の踊り「ラ・アルヘンチーナ」や
「私のお母さん」に出会うまでに70年以上を費やした。

2.床の顔に終始する
これは舞踏の普遍的な原理だ。
平板な床の顔・死者の顔に終始せよ。
それがあってはじめて次の項が生きてくる。


3.さけの顔に変質的にこだわる

そして、折を見てからだの闇から異貌の自己が顔を出す。
影やノットミー、解離された人格などが異様な顔を出す。
変な顔に決まっている。
だがその最適の瞬間を見つければどんな異様なものでも美に転化する。
それが序破急マジックだ。

4.〇はくせいにされた春

これは舞踏のなりたつ普遍的な世界だ。
それをつかむ君自身の固有のクオリアを探り出せ。
君の命が踊りたがっている世界クオリアを見つけ
その世界で踊るのだ。


5.〇森の巣だ 目の巣だ、板の上に置かれた蛾
これは巣窟体になるための普遍的な原理だ。
全身の細胞生命の秘膜を開け。
無数の森の顔、無数の目腐れの目をまとい、
からだじゅうを異様なクオリアの巣に変成せよ。

6.〇気化した飴職人または武者絵のキリスト

君の固有の記憶に刷り込まれている強烈な人物像を思い出せ。
記憶の中でその人物像が気化してさまざまな別の存在に変容する。
夢のなかで起こっているのと同じクおリア変容をからだごと踊ることだ。


7.〇額をはしる細いくもの糸
8.〇乞食
9.〇猫の腰

からだを無限に細分化する。
各部が異なるクオリアで動かされる。
からだの底に潜んでいるあらゆる別の生き物のクオリア・
何万年も潜んでいた原生体が顔をのぞかせる。


10.〇背後の世界
これは世界像に関する原理中の原理だ。
あらゆる背後世界と交信するからだになる。
地下のクオリア、天上の元型群、背後霊、妄想、あるいは内臓から変成が始まる。
君自身の秘密の変容坑道を掘れ。


11.〇ごみ処理場

これは背後世界の実例の一つだ。
ゴミ処理場には壊れた機器や死んだ猫の死体が転がっている。
生と死の間で揺らいでいるクオリアの宝庫である。


12.鏡をこするとゆれる花影があった

君が何ものかに動かされるだけではない。
ときには君の動きが不可思議な不可視のクオリアゆらぎを引き起こす。
クオリア共振には主体も客体もない。
それは幻覚ではなく、生命共振の映像チャンネルへの現れである。
ただ命の微細な共振を踊れ。

13.納屋の中でもろい物音がくずれた

映像だけではなく、音像チャンネルを開く最適のタイミングを見つけよ。
からだの中の微細な物音、死者のささやき、
見知らぬ音楽に耳を澄ませ。

14.カンコウ場

これは土方に強烈な記憶をもたらすキーワードである。
君の命にとってもっとも強烈な記憶が呼び覚まされる場所を思い出せ。
そこは懐かしい匂いや秘密の雰囲気に満ちている。
それが踊る際の生きた血肉となるのだ。


15.Xによる還元を再生

これは土方の変容技法の髄の髄。
もっとも普遍的なエッセンスである。
理解に苦しむだろうが、Xによる還元とは
何らかの要素をあるものから差っ引くことだ。
君の現在のからだから年齢を差っ引くと、胎児や子供になる。
性を差っ引くと異性のからだになる。
民族性を差っ引くとなまの人になる。
人間を差っ引くと生命になる。
そしてそれを逆にたどれ。
日本に生まれた男性または女性という偶然の借り着を脱ぎ、
その借り着がからだに染み付いている痕跡を洗い出せ。
その自分という偶然の条件と普遍的な命との間を往還する旅から
君が踊らねばならない理由が見つかるかもしれない。
Xには時間、空間、どんなクオリアでもいい。
かたっぱしから代入して想像力を全開せよ。
これは土方が命の世界でつかんだもっとも貴重な発見である。
これによって次元数を自在に増減する技法が身につく。
それは非二元かつ多次元の命の世界を次元変換しながら旅するための
もっとも大事な技法なのだ。

16.鏡のウラ


なんどもいう。
君が踊るのはこの三次元世界ではない。
不可視の鏡のウラの世界なのだ。
そここそが生命の創造の場所である。
その異世界を開け。

解説「舞踏論」第17章18章



生命の超微細多次元共振非二元世界へ

いままで、とても大事なことなのに、
どうしてもうまく伝えられないことがいくつかあった。
そのひとつは生命のクオリア共振が起こっている世界が、
意識が知っている日常世界とは比べ物にならないくらい
超微細な世界であるということだ。
もうひとつは、多次元共振だ。
最後のひとつは、非二元だ。
超微細も、多次元も、非二元も日常界には全く存在しない。
意識は日常界を唯一の世界だと思っているので、
そこにないものは存在しないものとして扱う傾向がある。
だから、以上のことを伝えようとして
ひも理論や、脳のグリア・ニューロンネットワークの話をしても
頭では理解したつもりでも、からだで感じられないことは、
うまく腑に落ちずに、抜け落ちてしまうのがありありと見えた。

さらに私は自分のツリー・リゾーム技法や、リップル技法に
悪しき段階論として囚われていた。
わかりやすいことから徐々に始めてもらおうという老婆心が
生徒をいつまでも日常的な三次元空間のフィジカルな運動の世界に、
つなぎとめてしまっていた。
私に必要なのは、粗雑な段階論ではなく、
もっと精妙なリップルだったのだ。
この鍵を解くひとつの突破口は、どうやらコーボディにありそうだ。
群れのからだになって感じることは、
何が起こっているのか、わけのわからないところがある。
この、わけのわからなさこそ、いままでないがしろにしていた
最も大事なことだった。
わけのわからなさこそ、非二元の特徴だ。
二元論的な論理が全く通用しない世界、
コーボディこそ、まさしく非二元クオリアの宝庫だったのだ。
謎を謎として踊りに秘めること。
これがもっとも重要なことだ。
謎の深さが花を支える。
謎のない花などただの美しい形だ。
もっともわけが分からなくなるところこそ生命の本拠だ。
コーボディのカオスのなかで、
あらゆるものを味わうという試みをもっと大胆に推し進めていこう。
去年まで個人的下意識のからだであるサブボディでやってきたことのすべを
ヒューマンカウチやヒューマンマウンテン、ストレイ・ノマド(砂漠で迷子)
などのコーボディの群れのからだで、
混沌そのものをからだで体得することに絞っていこう。
どこまでうまくいくかはわからない。
未知の問題にぶつかるかもしれない。
だがこれは生命の深みへ降りる坑道を探すための
のっぴきならない探索なのだ。



からだの闇の仮の見取り図

1998年にはじめて来て以来、ヒマラヤも12年になった。
瞑想していると、これまでに盲滅法、手当たり次第に掘り進んできたからだの闇の坑道が、
ずいぶん透けて見えるようになっているのに気づく。
これまでのあらゆる苦し紛れの試行錯誤を統合し、
ひとつのパースペクティブの中に位置づけることが出来そうだ。
いままで出来なかった、学期のはじめにこれから一年間のざっとしたオリエンテーションが
できるようになってきたこともこれと関係している。
そう、いつの間にか、ずいぶんと透明度が増している。
いままで、段階論に囚われるのがいやで、採らなかった伝統的な瞑想法の中の
粗大身(グロスボディ)、微細身(サトルボディ)というような区分けも、
それを仮の見取り図とはっきりさせれば採用できるよい方便であることにも気づいた。
あらゆる見やすい見取り図はトリックでもある。
これに囚われて、からだの闇が実際に今見えているようなものだと
錯覚してはならない。
非二元かつ多次元時空は、例えてみれば次の図のように、入り組んでいる。


前だと進んでいるといつの間にか後ろに向かっている。
上だと思ってよじ登っていると、着いたのは地獄の底だったというようなことが
しょっちゅう起こる。
だが、なんの当てもなしに歩くよりは、仮のものであるにせよ
何らかの見取り図がある方が歩きやすい。
それを非二元かつ多次元世界を歩くための仮の地図だとわきまえてさえ
いればいいのだ。
からだの闇にはどんな見知った段階的構造も、上下の階層制もない。
そのことをはっきり押さえておくこと。
歩き始めのときには、これらの坑口のありかや、歩き方をガイドした導きが
役に立つ。
だが、それを信じないことが大事だ。
とくに創造のなかでは一切の理論や図式を潔く忘れ去ること。
それを忘れないで欲しい。

三界トラベル

からだの闇を歩くとき、三つの異なる世界を横断するのだと承知していることは
役に立つ。
三つの世界というのは比喩のようなものだ。
実際には非二元かつ多次元なのだから数え用もない世界だから。
三つというのは二元論の囚われから脱出するための必須の通り道だ。
古来からの伝統的な瞑想の世界でも、三つの世界として捉えてきた。

1 日常界 
私たちが人間として生活している日常世界だ。
古来、粗大身(グロスボディ)の世界と呼ばれてきた。
微細身と比べれば、はるかに粗大(荒っぽくて粗雑なこと)な動きや判断からなる。
それら粗大な動きや感覚、判断、思考をすべて止めることによって
微細なものに耳をすますことができるようになる。
調体(コンディショニング)とは、呼吸やゆらぎ瞑想などによって
この粗大な日常体と日常思考を脱ぎ捨て、微細界へ降りていくことだ。

2 微細界
伝統的な瞑想技法では微細身(サトルボディ)と呼ばれてきた。
日常体の粗大な動きや思考をすべて止めると、
日常界では見過ごしてしまうほどかすかなクオリアのゆらぎに気づくことが
できるようになる。
どれくらいかすかかというと、何億何兆倍もかすかで微細な、
あるかなきほどのものだ。
日常体はそんなものが存在することすら知らない。
わたしも12年前ヒマラヤへ来て、ダライラマの書を通じてはじめて
微細身のことを知った。
サブボディは、通常下意識のからだ(サブコンシャスボディ)のことだと
説明しているが、もうひとつの隠れた意味は、サトルボディのことでもある。
サブボディとサトルボディ(微細身)はほとんど同義である。
ただ、サブボディ技法では、伝統的な瞑想法では使わない動きのチャンネルを開き、
動く微細身である衰弱体になりこむ修練を通して、からだの闇を
縦横に旅する。
伝統的な技法では開かない体感や動きのチャンネルをはじめ、
映像・音像・情動・関係・世界などのあらゆるチャンネルを開いていく。
その点だけが異なる。
衰弱体を、動く微細身であると位置づけるのは、今年が初めてである。
これによって、いままで闡明できなかった伝統的な瞑想法の世界と、
土方舞踏の世界とのつながりを明らかにすることができるようになった。

3 非二元界

三つ目の世界は、名づけにくい。
非二元かつ多次元の誰も見たこともない世界だからだ。
昔は融即界と呼んでいた。
日常世界の論理とはまったく異なる論理によって動いている。
生命の感じるクオリアの世界だ。
神話的な世界や伝統技法の中では、神や仏が動き、変容する世界として
捉えられてきた。
サブボディ技法では自分のからだをさまざまな十体に変成させて、
この世界をからだで縦横に歩きまわり、動きまわり、踊り、旅をする。
変容する十体にみずから成り込むのが
伝統技法にはないサブボディ技法の特徴である。

ともあれ、これが三界の簡単な仮の見取り図だ。
くれぐれも旅の指針としてだけ、参考にして欲しい。
実体ではない。
三つの世界は縦横に絡み合い、浸透しあっている。
日常体の粗大な神経や感覚では気づかないだけだ。

以前に作成した図解ツアーも、それが仮の見取り図だと了解しながらたどれば、
役に立つかもしれない。
図解ツアーにはじめにというページを付け加えて、
それが仮のパースペクティブを与えるものであることを強調した。
いまではあまり使わない古い概念や技法も含んでいるが、
すべて試行錯誤の中の実験だった。
これからも実験は続く。
サボボディ技法を学んだ生徒たちによっても、
世界中でからだの闇を旅する様々な実験が続けられている。
それらの実験はすべて遠くで共振しあっている。
もう誰にも全容は捉えられない多次元リゾームになった。
ただ、これらを通じて世界が限りない多様性と共振に満ちた豊かなものになって
いけばいい。



秘密

命に聴く

いつも命に聴く。
一番したいことはなんだい?
自分に聴くのではない。
命に聴く。
この問だけは欠かしたことがない。
それだけがいつも曇ったり湿ったりしている感情や、
かつえていりたっている欲望に振り回されずに、
戸惑いうろたえ血迷っている自我や自分に惑わされずに、
命からはぐれないたった一つの方法だからだ。

この問いにもし巡り会えていなかったら、
いままで生きてはこれなかったと思えるほどだ。



命の声が聴こえるからだになる


命に聴く。
いったいどんな世界で生きたいかい?
自我と自我の対立や、支配、強制、
君の命はそんな世界で生きたいと思っているかい?
命はいつも命にとっていい環境で生きたいと志向している。
命の声に耳を澄ます。
命はしゃべらない。
ただ、細胞の具合が良くなったり、調子を落としたり、かすかな兆候を示すだけだ。
そのかすかな傾きに耳を澄まして、命の傾きにからだごと従うことが大事だ。
40代で踊り手に転生したとき、
私の命はもうコピーライターという仕事を続けることにはっきりとノンという兆候を示した。
踊り手になってから、私の命は日本で生き続けることに
かすかだがはっきりとノンという兆候傾性をしめした。
日本は命に悪い。
命の声が聴こえない。
かすかな命の声を聴くために、ヒマラヤくんだりまで
リトリートするしかなかった。
だが、ここへ来て本当によかったと思う。
生きるためにのっぴきならない必要な転地だった。


命の秘密を狩る

さまざまなからだの動きや、心の動きを練習しているとき、
突然心の動きとからだの技がひとつに瞬間がある。
一定期間練習と探体を続けてきた期末には頻繁にこの結晶現象が起こる。
練習の動きが踊りになった瞬間だ。
古典的な芸道や武道では心技体がひとつになるという。
その瞬間を精妙に保存する。
どんな心の動きとからだの動きが一体になったのか。
その微妙なタイミングをからだに書き込む。

心の動きというと、人間的なものに制限されるので
サブボディ技法ではクオリア流という。
からだのなかの生命の動きすべてが含まれる。
原生動物的なぬめりや生命記憶、
潜んでいた見知らぬ人格傾向がうねりつつ変容している。
それらすべてが不可視のクオリア流だ。
内部のクオリア流とフィジカルな動きが一体になる瞬間を探る。
あたかももっとも注意深い狩人になって、その微妙な瞬間を狩る。
瞑想状態でクオリアのままに動いているだけでは、
自分がどういう動きをしているのか思い出すことができないことが起こる。
狩人はいつもその獲物の動きと一体になって動いている。
踊りながら同時に狩人になる。
動きながら同時にもうひとりの狩人が、外から離見し、
踊りになった瞬間を見つけて狩る。
透明離見という。
透明体になって動きが踊りになる瞬間を狩る。
何が踊りになるのか、分からない。
ただ命が知っている。
自分でもわからない瞬間の秘密を狩る。
踊りとは命の秘密なのだ。

そして次の段階では次から次から生まれてくる踊りと踊りの間の
つながりに耳を澄ましていく。
ひとつの動きにはたったひとつの最適のタイミングがある。
最適の速度、転換、継続や静止の時間などがある。
ひとつの動きから別の動きへのつながりにも
たったひとつの間がある。
それらあらゆる動きや間のベストタイミングを見つけフィックスする。
はじめから終わりまでの序破急のうねりごとそっくり狩りとり
ただちにからだに書き込む。
それが命の秘密を狩る作業だ。
命はそれが美だとも花だとも行ってくれない。
ただ、命がはっとするとか、ワクワクするとか、おののくとか、
いのちの言葉は体感で出来ている。
それが命からのメッセージだ。
40億年生きてきた中で、命は新しい共振パターンに触れるとふるえる。
何が命にとって新しい美なのか、命だけが知っている。
その瞬間を狩る。
秘密を狩る。
命の秘密は言葉では言えない。
ただ、踊りを狩る。
間を狩る。
序破急を狩る。
それが命にとっての創造の秘密を狩ることだ。

これが探体で見つけた個々の動きをフィックスし、
生命の序破急を聴きながら踊りを創っていく手順だ。
命の秘密に満ちた踊りができる。
それが生命の舞踏だ。


「美とは何か」をもっと読む

血液


踊りとその血液

 

『静かな家 覚書き」の解読と翻訳を終えた長期生は、

毎日それをもとにした新しい練習法を発明している。

オディールは、第16節に探求坑道を掘りすすんだ。
それはただの動きを踊りに転化する秘密の坑道だった。

 

16 場所を変えることの難しさ

 

    体こそ踊り場であろう。

    手の踊り場、尻の踊り場、肘の裏の踊り場等。

    この場所が持つ深淵は、この踊り場にはさまってくるものを
    克服し、

    からみつかせる事により成立する。

    例えば、柳田家があり、柳田家の庭にクジャクがいるという事を
    たいへんに貴重なものであるという発見をする。

    また、カン工場という場所は、私にとってなつかしい粉末という
    ものによって    語られる。

    それらが踊る際の血液になっているのだ

土方が見た友人宅でのクジャクや、彼が働いていたカン工場には、
新鮮な驚きや輝きや懐かしい生きたクオリアが詰まっている。
それらの命が共振したリアルなクオリアが動きを踊りに転化する。
ただからだを動かしていれば踊りになるなどというのは甘い幻想だ。
血液の通っていないダンスが満ちあふれている寒い現代、
きみの命にとって踊らなければならない命のクオリアを掘り当てよ。
ここに書かれているのはそういうことだ。

 

オディールは、まず、体の各部に挟まってくるものとして、音楽を掛け、

第一段階 音楽に乗って踊る。土方の言葉で言えば、音のクオリアを
からだに「からみつかせる」。

第二段階 音楽から降りて踊る。土方の言葉で言えば音を「克服する」。

第三段階 次に各自が一箇所ずつ自分の踊り場を決め、そこに
「はさまってくる」踊りの血液となるような自分独自のクオリアを
からみつかせ、あるいは克服して踊る。

(この先の第四段階は、踊り場をどんどん変えていく実際の踊りの
創造となる。

その際の血液の通し方がこの節の眼目だ。)

 

これはやってみると、驚くほど豊かな練習になった。

三人のからだからこれまで見たこともないようなサブボディが次から
次へと踊り出てきた。、

まるで、「待ってました!」とでもいうかの勢いで。

とりわけ、音楽の選定がうってつけだった。

乗ることも降りることもどちらも面白いような音楽はそうそうない。

MP3ファイルを添付したのでご賞味ください。(工事中:失礼。MP3の張り付け方を忘れてしまった。

しばらくお待ちください。)

 

 

わたしは、この節をからだで読む中で、一つのことを発見した。

これまで「柳田家のクジャク」とはなにかがおぼろげにしか捉えられて
いなかった。

なにか非日常なものには違いなかろう、くらいにみなしていた。

最後のカン工場のもつリアルな血液にくらべて、なにか釣り合いが取れて
いないと感じていいた。

だが、それはわたしの理解不足で、、土方は柳田家でクジャクにであった
ことを「たいへんに貴重なものである」という発見をしたのだ。

命が驚き、特異な輝きを放ったのだ。

それがクジャクだ。

いままでこの「たいへんに貴重なものである」という言葉の真意をしっか
りつかんでいなかった。

だれでも人生で目を見開いて驚き、

眼から鱗が落ちるような輝きの体験をしたことはあるだろう。

それが大切な踊りの血液になると言っているのだ。

とりわけ、「柳田家のクジャク」は、

26節の大事な場所でもう一度出てくる。

 

深淵図の中で、全ての事象の午前一時のなかで、柳田家の孔雀は
完成される。

 

最後の、急の急になってはじめて完成させられるものとして捉えられ
ている。

土方はこう言っているのだ。

「きみの命の驚きを踊れ。

クジャクを踊れ、その輝きを踊れ、

クジャクを剥製にし、繁みの中や箱の中に押し込み、

無限の還元と再生を踊れ。

クジャクから狂王へ、羅漢の震える手へ、指先の恋愛へ、

王女の悪巧みへ、クジャクの変幻を踊りきれ。

きみの命が驚き、輝いたクオリアからさらに無限の変容を踊れ。」

 

わたしはこの日、自分の人生を振り返り、

もっとも、驚き感嘆したクオリアを三つ掘り出した。

 

わたしは若い頃から山や海を歩きもぐり続けてきたので、

驚き感嘆した体験は無限にある。

桔梗の花とはじめてであった時もその美しさに驚き焼き付いている。

北海道の大雪山で出会った高山植物にも魅せられた。

オオルリという鳥の輝く青い色にも目を洗われた

カワセミの一本の青い矢のような軌跡も眼に焼き付いている。

玉虫の輝き、発情期のタナゴのきらめき、川エビの透明さ。

早春の山の発芽してくる木の芽の萌黄色のダンスの素晴らしさ。

数えていけばキリがないほどの驚きが出てきた。

だが、この日わたしが選んだのは、

雉と水晶とタコだった。

冬場、山歩きをしていて不意に間近の藪から雉が飛び立つときは

驚きで、雉の姿が地上1メートルほどのところでストップモーション
になって焼きつく。

その瞬間は飛速度も遅いので、漁師にとっては引き金を引く好機なの
だが、私にとっては冬の野山の枯れ草色のなかで極彩色の輝きを発する

その美しさが眼に焼き付いている。

おそらく柳田家でクジャクに接した土方も踊りの花に持ってくるほど
驚いたのだろう。

二番目の水晶は、私が全国各地の石英鉱山の坑道に潜り込み、

水晶やトパーズなどの透明な美しさのとりこになっていた頃の体験だ。

山梨の乙女鉱山の坑道で出会った年老いた鉱婦が大事にとっておいた
大きな水晶を「ほら、もってけえれ」と惜しげもなくくれた瞬間の感激
が蘇った。

水晶の冷たさと、鉱婦の荒れた手の温かさが融け合って得も言われぬも
のに結晶した。

三番目のタコには、信じられぬほどの変幻の見事さに驚かされた。

沖縄の宮古島で素潜りして熱帯魚を追っていたときだ。

タコの子どもが泳いでいるのを見つけた。

小さなタモで取り込もうと一緒に泳いでいるとき

不意にタコが姿を消した。

彼等は瞬間に自分の皮膚を周囲の岩や砂と同じ色に変化させることがで
きる。

そのことは前から知っていたが、こんなに完璧なものとは知らなかった。

いくら目を凝らしても私には見分けることのできないほど見事な忍者ぶ
りだった。

自然の中でいろんな神秘に出会ってきたが、その時ほど驚かされたこと
はない。

あるいはわたしは若い頃から変容の魔術に特別執着するタチだったのかも
しれない。

 

ともあれ、オディールのガイドのおかげで、予期せぬ踊りが転がりでて
きた。

わたしだけではない。

Ikuko もオディール自身からもこれまで見たことがないようなサブボディ
がいくつも
産み落とされた。

フィジカルなからだの動きと、各人固有のクオリアが結びついてひとつに
なったとき踊りに結晶する。

その瞬間を狩るのが、オディールの狙いだった。
勘違いしないでもらいたいが、クジャクやカン工場や水晶やタコそのもの
が何事かなのではない。
その瞬間それらに共振した命の震えがかけがえもなく大事なのだ。
その生命の微細な震えを手の踊り、肘の踊り、尻の踊りの細部にきちんと
埋め込むことだ。
それが踊りを創り、踊りの花を創造する血液となる。

優れた練習とは、からだの闇の創造性の宝庫を解き放ち、

かつ踊りに結晶させるこういう練習のことをいう。

土方の舞踏譜を掘ると、こういう優れた練習がどんどん生まれてくる。

Ikukoもオディールも優れた練習方法の創造者になった。

読者の方にも強くおすすめする。

 

エッジ
2010年8月29日

呼吸困難のエッジワーク

毎日、生徒と共にからだの闇の旅を続ける。

毎日毎日違う坑道を掘り進めて、埋れている記憶や

異貌の自己に出会う。

 

はじめてそれを行う生徒にとってそれは大変な旅だ。

得体のしれない怪物と対面する毎日になる。

サブボディが活性化すると、下意識は24時間体制で眠りを知らないから

睡眠不足が続く。情動不安になる。体調不全に陥る。昔の傷が出てきて痛み出す。

それらあらゆる困難に対処し続けながら旅を続けなければならない。

 

共振タッチ・指圧による共振技法ボディワークと、

エッジワークが産婆にとって必修科目になるのは、

最低この二つは身につけていないと、脳心身のあらゆる問題に

対応できないからだ。

 

今週は土方の静かな家にでてくる様々なクオリアを自分固有のものに置き換えるた
めに、
生徒は自己催眠技法を使って思い出せない過去の記憶に立ち返った。

 

ほとんどの生徒は親との関係に深い傷を負っていて、

忘れていた記憶がぶり返して打ちのめされたり、泣いたりした。

ひとりの生徒はある日突然呼吸困難に陥った。

教室内にいることが息苦しいらしく、庭に出て外の空気に触れた。

窓際に佇んでいる彼女に、どう言う状態か尋ねたが、

言葉さえ出ないらしく、喉元をさして呼吸ができない、と訴える。

 

しばらく、みんなで彼女を囲み、共振タッチをした。

たださまざままな秘膜距離で細胞と細胞をふれあい、

生命共振を感じる。しばらくして落ち着いてきたら、

皮膚をさすったり、筋肉各層のマッサージをしたりする。

一日目はそれで少しおさまったかに見えたが、

次の日も呼吸困難がぶり返して、朝の調体の途中で早引けしていった。

そこで次の日の朝はエッジワークから始めた。

 

その生徒に自分が感じている胸の圧迫感を私の胸を押して、

どんな感じか伝えて欲しいと頼んだ。

彼女はためらいながらも、少しずつ私の胸と喉に圧力をかけていった。

「もっと押してみて、大丈夫、死ぬ前に知らせるから」と笑わせると、

胸と喉に体重をかけてきて、実際まったく呼吸ができない状態になった。

「これは大変だねえ。どんなに苦しかったか、よく分かったよ。」

つぎに立場を変えて彼女に横になってもらい、

同じように彼女の胸と喉を押した。

「誰が押しているのか感じてみて」

それを何度か繰り返しているうちに、

彼女の態度がすこしずつほどけてきた。

なにか、すこし楽になったようだった。

エッジにはじめて直面したときは、何か得体のしれないものに襲われているよう
な気がして
不安になり、しかも自分ひとりだけが苦しんでいると孤独に捉えられ
て苦しさがいや増すものだ。

そんな時、その同じ苦しさを分かち合ってくれる人が現われると、

それだけで少し楽になるものだ。

しかも、いったい誰が自分を押しているのだろうと思いめぐらしているうちに

ほかでもない、自分が自分を押しているのだと気がつく。

自分のなかの見知らぬ傾向性に触れて驚いた日常の自分がそれをはねのけようと
するあまり、
分の中で葛藤が生じ、それが胸を締め付けたり、動けなくなったりし
ているのだと気づく。

言葉でそう誘導するのではなく、何も言わず。ひとりでに気がつくのを待つほうが
いい。

 

じっさい彼女も週末には元気になって、かなり長い踊りを創った。

踊ったとの彼女の顔はエッジに苦しんでいる時とは打って変わって晴れ晴れとして
いた。

何も語り合わなくても踊りが出来れば、それが何よりの証拠になる。

創造はつねに命が受けた軋みを打ち返す、軋み返しである。

受けた苦しみを創造に昇華することができたのだ。

 

自分の中で、いったい何が起こったのか。

それを言葉で捉え返すまでにかかる時間は、人によって異なる。

去年の生徒アスカは自分が体験したエッジとの格闘を

絵に描いてくれた。

とてもいい参考になるので、下記に再掲します。

2010年8月28日


産婆の三

三を見つける。

それまで二として捉えていたものに、

もうひとつの要素を絡みつかせる。

すると、いままで二に囚われて身動きもしなかったものが

突然動き出す。

これは、産婆にとって二元論の束縛から脱出するための極意だ。

二者関係のリレイションに対して、

トリレイションと呼ぶ。

あらゆるリレイションのトリレイション化(三者関係化)は、

二元論から多次元思考へゆらぎ出す突破口としてとても重要なものだ。

ひも次元ではあらゆるものは11次元で共振している。

宇宙にはたった二つだけの関係など存在しない。

そう思っているのは私たちが二元論に深く毒されているからである。

二元論の毒が回った頭は、善悪、正誤、上下、内外、心身、自他などの

幻想に縛られていつもその判断に囚われている。

一切の二元論的判断を停止することから始めよう。

二項関係で捉えていたものを三項関係にずらすことから始めるのがいい。

それがトリレイション技法だ。

 

私の頭もずいぶん二元論の毒が回っているので、

多くのものを二項関係で捉えてしまう。

ほかでもない、わたしは長年、サブボディの産婆法を、

創造技法と指圧・共振タッチのボディワーク技法を

車の両輪のように捉えていた。

だが、ふと今日二が三にずれた。

 

創造技法と、共振ボディワークと、エッジワークの三者が産婆の三であると
気づいた。

とたんに、それまで別物と捉えていた共振タッチや指圧と、エッジワークが

密接な有機的関係を持っていることに。

 

重大な気づきはいつも、それまで全く別だと思っていたものが

それまで気付かなかったところでつながっていることが

不意に透明に見え出すかたちでやってくる。

 

それまでつながっているとは思ってもいなかった指圧とエッジワークが

通底していたとは!

 

去年の生徒アスカの描いたエッジワークの図を思い出した。

それは、指圧の姿勢とまるで同じではないか。

 

私が指圧の師遠藤喨及氏から学んだタオ指圧には、胸を押すという技法はなか
った。

だが、時代は変わってきている。

勇気を出して踏み出してみよう。

サブボディ体験はこれまで人類が行ったことのない領域への旅だ。

そこは非二元の国なので、からだの問題と心の問題が分かちがたく結びついて現
れてくる。

エッジに直面した命は、からだの痛み、緊縛感や圧迫感としてフィジカルに現れ
る。

エッジワークとのつながりの中で、

これまでの指圧にはなかった胸の押圧が重要な位置を占めることを発見させてく
れた。

なぜなら、エッジに着面したとき、しばしば胸の圧迫感としてからだに現れるか
らだ。

苦しみの中身は語ることができない。

うっすら予感しているときも、その内容は自分ひとりの秘密としてしまっておく。

ただ、痛みや圧迫感や緊縛感という苦しみだけ分かちあえばいい。

胸を押圧し合い、お互いの感じているクオリアを分かち合うことだ。

それだけで不思議と苦しみは半減する。

ときには嘘のように消えてしまうこともある。

産婆は率先して押してもらい、苦しみを引き受けることだ。

具体的には、胸骨を掌底や拳圧、指などで押す。そして交代する。

ゆっくり体重をかけていきながら、

押しているのは誰なのか、何が起こっているのか、互いに感じあう。

 


産婆法と生命共振

共振塾の根幹は、生命共振にある。
現代の人間社会が忘れ去っている生命共振をいかに取り戻すか、それは人類史的課題なの
だ。
今月から、長期生は、産婆法を学ぶ過程に入る。
これまでも、生徒は自分のサブボディのかすかな誕生の息吹に耳を澄まし、
それを誕生させる産婆としてやってきたのだが、
一定の段階から以降は、他の人のサブボディをわがことのように感じ取る産婆になる訓練を
積むことがより一層深くサブボディー・コーボディプロセスをたどるために必要になる。
体の深いところでは自分のサブボディと他人のサブボディの差異などなくなり、
サブボディとコーボディの差異さえもなくなる。
そういう非二元域に降りていこう。
産婆法は次の五つが主要なポイントになる。

1 自我や自己に囚われない生命共振を開く
2 自他に囚われず、サブボディ・コーボディ誕生の手助けをする
3 ツリーリゾーム技法
4 リップル技法
5 エッジワーク


これらは次のようなステップで進む。
1 とりあえず、朝の調体をガイドすることから始める。
2 調体とその次の探体で探るクオリアとの最も良い連関をみつける。
  探体では、秘膜、秘液、秘腔、秘筋、秘関、秘神、秘眼などの秘蔵クオリアを探る。
  また、各種の歩行やさまざまな十体につながる個別練習に入る。
3 調体、探体、創体の総合的連関を探求する
  創体では、各自のサブボディ・コーボディを踊りに創りあげていく。
  各十体への道筋を明らめる。
  静寂体、衰弱体、受動体、原生体、気化体、異貌体、傀儡体、
ボトム体、巣窟体、女体、憑依体、透明体、各種コーボディなどなどが、一般的な十体であり、
これを各自独自の十体にまで固有化していくプロセスがこれから始まる。
それらをどう導くかが、今後の課題となる。
今年は変則的に来月から数人の短期生を迎えることとなった。
だが、これは共振塾に新たな可能性をもたらすチャンスともなった。
長期生はかれらに、自分が得たものの打ち最良のものをシェアすることから始める。
いままでは秋になって、はじめて新人へのガイドをする訓練を始めていたのだが、
春から自己探求と、産婆法の習得を同時進行的に進めることができるようになった。



軋みのクオリア
2010年4月11日

軋みの探究

今月は、先月ほんの少しずつ掘り始めたからだの坑道を、少し奥まで掘り進める。
とりわけ、今月は命にとっての軋みのクオリアを探求するつもりだ。
どうやらそれがもっとも豊饒な鉱脈に続いていそうなことがわかってきたからだ。
だが、豊穣の周りは危険に満ちている。
何が出てくるかわからないから、あくまで慎重に歩を進める。
対応できそうもないものに出くわしたら、すぐさま引き返す。
そして、その厄介なクオリアのありかを覚えこむ。
来年はきみを踊るからね、と伝えて、今のところはそっとしておく。

軋みとエッジと原生夢

命が誕生したばかりのころ、命はとてもかよわいものだった。
1ミクロンにも満たない小さな細胞で、しかもまだこの地球上のほとんどの分子やエネルギーと
うまく共振する仕方を見出していなかった。
たとえば、今はこんなに相性のいい酸素さえも、
発生当初の生命にとっては、命を脅かす猛毒だった。
命がまだうまく共振できないものに出会うことは、ただちに死を意味した。
だから、そんなものに出くわしたら、命は命からがら逃げ出してしまう
不快きわまりないエッジクオリアとともに、その危険な物質やエネルギーを記憶したのだ。

命にとってこの、エッジクオリアと、軋みのクオリアは近親である。
エッジクオリアが、うまく共振できないものに対するクオリアだとしたら、
軋みとは、うまく共振できないにもかかわらず、命が生き延びるために
自らを歪ませ変形させて無理やり受け入れたものだ。
ほとんど同じものだと言っていいほどだ。
どちらも、不快で、ただちに逃げ出したくなるクオリアに満ちている。

そしてもう一つ、命にとって忘れることのできない歪みやエッジのクオリアは、
生涯を通じて繰り返し見る原生夢や固有夢として、命に刻印される。
これらの悪夢は命にとっての根源的体験なのだ。
これらのクオリアを何年もからだの中で転がしているうちに、
そのつながりが浮かび上がってきた。
軋みのクオリア、エッジクオリア、そして原生夢は、
命にとって最も深い根源的体験のあらわれなのだ。



2010年9月26日

ごく微細な不快体感に耳を澄ます

フォーカシングのジェンドリンのいうフェルトセンスと、
ミンデルのエッジクオリアとは、どこかでつながっている。
どちらも不快な体感だ。
日常意識では気にもとめないほどの微細なものがフェルトセンスで、
それが嵩じて、身動きがとれないほどになったものがエッジワークの対象となるエッジクオリア
だ。
それらはみな命がどこかで感じている歪みだ。
なにかがうまく行っていない、どこかおかしい、というものだ。
そんなクオリアは日常的にいつもからだの中でうごめいている。
それに耳をすますことが、創造的に生きる極意だ。
命が何らかの違和感を感じることから、その違和を突破するために
生命にとって必要な創造が起こる。
私にとって、これらの不快な体感こそが人生の最大の友だ。
それにま向かうときは不快で仕方がないが、
その不快の向こう側にだけ創造が生まれる。
不快さを避けてばかりいると、何も創造が生まれない。
快適さや愉快さや楽しさは真の創造の敵でさえある。
それらはただ味わって通りすぎればいいものだ。
これを勘違いしている人が多い。
楽しさから大した創造が生まれたためしはない。



2010年3月11日

からだの闇の仮の見取り図

1998年にはじめて来て以来、ヒマラヤも12年になった。
瞑想していると、これまでに盲滅法、手当たり次第に掘り進んできたからだの闇の坑道が、
ずいぶん透けて見えるようになっているのに気づく。
これまでのあらゆる苦し紛れの試行錯誤を統合し、
ひとつのパースペクティブの中に位置づけることが出来そうだ。
いままで出来なかった、学期のはじめにこれから一年間のざっとしたオリエンテーションが
できるようになってきたこともこれと関係している。
そう、いつの間にか、ずいぶんと透明度が増している。
いままで、段階論に囚われるのがいやで、採らなかった伝統的な瞑想法の中の
粗大身(グロスボディ)、微細身(サトルボディ)というような区分けも、
それを仮の見取り図とはっきりさせれば採用できるよい方便であることにも気づいた。
あらゆる見やすい見取り図はトリックでもある。
これに囚われて、からだの闇が実際に今見えているようなものだと錯覚してはなら
ない。
非二元かつ多次元時空は、例えてみれば次の図のように、入り組んでいる。


前だと進んでいるといつの間にか後ろに向かっている。
上だと思ってよじ登っていると、着いたのは地獄の底だったというようなことがしょっ
ちゅう起こる。
だが、なんの当てもなしに歩くよりは、仮のものであるにせよ
何らかの見取り図がある方が歩きやすい。
それを非二元かつ多次元世界を歩くための仮の地図だとわきまえてさえいればい
いのだ。
からだの闇にはどんな見知った段階的構造も、上下の階層制もない。
そのことをはっきり押さえておくこと。
歩き始めのときには、これらの坑口のありかや、歩き方をガイドした導きが役に立つ。
だが、それを信じないことが大事だ。
とくに創造のなかでは一切の理論や図式を潔く忘れ去ること。
それを忘れないで欲しい。

三界トラベル

からだの闇を歩くとき、三つの異なる世界を横断するのだと承知していることは役に
立つ。
三つの世界というのは比喩のようなものだ。
実際には非二元かつ多次元なのだから数え用もない世界だから。
三つというのは二元論の囚われから脱出するための必須の通り道だ。
古来からの伝統的な瞑想の世界でも、三つの世界として捉えてきた。

1 日常界 
私たちが人間として生活している日常世界だ。
古来、粗大身(グロスボディ)の世界と呼ばれてきた。
微細身と比べれば、はるかに粗大(荒っぽくて粗雑なこと)な動きや判断からなる。
それら粗大な動きや感覚、判断、思考をすべて止めることによって
微細なものに耳をすますことができるようになる。
調体(コンディショニング)とは、呼吸やゆらぎ瞑想などによって
この粗大な日常体と日常思考を脱ぎ捨て、微細界へ降りていくことだ。

2 微細界
伝統的な瞑想技法では微細身(サトルボディ)と呼ばれてきた。
日常体の粗大な動きや思考をすべて止めると、
日常界では見過ごしてしまうほどかすかなクオリアのゆらぎに気づくことができるよ
うになる。
どれくらいかすかかというと、何億何兆倍もかすかで微細な、あるかなきほどのもの
だ。
日常体はそんなものが存在することすら知らない。
わたしも12年前ヒマラヤへ来て、ダライラマの書を通じてはじめて微細身のことを知
った。
サブボディは、通常下意識のからだ(サブコンシャスボディ)のことだと
説明しているが、もうひとつの隠れた意味は、サトルボディのことでもある。
サブボディとサトルボディ(微細身)はほとんど同義である。
ただ、サブボディ技法では、伝統的な瞑想法では使わない動きのチャンネルを開き、
動く微細身である衰弱体になりこむ修練を通して、からだの闇を縦横に
旅する。
伝統的な技法では開かない体感や動きのチャンネルをはじめ、
映像・音像・情動・関係・世界などのあらゆるチャンネルを開いていく。
その点だけが異なる。
衰弱体を、動く微細身であると位置づけるのは、今年が初めてである。
これによって、いままで闡明できなかった伝統的な瞑想法の世界と、
土方舞踏の世界とのつながりを明らかにすることができるようになった。

3 非二元界

三つ目の世界は、名づけにくい。
非二元かつ多次元の誰も見たこともない世界だからだ。
昔は融即界と呼んでいた。
日常世界の論理とはまったく異なる論理によって動いている。
生命の感じるクオリアの世界だ。
神話的な世界や伝統技法の中では、神や仏が動き、変容する世界として捉えられ
てきた。
サブボディ技法では自分のからだをさまざまな十体に変成させて、
この世界をからだで縦横に歩きまわり、動きまわり、踊り、旅をする。
変容する十体にみずから成り込むのが
伝統技法にはないサブボディ技法の特徴である。

ともあれ、これが三界の簡単な仮の見取り図だ。
くれぐれも旅の指針としてだけ、参考にして欲しい。
実体ではない。
三つの世界は縦横に絡み合い、浸透しあっている。
日常体の粗大な神経や感覚では気づかないだけだ。

以前に作成した図解ツアーも、それが仮の見取り図だと了解しながらたどれば、
役に立つかもしれない。
図解ツアーにはじめにというページを付け加えて、
それが仮のパースペクティブを与えるものであることを強調した。
いまではあまり使わない古い概念や技法も含んでいるが、
すべて試行錯誤の中の実験だった。
これからも実験は続く。
サボボディ技法を学んだ生徒たちによっても、
世界中でからだの闇を旅する様々な実験が続けられている。
それらの実験はすべて遠くで共振しあっている。
もう誰にも全容は捉えられない多次元リゾームになった。
ただ、これらを通じて世界が限りない多様性と共振に満ちた豊かなものになって
いけばいい。



2010年5月22日

量子的泡と土方の巣窟体

図1 相対性理論までの空間概念
図2 量子論以後の空間概念


まず、上の図をごらんいただきたい。
量子論以前の科学では,空間は一様であると信じられていた(図1)。
細分化していっても一様に静かな空間が広がっているだけである。
だが、量子物理学が登場して以降、空間を微細化して,量子論的レベルを超えた途端
天変地変のようなとんでもない変化をしているという驚くべき事態に遭遇することになった
(図2)。
「空間は泡立ち,荒れ狂って、ねじれた形をとる。
ジョン・ホイーラーはこれを量子的泡と名付けた。
この空間では、左右、前後、上下という馴染み深い概念が(さらには,過去と未来の概念さえ)
意味を失う。」
(ブライアン・グリーン『エレガントな宇宙』)



生命もまた,この多次元的に量子的に泡立つクオリア共振を生きている。
土方巽の最後の衰弱体は、自分の人体でこの多次元微細共振している生命の
量子的泡の領域に入っていこうとした最初の試みだった。
からだを鎮め、灰柱の境地まで持っていく。
そのからだをできるだけ静かに運ぶ。
凡庸な眼で見ている限りは、かれのからだはただ不規則ランダムに揺らいでいるだけかの
ように見える。
だが、その実態は、時空を超えて超複雑なクオリア共振を行っている。
土方の遺した寸法の歩行や虫の歩行、静かな家の舞踏譜の世界にからだで入っていけば
彼がどんな世界でゆらいでいたのかが体得できる。
その内容の一端は、舞踏論17章以降をご覧頂きたい。
これをなんと呼べばいいのか。
わたしは土方の愛用する巣(目の巣、森の巣・・・)が無数にからだじゅうに満ちた状態として
巣窟体と呼ぶことにした。
あるいは無粋だが多次元共振体ということもできる。
巣窟体は、絶えず多次元的に無数のクオリアと共振している
生命の実相に近づこうとするときに編み出された。
からだじゅうの10兆個の細胞が多次元的に呼吸し、
新たなクオリア共振パターンを創発し、夢をみている。
実技ガイドで述べた「多次元微細呼吸」技法が必要になるのはここから先だ。
土方のからだも無限の異界と共振し、異様なクオリアをはらんで量子論的に泡立っている。
それは奇しくも,極微細な時空で量子的に泡立っている世界のありさまとそっくりな様相を示
している。

量子的に泡立つ空間も、生命もクオリアも、
11次元のカラビヤウ時空で共振しているひもによって生み出されているからだ。



2010年1月18日

非二元域への旅

ここ十日ほど、映像のない体感夢を見続けている。
ごわごわの体感だけを感じている夢から始まった。
その後、からだをTake Careしなければならないねえと言い合っている夢、
アンドロイドのように、からだをリペアしなければならなくなっている夢
周り中内臓だらけのような世界に漂っている夢、
……などなどだ。

どれも言葉にならない不分明な体感に満ちていて、
はじめはなにか分からなかった。
からだのなかにもごもごしている体感だけがあった。
毎朝寝床の中でその体感を味わい続けた。
日毎に新しい気づきがあった。
どうやら、この間長いネットの断線中に書こうとしていたことをまとめようと、
言語モードになってしまっていることへの警告であるように感じられた。
書こうとするとなにかおかしい感じがからだのなかにくぐもっていて
なかなかうまく書けなくなっていた。
サブボディさんは、書くな、からだに聴けと言い続けているようだった。
からだの闇に耳を澄ますことから出発するのがサブボディメソッドの眼目だ。
だが、私自身がそこからずれてしまっていた。
改めて毎朝からだに耳を澄ます時間をたっぷりとるようにした。
すると、からだのなかのいやなくぐもりは消えた。
だが、それでも体感夢のシリーズは続いた。

最近の内蔵だらけのような世界に漂っている夢は、
まったく上も下も分からない奇妙な世界だった。
しかも言葉にできない微妙な体感に満ちていた。
しかも不快な言い知れぬ不安に満ちている。
右も左もわからない世界で身をよじり、身悶えしつづけている。
さすがに奇妙な物好きの私にさえ、ちょっとこたえる体験だった。
この体感が、これまで授業の中で私の言葉についてくれずに
動けなくなってしまった生徒の体感に共振しだした。
数限り無い動けなくなった生徒の不快な体感が次々と思い出された。
そうか、生徒もこの不快な体感にやられて動けなくなっていたのか。
私の言葉が多すぎたり速すぎたりしたことが生徒を苦しめていた。
言葉なしにこの不快な体感の海を泳ぐ術はないものか。
ふと昔見た飛翔夢のシリーズを思い出した。
その夢も何日も続いた。
そしてある日胸をきゅっと締めることで空気の流れを捉えて風に乗るコツを掴んだ。
胸鎖関節に長い間封印されていた鳥の胸使いがからだに蘇ってきた。
ただ、踊っている最中にsの空を飛ぶ体感が蘇ってきて
何度もベランダから飛び出しそうになった。
あまりに危険なので怖くてしばらくはベランダに近づけなくなった。
だが、内臓だらけの世界で身もじりし続けているうちに、
なんとなく身悶えしながら動けるようになってきた。
ひょっとすれば、これが非二元域のクオリアかもしれないと気づいた。
ここが宝庫なのだ!
この非二元の世界をうまく旅する体術のようなものを見につければ百人力だ。
非二元の世界のことは言葉を通じてはどうにもならない。
からだでつかむしかないのだ。
そのこともこの一連の夢のメッセージだった。
じつは私はこの数年間、からだの闇の非二元かつ多次元の世界の論理を取り出そうと
悪戦苦闘してきた。
何度もトライしては失敗しつづけた。
どうやら、その世界はことばでは記述不可能なのかもしれない。
そしてただからだごとサブボディに成込み、無手勝流で旅をすることによって
からだでつかんでいくしかないのかもしれない。
ことばによって取り出そうとする試みを止めるのではないが
それをするにはまだまだ経験不足だよというのがサブボディさんからの
この一連の夢を通じてのアドバイスなのだろうと思う。

じつはこのシリーズの最新のものは、今朝見たもので、
その夢の中ではついに生徒が最強のクオリア遣いを身につけたと喜んでいる夢だった。
ずいぶん先走った夢だが、24時間体制で働くサブボディさんははるか先まで見通しているの
だ。
この夢を通じて、サブボディさんはこの体感をコントロールする体術を
生徒と共有せよと示唆しているのだと気づいた。
それは言葉にはできない。
とても微妙で曰く言い難いものだからだ。
だが、一年の授業のなかでじかにからだとからだの触れ合いを通じてなら
なんとか伝えることが出来るかもしれない。
今年の授業では、この曰く言い難い微細体術を伝え、共有することにトライしてみよう。
今までにやったこともないことだからどうなるか分からない。
非二元域への旅など、いままでに辿ったことのない未知の領域への旅になる。
どこにどんな危険が待ち構えているかも知れない。
その世界へダイブしてしまって帰れなくなることが最も怖い。
私の飛翔夢の中で掴んだ飛ぶコツが、練習中に混同して出てきた危険がそのよい例だ。
まさに生死のあわいへの旅になる。
心して辿ろう。



透明な美
2010年8月8日

透明なデュエットへ

7月最後の週は、土方の最後の舞踏譜「静かな家」の第一節を学んだ後、
各自が一ヶ月を統合するソロを創った。
そして、もうひとりがそこに多次元微細共振体で入る。
毎日の調体で、日々生命の多次元共振とより一層の微細クオリアに
耳をすますことができるよう多次元細分化調体を繰り返し行なった。
そのせいか、週末になってみれば、いつのまにか、
15年も前に夢に描いていた「透明なデュエット」が実現していた。
待ち望んでいたものが、予期せぬ時にいつしか訪れている。
不思議な世界だ。

「透明さ」について、そレがいかにすれば実現するのか
15年前にはまったく知らなかったことに気づく。
ただ、予感だけあったのだ。
15年前に知らなかったものとは、

①「透明さ」を実現するためには、自我や自己を止める技法を身につけねばならないこと。
②そして、非二元かつ多次元世界で微細に共振している生命になること。
③微細クオリアによってのみ動かされる透明共振体になる多次元化と微細化の訓練を積む
こと。

これらためにサブボディメッソド15年間の休みない深化が必要だった。
それによってようやく土方舞踏の豊潤な果実を味わう道が開いた。
掘れば掘るほど、土方が驚くべき生命の謎の深みを探っていたことがわかるようになった。
土方舞踏の比類ない花はすべて、この深い謎と秘密によって支えられていることを。


共振の美
2010年10月2日

共振体

美は共振にあり。
これがヒマラヤへ来てからのもっとも深い発見だ。
命が震えてやまない胸に来る美は、
思いがけぬ共振が出現した瞬間に生まれる。
なぜだかは分からない。
サブボディは下意識のからだであり、
コーボディは共振するサブボディである。
いつもそう説明しているが、本当のところ
両者がどう関係しているかは深い謎の中にある。
通常の論理の言葉ではとらえられない。
サブボディだと思っていたものが突然コーボディに変わっている時がある。
いったい何が起こったのか?
自他の境界線が突然曖昧になる。
類と個が別物ではなくなる。
命とは何なのか?
四十億年つづいている全体の命と,個の命はどう関係しているのか?
そういう非二元世界のことは、ことばで説明することはできない。
群れの下意識はとらえようがない。
ただとびきり美しい瞬間がある。
なぜだかも分からない。
ただただ胸に来る。
命にとって美は深い謎なのだ。
分からないから探求し続ける。
願わくば一緒にこの美しい謎を探求する人が増えて欲しい。
これだけは言える。
この謎は一生かけて探求する値打ちがある。
Leeに,騙されたつもりで共振の謎に取り組みなさい。



2010年4月24日

生命共振

共振塾の根幹は、生命共振にある。
いかに生命共振を媒介するか。
すべてはそこにかかっている。
サブボディ技法と、土方舞踏の型の双方を学ぶことによって
生徒の生命が生命共振によってひとりでに自分独自の踊りを創造する。
その創造性と固有性を発揮するプロセスを媒介するのが本質だ。
共振タッチや指圧を学ぶのは、生命が持っている原生的な生命力を思い出すことによって、
生命共振が発揮されるからだの状態に持っていくことが目的だ。
生命の原生力には、現代の日常のからだが忘れさっている自己治癒力も含まれている。
創造性とは、生命が受けた固有の軋みを、
自己治癒力によって軋み返しをする動きの表れである。
受けた軋みが固有のものであるかぎり、軋み返しによって出てくる創造性も
世界でたったひとつの固有のものとなるのは当然だ。
生命はこの力によって40億年の間に無限の多様性を発揮してきた。
私たちはほんの百年に満たない期間、命を借り受ける。
その間に固有の創造性を発揮して、こうも生きることができる、
受けた傷をこうして軋み返しをすることによって創造性に転嫁することができる、
という発見を命に返す。
命の悠久たる創造の流れに参加することによって、命に帰っていくのだ。
その時、個としての死は何ら恐れるものではないことがわかる。
私たちはただ一切と共振している生命なのだ。



2010年8月27日


微細共振から始める

世阿弥が発見した序破急は、生命共振として捉えるとその必然性がよくわかる。

能において、ひとつの能の序は、長い渡り廊下を静かにからだを運ぶ動きから
はじまる。

その序の運びの時間を通じて、踊り手は現実の日常世界から、

能が成り立つ現幻虚実が混交する異世界に入っていく。

観客もまた、その時間を共有することによって、
踊り手と共に異世界に導かれていく。

 

細胞レベルの微細共振からはじめる

  

サブボディ舞踏もまた、通常の序破急では静まり返った静寂体になり、

生命の呼吸に耳を澄まし、かぎりなく微細な細胞レベルのクオリア共振から始
める。

ときにはその慣例を打ち破り、異なる始まりを工夫することもありうるが
それは通常時の序破急を序とし、破の始まり方になる。
通常の序よりも、はるかに難しい始め方になる

 
序破急の序は、なぜ静かかつ微細な動きから始めるのがいいのか。

人間を脱いで、生命の世界に移行するためにその時間が必要なのだ。

 

あらゆる共振は微細な細胞生命から始まる。

細胞生命が共振しなければあらゆる共振は起こらない。

だから、共振は細胞レベルから始めるのが鉄則だ。
生命の呼吸に身をゆだねるのがもっともいい。
そして、一つ一つの細胞生命の微細ゆらぎに耳を澄ます。

もし、粗大な動きからはじめてしまえば、

見る人はそれを人間の動きとして捉えてしまう。

そうすると美醜・良否というさまざまな二元判断や価値観が、

見る人を捉えてしまう。

それでは駄目なのだ。

人間ではなく、生命になることが必要だ。
 

序破急の序が大事なのはそのゆえだ。

序においては目には見えないレベルのかすかなかすかな

命の異次元とのふるえから始める。

そしてその兆しを秘める。

すべての動きは動き以前の不可視の生命共振から始まるのだ。
そして、異界と交感する存在として、様々な人間以外の動きを工夫する。
傀儡体、ヒューマノイド、ベルメールなどもその一例だ。
秘筋、秘腔、秘膜、秘液、秘関など各自の秘密の部位から始まる。

何が起こっているのかわからない不思議な世界を創造する。

その不思議と共振することによってはじめて観客も日常の人間の世界から

生命の微細な非二元かつ多次元共振の世界に入ることができるようになる。

 

序において、限りを尽くして、人間を脱ぎ、

生命そのものに変成する。

序の如何によって、破・急の異次元開畳・異界転生が生きてくる。

どんな奇想天外な想像もつかない異世界にも、

観客とともに踊りこむことができる。

それができてはじめて生命の舞踏と言える。

一朝一夕にはかなわない。

日頃からの意識を止め、透明な生命になる長い長い修練によってのみ、

それが可能になる道が開く。

 

 

2010年8月17日

あらゆるものを共振として捉え直す 

 

これまで実体と思い込んでいたものを共振として捉え直すこと、

これがこれからのわたしの仕事となるだろう。

これまでのわたしの思考は、生命論においてもクオリア論においても

生命やクオリアをどこかで実体的なものとして捉える

観念の実体論的旧習に囚われていたことに気づいた。
自分自身の共振論で、あるゆるものは共振だと捉え返そうとしていた
にもかかわらず
観念は旧来のまま、生命やクオリアをどこかで実体的なものと思いなし
てしまっていた。

全部一からひっくり返されねばならない。

生命は根源的に共振現象である。
生命はあらゆるものと微細に非二元かつ多次元的に共振している。
共振によって生命は生命でありえている。

生命が感じるクオリアも実体ではなく、共振そのものである。

赤のクオリアなどない。

赤を感じる生命共振現象があるだけなのだ。

あらゆるクオリアは共振そのものである。
ここから再出発しよう。

共振と捉え返すことによって
これまでどこか胡散臭いものとして見られてきた催眠や自己催眠、憑依
などの現象も
ただただ生命クオリアの共振だと捉えれば何ら胡散臭いものではないこ
とがわかる。
舞踏における成りこみも共振によって成り立っている。
夢は生命の内的な記憶とその日の体験のクオリアとの間での共振によっ
て生成するものだ。
アニマなどの元型も共振という捉え方で解けていきそうな気がする。
うまく解けないまま措いておいた謎が次々と解けていく。
闇の中を暗中模索で掘り抜いてきた無数の坑道群がすべてつながる広場
に出た感じだ。
しばらくはこの広場を探索することにしよう。
おそらくはもっと深い闇にであうことになるだろうが。



2010年3月28日

すがすがしい未到の風

コーボディ坑道の様子は、今まで掘り慣れてきたサブボディ坑道と様子が違うこと
に気づいた。
なんだかもっと複雑に入り組んでいるようなのだ。
あるいは異なると思っていたものが意外なほど隣接していたりする。
コーボディ坑道はサブボディ坑道に比べてより一層非二元かつ多次元が輻輳して
いるようだ。

先週生徒とともに掘りすすんだ

目腐れコーボディ
秘液コーボディ
よじれ返しコーボディ

の三つのコーボディ抗をもう少しつぶさに調べてみよう。

目腐れ抗は、
最初、目を閉じてゆらぎ瞑想をすることから始まった。
別に眼を閉じることを指示しているわけではないが、
最も心地よいゆらぎを探そうとすると自然と誰もが目を閉じる。
目を閉じた状態では、闇の中にかすかなクオリア流動が起こっていることを
感じ取ることができる。
映像チャンネルにも、かすかなイメージの流れとして、登ってくる。
それは内クオリアの流れである。

外光に反応する外クオリアの刺激は内クオリアに比べて何億倍も強烈である。
だから、はじめは片目のまぶたにわずかな隙間を作って、そこから入っていくる
ごくわずかの闇とあかるみの感じが、かすかな内クオリアと半々につりあう状態を
つくる。
それが内クオリアと外クオリアを半々に感じる透明覚の入口になる。

そして、じょじょにもう少し目を開けて外光が入っても、
内クオリアを感じ続けることができるようにじぶんで訓練していく。
そして、じょじょに半眼や、眇目、白目、端目、歌舞伎目、ガラス玉の目など、
もっと見開いた状態でも内クオリアを半々に感じ続けることができるまでに持って
いく。
このプロセスを身につけるには本当に長い訓練がいる。
わたし自身、何年もかかった覚えがある。
だが、これを群れでやると、なんだかみんなが同じくらいの下意識状態を共有する
ことによって
意外と簡単に、外クオリア半分、内クオリア半分という状態に似た状態になること
ができた。
他の人の動きも夢のなかの出来事のように感じ取れて、
目に映っている光景が、外クオリアなのか内クオリアなのかが判然としない
白昼夢を見ているかのような下意識状態になるからだと思われる。
自分の夢のなかに他人が入ってくるのか、他の人の夢のなかに自分が入って
いっているのかもはっきりと区別できない状態だ。

おそらく、この自他未分化、内外一如の状態が実現できるのがコーボディの特徴だ。
ただ座ったままの瞑想ではなく、からだを動かしながら群れで瞑想状態に入る
サブボディ・コーボディ技法ならではのことだ。
この状態はいままで、ドリームワークとして特別に日を決めてやっていたワークとも
非常に良く似ている。
はじめに、違うことと捉えられていたことが、意外に紙一重の距離で隣接しているこ
とに気付かされると言ったのはこのことをも含む。
あらゆるものの布置が異なって現れる。
非二元界の新たな地図を書き直さなければならない。
とても二次元の紙に書けるほど簡単なものではないが。

よじれ返しコーボディのプロセスでも
これはかつてエッジワークでやっていたこととそっくりだなと感じた。
みんなが自分の人生で受けた傷や圧力や歪みを相手に与え合う。
押し合いへし合いしながら、互いにどんな人生を送ってきたのかを
体感で共有し交換しあう。
自分だけのことだと思っていたものが、意外とみんな同じような体感を請け負って
いたのだと深く生命共振レベルから共有しあうことができる。

秘液抗も、今までなら各人のからだにもっとも低い下等生物的な傾向性を探って
原生体を探りだすことに留まっていた。
だが、これもみんな一緒に粘菌やプランクトンに変成して、
くっつき合ったり、ゆらぎあったりすることで、
より自然に群れだった頃の体感をからだで味わうことができる。
そうだ。生命が単細胞生物だった当初の30億年間は、
個などはまだ出現していなかった。
個と群れを分かつクオリアなどなかったのだ。
ただただ、生命は群れだった。

今年はさまざまなコーボディ抗を掘り進め旅しながら、
この長い長い群れとしての時間を、何度も何度も味わい直そう。
自他未分化なクオリアのリアリティをからだで知り、
共有しあうことが最も肝心なことなのだ。
頭だけでは絶対に得られないものがここには厳然とある。
この群れになりこむプロセスを深く長くたどる中で、
はじめて個の意識や、自我や自己が変成し始めるのだろう。
自我や自己は、誰かに捨てろといわれて捨てられるものではない。
自分で変えようと思っても思うだけで変わるものでもない。
からだで自我のない状態のすばらしさを知り尽くすことではじめて変わっていく。
意識しなくても知らない間に命は余計なものを脱ぎ捨ててしまう。
これこそ長年探し求めていた坑道だ。
とうとう、それを実地体験できる坑道が見つかったことになる。

コーボディ抗が開く地平は予想以上に、
これまでとは根本的に異なるパラダイムの転換をもたらしてくれそうだ。
意識優先の意識という現代特有の狭い認識法から脱出する旅だ。

からだに当たる風がこんなにすがすがしく心地よいのは、
これが人類にとって前人未到の非二元界の風だからだ。


世界共創

2010年8月19日

世界を共創する方法が見えてきた 

 

ダンサーは生命共振だけによって世界を共創することができる。
この間の実験的授業でその可能性がおぼろげだが確かに見えてきた。
私のしている仕事は、土方が切り開いた生命の舞踏の技術を生徒に伝え
ているだけだが
それだけで、生徒一人ひとりが土方レベルのスーパークリエイターに育
っていく。
土方の時代は、土方一人が飛び抜けた創造力をもっていたので、
土方が踊り手たちの踊りを一から十まで振付ねばならなかった。
だが、みんなが土方レベルの創造者となれば、特別な振付家の存在は必
要なくなる。
ただ、それぞれが固有のクオリアで踊りを創り、お互いの固有の世界ク
オリアを共有していくつもの多様な世界を共振によって共創することが
できるようになる。
いままでは頭の中でだけ存在していた未来社会の雛形である
無限に豊かな生命の多様性が許される世界を実際に創り出すことができ
るのだ。
こんなとんでもないことができるのは、ダンサーだけだ。
ほかの芸術分野は、視覚や聴覚や言葉といったひとつのチャンネルしか
使えない。
踊りだけがからだや動きを含めた全チャンネルを使う総合芸術である。
全チャンネルを開くことによってだけ、
チャンネル分化以前の生命の非二元世界に触れることができる。
意識を止めてからだごと生命共振の創造力を発揮できるのだ。
つくづく踊りの世界に入ってよかったと思う。
おそらく私の生命が踊りの可能性を予感して私をつき動かしてくれたの
だ。
踊り手すべてが土方レベルになったとき、
生命共振による世界共創のモデルができる。
何年か前まではほんのかすかな予感でしかなかった
リゾクラシー世界実現の可能性が透けて見えてきた。
生きてる間にここまでこれようとは思っていなかった。


2010年7月24日

世界を共に創るための技術

今月、来月の夏期集中ワークショップは、
生命共振を伝えることに重点を置いている。
毎日を生命の呼吸から始め、
生命が無数の多次元的クオリアで世界と共振していることを感じる。
自我や自己ではなく、生命として踊るにはこれが欠かせない。
そして、この二週間自分のサブボディの踊りを探求すると同時に
他の人のサブボディに自由に共振して動くフリーりゾナンスを続けてきた。
来週からは生命共振をもとにひとつの世界を共に創る
グループリサーチを始めることができそうだ。
私のイメージに従って群れの動きをするのではなく、
自分がどんな世界で踊りたいかを探り、
その世界をコーボディの動きで創るのだ。
すでに3月から6月の長期コースの生徒は、
虫の歩行の虫が這うクオリアを ひび割れたコップだの、潰れたトマトだの、
秘密の笑みだの、歪んだ種だのという、固有のクオリアに替えて動く応用に入っていた。
そして、生徒が練習をガイドするときには、
自分固有のクオリアを他の生徒に課す、さまざまなう練習法を編み出してきた。
その手法はサブボディの動きの探求だけではなく、みんなで共有すれば
コーボディの群れの動きを創りだすことにも応用できる。
いつのまにか、群れの動きをグループリサーチで創造する技術が完成していた。
そして、群れの動きを創りだすことは、世界を創りだすことなのだ。
自分が踊りたい世界を、踊りの世界では群れの動きで創りだすことができる。
生命共振だけでひとつの世界を創りだすことができるのだ。

簡単に整理しておこう。

1 調体技法を身につける

サブボディ技法では、毎日を調体から始める。
日常意識を止め、さまざまなクオリアに共振するからだに変成する。
調体には、0番の呼吸から、11番のコーボディ調体まで12種類ある。
これらを駆使すればほぼあらゆるクオリアに共振して、さまざまな者に変成することが容易に
なる。
まず、生徒はこの調体をたっぷり身につける。
自分のからだがさまざまなものに変成することを知る。
そしてまず、自分のからだの闇を探り、さまざまなかすかなクオリアを見つけては
そのクオリアにしたがい増幅して体ごと乗り込むことでさまざまなサブボディに成り込む。

2 固有のクオリアを見つけ言葉にする


自分ひとりで探体するときは、クオリアはからだで感じるだけで
言葉にする必要はない。
だが、他の人と共有したいときは、的確な言葉でそれを示す必要がある。
そのクオリアを虫の歩行の虫が這うクオリアに替えて練習しあう。
今年の前期の生徒は実に多くのクオリアを発見した。
それを列挙しておこう。
これらは世界を共に創るための共有財産だ。

ひび割れたコップ
秘密の笑み
潰れたトマト
小さな火山
システムエラー
腐った果物
死にかけの花
歪んだ種
潰れた根
小さな悪夢
泣いている化石
歪んだ鏡
気化する細胞
流れ星
ネオンライト
濡れた靴下
壊れたテレビ
眠り込む時計
―などなどだ。
これらはだれでももっともっと見つけ出すことができるだろう。

3 互いに他の人のクオリアに成り込む

これらのクオリアを他の人にお題として与えあって互いに変成しあう。
これがグループリサーチだ。
基本の寸法の歩行や虫の歩行を学んだ生徒なら、
やすやすと他の人から与えられるクオリアに体ごと成り込むことができるようになる。

4 自分が踊りたい世界を探る

自分の命が受けた世界からの軋みや歪みのクオリアを探る。
からだの闇には無数の世界から受けた圧迫や歪のクオリアが潜んでいる。
それを探り、命が踊らなければならない世界のクオリアを探る。
その世界を群れの動きで創りだす。
1~3に述べた技法を使えば、だれでも自分が踊りたい世界を
群れのコーボディの動きで創りだすことができる。

深海流のゆらぎ
背後霊
偽の子宮
蠢く林
押し寄せる圧迫
石をぶつけられる
棒で追い立てられる
転石群
悶える化石
ヒューマノイドの群集

5 世界変成の序破急を見つける

さまざまな世界クオリアのうちから、サブボディの序破急に応じて
いくつかの世界を創り、その中で踊る。
そこで出てくる踊りは自分の命にとってのっぴきならない必然的なものになる。
命に刻み込まれた世界との軋みのクオリアだから、、
自ずから鮮深必の必の動きが出てくるのだ。

これが世界を共に創る技術だ。
ここまで創り上げるのに20年かかった。
この原理になっている生命共振を身につけることが必要不可欠だった。


2010年7月9日

ひとつになるという共振の奇跡

最終週のサブボディ・コーボディ劇場で、
はじめて踊り手たちの研ぎ澄まされた
生命共振がではじめた。
ごく瞬間的な奇跡的な共振が起こることによって、舞台がひとつになる瞬間だ。
共振には主体も客体もない。
踊り手が自我や自己を消すことによってのみ純粋な生命共振が現れる。
そうだ。これを見たかったのだ。
長いあいだ闇をかき分け転びつつまろびつつ歩いてきたのはすべて
これを見たかったからなのだ。
個々の踊り手がいくら優れた技量を見せても
舞台がひとつになっていない踊りを見るのはただ寒い。
全員がひとつになってひとつの世界を創造するということがもっともかんじんなことだ。
土方の舞踏をはじめ、これまでの舞台でもひとつに結晶することはあった。
だが、それはただひとりの優れた振り付け家の絶妙な采配に従って
踊り手が練習を重ねて実現されるものだった。
そうではなく、踊り手が自我や自己を消して生命になることによって起こる
透明な生命共振を見ることができるようになった。
生まれてはじめてだ。
こんな奇跡的なものを目にしたのは。
もちろん、まだほんのかすかなその始まり、
生まれたばかりの胎児のような段階に過ぎないとしても。
このために生きてきたのだと気づかされた。



2010年8月1日

世界を共に創る

おそらく、人が己れの自我や自己を消して、
ただ、微細に共振する生命になったときに、
一緒に命の望む世界を創ることができる。
そういうことが実際にこの社会で行われるようになるには
五千年か一万年くらいかかるかもしれない。
自我や自己という人間の形態は、これまでの人類の前史が不幸にも
支配権力や国家を生み出してしまった残滓にすぎない。
だが、命が命令や支配や差別や競争だのを望んでいないのは紛れもない事実だ。
そうである限り、いつかは人類は命の声を聴いて自我や自己を脱ぐ日が来るだろう。
そして生命共振だけでこの世をやっていく方法を見出すだろう。
今私たちが踊りの世界から特権的な振付家の振付や指示によってではなく
生命共振だけで小さな世界を共に創るというつたない実験を試みているのも、
その遠い未来の日を予感するからだ。
これは私にとって見果てぬ夢だった未来社会の萌芽形態だ。
舞踏家とはこの世でもっとも微細な震えるような命の声を聴けるもののことなのだ。



2010年6月20日

透明共振場の生成

実現してみて、はじめて分かった。
なぜ15年前からずっと私が熱病にとりつかれたように
砂漠で迷子にこだわってきたのか。
それは思いのほかとても恐ろしい世界だったのだ。
そこでは微細な生命共振が透明に起こっている。
すべての瞬間を何も考えずにただただ命の共振するままに動くしかないのだ。
意識を保ったままでは遅れて不透明に浮き上がってしまう。
意識的な目で見て反応しようとなど考えていると、
無様にもそれが見ているものの目に止まってしまう。
意識では間に合わなくて不透明なからだが見透かされてしまうのだ。
実現してみるまでは、何を実現したいのかも知らなかった。
微細な生命共振だけが透明に見える場を生成すること。
それが無意識裡に私をつき動かしてきたものだったのだ。
自我や意識が出てきたり、三次元的なまなざしが出てきたら、
無残にもその不透明さをさらけ出してしまうしかない場。
目腐れの目や秘膜で動く生命になるしかない場、
そういう恐ろしい場を作り出したかったのだ。
そこではすべてが透明になる。
そこでは透明体になるしか存在が許されない。
そんなものがあり得るとは想像もしなかった。
私が一番ぶったまげた。
思いもかけず、
生命の透明共振場が突然目の前に出現したのだから。
今はただ驚くしかできない。
いったい何事が起こったのか、
それはやがてじょじょに明らかになっていくだろう。



2010年6月13日

砂漠で迷子

「砂漠があるの。
その中に蠢くひとつの群れ、蜜蜂の大群、
入り乱れるフットボールの選手かトゥアレグぞ族の集団。
私はこの群れの縁に、その周辺にいる
――でも私はそれに所属している、
私はそれに私の体の先端で、片手か片足かで結ばれているの。
私には、この周辺が私に唯一可能な場所で、
もしこの混乱の中心に引きずり込まれてしまったら死んでしまうこと、
でも同じくらい確実に、この群れを手放してしまっても、死んでしまうことが分かっている。
私の位置を保つのはやさしいことではなくて、
立っていることさえとても難しいほどなの。
なぜかっていうと、この生き物たちは絶え間なく動いていて、
その運動は予測不可能で、どんなリズムも持っていないから。
あるときは渦をまくし、北のほうへ向かうかと思うと突然東に向きを変えて、
群れをなす個体のどれ一つとして他の連中に対して同じ位置にとどまったままでいない。
だから私も同じように絶えず動き続けている。
――こういったことは皆んひどい緊張を強いるけれど、
ほとんど目も眩むほどの強烈な幸福感を私にもたらしてくれるの。」


ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』第二章の冒頭に出てくる
とびきりの分裂病者の夢だ。
サブボディとコーボディの関係にはこの夢の主人公と群れとの関係に似たところがある。
群れと個とが、成員とその集団というふうには画然と分かれていない。
サブボディかと思うといつのまにかコーボディになってしまっている。
コーボディはいつどこででも切断され、
単独サブボディにもなり、またいつでも群れになることができるリゾームだ。
1995年のワークショップで、いきなりサンチャゴがこの砂漠の群れをやりだしたときには驚
いた。
そのとき私は熱心なドゥルーズの読者で、この夢はほとんど暗記するほどよく覚えていたか
らだ。
サンチャゴとの第二の出会いだった。
そして、舞踏とフランスの現代思想がほとんど同じことを別個に追求していたことをも知った。
人間は終わった。で、われわれの次のあり方はなにか、という課題だ。
<リゾーム>というあり方を提起したのが、ドゥルーズ=ガタリの上の著書だった。
「リゾームのどんな一点も他のどんな一点とでも接合しうるし、
また蜜蜂の群れのように分離可能である。
モグラの穴のように常に多数の入り口を持ち、
どこへでもつながり、群れにも個にも姿を変え、
絶えず生成変化を続けている。」

土方が「静かな家」で到達したありとある背後世界と交感し、
気化と物質化の間で、無限の変容を続ける最後の舞踏と、
ドゥルーズ=ガタリのリゾームは全く同質である。
どちらも、今ある人間の日常のあり方からの必死の脱出を模索していたのだ。
この両者の等質性に直面したのは、おそらく世界で私一人だったろうと思う。
いや、今は亡きサンチャゴもこのことに薄々は気づいていた。
だからこそあんな奇跡のような激しい出会いが起こったのだ。

今週は、この<砂漠で迷子>を気化体のコーボディ=サブボディでやってみよう。
15年間も温めてきたリゾームの群れのイメージだ。
今頃になって実験の可能性が出てきた。
気化体が鍵になった。
全員がすでに気化した死者の群れである。
最初は砂漠で迷子になったノマドの群れとしてさまよっている。
その中で誰かがサブボディに変容すると、
ほかの人々も共振して姿を変える。
一人が群れに帰ると別の誰かが素っ頓狂な夢を見だす。
……
先週はホール内だけで透明共振劇場を実験した。
今週はこの<砂漠で迷子>でそれをやると、
庭や外界に所構わず展開することができる。
だが、それ以上に、これを通じて踊り手がサブボディとコーボディの不思議な関係を
からだで味わい体得することができるということが一番大きい。
命の謎は絶対に頭で考えていても届かない。
からだでなりこむ以外ないのだ。
共振の実験の種は尽きない。
はてもなく面白いことになっていきそうだ。



リゾクラシー
2010年7月22日

生命共振を世界に!

何を一番やりたいんだい?
命に問い続けてきたが、とうとう命が答えを出してくれた。
生命共振を世界に!

すでに共振塾は、単なる舞踏創造のための学校ではない。
生命共振を世界に満たす共振者を育てる場に変わってきている。
それがこの数年間に起こっていた深層変動の中身だ。
こうなることははじめから分かっていた。
命がそう志向していたからだ。
だがからだの闇のさまざまな傾性がひとつに統合されるには
十余年の時が必要だった。
リゾネットは、生命共振を世界に広げるためのネットワークとなるだろう。
もっと言えば、生命共振だけでやっていけるリゾクラシー世界を創るための
リゾーム・ノマドの運動体なのだ。
今日、このサイトの冒頭に、
生命共振を世界に! とつけ加えた。
まだ、それは小さなつぶやきのようなものに過ぎない。
この小さな変化が何を意味するかは、
じょじょに明らかになっていくだろう。


(この項は、からだの闇、多重日記、共振日記のすべてに
関わるので、三つすべてに掲載します)

2010年7月29日

リゾクラシーが地についてきた

夏期集中ワークショップでは、今年の前期で実験したことを
一ヶ月に集約して世界共創技法を磨く実験を進めている。
三週目になる今週は、毎日生徒にひとつの自分固有のクオリアを見つけてくるように宿題を
出した。

昨日出てきたクオリアは次のとおりだ。
・溶岩流
・実を結ばない花
・宇宙的螺旋
・塩されたかたつむり
・不安定な大地

今日は
・粘液
・エイジング
・破裂的解放
・結晶化
・重たいスノーライオン

これを各生徒が発見した調体法でシェアした。
アメリカの生徒が二人いて、なかなか早口の癖が治らないので聞き取れず、
早口の矯正に苦労したが、なんとか5人で十個のクオリアを共有した。
十種類のコーボディの群れの動きで、十種類の世界をシェアすることになった。
これを明日は個人のサブボディのソロと、最適の組み合わせを見つけていく。
サブボディとコーボディ世界の組み合わせパターンは無数にありうる。
その中から最適の一つを実験によって見出していく。
最初のポジショニングと肝要なタイミングはサブボディが用意するが
実際にはフリーリゾナンスで、無数のバリエーションが生まれていく。
やる前は拙速かとも危惧していたがやってみれば生徒は皆対応してくる。
この技法が定着すればいよいよリゾクラシーによる世界共創技法の基礎が完成することにな
る。
長年追求してきた夢がいよいよ実現される日が来た。
踊りの創造の世界からたった一人の振付家が彼のイメージに沿って
他の踊り手の動きを振り付けてひとつの世界を作り出すのではなく、
踊り手間の生命共振だけで世界を創りだすこと。
振付家やディレクターという特権的な立場なしに世界を創ることができるのだという
事例とその技法を共有する術を実際に創りだすこと。
若年の日々を過激派のリーダーとして過ごした私は
その中で自分が運動に引き込んだ多くの共を死なせて、
二度と政治指導者の立場には立つまいと決心した。
だがそれだけでは足りない。
この世から政治や権力を消滅させる道を見出すこと、
それが生涯の課題だった。
その課題が踊りの創造という限られた狭い世界ではあるが
いよいよ実現しつつある。
この技法を世界全般に拡張していくにはまだまだ未知の課題をクリアしていく必要があるだろ
う。
やがてこの世の権力者が気づいて弾圧に乗り出してくるかもしれない。
それらすべての困難を乗り越えて、生命共振だけで世界がやっていける
国家も政治もないリゾクラシー世界が実際に実現するには、
何千年もかかるだろう。
だが、わたしはここまででいい。
あと数年か十数年でこの世から居なくなるだろう。
生きている間に原理とその祖型だけは見出すことができたのだから悔いなく死ねる。
あとは後世の人々の仕事だ。


2010年7月18日

リゾクラシーへの深層変動


無性にタバコが吸いたくなって、半年ぶりに吸った。
からだの中でなにかわけの分からないものがうねっていた。
そのうねりに耳を澄ましていると、
自分の深部で大きな傾性の変動が起こっていることが感知された。
どう生きていくかというレベルの生の志向性が変わってきている。
それがハイデガーのいう情態性の変化として現れてきている。
不意にタバコが吸いたくなるときはいつもこれに関係している。
存在の深層の志向性や傾性の変化が、情動を突き動かし、
それが奇妙な体感や嗜好性の変化として現れてくるのだ。
今年になって、様々な面で変動が相次いでいた。
①生命の本質が多次元共振にあることに気づいて、
共振塾の授業を、生命の微細な多次元共振を感じ取ることから始めるようになった。
②具体的には、毎日の調体をこれまでのように
個人個人がゆらぎ瞑想によってサブボディモードになるだけではなく、
それを群れのからだで行うコーボディ調体をメインにした。
③コーボディ調体から、群れで動くコーボディ練習にダイレクトに入るようになった。
去年までのアメリカ流のグループインプロビゼーションの方法をすべてやめて、
集合的無意識に触れながら、命の微細な共振を感じて動くフリーリゾナンスを中心にした。
生徒自身が無数の共振パターンを自由に創造できる場を増やしていった。
④すると長年自分の本当にやりたかったことがじょじょに透明に見えてきた。
俺はこの生命共振を世界に伝えるために生きているのだ、ということに気づいた。
生命共振だけで社会をやっていくリゾクラシーのあり方を見つけるために、
いまここでみんなと実験しているのだ,ということが分かってきた。
⑤振付家の独断で踊りを創造するのではなく、
踊り手自身で最適の共振パターンを自在に創造していくことで、
より面白い多様性に満ちた踊りが生まれてくる。
それは前々から追求しようとしていたことだが、実践的な方法が見つかっていなかったのだ。
だが、とうとうそれが見つかった。
なんのことはない。
私自身が障害になっていたのだ。
自分の思う共振パターンを生徒に押し付けていた。
それを一切やめたことが、今年の大変化につながった。
⑥この変化は、舞踏創造方法の変化というにとどまらない。
人間社会のありかたに拡張していくことができるものだ。
人間社会だけがあらゆる生物の中で国家や暴力や強制や支配を使って社会を運営している。
だが、他の生命はすべて生命共振だけでうまくやっている。
人間だけがこれまでの歴史の前史で身につけた野蛮な方法に囚われている。
それは支配や強制に代わるもっと良い共振の仕方が見つかっていなかったからなのだ。
だが、とうとうそれは見つかりつつある。
まだわずかな意識を止めることを学んだ舞踏家の間で、
生命共振によってひとつの世界を創っていくという
小さく限定された抽象的な空間でそれが可能になりつつあるというだけだが、
原理だけはクリアになってきた。
あとは長い社会との関わりの中で、さまざまな現実的な条件に応じて
現実化していかねばならない。
何百年、いや何千年もかかることかもしれない。
人類は国家という野蛮な装置をこしらえあげるのに、
何千年もついやしてきた。
それを廃棄するにも,長い時間がかかるだろう。
だが、生命共振による永続革命はついにもっとも小規模な
実験的かつ抽象的な場でに過ぎないが、いま、始まりつつあるのだ。

(以下は個人的な人格統合の話題に触れるので、
「多重日記」での展開に移行します。
興味のある方は、ここをクリックしてお進みください。)


2010年7月10日

静かな世界共振革命

スイスのアスカが新しい舞踏コースを開くと連絡があった。
Crick here for flyer
こうして,世界の各地に散った研修生たちが,少しずつ地域に練習拠点を見つけ,
世界各地での活動をつなぐリゾネットを産婆していくのが私の次の段階の仕事になる。

リゾネットは、生命共振だけで世界をやっていくリゾクラシーという
新しい世界システムを創造するための世界規模の実験装置だ。
これまで共振塾で行なってきたことも、すべてリゾクラシーを
いかに実現することができるかを探る実験の一環でもあった。
生命の舞踏は、多次元で共振している命が新しい共振パターンを発明していくことによって
生まれる。
舞踏の公演やワークショップにはごく小規模の地域に根を張ったコミュニティがあればいい。
ほんの少しの地域とのつながりがあればいいのだ。
ただ多くの異なる地域とつながったワームホールのようなネットワークが望ましい。
そして、それはすでに出来かけている。
スイス、スペイン、トルコ、アメリカが今のところ先行しているが、
他の地域の生徒もじょじょに動き出そうとしている。
あともう少しだ。
10年前私が世界を公演とワークショップをして回ったときは、
それまで日本の京都の私の家を拠点に世界中の踊り手やクリエイターとの交流を図った
ダンシング・コミューンのネットワークに参加した人々が各国でそれを支えてくれた。
パリのサンチャゴ、アムステルダムのデビッド・ザンブラーノ、
ストラスブールのマーク・トンプキン、ブダペストのアンドレアとチボー、
シナゴーグ・チェーンのオーガナイザーだったルーマニアのマリア、
スロバキアのチョビ、ユーゴスラビアのグループ、カラカスのコントラダンザ、
チェンマイ大学のジェイ、ジャー、そして、インド,ダラムサラで迎えてくれた
ルンタ・プロジェクトの中原さんと明美さん、
多くの人に支えられて地球を3周ほどした。
今度は、世界各地に散った生徒たちのネットワークが、
生徒たちの交流を支えるだろう。
りソネットはネットワークとそのネットワークを駆けまわるリゾーム・ノマドの群からなる。
各国の拠点を旅して回る国際水準のサブボディ・コーボディをもつ群れも
年々共振塾で生み出されている。
リゾネットを通して生命共振が,どのように周囲の世界を変えていくか。
どんな大海も一粒の水滴からはじまる。
生命共振による静かな世界革命はすでに始まっているのだ。



2010年9月13日

より深く世界と関わっていく
 

共振ワークは、これまで以上により深く世界と関わっていこうとする試みだ。
長らく長期研究生との閉じられた世界で、さまざまな共振実験をしてきたが、
そこで得られた共振技法を広くオープンワークショップの参加者とシェアしていく
道を探る。
実はこの7月、8月の集中ワークショップでは、
今年前期でやったことを一ヶ月に凝縮して行った。
やる前はとても無理だと思っていたが、可能だと分かった。
今度はその一ヶ月でやったことを、ダラムサラへの旅人相手に、
一週間という短期間でどこまでのことができるか、凝縮できるだけ凝縮してみる。

旅人は長期受講生とは違い、何の準備もないまま好奇心で飛び込んで来る人達だ。
より、一般社会の人たちに近い。
それは今までの授業から一般に人にも通用するよう、
余計な物をできるだけそぎ落とす厳しい作業だ。
共振ワークを、舞踏愛好者たちだけの狭い世界にとじこめておくのではなく、
より広く世界に開いていくための、試金石だ。
全部必要だと思ってやっていたことも、吟味すると、結構無駄なことや、
冗長な回り道をしていたことがわかる。

これはなかなかいい仕事になりそうだ。


2010年9月18日

はじまり

毎朝ベランダに出て山を見ながら、
一日をごく微細な生命の共振を感じることからはじめる。
これがもっともいい一日をはじめるコツだ。
樫の木の梢に止まっている鳥は、
ただ透明にあらゆるものと共振している。
かれらはとても優れた透明共振体のお手本だ。
何も考えず、ただ万物と共振している命であること。
わたしちのからだは10兆個の細胞からなる。
体内には100兆個のバクテリアが棲んでいる。
わたしたちはそれら巨大な数の細胞生命の共振体なのだ。
それだけではない。
命は目の前の山々の緑や鳥や虫たちと共振している。
いや、共振には主体も客体もないので、
主語と述語で語る言語ではうまく伝えられない。
ただ、万物が共振している。

共振しているのは目に見えるフィジカルなものだけではない。
細胞に刻まれた無数の記憶が共振している。
原初生命時代から今日まで40億年の生命記憶が共振している。
記憶や夢や想像や妄想や情動や欲動など、
目には見えない内クオリアが互いにあらゆるものと共振している。
生命とはこれらの無数の共振のつながりなのだ。
生命の共振を感じるとは、
これら非二元かつ多次元に重層する共振の無限のつながりを感じることだ。
生死や時を超えた無限の共振を感じる。
わたしはそれを感じるのが一番好きだ。
それを好み、それを味わい、それを楽しむ。
それだけでいい。
休みの日はただそうして過ごす。
ぼんやりとそうしているうちに、
なにかとんでもないことを思いついたりする。
自分でも想像もしなかったことが自由なクオリア共振からどんどん転がりでてくる。
日常のこだわりや囚われから離れて、
これが生命が一番創造的になる状態だからだ。
ヒマラヤに来て、サブボディメソッドや、共振技法が次々と生まれてきたのも
この状態を保ってきたおかげだ。
来週から始まる共振ワークでは、
ここから始めてみようと思う。

読者の方にもお勧めします。
ただ、命がいろんなものと共振していることを感じることから
一日をはじめて見てください。
命は自分の知らない計り知れぬ創造力を持っているのです。



2010年5月9日

命に触れる


命の動きは、意識の動きとずいぶん異なる。

まずはそれをつかむことが、からだの闇への坑口だ。

意識はただ一つことを線状に追って動く。

これに対して命はたえず、無数のものと多次元同時的に共振している。

これが最も大きな違いだ。

 

もうひとつ、意識がうまくつかめないことがある。

私たち人間のからだは約十兆の細胞からなる。

一つひとつの細胞が命を持っている。

それに加え体内にはそれの十倍のバクテリアの細胞生命も共生している。

百兆以上の細胞生命が共振しているのだ。

そして、無数の物やエネルギーやクオリアと共振している。

私たちが自分の命と思っているものはじつはこの無数の細胞の共振なのだ。

意識は自分がひとりだと思っている。

自分の命も自分ひとりのものだと思っている。

だが、命は一だの二だのという数で数えられるものなどではなく、

ただ無数の共振のつながりなのだ。

 

細胞生命は体内だけではなく体外の無数の生命とも共振している。

各細胞には40億年前の生命誕生以来の経験が細胞や遺伝子に記憶され

時を越えて保存されている。

それらの生命記憶として保存された内クオリアは、

たえずその都度出会う外界と共振する外クオリアとも共振している。

内クオリアと外クオリアの微細な差異によって変化を知る。

これが命の基本的な世界認識の方法だ。

それは40億年間続いてきている。

一秒も途絶えたことがない。

 

私たちはこの40億年つづいている命の悠久の流れから

ほんの百年足らず、人間の個体という命の形を借り着するだけなのだ。

百年足らずが終われば速やかに借り着を脱ぎ、悠久の命に帰る。

それまでにどれだけ創造を命に返すことが出来るか。

それが大きな問題である。

少しでもそれが出来れば、個体としての死はなんら悲しむべきことでもない。

個体としての仕事を終え、成果を命に返し、

ふたたび悠久の命の流れに帰っていくことができる。

 

だが、意識は数えられない世界や、

多次元同時共振などの世界に慣れていないので、

上に述べたほとんどのことは直ちには受け入れがたい。

いつまでも抵抗を示す。

だから、命に触れるにはまず意識を止めることが必要になる。

 

ゆらぎ瞑想

 

[ゆらぎ瞑想]などで意識をかぎりなく鎮める。

心地よいゆらぎに耳を澄ます状態になれば、次に進む。

 

ゆらぎの速度を極端に落とす。

するといままで気付かなかったもっとかすかなクオリア流が

からだを流れていることに気づくことができる。

それをたっぷり味わう。

そして、どれくらい多次元同時の共振が起こっているか

耳を澄ます。

 

多次元ゆらぎ瞑想

 

次の「多次元ゆらぎ瞑想」を行ってみる。

 

生命は実に重層的な多次元世界をゆらいでいる。

決して二元論的ゆらぎなどしていない。

そう見えるのは、私たちの脳が

二元論的思考の習慣に根深く

囚われているからである。

 

二元論的観念から逃れられないわれわれは、まだ意識が鎮まらない段階では

自分自身が次のようにゆらいでいると、自己解釈しがちである。

 

前―後ろ

右―左

元気―不元気

調子がいい―調子が悪い

からだが重い―からだが軽い

好きだ―嫌いだ

近寄りたい―遠ざかりたい

安心―不安

 

これは生命に対する完全な誤解である。

生命はこういう二元論など知らない。

それどころか驚くほど高次元な世界に生きている。

人間の意識が囚われている二元論などにおかまいなく

たとえばどの瞬間もつぎのように多次元的にゆらいでいる。

 

重い(重力とのゆらぎ)

明るい(光とのゆらぎ)

寒い(温度とのゆらぎ)

ビビビ(音とのゆらぎ)

面白い(情動ゆらぎ)

あれ?(記憶ゆらぎ)

うねる(動きゆらぎ)

ぼおっ(夢とのゆらぎ)

ふうっ(空気との呼吸ゆらぎ)

もごもご(音像ゆらぎ)

ふわー(胎児の頃の羊水ゆらぎ)

お母さん・・・(幼児記憶ゆらぎ)

どうしてるかな(遠い友人のクオリアゆらぎ)

…………

 

命はほんの一瞬間に、ざっとこれぐらいの多次元クオリアと共振している。

いやこんなもんじゃない。

何百億もある脳細胞が、同時に無数の内クオリア、外クオリアと共振しているのだから、

意識などでは追い切れない。

意識はそれを無理やり二元論的言語思考の狭い世界に閉じ込めようとする。

意識がたどっているのは、

脳とからだの細胞が各瞬間に行っている無数の共振のうちの

何億分の一のごくごくわずかの部分のニューロン発火に過ぎない。

だが、意識は自分がすべてだと勘違いしている。

 

生命ゆらぎは超多次元で起こっている。

それは三次元空間や二元論的思考に囚われたわれわれの

ありとある二元論的解釈を受け入れることができるほど深く多次元的である。

意識が生命をどう誤解していようと

生命にとってはお構いなしだ。

生命は意識の勘違いを咎めもしない。

 

だから、いつまでたっても意識は命の実態に触れることができないのだ。

命に触れるには、ただ意識を止め、

二元論的思考法の習慣に囚われないように、ツリー思考から離れ、

多次元連結的なリゾーム思考の世界に降りていく。

ただ、命が無言で行っている多次元共振を感じるだけでいい。

 

やがて、この多次元同時共振が命の実態であり、

それを味わうことがなんと心地よいことか、

からだに染み込むまでこれを続ける。

 

 

2010年6月14日

胎児の呼吸

私たちがしている呼吸は大きく二種類に分かれる。
肺を通じて行っている外呼吸と、細胞単位で行っている内呼吸の二種類だ。
呼吸をするとき、常にこの二種類を意識するのがいい。
いつも肺呼吸と細胞呼吸の二重の呼吸をしていることを味わう。
肺に吸い込んだ空気中の酸素が、赤血球に運ばれて各細胞にまで届けられる。
呼吸をするとともに、腕や足を伸ばしたり、ねじったりすると、
各細胞にまで酸素が行き渡っていくのを感じることができる。

そして、私たちが胎児のとき、どんな呼吸をしていたのかを思い出してみる。
羊水の中に漂う胎児の口も鼻も気管も肺も水に満ちていて、外呼吸はしていない。
胎児の血液中には母親の体内から酸素に満ちた血液が送り込まれている。
その血液が体中の細胞に行き渡っていく。
胎児が行っているのは細胞の内呼吸だけだ。
大人のように二重ではなく一重の呼吸なのだ。
いわば胎児は体中で世界を呼吸している。
胎児が行っていただろう内呼吸をやってみる。
すると、なんとそれはこれまで行ってきた<生命の呼吸>そのものではないか。
いろんなリズムで体中の細胞の共振パターンが変化し、
からだが伸び拡がったり、縮んだりしている。
それを味わう。
肺呼吸以外のもっとゆっくりしたさまざまなリズムで
生命の呼吸が行われている。
自分が胎内で<生命の呼吸>だけをしていたころを思い出す。
その呼吸はいまもからだで続いているのだ。
肺呼吸のリズムにマスキングされて、聴きとりにくくなっているけれど、
耳を澄ませばかすかに生命の呼吸を感じることができる。
自分が人間であることなどまだ知らなかった、
胎児の頃からそれを続けていることを思うとなんとも懐かしくなってくる。
私たちが自我や自己であるだけではなく、
生命であることを感じとる、これはとてもいい方法である。



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