サブボディメソッド 2005


透明さについて

はじめに

         なぜ踊るのか。

  どう生きればいいか、長い間つかめなかった。45年間、さまざまな生き方の藪道を掻き分けてきて、
ようやく踊りがもっとも全的な生を生きることができることを知った。生命のかぼそいゆらぎや、からだの
闇のくぐもりから、創造の火柱まで、人間であることの端から端までに向き合い、味わい、不美とされて
いるものから美を創出し、他者と共有することができる道だ。


         なぜ踊りはことばなしに通じるのか

  
若いころは詩や小説を書こうとした。だが、うまく言葉を操れず、逆に自分の書いた言葉がなんども自分
を裏切る体験をした。言葉にしてしまったとたん、どこかでわずかに嘘になる。からだのなかで実際にうご
めいているものが言葉からもれ落ちてしまう。言葉に表現されたものよりもその漏れ落ちているもののほう
が気になって仕様がなかった。私固有の病だった。言葉と言葉にならないものの間にはいったいどんな
なぞが秘められているのか。私は言葉以前のものに触れる生き方を探して歩いた。

  人と付き合うことに疲れ、一人山や海の自然のほとりをほっつき歩いていた頃もある。鳥や高山植物や、
水晶を探し歩いた頃もある。

魚やえびなど水生動物の幼生の透明さに惹かれ、何年も飼育にふけったこともある。

 音楽やスポーツも言葉を使わない世界だ。そこにも分け入った。竹を削って笛を作り毎夜河原でバッハを
吹いた。水泳からスキー、登山、自転車、トライアスロンまで進んだ。だが、音楽には音楽の限定されたル
ールがあり、スポーツにはたとえば競争という余分な要素が入ってくる。もっと、自由に生と創造に触れる
世界はないのか、と探していた。

  踊りは、からだの奥の言葉になる以前の闇のそこから出てくる。そして、踊りは、言葉なしにいきなり人
と人がまるごと通じ合えることを知った。何だか分からないがからだの奥には、人と人が通じ合える秘密が
隠されている。その謎に魅せられ、からだの闇に日々坑道を掘り進め、踊りの秘密を掘り下げてきた。

         リゾームになれ、たったひとつの秘密となれ!

  日本での活動後、1998年から、何年にもわたって、タイ、インド、東西ヨーロッパ諸国、南北アメリカの地を踊りの公演とダンス・ワークショップをしながら回った。言葉の通じない国や地域でいったい自分の踊りがどう受け取られるのかからだで確かめたかったからだ。この旅の中で、踊りを探求する拠点の必要に迫られ、北インドのヒマラヤの山麓・ダラムサラの地に踊りの練習場と野外劇場を建設した。

         なぜインド・ダラムサラなのか

   インド・ダラムサラはヒマラヤ山麓の標高2000mの地にある小さな国際村だ。1959年に中国から亡命してきたダライラマとその寺、そして村役場ほどのチベット亡命政権があり、多くの国からのボランティアがそれを支えている。地元のインド人と何万人かの亡命チベット人、多国籍の外国人、そして、猿や、鷲、雪豹などの野生動物が共存している。 異質なものが狭い場所で共存するとはどういうことかを実地に学べる格好の地である。

  この地に練習場を建設するなかで天災・人災、カルチャーギャップなどに基づくトラブルが相次ぎ、予想外の3年間もかかってしまった。だが、この一切の社会的活動を停止した3年間の時期に自分のからだの闇の更なる深部へ至る坑道を掘り進めることができた。これは、その探求の記録である。

         言葉以前のクオリアの海

  人間のからだ(※脳心身のすべてをさしてからだと呼ぶ。以下同じ)のなかで、流動生成している、言葉になる以前の体感情報をクオリアと呼ぶ。体感や、質感、実感などの総称だ。それは言葉のように分節化されず、無限の諧調の変化を通じてあらゆる異次元を結びつつ変容流動している。言葉を使わない動物はすべてこのクオリア流動によって、認識・判断し、行動している。人間も言葉を使ってものを認識するようになる以前は、このクオリア流動による認識(=クオリア流動覚)で行動していた。今も、言語意識によってマスキングされ、意識されなくなっているが、言語認識の基底には無意識裡にこのクオリア流動覚が働いている。踊りとはこの言語以前のクオリア流動をからだであらわす芸術なのだ。

         私の踊りを作ったのは誰か?

  わたしはこの間、いくつかの踊りを創って踊り歩いてきた。だがそれは正確な表現ではない。意識としてのわたしには、踊りを創ったという記憶がないのだ。長い時間をかけて苦しみぬいていた記憶はある。だが、踊りはいつも意識の知らない間にできあがっていた。からだの闇をむしってもがいている間にからだが勝手に見つけ出していたのだ。意識的なわたしではないとすると、私の踊りの作者とはいったい誰なのか? これが最初にぶつかった大きな謎だ。

         sub-bodyco-bodyの謎

  わたしはとりあえずその作者をsub-bodyと呼んだ。わたしのからだの闇にすむ未知なる、踊るからだ。意識(consciousness)の裏に、下意識(subconscious)が発見されたように、からだ(body)の奥にもうひとつの無意識のからだ(sub-body)がある。そのもうひとつのからだが踊りを創り、踊っている間も踊りつつあらゆることを配慮している。踊りの勢いや序破急を精細に聴き、踊る空間や時間、聴衆の反応などといつも無数の高度なやり取りを続けて踊りの行き先を見出している。それは意識的にやるには高度すぎて、意識にはとてもできないことだ。

  もうひとつ、踊るからだの特性は、いつのまにかほかのひとの踊るからだと一体になってしまうことである。踊っていると自分のからだとほかの人のからだとの区別がなくなっていく。そして、ほかのおどるからだのことが自分のからだとひとつながりのものとして感じられるようになる。このからだのことをco-body(共身体)と呼んだ。

  まったく正反対のものに見えるsub-bodyと、co-bodyは、踊りの中で奇妙につながったりひとつになったりする。この両者は一体どこでどう関係しているのか。それがもうひとつの大きな謎だった。

         透明さとはなにか

  sub-bodyco-bodyの謎は、たとえばこのようにつながっている。自分のからだの闇から出てきた奇妙な動き、まさかこんな変な体感をもって踊るのは自分だけだろうと思えるとんでもない踊りが出てくれば来るほど、ほかの人がそれに深く共振し始める。踊った直後に私をまねして踊りだす人を幾人も見た。――これが世界を踊り抜く中でぶつかったもっとも奇妙な現実だった。これはいったい何なのか? ――この謎を透明に見透かしたい。人の意識と無意識の間で、自己と他者、類と個の間でいったい何が起こっているのか? 己のからだの闇の底には、内外、心身、自他、類個といった境界がすべて消失してしまう世界につながる奇妙な通路が開いている。その世界は自分がこれまでいた日常世界とどう関係しているのか?――これらの問いがまず、解かねばならない問いとしてたち現れてきた。  

         この書の構成

  はじめにいくつもの問いを重ねたのは、自分にやってくる疑問は、自分で解くしかないこと。そして、自分固有の問いは握り締めて手放さずにいれば、いつかは解ける日がかならずやってくることを伝えたかったからだ。

  各章とも、まず、踊りの基礎技法について述べ、そののち、それを自分のからだに聴きこみ探り出していく練習方法を述べる。実際の練習では逆に進む。まずからだで体験したのち、自分のからだの闇に坑道を掘り自分なりの探求を進めて行く。だが、インド・ダラムサラにまで来ることができない人のために、これを読んで独習もできるようにできるだけ配慮した。

 

1章 からだの闇に聴く

         呼吸を通じて意識を休ませる

  時間をかけてゆっくり呼吸し、意識を最低限のレベルにまで休ませる。意識と下意識が等価につりあってゆらゆら揺れている透明状態をつくる。まず、自分自身でこの状態になれるようにすることがもっとも大事だ。この透明覚状態はsub-bodyへの道のアルファでもありオメガでもある。意識優先の近代先進社会に育った人にはこれがもっとも難しい。

         からだの闇に耳を澄まし、sub-bodyの世界に降りていく

  意識を鎮め、からだの闇に耳を澄ましていると、やがて普段は気づかないごく微細な体感や質感・実感の流れが聴こえてくる。これはからだの闇の底を流れているsub-bodyからの微細なサブシグナルである。これを捉え、増幅して自分の踊りを創っていく。

         灰柱の歩行

  意識をできるだけ消して、ゆらぎつつ、突っ立つ灰柱になる。灰柱を知らない人のためにひとこと。線香や煙草や焚き木の木が燃え尽きた後に、元の形のまま残っている崩れやすい灰の柱がそれだ。自分の日常のからだも脳も意識も燃え尽きてしまって、後に灰柱だけが残ったと想像する。

  両足の間隔はこぶしひとつ。そして、両足にかかっている体重を左足に移し、右足をそっと足指の長さだけ前に進める。どんな変化がからだに起こるか、一歩ずつ注意深くからだに聴きながら歩を進める。できるだけゆっくり、できるだけ静かに。

  歩きながら、呼吸を吐ききり、腹筋下部と体底の会陰部を締める。そして、体底を緩めると同時に吸気を始める。会陰部からじょじょに上体と下肢に、全身の細胞に新鮮な空気がみなぎっていく内呼吸の体感に耳を澄ます。からだの各部に、とりわけ内奥にどんな微妙な変化が起こるか、逃さずじっくり感じる。

  灰柱になってからだが燃え尽きても、この微細な自分を「眺める下意識」のようなもの(私はこれを微細覚と呼んでいる)だけが残っていると想像するとよい。

  体重変化によるゆらぎ、からだの温かさ、重さ、軽さの感じの変化、筋肉や関節が少し伸びたり縮んだりするときに感じられるもの、各所の細胞に新鮮な酸素が届けられる内呼吸の感じ、体内を駆け巡っている伝達物質流が微細に変化している言葉にはならない感じなど、普段は無視して見逃している些細な体感や、動感、質感の変化をできるだけ微細に捉えていく。

 

         生命を踏む

  からだの底の生命ゆらぎに耳を澄ましながら一歩一歩踏む。

  息を吐きながらそっと踏み込み、息を吸って踏みあがってくる生命ゆらぎに耳を澄ます。そっと踏みを緩めて生命が休息の相に帰っていくのを感じる。生命が生まれたときから繰り返しているこのもっともベーシックな活動と休息の波動を聴く。   

  つぎに、足の裏の踏み込み点を微妙に変え、さまざまな点から、無数の経路を通って、全心身のあらゆる働きに生気を通して踏みあげていく。そして、からだが本来持っている場所からほんの少し位置をずれさせ、わずかに角度を変える。 それが、各部の器官や細胞へのあいさつだ。「よう、調子はどうだい?」 一つ一つの部位や器官へ声をかけていく。 調子を尋ねて、よくなければその部位の緊張を解き、休ませ癒す。それが生命の営みなのだ。立ち上る生命ゆらぎの中で、無意識裡に行われている活動と休息・治癒の生命波動のプロセスに気づいていく。

 

  生命はいつもほんの少しだけ元気になれば外界に向かって活動し、そして休んで様子を見るという活休リズムを繰り返している。活動するとは、生存のためには、こっちへこういけばいいのかなという仮に組み立てた世界像を外界に投げかけ、働きかけることだ。そして、何事かを体験して、休息ループに入り様子を見る。行ったことへのフィードバック情報が感覚器官から入ってきてそれが吟味され、世界のシミュレーション像がほんの少し修正される。その過程でもし自分に傷んでいる部分があれば癒す。そして、元気が出ればまた新たな世界像シミュレーションを外界に投げかけ活動ループに入る。粘菌の生命活動と自分の生命活動を二重写しにして体感することで私はもっとも根本的な生命の動きがこの活休リズムにあることを学んだ。

 

         生命ゆらぎを聴く

  生命ゆらぎを聴くとは、この活休波動の今日の調子を聴くことだ。日によって少しずつ違う。まるで違う日もある。

  意識を休ませ、生命ゆらぎに耳を澄ましていると、やがてこのゆらぎが外の世界のゆらぎとつながり、からだの内と外を自由に行き来し、独特の体感や動きの感じ、からだのうちでうねり外へ出たがっている波動やうごめきなどの質感、実感が感じられてくる。普段は無視して通り過ぎているごく微細な感じだ。自分の踊りをみつけるとは、このちいさなゆらぎに混じってほとばしり出てくるsub-bodyからの小さなシグナルをキャッチし、それを踊りにまで増幅することなのだ。その方法は第3章以下で述べる。

  だが、そこに進む前にどうしても触れておかねばならないことがある。

 

第2章                      クオリアの海へ

         踊りはどこから生まれてくるのか

  これまで第1章で、普段は無視して通り過ぎている体感や動感、質感、実感などに注目する仕方を述べてきた。踊りにとっては、実はここで感じ取るものにすべてが詰まっている。踊りのすべての始まり。踊りの種、萌芽。これがなければいくらからだを動かしてもそれは踊りにはならない。ただの動きだ。

  また、踊りを言語で表現しつくすこともできない。言語にできないものが踊りの核にある。それはときに静かにときに激しく変容しつつ流れている。その流れのようなものは、踊りをやる人ならだれでも感じていることだが、今まではそれを言葉にするすべがなかった。人類が踊りを踊るようになってから何万年も経つだろうが、いまだにそれを呼ぶ語彙さえなかった。それは言葉とまったく正反対の性格を持っているものだからだ。

  踊っていると、からだ(くわしく言えば脳心身全体だが、踊りはそれらの区別がないところからでてくる。以下煩雑さをさけるため脳心身全体を指してからだという)の中で何か妙なものが流れているのが感じられる。確かな手ごたえがあるものなのだが、うまく言葉にはできない。それはいったい何なのだろうと長い間考えてきた。今私はそれをクオリアと呼んでいる。クオリアとはなにか?

         クオリアとは、体感・質感・実感の流れだ。

  クオリアとは、体感・質感・実感などの総称で、人間が言語を通じてものを認識する以前から持っているよりべーシックな認識法だ。

  夕日の赤には、夕日の赤独特のクオリアがあって、それはりんごの赤やポストの赤とは間違いようがない。なぜなら、あらゆるクオリアはそれを体験するときの情動や、気分、体調などとも深く結びついている総合的な根の深いものだからだ。赤子には赤子の独特のクオリア、萎れた花には萎れた花のクオリアがある。

  クオリアは人間の遺伝子に刻印されている人類の共有感覚である。いまも言語認識の基底には無意識のうちにクオリア流動が流れている。そして、思考の殆どの部分は下意識のクオリア思考が行っている。意識は下意識のクオリア思考の成果に名前をつける。そして、すべてを自分の成果と思い込む。通常の意識優先モードに囚われた意識には下意識が行っているクオリア思考に気づくことができない。

  言葉がものごとをあれやこれやに分節して認識するのに対し、クオリアには切れ目がなく、無数の諧調をもってあらゆるものとあらゆるものが多次元的につながっている。雨には雨の、風には風の独特の諧調をもったクオリアのグラデーションがあって、それらが合流すると風雨や嵐のクオリアとなる。自在に他のクオリアとつながり、合流して心の暴風雨というような比喩に変容したり、高まる感情の嵐というようにグレードを上げたり下げたりしながら流動している。クオリアはいつもクオリア流として存在している。止まることがない。クオリアは言葉よりもっと正確かつ間違うことなくものをとらえることができる。晴れた空のような心とか、心に春風が吹くとかという直喩や隠喩が成り立つのもこれらのクオリアが多次元的につながっていることに基礎を置いている。

  言葉を使用するようになる以前の原始人類のみならず、動物や鳥たちもこのクオリア流動覚だけで物事を判断している。言語など知らなくても彼らは、自然の地形や、どこでどんな獲物に出会ったとか、危険な眼にあったかということを人間以上に的確に把握している。体験の体感、質感、実感さえつかんでいれば、言葉などなくても何不自由なく生きていくことができるのだ。そして、私たちも言語意識の下部(下意識)ではいまだにこのクオリアで物事を捉えている。意識を鎮めて透明覚状態になれば分かるが、24時間休むことなく私たちの意識の下部で働き続けている下意識の働きはすべてこのクオリアが媒介している。一つのクオリア流は別のクオリア流とつながったり、切り離れたりしながら、クオリア共振によってあらゆる可能性を試し、検討し、そして、やがて下意識はもっとも優れたクオリアのつながりを発見する。その下意識の働きによって最適の意味のあるクオリア流ができあがったとき、左脳(の側頭葉言語野(右利きの人の場合))がすばやく介入して言葉に翻訳する。それによって私たちの意識は物事を言語で捉えているように自覚する。その下部のクオリア流の働きは意識の感知しない閾値下に追いやられている。だが、透明覚を鍛え、たえずこのクオリア流を感じるように訓練を続けていると徐々にその流れが手に取るように分かってくる。本当の創造的な仕事をしているのはこの下意識部分なのだ。それがつかめるまでに何年もかかった。

 

         なぜ踊りがことばなしに通じるのか

  踊りがことばなしに民族や文化の違いを超えて通じるのは、われわれ人間は遺伝子によって刻印された同じクオリアを共通して持つからなのだ。誰かほかの人が、熱湯に触れて、熱い!と手を引っ込めるとき、誰もがそのクオリアを共感できる。誰かの胸の中でぐらぐらと熱湯のように感情が沸き立っているのも、ことばなしに実感することができる。肉親をなくした人の気持ちは何も言わずとも伝わる。それらはすべてわれわれが等しいクオリアを持っているからなのだ。

  踊りとはこのクオリアの流れがからだの動きと一緒になって現われ出てくるものだ。クオリアがシェアできるから、ことばなしに交感が成り立つ。

  以下、クオリアの特性を簡単に見ておこう。それは三次元の空間と一次元の時間のなかに閉じこもっている日常的な意識空間とは驚くほど異なった原理を持つ別の時空世界である。

         クオリは共振する

  クオリアは共振する。理論物理学の超ひも理論によれば、宇宙のすべての力や質量は極微の振動するひもの共振パターンの変化によってできているという。ひものサイズがクオークの何万分の一という極微のサイズであるため、まだ証明されていない仮説である。わたしはこのひも理論仮説を採用し、さらに生命やクオリアもまた、振動する超ひもの特定の共振パターンの変化によって生み出されていると物理学者たちよりさらに一歩踏み込んで捉える。そう捉えることによってはじめて、踊りの中で出会うすべての不思議が納得できるものになる。この真偽が証明されるのは何世紀も後の世界になるだろう。だが、そんなことは私の知ったことではない。見通しにくい現実をより遠くまで見通すパースペクティブを与えてくれるためにだけ理論や思想が存在する。

         クオリアの共振原理 

  コミュニケーションは、クオリアの共振原理によって支えられている。

  その大小に関わらず、感動はすべて私たちの中のクオリアが共振することによって起こる。

  クオリアの動きは遺伝子によって決定されている。夕日の赤を目にしたとき、誰もの心の中に言いようのない感動が起こる。よい踊りを見れば大小の差はあれ、誰もの胸の奥底で打ち震えるクオリアが発生することを禁じることは出来ない。

  

  世阿弥はすでに六百年も前にこのことを指摘している。

 

「舞歌の曲をなし、意景感風の心耳を驚かす堺、覚えず見所の感応をなす、これ、妙花なり。これ、面白きなり。これ無心咸なり。この三か条の感は、まさに無心の切なり。心はなくて面白と受けがうものは何物ぞ。」 『拾玉得花』(1428年、世阿弥66歳)

 

  感という漢字の心を取り去って、この無心咸が心によるものではないことを強調している。あきらかに通常の意識的心以外のものがうちふるえていることを鋭く捉えていたのだ。この<咸>、<無心咸>こそここでいうクオリアなのだ。

 

  「面白き位より上に、心にも覚えず「あっ」という重(=段階)あるべし。これは感なり。しかれば易には、感という文字の下、心を書かで、咸ばかりを「かん」と読ませたり。これ、まことの「かん」には心もなき際なるがゆえなり。」 『花鏡』(1424年、世阿弥61歳)

 

         相手にも自分にも同じクオリアが流れている(クオリアの対称性)

  世界の旅で、人と人がどこかで出会ったとき、言葉が通じなくともコミュニケーションが成立することを知った。それは、表情や身振りによって、相手が自分と同じことを感じていることを知ることからくる。

相手にも自分にも同じクオリアが流れていることを直感するのだ。

  それどころか、動物たちと心が通じるのも、このクオリアの共振原理によるものだ。そして、おそらく、古い樹や巨岩のそばにいると心が落ち着いてくるのも樹々や岩の持つ静かなクオリアと共振するからなのだ。

         4万年前の流動覚革命

  人類の心の起源をさかのぼる認知考古学の最近の知見によると、旧石器時代以前のネアンデルタール人段階までの人類の心の構造は、博物的な知能(いつどこで何が収穫できるか)、技能的な知能(石器作りや狩の知能)、社会的な知能(共同して狩や採集や集団づくりを行う)、がそれぞれ独立して発達してきたが、それぞれの知能の間を流動する一般知能が発達していなかったという。

  今から4万年から3万数千年前に活動を始めた「現生人類」、「新人」と呼ばれる新しいタイプの人類の脳のニューロンの連結に革命的な変化が起こり、それぞれに分化した知能を、高速度で横断し、還流して流れる流動的な知性が生まれた。これによって、博物的な知能と技術的な知能、社会的な知能が連結され、言語や象徴的思考、一般知能の発達が可能になった。今日のわれわれの心と同じ構造がその時期に生まれたことになる。(『心の先史時代』スティーブン・ミズン 参照)。

  認知考古学者は、クオリアという概念を使っていないが、この流動的な知性こそ、私がこれまで述べてきたクオリア流動の働きにほかならない。

  中沢新一は最近の力作『対称性人類学』で、次のように述べている。

「この流動的知性は「対称性の論理」にしたがって活動する。そこには過去―現在―未来へと一方向に進んでいく矢のような時制が欠如しているし、ものごとを分離するのではなく、ものごとの間に同質性を見出していく働きをする。そのため、部分と全体が一致する「全体的(ホーリスティック)」な思考が展開される。……

  この「高次元のなりたちをした流動的知性」といわれているものこそ、フロイトが「無意識」と呼んで、「意識」から区別しようとしたものにほかなりません。……現生人類とははじめて無意識をもってこの地上に出現したヒトである、と定義することができるでしょう。現生人類の「心」の本質をかたちづくっているもの、それは無意識なのです。」

  対称性とは、相手と自分とが同じだと感じる感性である。近代西洋で発達した非対称的な知性は、相手と自分とを違うものだと捉える。この差異に注目する非対称的な知性が西洋にいつどのようにして生まれたかはフーコーの『言葉と物』にくわしい。それがたかだか数百年以下の歴史しかもっていないことを彼はくまなく証明した。そのときこの非対称的な知性を持つことを当たり前と感じて疑わない「人間」が生まれた。だが、フーコーが予言したように、

  「それにしても、人間は最近の発明にかかわるものであり、二世紀とたっていない一形象、われわれの知の単なる折り目に過ぎず、知がさらに新しい形態を見出しさえすれば、早晩消え去るものだと考えることは、なんと深い慰めであり力づけであろうか」(フーコー『言葉と物』)

  私がこの透明論で探求する、対称性と非対称性、言語とクオリア、ツリーとリゾーム、意識と下意識を自在に行き来する<透明流動覚>という知のありかたこそ、ここでフーコーが指している「知の新しい形態」にほかならない。そして、単なる「新しい知の形態」を超えて人類の「新しい生存様式」の雛形を探ろうとするものである。

  クオリア流の世界は、以上の流動的対称性はじめ、後で述べる異次元連結性など、普段私たちが住む日常世界とはずいぶん異なった原理を持つ世界である。この世界を外から眺めて理解しようとすることは不可能で、みずから意識優先の意識を止めて、この世界に入り、sub-bodyのクオリア流動にからだごと成りこむ以外に、理解することはできない。流れを止めて流れを理解することはできない。クオリア流動はそれ自体が作動することによって生成し続けている生きた世界なのだ。

         踊りはクオリア流から生まれる

  踊りは、このクオリア流動が、からだの動きと一体になったものだ。踊りのテクニックとは、このクオリア流をいかに捉え、いかに自分のからだの動きと一体化したものとしていくかにある。この技術は踊り以外の分野にはなく、ただ自分のからだの闇を掘る中からしかつかみ出すことができない。

  もともと、下意識の動きはあるところではからだの動きや生理と区別がつかず、一体化している。このからだの動きと下意識のクオリア流が渾然一体化したところで、踊りは生成してくる。私はそれをsub-bodyと呼んでいる。日常体(body)の下部(sub)にあるからだ、という意味でそう名づけた。下意識(subconscious)のからだという捉え方もできる。次章ではいよいよこのsub-bodyの世界に降りていこう。

 

3章 サブシグナルを捉え増幅する

         透明覚を開く

  これまでの第1章、2章は、踊りを始める前の準備運動みたいなものだった。この章で初めて一気に自分のからだの中のもうひとつのからだ(sub-body)に触れに行く。

 まず、前章同様からだと意識を鎮める。これはいつも同じだ。姿勢は寝ても、座っても、立っても、灰柱などで歩いていてもいい。その日にどんな姿勢から始めたいか、からだに聴いて決めればいい。それぞれの姿勢にはそれぞれ特異な坑道が開いている。いろいろな道をたどるのがいい。

  どんな姿勢であれ、最初に行うのは、呼吸を聴き、意識を休め、透明覚状態に移行することだ。通常の動きや感覚レベルの1000分の1以下の微細な変化に焦点を合わせる。

  どんなに意識が高揚したり、思いや情動にとらわれているときでも、大きく息を吸い込み、ハァーッと吐ききると、ほんの少し意識の覚醒水準が下がる。この安堵の深呼吸を何度か続けていると、やがて、意識の大部分が休止し、催眠や心理学用語で「眺める下意識」とか「隠れた観察者」と呼ばれる大脳の一部分だけが目覚めている状態になる。これが古来から仏教やヨガの瞑想で「微細身」と呼ばれている状態である。透明覚のなかでも、とりわけ微細なサブシグナルに耳を澄ましているこの状態を「微細覚」と呼んでいる。微細覚は透明覚の第一段階である。

  この微細覚の状態に安定して入れるようになるまでには、一定期間の訓練がいる。だが、静かな環境と瞑想のよい導き手がいれば誰でも必ず体験することができる。なれれば、たった一息ハアーっと吐くだけで変容できるようになる。だが、踊りが瞑想と分かれるのはこの後だ。

         sub-bodyからのサブシグナルをとらえる

 微細覚に集中することができると、からだの闇からじつにさまざまなシグナルが送られていることに気づく。普段の意識状態では決して気づくことがないささいなシグナルだ。呼吸のたびにからだのあらゆる部分から発せられるシグナルの色調が変わる。からだの重さを支えている骨や関節や筋肉から発せられる信号も刻々と変化している。肺や心臓、胃や腸などの内臓の状態もいつも微細に揺らいでいる。血圧は常時変動し、血液を通じて全身に送られている情報伝達物質流は刻一刻とその成分を変動させている。それらによって、体調や気分や背景的な情動がたえまなくゆらぎ変動している。それらすべてが意識下の領域で行われているものだが、耳を澄ますとそれらの微細なゆらぎを聴き取ることができるようになってくる。

  そして、やがてそれらの微細なシグナルのうちあるものが、何か分からないがからだの闇の底でうごめいているもうひとつの生きもののようなものからのサブシグナルであることが分かるようになってくる。このもうひとつの生きもののようなうごめきこそ、踊りの素であるsub-bodyの変容流動である。

         サブシグナルはごく微細で、瞬間よりも短い

  sub-bodyからのサブシグナルは、ごくごく微細で、瞬間よりも短い。かすかな気配と共にひらめきのようにやってきてはすぐ消える。よほど微細覚を鍛えておかないと捉えそこなう。

  それは、ほんの瞬間かすめる思い、湧いてはすぐ消える映像、ささやきや音やリズムのイメージ、からだのどこかで起こるほんの少しの体感の変化、ちいさな振るえやうごめき、情動になる以前のこころのわずかなふるえ、内外界のなんらかの現象や事物への関心などとして現れる。

  それらのサブシグナルをキャッチしたら、すぐさま全心身で協力してそれを力づけ発展させる。くちびるのほんの少しの震えはなにかメロディの始まりかもしれない。指先の震えから動きが始まるかも知れない。からだの奥の奇妙な感じを増幅するとどうなるか。とにかくあらゆる方法を使って増幅してみる。

  どういうチャンネルからサブシグナルが届けられるかは、ひとにより時によりさまざまだ。

         サブシグナルが現れるさまざまなチャンネル

  きみが視覚が得意な人ならば、サブシグナルは些細な視覚イメージで現れることが多い。自分のからだを風がすり抜けたり、水中にいるような映像流が湧いてくればそれに身を任せばいい。

  体内でうごめくリズムやメロディーが感じられれば、きみは聴覚が開いているタイプだ。

  触覚や皮膚感覚・内臓感覚など体感の変化に敏感な人もいれば、すぐ動きが出てくる動覚タイプの人もいる。

  心の動きがでてくる情動タイプの人や、人との関わりに敏感な関係覚が開いている人もいる。

  自分流の奇妙な世界像が変容することもあれば、自己像がどんどん変身することもある。何らかの気づきや不意の思いがやってくるときもある。

         体像流と共に踊る

  呼吸や内呼吸と共にからだの中をうごめき流動しているものの気配を聴く。それは時に体液の流動に重なり、時に離れて自由に変容流動する。想像力が開いている人は、その変容流動するものを一匹の奇妙な未知の生きものだと想像するのがいい。

  姿かたちを変えつつからだの内外を流動している。時に流体、時に気体、時に粘度を増してゾルからゲルへ変容する。時にすばやく風のように軽く、時にじっくり深海流のように重くうごめく。

  超高温の世界から凍りつく世界へ、高速の動きから超スローな世界へ、超微細な世界へ。とんでもない異次元を開いたり、生きものが死に絶える無機物の世界へ移行したりもする。

  それは時にさまざまなイメージを伴った体像流となり、時にイメージの伴わない動きだけの体動流となり、動きもなく体感だけが変化する体感流に変容する。そして、それらのsub-body体像流が、bodyと一体化して動き出す瞬間を待つ。突然sub-body流がきみのbodyをらっし去る。きみはbodysub-bodyが合流するに任せて見守る静かな透明覚となる。

         八覚をめぐる

    八覚チャンネル図

         閉ざされている八覚を開く

  まず、五感未分化な胎像流=クオリア流の世界と、五感・八覚が分化した分別界の言語・イメージの世界との違いを学ぶ。

体動流を開く――体三元――三丹差延――体動流

映像流を開く――目三元――映像流――内向映像流

音像流を開く――口腔三元――体腔三元――体腔息声――音像流

 <オギャーヒ メソッド>で、声のバリエーションを広げ、自分の各十体固有の音像流を見つける

  O――母音をもとに各人のライフソングを見つける。音像流の序となる基調持続音。無機的世界と交信するコスミックサウンド。4週目以降の人はホーミー倍音を練習しはじめる。

  Gya――sub-bodyが生きていると、とんでもないことが起こる。それにsub-body言語であるヘゲモゲラ語で対応する。異次元との交感。

  Hi――死者、瀕死の衰弱者、冥界からの声に聴き入り、その声の導くところに従って異世界に旅する

触像流・体感流・体像流を開く――外向触覚――内向触覚――触像流・体像流――体感エナジートラベル――体像流キャッチボール

感情流を開く――あご三元――さまざまに顔をゆがめ、感情流キャッチボールに発展する

関係像流を開く――エナジーキャッチボールから、互いに奇妙な関係像のキャッチボールに発展する――妙な部位をくっつけあったり、人間界にはない奇妙な関係姿勢になったりする――ひとりで奇妙な関係像流を創造する

世界像流・自己像流を開く――自分固有の世界像流をつくりその中の自己像流になって動く――他のひととそれをシェアする――他の人の世界像流に入って動く

         八覚ぶつかり劇場

以上の練習の後、場の真ん中に一人が立ち、自分固有のチャンネルを開いて踊る。周りの人はひとりずつ中の人が使っていない要素やチャンネルを開いて関わっていく。中の人は外から持ち込まれる自分にない新しいチャンネルを開いて対応する。全員と当たれば次の人と交代する。

  どうしてもうまく開けない八覚があることに気づくのも重要だ。閉ざされたチャンネルにはその人の秘密が隠されている。ひとにより得意・不得意なチャンネルがさまざまで、多様なチャンネル特性があることを学ぶ。

         自分のチャンネル特性を知る

  誰もが五欲八覚のうち、どれかのチャンネルが得意でどれかが不得意である。うまく使いこなせないチャンネルがある。

  その自分固有のチャンネル特性を知ることが大切である。閉じているチャンネルは、ひとつのくぐもりなのだ。何らかの理由があってうまく発展せずに閉じてしまっている。そこにはひとりひとりの固有の秘密が潜んでいる。

         複合覚を探る

  とりわけ深い秘密は、その人独自の複合覚にある。視覚と聴覚が共に開いている人は珍しくないが、情動を聴覚で感じたり、体感で関係覚を感じ取る人もいる。自分特有の複合覚を発見すると、自分独自のsub-bodyダンスの固有の特徴になる。これはいちいちあげていくときりがないのでここでは簡単に紹介するにとどめる。Sub-body メソッドの教師育成コースで始めて触れる。それは各自でからだの闇をまさぐり、追求する性質のものだからだ。

         閉ざされていた覚が開くときの新鮮な快感

  三界八覚まわしで、これまで閉ざされていた覚が開くと、新鮮な風が体内を回り始める。その快感から最初の踊りが生まれる。  だが、閉じたチャンネルが開くには長い時間がかかることもある。自分の閉じたチャンネルをつかんだら、そのチャンネルが閉じていることから踊りだすのがいい。そのチャンネルがどのようにくぐもりのこだわりやとらわれを解き放っていくかをsub-body流動そのものに聴きながら踊りを創っていく。そうして、長い時間をかけてつかんでいった踊りは自分にとっても人にとってもより深いものとなる。うまくいけばその踊りと生涯の友になれる。

         体像流から胎像流の世界へ

  踊りの中で訪れるイメージがまだこの常識的な現実世界にとどまっている間は、体像流と呼ぶ。それは意識の分別界に属している。

  だが、それはやがてこの現実の規則を超え、奇妙な動きを見せ始める。どんな奇想天外なことが起こっても驚くには至らない。sub-bodyが住む胎像界は、三次元のこの現実界とは根本的に異なる多次元を流動するリゾーム原理で動いている。 その段階のsub-body変容流動を胎像流と呼ぶ。 それは生命ゆらぎから、生存諸欲求を巻き込みながら立ち上る混沌とした生命の流れである。胎児が見る夢を想像してみてほしい。そのとき意識はまだない。五感も開いていない。当然記憶にもない。だが、クオリア流動はそのときからいままで途切れることなく流れ続けている。その胎児が見ていた夢の流れに立ち返るのが胎像流だ。

         Sub-body胎像流のまるごとのクオリア流を手放さない

  sub-bodyクオリア胎像流をみつけて踊りを創っていくとき、もっとも大事なことは、踊りのはじめから終わりまで、そのクオリア流の体感・質感・実感を、つかんで手放さないことだ。途中で意識が割り込んできてアイデアを出すこともあるがたいていよくない結果になる。意識はこれまでの経験と対他意識に制限されており、下意識のクオリア流のほうがもっと自在に無数の部分とつながっており、より意外で面白いものが出てくる。そのことを知り、sub-bodyに委ねることが大事だ。

         sub-bodyは三つの世界を変容流動する

   三界図

  図 3の球体は、人間の生の全体性を示す。真ん中の赤道で球体を横に切った平面が通常私たちが生活している、日常の分別界だ。ここは実際には三次元世界だが図では1次元減じて二次元空間に圧縮されている。分別界では、おもに言語が使用されている。そこでは、私たちの行為はいくつもに分節している。私はその人間行為のうち重要な八つをとりだし、八覚と呼んでいる。その八覚は私たちは意識することができ、意識的にコントロールすることもできる。だがそれは図で見るように人間が生きている世界のほんの少しの領域に過ぎない。

  赤道面より下部はsub-bodyの世界だ。これまでからだのことをあまり重視しない心理学者らによって、いわゆる下意識や無意識と呼ばれてきた世界だ。最下部の極から生命ゆらぎが立ち上っている。この世界は無数の多次元を流動している世界だが、図では次元数を減じて三次元に圧縮されている。

  毎朝、ここから立ち上る生命ゆらぎに耳を澄ますことから練習を始める。その詳細は1章 からだの闇に聴くですでに述べた。生命ゆらぎはただただ、すこし活動的になったり、すこし休んだりというシンプルな波動でゆらいでいる。アメーバや粘菌先生の世界だ。

  その生命ゆらぎがすこし複雑化すると、胎像流の世界に入る。ここでは生命ゆらぎから生存欲求が立ち上っている。それらはあるところでいくつかの生存諸欲求に分化し始める。

 分別界の視覚と音覚など感覚器官が五感に分化する以前の基底の原始感覚の世界を探ると、そこは基本的に安全欲求に根ざしている。食われずに安全に生きていけるかどうかは生命にとって最も重要なことがらだ。感覚の基底に降りれば降りるほど安全の確認がメインであることがわかってくる。これを胎感と呼んでいる。胎感においてはまだ内と外との区分が未分化だ。

  からだとその動きが未分化な世界に降りていくと、いわば胎動の世界となる。胎児の動きはただただ快適欲求に根ざしている。胎動は心身が分化するまえの世界だ。分別界で言う体像、体感と体動の区別もまだない。

  情動と関係覚が分化する以前の胎児の原始感情の世界に探り降りていくと、自他が未分化なつながりの中にある。これを胎情と呼ぶ。  

  八覚図における世界像=自己像覚と想覚の下部には、世界と自己とがまだ分裂していない胎界が存在する。胎児にとっての世界(=胎界)とは、世界と自己、全体と部分、類と個などが分化する以前の認識世界だ。さらにこれらの世界はまだ時間と空間の境界もできていない。

 

  以上がsubbodyの棲家である胎像界の特性だ。下意識や胎像流は、言語のような分節化したものによって動いているのではなく、絶えず変容流動するクオリアとともに動いている。subbody にはだから、時空の区別も、内外、心身、自他、類個、世界と自己、全体と部分などの区分がない多次元時空を、楽しげに流動している。

  Subbodycobodyがどこかでつながってしまう不思議さも、自他や類個の区別がないことを思えば何の不思議もないことだとわかる。

         三界について

@分別界

  言語意識を中心とした、日常世界。分別律、排他律が支配する三次元世界。この世界にとらわれた日常体から脱け出ることが、踊りの最初の行為となる。

A胎像界

  生命ゆらぎと生存諸欲求がくぐもりつつ立ち上り、変容流動するクオリア胎像流の世界。多数多様な多次元を変容流動している。ここがsub-bodyのもともとの住処である。

B創造界

  生命ゆらぎや胎像界から立ちのぼる自分のsub-bodyの踊りを見つけ他の人と伝達・共有できるものに磨きあげていく。

 

4章 三界トラベル変容技法(未)ワークショップ践編参照

 

 

         出てきた動きを鮮深興で確かめ、序破急のある踊りに育てる

第5章 sub-bodyco-bodyの謎

         さまざまな仕方でふれあえる開かれたからだになる

  私たちのからだのふれあいは社会規範で固く規制されている。そういう日常体を縛る制約から離れ、sub-body同士がどんな触れ合い方を創造して行くかに聴き入る。それができる開かれたからだになるためにはいくつかの適切な手順と準備が必要だ。

         人類が共有しているクオリア流に触れる

  まず、自分ひとりで、微振動や、うねり・くねり・にょろ、甘露流など自分のからだの中の流れに気づき、それを気持ちいいと感じ、その気持ちよさをもっと感じられるようにはどう動けばいいかなど、八覚まわしによって増幅して、まるごとのクオリア流に育てあげる。すると、八覚・五欲を備えたそれは眼には見えなくても間違いようのない確かな実在になる。ひとに触れるときの極意は、その丸ごとのクオリア流のよさをまず自分で自信を持って感じ、次にそのよさをまるごと他の人に贈るように触れることだ。)