第12章 認知の原初 ●この章の読み方 この文章は特異な方法で書かれている。 読み方にもまた、特異な方法が要る。 この章だけではなく、すべての章についていえることだ。 下記のごとくだ。 ゆらぎ瞑想を十分に行う。 からだにしこりがなくなって、心地よいゆらぎが からだ中に広がるのを待つ。 からだが心地よさに満たされたら、 そのゆらぎのなかで、命に問いかける。 「おはよう。今の調子はいかが? わたしの命さん」 命がどこにあるのか、わたしは知らない。 ただ、きみの中のどこかにあるはずだ。 その命に問いかける。 「何がいちばんしたいことかい?」 「いちばんしたいことをして生きていいんだよ。 自分の人生なんだから」 「いちばんしたいことを、したいところで、したいやりかたで 生きていいんだ」 もちろんすぐには答えは返ってこない。 その問いを毎日、 思い出したときに繰り返し問いかけていると いつか思いがけないかたちで答えが届けられる。 夢やふとした気づきや、偶然であった知人のことば、 などを通して。 野の花や、動物たちが 答えを告げてくれるような気がすることもある。 命とはなにか? 頭でことばを使って考えてもつかめない。 命の感触をつかむには、 そのもっとも単純な原初のかたちにまで遡って、 単細胞の生命に成りこんでみることがいちばんだ。 わたしたちの個体としての命も、 たったひとつの受精直後の単細胞から出発した。 その単細胞もしっかり命を持っていたはずだ。 その単細胞になる以前の命は、 父や母の多細胞生物のかたちをとっていた。 だが、父母もまた単細胞から始まった。 わたしたちの命は多細胞の相と、単細胞の相を循環している。 そして、40億年前に地球上に発生した 原初の命まで連続しているのだ。 10億年前に多細胞生物が出現するまでの 30億年間は、単細胞生命だけの時代だった。 命とはなにかを問うときに、単細胞生命こそ、 命に関するもっとも基本的な何事かを教えてくれる。 ゆらぎ瞑想に続いて、単細胞生命になったつもりで瞑想する。 からだごと、単細胞生命に成りこんでみる。 そして問う。 生きているとはどういう感触か? 何をどんなふうに感じていただろうか? わたしがこれから書くのは、観念や概念としての命ではなく、 今きみのなかで息づいている命についてだ。 その命は40億年前からきみの命まで 一瞬たりとも途切れることなく続いている。 その命のつながり全体について書いている。 もしまだこの方法で読んでいないなら、 前章の「生命の原初、クオリアの原初」を ぜひ上記の方法で読んでから次に進んでほしい。 ●動きの原初 生まれたばかりの生命は、ただ生きていた。 まったく動くことはできなかった。 ただ、外界から自分の細胞の構成素となる栄養分子を とりこみ、それをもとに自分のからだを新しく創り直した。 自分で自分のからだを自己維持していける ――それが生命が宇宙ではじめて持った特性だった。 動きといえば、外界から栄養素を摂取し、消化し、 自分の一部を再生産し、不要分子を細胞外に排出する、 新陳代謝の動きだけをすることができた。 これが生命の動きの原初だった。 前章に書いたことだが、 原初の生命は、微細な11次元の時空で振動している ひもの共振パターンの一組の連鎖が、 その共振パターンを自己維持していく 傾向を持ったときに生まれた。 自己維持といっても、 厳密に言えばまったく同じパターンの繰り返しではない。 絶えず、周りのひもと共振しながら、 そこで起こる新しい共振パターンを自己の中に 組み入れつつ自己維持していく。 絶えざる更新と維持が一個二重のものとしてあった。 外界のエネルギーや物質を受け入れると、 もともとあったひもの共振パターンに わずかながらの変化が起こる。 生命はこの自分の共振パターンに起こる微細な変化を クオリアとして感知し受け入れた。 <クオリア>とは、生命を構成するひもの共振パターンに起こる 変化そのものだったといってよい。 そう捉えることで、わたしたちは<クオリア>を そのもっとも根源的な発生の瞬間から捉えることができる。 人間のように高度になってしまったクオリアだけを 相手にしていても、その本質は分厚い闇に閉ざされていて 触れることができない。 ●認知の原初 ではいったい、原初の生命はこの自分の共振パターンに 起こった微細な変化をどう認知していたのだろうか? 認知といっても原初の生命には神経も感覚器官もない。 ただ、自分のからだを構成するひもの共振パターンに 変化が起これば、細胞内の新陳代謝の動きに わずかな変化がもたらされる。 そう、動きがわずかに変わるのだ。 たとえば、栄養となる分子を摂取することができれば 続いて活発な分解・消化・生長のプロセスが引き起こされる。 生命はクオリアをこの <動きの変化>というかたちで受け止めた。 これが認知の原初だ。 生命が日光のエネルギーを受ければ 細胞内の動きの速度が活性化し速度を増す。 この速度の増加を日光のクオリアとして受け止めた。 逆に風や水流によって熱を奪われれば 内的な動きの速度が落ちる。 こういう<動きの変化>こそが 生命にとってのクオリアの認知であった。 ●ツリーリゾーム論理と透明覚 <からだに起こる変化>と<動きの変化>。 この二つのプロセスは実は、 ひも共振レベルで見れば、一個二重のものである。 どちらもただ、ひもの共振パターンに起こる変化に外ならない。 ひも共振パターンレベルで見れば からだも動きも別物ではない。 ただ、多次元での共振パターンが変化しているだけだ。 それを直接言語で表すことはできない。 ただ、想像したり、下意識のからだで感じたりすることができるだけだ。 だが、それを、4次元時空での事象に分かりやすく翻訳すれば、 <からだの変化>と<動きの変化>とに分節化することができる。 意識にも理解できる事柄となる。 このとき起こっているのは、 多次元で変容流動しているひもの共振パターンのリゾーム的な実相を、 4次元時空のツリー論理に低次元変換しているということだ。 通常の意識にはこの低次元変換という手続きは覆い隠されている。 意識にとっては言葉通りのこととしてしか理解できない。 だから、瞑想などによって下意識モードになる必要があるのだ。 生命やクオリアの秘密を探るには、 言語意識のツリー論理だけではどうにもならない。 瞑想によって多次元流動するクオリア流動の世界に降り、 リゾームとツリーの双方を往還するツリーリゾームの思考法と 意識状態を発明する必要があるのだ。 わたしは意識と下意識が半々でつりあっている意識状態を <透明覚>と呼んでいる。 ふたつの異なる世界をどちらも見通すには 意識に囚われず、かつすべてを眺めている 透明な心身状態が必要なのだ。 この稿の最初に読者にもゆらぎ瞑想を体験してもらうよう お願いしたのは、そういうわけによる。 ●からだと動きの一個二重のプロセス そう。原初の生命は<からだに起こる変化>すなわちクオリアを、 <動きの変化>によって認知していた。 当初は、熱のクオリアは、<あったかさ>としてではなく、 <動きが活発になる>こととして受け取られた。 熱を失うクオリアは、<冷たい>ではなく、 <動きが鈍くなる>として受け取られた。 水のクオリアは<動きの流動性が増す>クオリアとして 受け止められていただろう。 おそらく、嫌気性だった原初生命にとって 酸素ガスのクオリアは<からだを壊すもの>として 受け止められた。 酸素ガスのクオリアが<猛毒>から、<活性素>に転換するのは、 プロテオバクテリアによる細胞呼吸の発明を待たねばならない。 からだのチャンネルと動きのチャンネルの 原初的往還によって 原初的生命はクオリアを認知していた。 これは一個二重のプロセスだった。 あるいはこう言ったほうが正確かもしれない。 原初的生命にとって認知などなかった。 ただからだに起こるクオリア変化に反応して 動きを変化させていた。 それを今のわたしたちのことばに翻訳すれば 動きがクオリアの認知であり、使用だったと。 ●粘菌先生に学ぶ 何の認知器官ももたない、アメーバや粘菌も 実に多種多様な物質やエネルギーのクオリアを感じ分けていることが、北海道大学の中垣俊之、上田哲夫らによって明らかにされている。 「この一見原始的な生物が、感覚受容、判断、行動、“計算”など、脳をもつ動物にも匹敵する高度な情報能力を示すのだ。動物の神経ネットワークと異なり、細胞内には互いを連絡する特殊な構造はみられないのだが。 粘菌は、紫外線や青色光を避けようとし、赤色光や遠赤色光を受けると形態形成を始める。粘菌には光を見分ける少なくとも4つの光受容系があることがわかっている。味覚もあり、苦いものは避け、糖とかアミノ酸のような美味いものには寄って行く。嗅覚もある。粘菌には五感が備わっていると言ってよい。粘菌は、全身が感覚器官であり、運動器官であり、情報器官なのだ。体のすべての部分がそれぞれ自律性を持っている生命システム、それでいて全体としての調和を創りだす存在、それが粘菌である。」(上田哲夫) わたしも長期間粘菌を飼育したことがある。 粘菌先生と呼んで生命の師として仰いでいる。 粘菌は胞子の相、単細胞アメーバの相や、 合体して多細胞相の大アメーバの形に変形する。 多細胞相の大アメーバ時代は、絶えず餌を求めて動いている。 粘菌のからだの原形質流動は 30秒ほどごとに、反対方向に逆流する。 それによって、自らのからだのどの部分から 濃い栄養分子が流れてきているかを知り、 より高い栄養濃度の方向へ原形質を 流動させていくことによって餌を摂取する。 <からだに起こった変化>と<動きの変化>という 一個二重のプロセスによって、あらゆるクオリアを 認知し、反応していることが透明に見える。 また、状況が変わると細胞内のたんぱく質が変性し、 凝固したゼリー状の塊になる。 そのまま死に絶えてしまうことがほとんどだが、 わたしは粘菌先生がその生死の境でふるえながら 悪環境に耐えている姿を見ていいようのない感動に捉えられた。 この凝固したタンパク質に変性するのも 生命を構成するひもの共振パターンの創発のひとつだろうが、 それが成功するか、失敗するかは生命にとって未知の賭けだ。 機縁があれば再生し、機縁がなければそのまま死ぬ。 脳の神経細胞、ニューロンの活動も粘菌そっくりである。 栄養素を発する他のニューロンを求めて 粘菌のように触手を八方に伸ばして日夜探索し続ける。 新しい経験をした後は、とくにこの活動が活発になる。 うまく新しい連結が起これば、新しいクオリアを利用することのできる ニューロン・ネットワークが創発される。 脳の老化を防ぐには絶えず新しい経験と運動をし続けるのがよい。 新しい体験からくる新しいクオリアこそ 脳にとっては最大の栄養なのだ。 人間に起こる心身の変性、心身症や神経症などへの変性も また、これらの成否を知れぬ生命の創発のひとつだ。 生き難い環境に出会うと、生死をかけて生命は創発する。 うまく切り抜けることができればその創発は新しい生を切り開く。 そういう症状に陥ったとき、 ただ命に聴き続けるのがいい。 「どういう生を創発したいのだい?」――と。 きっと根源的な生活の転換が生命にとって必要とされている。 危機は常に、新しい生を切り開く好機でもあるのだ。 認知とはなにか。 その本質はここまで降りてはじめて捉えることができる。 生命は新しいクオリアに対し、 命がけでひもの共振パターンを創発し、 新しい生を切り開こうとしてきた。 現代の人間が誤解しがちなような、頭でのクオリアの認知ではなく、 からだの動きごと反応するのが生命のクオリア認知であり、 クオリアの生への利用なのだ。 生命にとって、からだ(体感)のチャンネルと動きのチャンネルが 最も原初的なチャンネルであった。 からだに起こったクオリア変化と、動きによるそれへの対応で、 クオリアを利用して新しい生を切り開いてきた。 現在のわたしたちの脳にもその原初の痕跡が刻印されている。 大脳皮質は、頭頂の中心溝で前頭葉と頭頂葉に分かれる。 中心溝に沿って、後の体性感覚(体感)野と、 前の運動野が接している。 この両者の往還によってクオリアを認知し対応する 一個二重の仕組みをそのままに表している。 そして中心溝が側頭葉と接する「頭頂/側頭接合部」に <世界像と自己像>を一個二重のものとして捉える <世界像=自己像覚の座>がある。 リタ・カーターの『脳と意識の地形図』によれば、ここは、 「脳が自分の「地図」を保存し、世界との関係を判定するところ」 とみなされる。 「前頭葉との連結が密で、感覚野からの情報も引き出せる位置にある。 ここが意識の座かも?」 意識の座などといわなくても、 ここが体感と動きの一個二重によって世界と自己を捉えていた原初生命以来の、世界像と自己像を一個二重に捉える <世界像=自己像覚>の座であるとだけはいえる。 原初生命と同じ世界=自己認知の構造を、 わたしたちも継承しているのだ。 |
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