Subbody
 自全を肯定する自全瞑想
これまで、さまざまなところに書いてきた意識を鎮め、からだのいい状態をつくるための各種瞑想技法を一つにまとめ、読者の便宜を図ることにしました。心身の状態はいつもゆらいで変化しているので、その日の自分に一番ぴったりくる瞑想をするとよい。初めて瞑想に取り組む人は、下記腰をまわすゆらぎ瞑想日常体を止める瞑想 などからはじめるのがいいでしょう。

 

腰を回すゆらぎ瞑想

<自分の全体>に耳を澄まし、その味を感じてみる。

静かな一人きりになれる場所を見つけて座る。
朝一番がいい。
あぐらなど楽な姿勢で座って、ゆっくり腰を回す。
両足を前に投げ出す姿勢や、横に大きくひろげるのもいい。
いろいろ変えていくといい。

静かに長い呼吸をしながら、骨盤からゆっくり回す。
しばらく続けていると、一番気持ちのよい速度が自然に定まってくる。
見つからなければからだに聴くといい。
「この速度がいいかい? それとももっとゆっくりがいいかな?」
――これが<自分の全体>さんとの会話の始まりになる。

――いろんな速度で腰を回しながら、読み進めてください。
<自分の全体>に名前をつけるといい。
どんな名前でもいい。
わたしは、縮めて<自全>と呼んでいる。
何にせよ、名づけると、それまで不分明だったものも、
確かな手触りをもって存在するようになる。
これは後に述べる言語とクオリアのいい関係、
ツリーとリゾームのいい関係を見つけていく上で
ヒントになることだから覚えておいてほしい。

さあ、どうだろう? きもちいい速度が見つかっただろうか?
みつかったらその気持ちよさに全身をゆだねていく。
からだ中に呼吸と腰回しから生まれるゆらぎが伝わっていく。
水平の円を描く腰の動きが呼吸によって上体に伝わり、
不定形なうねりがからだに生まれてくる。
それと共に、なんともいえない心地よさが
全身にさざなみのように広がって行く。
こういう微細で、しかもよくよく味わってみればとても深い心地よさも、
普段の意識状態では感知することができない。

それらはすべて下意識の担当とされて、
意識は関与しないようになっているのだ。
意識をゆるめ、意識レベルが十分に静まっていくと、
今まで知らずに過ごしていた、
こんなおいしい体感を味わうことができる。 
意識状態を鎮める、瞑想や自己催眠の技法を
一度身につけるとやめられなくなるのは、
こういう深い快感を味わえるからだ。

とにかくただゆっくり腰を回し続ける。
そのうち、顔も緩んでくる。
口をだらんと開けたくなればそうするに任せる。
目もうつろになる。
もっとうつろに虚空をさまよわせるといい。

一回一回の吸う息、吐く息とともに、
えもいわれぬ快感がからだを駆け巡りだす。

その心地よさの中に<自全>がいる。
<自全>はいつもこんな気持ちのよいところで生きているのだ。
そして、自分が今<自全>とともにいることを
噛みしめるように感じてみる。 

ほかのことは何もしない。
何も考えない。
ただ、一日に何度も<自全>と共にいる時間を持つことが大事なのだ。
あなたの<自全>はどんな味がするだろうか。
それをじっくりと味わう。
かすかだが、他の何とも違う、自分だけの味がするはずだ。
それを味わう。

いままでほうっておいてごめんよ。
とささやいてみる。
君の<自全>さんはなんと応えるだろうか?

私の言う<自全>は、ユング心理学などでは
「自己の全体性」という用語で呼ばれてきた。
同じものをさしているはずなのだが、
わたしはそれを単なる概念ではなく
、自分のからだのなかに存在するいきもののように、
丸ごとのクオリアを持って感じとる方法を編み出した。
踊りにとってそれがもっとも大事なことだったからだ。
だが、それにとどまらず、
この<自全>とひとつになる方法は踊りをする人だけではなく、
多くの人にとって大事なことだと思う。

本当に大事なことはこの社会では誰も教えてくれないから、
今の時代はみんなが<自全>からはぐれ、
意識と下意識とからだがばらばらになったまま生きている。
世の教師や親もまた、<自全>からはぐれたままだから、
誰も<自全>と共にあることなど教えることが出来ない。
だが、心身をめぐるあらゆる問題はここに淵源を持つのだ。

何も怖いものがなくなる

ただひたすら腰を回す。それだけでいい。
<自全>とひとつになっていることの居心地の良さをとことん味わう。
毎日、少しずつでもいい。
この時間をとっていると、何も怖いものがなくなる。
<自全>とはぐれて生きていることほど怖いものはないからだ。
<自全>と一緒にいることができていれば、
その最大の自己喪失という不幸からは免れていることができる。 

山奥で修行している僧やヨガの行者が、
なにひとつ持ち物も仕事もなくても安心なのは、
<自全>と共にあるからだ。

腰を回しているうちに、だんだんからだ全体がやわらかくなってきて、
流動的になってくる。
もっと動きたくなってくれば、自然に出てくる動きに身を任すといい。

寝転がりたければ床の上を転がる。
呼吸と共に、からだの底のほうから息や声が出てくるようなら解き放ってみる。
眼が妙な動きを始めることもあれば、舌が動き出すかも知れない。 

そんな動きは、現代社会では禁じられてはいないとしても、
重要視されないことによって、
隅っこのほうの日の当たらない場所に追いやられている。

だが、<自全>にとっては、
そんな失ったものを一つ一つ取り返してくることが重要なのだ。
それらは、ただただ人間を資本主義的労働をするからだに
仕立て上げる過程で君のからだから剥ぎ取られたものだ。 

自然に出てくる動きは、
どんなに馬鹿げた値打ちのないように見えるものでも、粗末にしない。
それらはとても大事な<自全>の破片なのだ。
全心身の力で応援し、からだごと乗りこんでいく。

すると、最初はただの震えだか、痙攣だか分からなかったものも
なんらかの動きに育っていく。
自分だけの踊りがはじめて出てくる瞬間だ。
自分の中でバラバラになって行方不明になっていたものが、
ジグソーパズルのかけらのように寄り集まってくる。 
あんまりたくさんのものを奪い取られてきているから、
ひとつのまとまったものになるにはずいぶん時間がかかる。
それは覚悟しておかなければならない。

だが、ひとたび<自全>をもう一度取り戻そうと始めたら、
もう止まることはない。
ただ、毎日続けていけばいいだけだ。
やがてはひとつになる。
世界でただひとつだけのきみの
サブボディダンスが出現する。
きみはきみの踊りの創始者になる。

異様な声。
奇妙なのたうち。
変なリズム。
閉じ込められていたものがほとばしりだす。
封印されていた感情や
大事なものとのつながり欲が出てくるかも知れない。
うなり。
にらみ。
くぐもり声。
何が出てこようとも
ほどけていくにまかせる。
見たこともない別世界に漂いだすこともある。

何もない安全な部屋がいい。
日本の今の住宅は物が増えすぎて
自由に動きにくい。
壊れ物も多い。
それに、「自分の部屋」では
見るもの触れるものがすべて
日常の自分につながっている。
そこから自由になるためには
そういうものが何もない空間が必要だ。

ここから先へ進むには、
日常の自分から自由になれる空間を見つけ、
毎日一定時間をそこで過ごすようにしていくことが
とても重要になる。

わたしがヒマラヤに練習場を造ったのは、
本当に自分がそれを必要としていたからだ。
今ようやく、この練習場に自分以外の
それを必要としている人にも開くことができるようになった。
ここは<自全>ともう一度一つになるための場所なのだ。
それが必要だと感じたとき、いつでもいらっしゃい。
この場所はいつもそれを必要とする君のために開かれている。


日常体を止める瞑想

日常生活サイズの粗大な出来事に反応する粗大身を停止して、
その千分の一サイズの、
サブボディからの微細なサブシグナルが聴こえてくる
微細身の状態に入っていく瞑想です。

上記の「腰を回すゆらぎ瞑想」と同じように
ゆっくり腰を回すところからはじめる
。自分の一番心地よい速度と大きさを探りながら、
腰をまわし心地よいゆらぎに身をゆだねていく。

そして、最も心地よいゆらぎを感じることができ始めたとき
、突然、百分の一の速度の超スローで、
かつ百分の一サイズのちいさなゆらぎに切り替える。
すると、すでに心地よくなっていたからだは、
日常の意識モードから、下意識モードに切り替わる。

その証拠は、あらゆる微細な体感が
一挙に多彩な繊細さで感じることができるようになることだ。
意識モードでは八覚のうち
一度に一つのチャンネルしか受け止められないが、
下意識モードではその制限がなくなる。
からだの動き、体感、映像覚、音像覚などが
微細だが一斉に開く。
同時に全身のどこかに甘くて心地よい体感が漂いだす。
わたしはそれを甘露流と呼んでいる。
その甘露を一つの部位から別の部位へ広げるように
からだをごくわずか動かす。
すると甘露は全身を満たすように広がっていく。


最初の生命クオリア瞑想

1.ゆったりと座り、ちいさな体底呼吸からはじめる。(体底呼吸とは、息を吐くときにからだの底の会陰部の筋肉を引き締めていき、そこを緩めると同時に息を吸い始める。そしてすぐさま体底を引き締めていく。息を吸い始めるときにだけそこを緩める呼吸法です)。

2.息を吐き体底を引き締めていった底で、各チャンネルの最小・最低のクオリアを味わう。動きのチャンネルでは、原初生物のまったく動けないクオリアを感じる。

3.体底をゆるめ息を吸い始めると同時に、アメーバのように、少しだけ動けるようになったクオリア、脊椎ができてもう少し動けるようになったクオリアと、順々に動きのクオリアを膨らませていく。息を吐くと同時に、つぎのチャンネルに映っていく。

.体感のチャンネルでは、一回一回の呼吸と共に、最初の生命からひとつのボディイメージに変容してきたプロセスを膨らませる。最初の生命から、アメーバへ、最初の生命からさかなのおゆな脊椎動物へ、最初の生命から哺乳動物へ、さまざまなボディイメージに一呼吸ごとになりこんでいく。

5.映像チャンネルでは、一呼吸ごとに目もない最初の生命から、光を皮膚で感じる生物へ、最初の目のある生物へ、昆虫のような複眼のある生物へ、人間のような外側から自分を離見できる生物への変転を思う。

6.音像チャンネルでは、最初の声も出ない、耳もない生命から、最初に発声した生物へ、最初に音を捉えた生物へ変成する。そして、ほとんど声も出ない、耳も聞こえないクオリアに共振する。

7.感情チャンネルでは、情動も感情もなかった最初の生命の、ただ生きているというクオリアだけを感じる。それからすこしずつさまざまな体験の中で、その生きているクオリアが現在の情動や感情にまで発達してきたプロセスを追体験する。

.関係チャンネルでは、最初に単体であった生命を思う。それが同類に接し、さまざまな仕方で次世代を生んでいく方法を発明していったプロセスを追う。

9.世界像=自己像チャンネルでは、最初の生命にとってそのまわりのごく小さな環界が世界であった世界=自己像を思う。それからじょじょに世界が広がり自己像も膨らんできた歴史を思う。

10.思考チャンネルでは、何を思うこともなかった最初の生命のこころの元型を思う。たぶん、食物をうまく同化できたときに感じる原形質のわずかな活性化が、最初のクオリアだったろう。その活性化がわずかな充溢感として感じられるようになるまでの長い長い歴史を思う。こころの発達の歴史を追体験する。

以上の八覚ごとの瞑想をした後、11次元を振動するカラビヤウ空間のひものようにアトランダムに、一呼吸ごとに違った次元に違ったクオリアを膨らませる。その日のサブボディが乗り込みたいクオリアに出会ったらそのクオリアを微分増幅しサブボディの動きを膨らませからだごと乗り込んでいく。


始原生命瞑想

1.腰をゆっくり回し、もっとも心地よいゆらぎに入る。いつもこれがゆらぎ瞑想の始まりになる。

2.よいゆらぎ心地に入れたら、自分が40億年前の最初の生命体になったことを創造する。わたしたちあらゆる生命体は、この最初の生命から今日まで、まったくひとしい40億年の時間を背負っている。人間も昆虫もアメーバもひとしく40億年の変転を経てきて今の姿になったのだ。一分一秒たりとも変わらない。

そして、40億年前の始原生命がまったく自分では動けず、ただただ周りの環界のなかで共振できるものを取り入れ、自分のからだをつくることをはじめたことを想像する。

それから30億年間、単細胞生物として、ま割りの環境からやってくるさまざまな刺激をただただ受け入れ受け入れ続ける中で、新たな対応性を創発して、多様な種に分化してきたことを思う。

3.ひとりが真ん中で横たわり、この瞑想を続ける。他の人は周りから40億年間に始原生物に降りかかったさまざまな刺激を与える。雨、風、波、日光、地震、隕石、音響、地響きなどさまざまな刺激を序破急をつけつつ与え続ける。

4.中の受け手はこれらの刺激をすべて受け入れ味わう。始原生命として受け入れつつ、なにか自分の中から創発していきそうなクオリアが生まれたらそれを伸ばす。まわりの仕手は、それを時に助長し、時にまったく無関係な刺激を振り掛ける。このプロセスを通じて、中の受け手は40億年間の生命史を対体験する。そして、自分の生命の固有性を創発する。いったいどんなクオリアを発明することでわたしたちはわたしたちになったのか。長い長いプロセスをたどりなおす。

5.そのあと、この半受動半能動、あるいはもっと正確に言うと、ほとんど受動、ほんの少しだけ能動という原生的なクオリアから今日のサブボディの動きを探る。もっとも制限され、回りから翻弄される、動けないクオリアをからだの闇に探り、もっとも弱弱しい動き、もっとも不自由な動きで自分を運ぶ、自分固有の衰弱体の歩行を発明する。

(この瞑想に関連した舞踏の練習に関する記事は、共振塾ジャーナル7月4日の「動きのクオリアと動けないクオリア」をご覧ください。)

 

生命遡行瞑想

もっと原始的な、生まれたばかりの原初生命体は、動きのチャンネルもまだ開いてなかっただろう。ただ、自己のからだの要素を自己生産するために、外界の何らかの元素と反応して、生体形成に取り入れていたのだ。鉄バクテリアは鉄とだけ、硫黄バクテリアは硫黄とだけ反応して、自己制作的な共振パターンのループを作り出した。いた。その他の物質やエネルギー、諸元素や光、音などのクオリアとはまだ共振することがなかった。ただ、ごく少数の元素のもつひも共振パターンとだけ共振しつつ自己制作的ループを作っていた。そういう、すごく狭い世界と自己との世自共振パターンが原初生命体のクオリアだ。

なかなか意識では想像できないが、下記、腰をまわすゆらぎ瞑想日常体を止める瞑想 などによって、意識を休めて最低次元の下意識すれすれまで降りていくと、少しだけ分かる。それは、わたしたちが母胎内で胎児だったころ、母胎と胎児の一体性の中で感じていただろう<母=胎共振覚>と響きあっているからだ。その<母=胎共振のクオリア>に似た、世界と自分の間の<世自共振のクオリア>が原初生命体の生命クオリアだったろう。

原初の生命体のうち、あるものはさんさんと降りそそぐ太陽の光と共振する方法を発明した。そして、炭素と水素から酸素を生み出す光合成をする葉緑体が生まれた。植物的生命の誕生である。

原初生命体は、ただ、外力によって動かされて移動していた。重力に反応して何度も下方へ落ちていく中で、どうにかして重力に抗して動くクオリアをいずれかの時点で誰かが発見したのだろう。動物的生命の発生だ。アメーバのように原形質の性質をゾル=ゲル変化させて移動する方法を発明したもの、鞭毛や繊毛で動くもの、からだをねじって動くもの、くねくね波動することで動くものなど、何億年もの間に、動きの工夫が無数に発明されていった。

われわれ動物型生命が発生した当初のクオリアを味わう。初めて自力で動けるようになった生命になりこむ。まだ、風雨や重力に翻弄され、ほとんど半能動、半受動の動きだ。これが動きの原生的なクオリアだ。生命にとって、思い通りに動くことなど長い間できなかったのだ。不具のからだ、障害をもつからだには、この原初生命体が発生以来何億年もの長期にわたって味わった不如意のクオリアがたっぷり盛り込まれているのだ。不具のクオリアが生命にとって限りなく深い味わいをもつのはそのためだ。


生命好味楽瞑想

生命のあらゆるクオリアを好み、味わい、楽しむ瞑想。
好味楽とは、本居宣長が終生こよなく愛した山桜にたいする態度をのべたことばだ。
「これを好み、これを味わい、これを楽しむ」 

好きなものなら、あらゆる角度から味わいつくし、楽しみつくすことができる。
この態度をあらゆるクオリアに対し、広げていく。
あらゆるクオリアを好味楽する。
これだけで人生が千倍豊かになる。

一瞬一瞬のいまここのクオリアを徹底的に味わう。
極意はたったこれだけだ。

ゆらぎ瞑想で、意識を鎮め、あらゆるチャンネルのクオリアがうっすら等価に感じられるようになるまで続ける。

ひとつのチャンネルに囚われず、あらゆるチャンネルのクオリアを等価に感じられる状態を透明覚とよぶ。

透明覚は下意識と意識がゆるやかに半々につりあっている状態だ。
訓練すると、何を味わい咸じるか、志向的な方向を自分でゆるやかに変えていくことが出来る。

透明覚の志向性をゆっくりサーチライトのように回して、
からだが咸じているあらゆるクオリアを丹念に味わっていく。

体温、呼吸、内呼吸、重力、床の硬さ、皮膚の温かさ、冷たさ、
各部の筋肉の緊張の仕方、弛緩の具合、体内情報の流れ、
とりわけ、血液の酸性度や粘度を咸じとる首の辺りの血液成分知覚器官から
入ってくる情報がもっとも情動に直結してることを咸じる。
視覚、音像覚、などを始めとする八覚につぎつぎとサーチライトをあてていく。
それから五欲、生命ゆらぎ……。

なにもかも実に味わい深い。
どのように透明覚の志向性を動かすと
一つのクオリアから次のクオリアへつながって行くのかをじっくり観察する。
クオリア共振の類伸を味わう。

類伸とは、からだの中で自動的に起こっている連想ゲームのようなものだ。

なにか味わい深いクオリアが湧いてきたら、そっと寄添い共振しつつ、
からだごと乗り込んでいく。
<志向的増幅>だ。

ひとつのクオリア流が別のクオリアに<貫入>していったり、
ふたつのクオリアがひとつに<縮合>したり、
<分離>したり、
急激に<転換>したりするのを味わう。
クオリアの運動法則がだんだん分かってくれば、
どんな突拍子もないことが起こってもついていけるし、
先回りもできるようになる。

クオリア好味楽の達人になっていく。
これほど面白いものは人生にそうそうない。

実は、舞踏論で述べた最後の最後の舞踏としての
<臨生のまなざし>は、
このクオリアを好味楽することの対偶にある。

この世に退屈しきっている観客に、
最もおいしいものが目の前にあることを告げ知らせるのが
<臨生のまなざし>だ。
舞踏者自身が死体となり、異界に属する存在になって
はじめてこの<臨生のまなざし>を届けることができる。

それは舞踏者から観客への最大の贈り物である。
その贈り物を届けることができるようになるまで、
この好味楽瞑想を続ける。

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●自全の住人に出会う瞑想

 

1.自分が一番したいことはなにか? 
何に一番なりたいのか? 
一番実現したいことはなにか?
 
という問いを自分に投げかける。
この問いは自分に到達するための
もっとも優れた問いの一つである。
私は何十年もこの問いを自分に問い続けてきた。
そして、少しずつ本当にやりたいことがなにかが分かり、
それに近づいてくることができた。
今なお近づき続けている。
そして、微修正を積み重ねていくのだ。

2.その問いに対し、
自分の中でそれに到達するのを妨げているものはなにか?
 
を問う。

3.また、その問いを推進して、
自分の一番やりたいことに先導してくれるのは自分の中の誰か? 
をさぐる。
1の問いに対し、消極的な反応を示す傾向と
、積極的の呼応してくる傾向のすべてにあたる。

4.消極側の代表者に上位自我がいる。上位自我はこう生きねばならないという思い込みで固まっている。そしてその思い込みをわたしたちに押し付けてくる。正しい生き方を選ばねばならないとか、あらゆるものに平等に接しなければならないとかの美しい理念に凝り固まっている。美しい理念は結構なのだが、それをごり押しされると困る。柔軟さが失われる。私の中にも強烈な上位自我が存在し、思春期のころからあれこれ私を指図してきた。私はこいつが嫌いで、最初につくった伝染熱というソロの中でこの上位自我の首根っこを捉えて絞め殺そうとしたほどだ。死闘の挙句、いまでは私と上位自我は和解することが出来た。いまだにあれこれつぶやいているのは聴こえるが、もうわたしに対して束縛してこようとはしなくなった。ともあれ、その存在を認知し、自全の一員として承認することからはじめる。

5.次に足を引っ張るのは、臆病な老婆心だ。なにかをやろうとするとき、「そんなことして××になったらどうするの?」と最悪の想像をして押しとどめようとする。この存在も厄介で、わたしがサブボディとコーボディを発見するワークショップをし始めたとき、最初の数年間は、この老婆心が出てきて、「参加者を下意識に潜らせたりしたら何が起こるか知れない。もし参加者が変なことになったらどう責任取るのか?」と恫喝し、私を縛った。私はもともと慎重な性格で、石橋を叩いて渡る面もあったから、この老婆心に一番てこずった。

わたしがそれから解放されたのは、インドへ来てこの学校の建設中に思い切り妄想神経症に囚われて、その地獄を経験してからだ。妄想地獄に囚われて、暴力的攻撃的な衝動に囚われ、自分や周りの人を殺してしまいそうな抹殺衝動にさえ幾度も襲われた。だが、その地獄に耐えているうち、それらの症状もいつかは通り過ぎることを知った。そして、最悪の妄想に囚われたときどうされれば暴発しないで済むかも分かった。最悪の状態になったときは、ただ、やさしく抱きしめればいいのだ。もちろんそうするには勇気がいる。そんなことしてほしくないと抵抗にあうかもしれない。だが、それこそが必要なものだと信じて抱きしめればいい。それが欠けていて得られないから凶暴化しようとするのだ。身を投げ出して黙って抱きしめているうちに、荒みきっていたこころも落ち着きを取り戻すものだ。

その機微を知ることによってようやくわたしは迷うことなく人々をサブボディの世界に招待できるようになった。その危険さえ免れることができれば、これほど面白い世界はほかにないのだから。

5.これも上位自我の一種だが、口先だけさがない批評家がいる。ありとあらゆる側面から、私のやろうとすることを批判し、こき下ろそうとする。この人に合えば、「あんたの言い分は分かった。確かにそういう面から見ることも必要なときがあるかもしれない。そのときお世話になるからいまは引っ込んでてほしいと、存在を認めた上でお引取りを願うのがいい。それに決して言葉で抗弁して取り合ってはならない。これは、批評家に対するだけではなく、あらゆる分身に対する鉄則だ。言葉で取り合おうとすると泥沼に引き込まれるだけだ。それは避けて、からだのそこからどう動こうとしているかに耳を澄ましてただ黙って行動で態度を示すことだ。

6.それ以外にも自分固有の思考の癖がある。堂々巡りしたり、くよくよ気に病んだり、いろいろな癖がある。癖に陥りかけたら、すぐそれに気づいて癖と認知して引き返すことだ。

7.無意識の嗜癖もある。なにかを疲れきるまでやらなければ気がすまなかったり、分かっているのに止められない嗜癖に囚われることもある。これもなにかの理由でそうせざるを得なくなったのだから、その存在を認知してやること、そして、今は一番やりたいことを探しているだから、また後でね、と言い聞かせてバイバイする。

8.とても怠け者のだるいやつもいる。からだのだるさに捉えられてなにもしたくないやつ。この分身も大事なものだ。疲れたときには一番大事になる。そうなったときに一緒に横たわろうねと約束すればいい。自分が休みたいときに休めなかったからこの分身が横行するようになったので、休みたいときにすぐこの分身と仲良くしてすばやく休むようになればこの分身が出てくる余地はない。たとえば今私はことあるごとに横になる。下意識と意識が半々でつりあっている状態が一番創造的になれることを知ったからそうしている。ごろごろしてはいけないなどと勤勉日本の道徳に縛られる必要はないのだ。

9.そのほか、こずるいやつとか、いつも計算ばかりしている計算高い分身とか、怒りっぽいやつとか無数の分身がいる。それらすべてを自全のメンバーとして認知することだ。そして、いつか君を踊るからと約束する。サブボディが出番を見出すのを待てばいい。どんなけったいな分身にも長くやっているとかならず最適の出番が見つかることがある。そのときに思い切り踊ってやればいい。そう約束してもらえれば分身たちも安心して安んずることができる。間違っても圧殺しようとしてはいけない。身の危険を感じれば分身たちは窮鼠猫を噛むの勢いで反撃してくる。すべての分身は命の創造物だから否定しようとしてはいけない。自分で自全によって無限の肯定を与えるのだ。

10.次は、積極的に導いてくれる傾向を探る。自分の中の勇気のある行動者。この人は大事だから大事にする。ときどきおっちょこちょいで失敗をすることもあり、それが批評家や老婆心の槍玉に上がることもあるが、気にしない。失敗は行為につきものなのだ。失敗しても失敗してもトライし続けているとそのうち成功する。七転び八起きの不屈の精神を身につける。

11.自全の旅をしていると危機を救ってくれる盟友に出会うこともある。いろんな形で現われることがある。どれもとても大事だからその出会いを大事にする。わたしにとっての最大の盟友は、十年ほど前に作った伝染熱というソロダンスだ。ことあるごとにわたしを救い、大事なアドバイスをもたらしてくれる。この学校も彼のおかげでできたようなものだ。

12.老賢者。無限の智慧を与えてくれる人。長い人生のうちには誰もが出会う。道ですれ違う人かもしれないし、夢の中に出てくる人かもしれない。私はどちらにもであったことがある。ふと飛び込んだ古道具屋の親父からとても貴重なアドバイスを受けたこともある。沖縄の海岸でであった老婆からも、大事なことを教えられた。最近では夢に世阿弥と禅竹が出てくる。さりげないしぐさでとても大事なことを示唆してくれる。

歯医者の診察台に横たわるといつも出てくる土方巽。彼については昨日「舞踏論7」と「共振日記」に書いたのでそちらを読んでほしい。土方はわたしにとって老賢者と盟友のどちらの要素をも持っている。

13.自分の中で一番うぶな希望。小さいころに懐いた希望や現実とはかけ離れた理想を手放してはいけない。それこそ君をもっとも遠くまで連れて行ってくれるかもしれない理想なのだ。どんなに現実離れしているかに思える理想でも握り締めていればいつか現実との接点がみつかる。私のとってのそれは、青年時代に懐いた国家の死滅という理想がそれだ。だれも国家がなくなることなど信じないが、私はいまだに信じている。そして今、人々の心身が共振を取り戻す日が来れば、国家など跡形もなく消えてしまうだろうと確信できる。すごくゆっくりしか進まないだろうけれど、歴史はそちらのほうへすこしずつずれていくだろう。

14.そのほか、自全を旅していると見知らぬ自分の側面に出会う。異貌の自己だ。自分の中にこんな面があったなんてと驚かされる。どんなに奇妙な存在に出会っても、とに描く、自全の一員であるかぎり認知していつか踊ろうと約束する。絶対に無視してはいけない。無視されると必ず形を変え姿を変えて襲い掛かってくるから。君は一生その分身のとりこになることになる。

15.最後にこれらのプロセスを見守る産婆になる。自全のなかのまだ認知されていないサブボディは、いわばまだ生まれていない胎児のようなものだ。それがいつどんな形で生まれたがっているかの気配に耳を澄まし、無事誕生をまつ。急がしてもろくなことにはならない。胎児が自分の力で出てくるのをただ温かく見守るのだ。そしていざというときにそっと手を貸してやるだけでいい。

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自全乞食瞑想

インドには,もう近代社会ではなかなか見られなくなった心身障害者の乞食がいたるところにいる。
西欧近代社会のように、彼らが掃除されてしまっていないところがインドのいいところだ。
とりわけ、ここヒマラヤインドのダラムサラには、乞食の人々がひしめいている。
チベット仏教のダライラマの寺院の門前町のような観光町だから、仏教の慈悲やコンパッションの教えに感化されている人が多いから、乞食にとっても稼ぎがいいのだろう。
ダライラマのティーチングがある月間などはインド中から多くの乞食が集団で移住してくるほどだ。

彼らの中には、らい病で手足の指を失った人が多い。
中には手足のいずれかを失っている人もいる。
町全体がまるで舞踏劇場の舞台のような雰囲気さえかもし出している。

 

1.不具の乞食に対して出てくるあらゆる自分を肯定する瞑想

自全瞑想は、彼らを目にしたときの自分のさまざまな反応を思い出し,すべてを引き受けなおすことからはじめる。

不具の乞食と出あったとき、まず最初は鋭い痛みを感じる。無意識のからだが自動的に彼らの共振して彼らの失った手足の痛みがからだに入ってくるのだ。これは禁じることができない。この第一反応をまず認める。そして、彼らを不憫と感じる憐憫の情が湧く。それも自分の中の一員だ。そして、あまりに悲しいの彼らを見たくないという自分も出てくる。これも自全の一員として認める。さらには、忙しく道を歩いているときに彼らにまといつかれたときは、かまわないでくれ! と突き放したくなる自分も出てくる。それも自全の一員だと認める。さらにはもっと激しく、過激なやつが出てくるときがある。社会的に根本的な解決策を探そうとするような社会派もいれば、彼らの存在を一掃してしまいたくなるようなファッショなやつが出てくるかもしれない。また、それをいさめる批評家が出てくる。どんなサブキャラクターが出てきても、自全の一員として肯定する。

この自全瞑想を行うと、大概の人は少し気持ちが楽になる。インドへ来て、先進国では出会わない膨大な不具者の群れに出会って、外国人はみな多かれ少なかれショックを受け、それをどう処理していいか分からずに、整理しきれないもやもやをかかえている。自全瞑想によって、乞食に対する無数の反応が出てきてうろたえているのが自分だけではないことを知ってまず安心するのだ。そして、自全瞑想を行えば、それらのすべてを引き受けるという解決策がとても根本的な道であることが分かるのだ。

自全瞑想では自全の中のすべての登場人物を肯定する。時には自全の中には、人物ですらない、下等動物になりたい衝動や、無機物にさえなりたい衝動も棲んでいる。それらのすべてを肯定する。いっさいはこの肯定からはじまる。そして、下部へ下部へ潜っていけば、自分の中に不具の自分がいることに気づく。なにかをしようとして、うまくいかなかった自分、しゃべろうとしてしゃべれない自分、動こうとして動けない自分が、きっちり自全の最深部にくぐもって存在するのに出会う。最初、外部にあると思っていた不具の乞食が実は自分の中にいることを知る。なあんだ、ここにいたのかい。外部の乞食と内部の不具者とが密通する。自全瞑想でそこまで降りていく。内部と外部の境がなくなるところまで。そこまで降りれば怖いものは何もなくなる。世界中の最低のものが自分の中にあることを発見してかえって安心できる。そして、最初日常体の自我が感じた不具者に対する惧れや差別の気持ちが実は、自全の中のこれらもっともみすぼらしいサブボディを自分で否定し、自分から切り離そうとしていたところから発していたことに気づく。自分の中のノット・ミーに対する否定を外部に投影するところから、差別や惧れが生じていたことに。

 

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2.自全のなかのサブボディに乗り込んで行く瞑想

自全瞑想でであうさまざまなサブボディを、からだのどこかから呼び出し、そのサブボディに成りこむ。

具体的には、この瞑想をする前に、からだの脊髄一本一本ををあらゆる方向にゆらがせる、脊髄三元ゆらぎの練習をして、からだをほぐしておく。

そして、脊髄関節の一箇所を緊張させたり、歪ませたりして感じる体感クオリアと結びついて出てくるサブボディを探る。そのサブボディの傾向が先の自全瞑想でであった自全の中にすむいずれかの自分と結びつくのを感じる。からだの具体的な体感と、自全瞑想で捉えた自分のサブキャラクターと結びつけば、それをサブボディダンスにまで発展させる。

こう言葉で書くとまだるっこしいが、ともあれ、出会ったサブボディにからだごと乗り込んでいくということだ。

人によっては一日に何人もの異様なサブボディに出会うこともある。それらに次から次へと乗り込んでいく。サブボディに乗り込むと、自然に多次元流動している自全世界を旅することができる。そして、以前にぶつかって強い力で跳ね返されたエッジが、いつのまにか背後にあることに気づく。からだの闇は多層多次元の迷路からできているから、知らない間にそんなところに行き着いて驚くことが多い。

 

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3.深層サブボディに乗り換えていく鮮深響瞑想

・<鮮>のサブボディ

サブボディはからだの闇のさまざまな層に棲んでいる。最初に出会うのは、なにか新鮮な体感をもたらしてくれるものだ。<鮮>のサブボディと呼んでいる。ともかくもからだが新鮮に感じられる動きなら何でもやってみる。これはからだに聴き入る最初の段階だ。

・<深>のサブボディ

鮮のサブボディに乗り込んで動いているうちに、奇妙な体感に出くわすことがある。なんだか知らないけれど懐かしい。わけは分からないけれどこの動きは自分の深いところとどこかでつながっている気がする。そう感じたとき、きみは<深>のサブボディに出会っている。そのサブボディに乗り込んで動いていると、いつの間に自全の中の深い層に降りていける。

・<響>のサブボディ

これは直ちに出会えるものではない。<深>のサブボディに成りこんで、いくつもの<破>をくりかえしているうちに、最後の最後に、これが自分の最深のサブボディだ!と感じられるものに出くわす。そのときは自全の中のあらゆる要素がともに激しく共振しだすのですぐに分かる。めったにないことだが、それに出会えれば、自全の底から天辺までがすべて共振する天地共振という至高の体感を体験することができる。そのとききみは自分の踊りの<序破急>を成就して終わることができる。

最深部に住むサブボディは、大概どこかが不自由な者や下等動物ばかりである。それどころかすでに死んでいる人もいる。

・差別とは、自己差別の投影である

そして、ここまで降りてきたとき、君は不意に気づくのだ。乞食瞑想のはじまりで、君が外部に切り捨てようとした醜いものがすべて君の自全の中に棲んでいることを。自分の中にある醜い要素を自全の一員として認めることができない小さな自我が、それを自分ではないもの(ノット・ミー)として切捨て、解離したために、それを外部に投影し、激しく拒否しようとしていたことを。差別とは自全内の自己差別の外部への投影であることを。


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