●クオリアは幻現二重である
クオリア(ものごとの質感、実感、体感の総称)は、
それを感じている本人にとって、
現実に目の前のものに対して生じているときも、
からだの闇に収蔵された過去のクオリアが共振しているときも
まったく同じように感じてしまう特性を持っている。
というより、クオリアはいつも
今ここの現実に対して生起しているものと、
からだの収蔵庫に収められているものが、
共振して二重に生起しているのだ。
日常意識が強いときは
私たちは今自分が感じているクオリアが
今ここの現実のなかで生起しているものだと
強く自覚しているため、混乱は起こらない。
だが、恐怖や怒りなど
過去に強い情動を引き起こされたのとよく似た体験をすると、
脳心身全体がその状態特有の
<状態依存的記憶>とともに、
特定の状態に変容する。
一群の情報伝達物質が心身を
一挙に色づけてしまう。
そうなると、今ここで起こっているクオリアと、
過去に引き起こされた強烈な情動に導かれたクオリアが
一緒になってからだを駆け巡り、
私たちを混乱の極に突き落とす。
これがクオリアの幻現二重性の怖いところだ。
あらゆる妄想の根拠がここにある。
いくらそう分かっていても、
からだの底から変わってしまうため、
そのクオリアは強く心身全体を包む現実となる。
脳心身全体が恐怖や怒りなどその状態特有の
生体反応を示してしまうのだ。
こういことは誰にも起こっている。
ただ、通常の人はそれらの体験に注意を払わず、
周縁化してしまうので、
それらのプロセスは意識下で生起し気づくこともない。
たが、解離性障害をもつ場合には、
それが起こると普段の日常生活時の主人格のスイッチが切れ、
その状態特有のサブ人格にすり替わってしまう。
からだを駆け巡るホルモンや情報伝達物質が
いっせいに切り替わる。
それは自分ではどうにも制御できないプロセスだ。
●食うか食われるか
私が踊り手としていい状態のときは、
自分のからだの闇に棲む20あまりの人格や
さまざまな生き物や無生物が次から次へと出てきて踊り、
私のからだを駆け抜けて去っていく。
その状態は、
11次元に折り畳まれた超微小なカラビヤウ空間を
ひも理論のひもが振動するのと、
わたしのからだの闇に封印されている20人格たちが
出てきては踊りまたもどっていくのが、
とてもよく似ているので
「カラビヤウ貫通体」とわたしは呼んでいる。
そのときわたしはからだから出てくる
ありとあらうるクオリアをコントロールすることができる。
何にでも瞬時になりこめるのだ。
だが、クオリアの幻現二重性に食われたら、
私はただの解離性障害にすぎなくなる。
それに支配され囚われてしまうからだ。
クオリアの幻現二重性を食い、
からだをうまくカラビヤウ貫通体に持っていけたとき
ダンサーリゾーム Leeになれる。
食うか食われるか、いつもそのon the edgeに立っている。
●透明な共振体へ
踊りにおいては、自分の中で起こっていることが
すべて透明に見える状態にすることが理想だ。
通常の意識への囚われから脱し、
意識と下意識を50対50の等価に扱えるようになると、
どちらの世界をも行ったり来たりできるようになる。
意識の泥むツリー上の3次元空間だけではなく、
下意識のクオリアが流動する多次元が
無数に連結している時空を駆け抜けて踊ることができる。
だが、そこに至るにはこの危機を突破しなければならない。
クオリアの幻現二重性に囚われてしまうと、どこへもいけない。
からだごとからめとられてしまう。
だが、この巨大な危機に近づき、
そのそばをすり抜ける以外に道はない。
透明心身への道は狭き門なのだ。
生死を賭けねばならない危険な道だ。
おいそれとは人に勧めることはできない。
なぜ、こんな危険を冒してまで、そこへ行こうとするのか。
それは、日常的な意識優先の意識への囚われから脱し
、意識と下意識を等価に扱える透明体になってはじめて、
生きとし生けるものすべてと共振しうるからだになれるからだ。
今の時代の惨めな意識状態を脱がねば、そこへはいけない。
人間がこんなにまでエゴイックなこころに
とらわれてしまった時代はかつてなかったに違いない。
それまでは動物や植物と共生することができていた。
わたしのおばあさんの時代までは
そんなアニミズム的なこころがまだ生きていたのを私は知っている。
いまでも、アジアや世界の山奥にすむ
ヒルトライブの部族を尋ねれば
かれらがいかに優れた世界と共振しうる
透明な心身を保ってるかが分かる。
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