November 2007

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2007年11月30日

●情動を呼吸で制御する


体底呼吸で、からだの底から全体に新鮮な空気を送っていくと
からだの各部の細胞がかすかな気持ちよいシグナルを
発しているのがわかる。
その反対に息を止めると苦しくなる。
指を握り力を入れていきむと血圧が高くなり気分も悪くなる。
からだ全体をこわばらせるともっと気持ち悪くなる。
これらは、からだの状態を意識に知らせる無意識裡の情動のはたらきだ。
からだが無意識裡に緊張したりこわばったりしていることを
そっと知らせてくれるのだ。
からだを緩め、深い呼吸でからだに新鮮な空気を送ると
その状態はじょじょに緩和される。
これを繰り返していると、
呼吸で情動の高ぶりやからだのこわばりを
鎮めることができることが体得されてくる。
サブボディをじょじょに解放していくためには、
何が出てきても鎮めることができることを知ることが大事だ。
今年は入学して三日目にからだの闇で蠢く情動を感じて
気味悪くなってやめた人がいた。
慣れると呼吸によってからだの状態を鎮められることが
分かってくるのだが、それには時間がかかる。
その人の場合は呼吸による沈静技法を学ぶ前にそれが起こった。
来年からの入学希望者は、
まず自分で呼吸やゆらぎ瞑想の練習をして
自分で意識や情動をコントロールできることを知ってから入学してほしい。
からだの闇に耳を澄ますと気味悪い妖怪じみたものが
蠢いているのに触れる。
だがそれは命が感じている内クオリアであり、
なんら気味悪がる必要はない。
命のすべてを受け入れるこころの準備だけしてきてほしい。


2007年11月29日

●足裏ゆらぎからはじめる



灰柱で歩く。
崩れやすい灰の粒子からできた無のからだになる。
そのからだをできるだけ静かに運ぶ。
人間の足には27個の骨がある。
微妙な重心のゆらぎに応じ、
それらの骨の間の隠れた関節がきしみ、
攀じれ、震えているのを感じる。
そのふるえ、よじれ、きしみが、
仙腸関節、胸鎖関節、頭蓋関節、下顎関節などに
伝わり、増幅される。
それだけで、衰弱体の基礎となるからだ全体の細胞が
絶えずあらぬ方向にゆらいでいるからだができる。
そのゆらぎが、あらゆるチャンネルの
衰弱・崩壊につながってゆく。
体疾、動疾、眼疾、声疾、情疾、
関係疾、世界疾、自己疾、想疾、に
ゆらぎつつ広がる。
さらに欲望が崩壊し、
さいごに命が感じ続けてきた
クオリアが感じられなくなる。
生死の間で起こることすべてを
呆けになる寸前の精密さで味わい続ける。



2007年11月28日

●からだが教えてくれる気づき

ラウラは今月に入ってから、
なんだか怒っているサブボディがやってくると
毎日その怒れるサブボディを踊っていた。
今日衰弱体の練習に、EA=Exstreme Amplify (極限増幅)を入れた。
ひとつのクオリアをとことんまで増幅していくというものだ。
それをやっていると、それまでラウラ自身に乗り移って
外界に怒っていたようにみえるサブボディが
ラウラの左手に乗り移ってラウラ自身に挑みかかってきた。
それで、ラウラはこの怒りは自分自身に対するものだったのだ
ということに気づいたという。
サブボディは時々こういう形で何かに気づかせてくれる。
もちろんそれが自分の何に対するどういう怒りなのかは、
さらにこれから明らかになってくるだろう。
こういう内界への旅ができるのがサブボディだ。
からだ全身で乗り込んで踊ってみることではじめてやってくる
気づきがある。
しかも、最初はまだ単独の気づきがやってくるに過ぎないが、
やがていくつかの気づきの間の関連に気づくことがある。
すると一挙にからだの闇の見通しがよくなり、
霧が晴れるように透明になっていく。
これらの気づきを積み重ね、
からだの闇に折りたたまれているくぐもりを解きほぐし、
自分にとっても他人にとっても透明にしていくのが
サブボディによる自分の全体の旅だ。



2007年11月27日

●あの、お邪魔してもいいですか?



今日は生徒と、山のふもとの巨石ロックガーデンに行った。
何万年か前のヒマラヤの氷河湖が決壊して大土石流として
流れ落ちた巨石群の公園だ。
こういう場所で踊らせてもらうには手続きが要る。
瞑想の中で今ここの自分から、徐々に年代をさかのぼり、
10歳の自分、5歳の自分、赤ん坊の自分から、
胎児期の自分にまでさかのぼる。
それから自分が生まれる前の生命の連鎖をさかのぼる。
あらゆる多細胞生物の命は常に単細胞期と
多細胞期を繰り返して連鎖している。
哺乳類、爬虫類、両棲類、魚類、無脊椎動物、そして、
30億年を過ごした単細胞期の生命にまでさかのぼる。
命もこの辺までさかのぼると、ヒマラヤの岩とも
対話できるようになる。
君はいつごろここへ来たのだい?
ヒマラヤの岩はもともとはインド洋の深海底だった。
長い間に高いところまで押し上げられて、
そして転がり落ちてきた岩たちだ。
マイナス数千メートルから海抜数千メートルまで
合計一万メートルもの高低差のある変転を極めている。
こんな運命の岩も数少ない。
そして、彼らの領分に入るときは
ゆっくり時間をかけてなじんでいく。
あの、入ってもいいですか?
ちょっと踊るので見てもらえますか?
岩から許しが出るまで待つのがいい。
人間という自尊心や虚勢心などがすっかりなくなるには
時間がかかる。
岩はその時間を見ているのだ。



昨日のひらけを読む


2007年11月26日

●言葉を捨てる、私を捨てる。



言葉を捨てない限り捉えられないものがある。
透明な共振の世界だ。
この世のすべての事象は共振によって生成している。
共振は、主体も客体もなくどちらからともなく起こる。
主体や客体という概念は人間の主観的な幻想である。

もし、ひも理論を受け入れるなら、
世界のあらゆる事象が共振によって生起していることを
正確に捉えなおすことが必要だ。
世界像や自己像などすべてのものの見方を
<共振>という観点から作り直すこと。
今世紀の人々は私という主体があれこれをしているという
自己中心的な幻想を生きている。
わたしが見る、わたしが感じるという自己中心的な幻想を捨てること。
<わたしの命が○○と共振している>と正確に認識した上で、
すべてのものの見方を作り変えること。

これから何百年かかけて、認識論から、言語構造の転換までふくめて
大転換を図らねばならない。

現在の言語は、主語・述語、SVOという幻影に染め上げられている。
こんな主観的な言語を無反省に使っていては、どうしようもない。
すべてを共振原理に基づいた言語構造に転換されねばならない。
言語から主語、述語の構造をなくすこと。

できるだろうか?
できるとしても、何百年かかることだろうか?
あるいは何万年かかかるのだろうか?



2007年11月25日

●元型とのつきあい方




下意識の世界をめぐると、
じつにさまざまな元型と出会う。
元型は生命史のなかで遺伝子に刻み込まれたもので、
いたるところで待ち構えている。
元型概念を最初に見つけたユングは
影、童子、老賢人、太母、トリックスターなど
主に自己像元型に着目した。
だが、元型は自己像に限らない。
あらゆるチャンネルに元型がある。
世界像チャンネルでは、どの民族にも
地獄、極楽、天国などの世界像元型がある。
大洪水や嵐や戦乱という世界像も多い。
体感チャンネルに現れるものには、
幽体離脱や金縛りなど、
動きのチャンネルには、獣、跳ね踊り、舞踊りなど、
映像チャンネルには、闇、光、虹、既視感、未視感など、
音像チャネルには、死者のささやき、神のお告げなど、
感情チャンネルの元型は、喜怒哀楽という日常体が囚われている
おなじみの感情元型がある。
関係像元型は、ユングが取り上げた
アニムス、アニマ(上図)がもっとも強力だ。
ただ、男、女というジェンダーそのものも元型である。
多くの日常体は生まれついた性別に囚われたまま生涯を送る。
父や母、娘や息子という家族元型に囚われて生涯を送る人も多い。
思考チャンネルの元型は、二元論元型だ。
良い・悪い、敵・味方、上・下、中心・辺境、などなど
人は死ぬまでこれらの元型に囚われ
人生を無茶苦茶にされるに任せる。

そう、元型は最初はわれわれに力をくれる。
元型に従えば生命史の叡智に従うだけで、
大いなる行動ができる。
だが、すごい力だ! と過信するとその瞬間に囚われる。
エゴのインフレーションを起こし、
自分がなにものか偉いものになったと勘違いさせられる。
そうなったらお陀仏だ。
多くのスピリチャアル系の指導者や
グルを自称する人はみな成仏している。
オオム真理教の教祖何某はお陀仏した。
ケン・ウィルバーもある時点で成仏して
現代の神学者に成り下がった。
元型には恐ろしい二面性があり、
力を与えると同時にそこに閉じ込めるのだ。
覚醒者という元型に彼らは食い物にされている。
そこはとても居心地がよく、
そこから出ようとすると恐怖を味合わされる。
元型は創造を封印しようとする。
だから、創造に向かおうとする人は必ず
どこかで元型の閉じ込めようとする力と闘わずにはいられない。
元型の封印力を感じたら、
命からがら身をよじって逃げ出すしかない。
強いものにはかならず別の元型がまといつくから、
アメーバとかバクテリアとか、
もっともみすぼらしいものに身をやつすのがいい。
そこまでは元型も追ってこない。

サブボディスクールは世界でただひとつの
あらゆるチャンネルであなたを縛る内なる元型と闘い、
創造力を解放する方法を身につけることができる場所だ。

2007年11月24日

●成りこみというクオリア認識方法





日常意識は言語を使ったツリー状認識方法に囚われている。
私という主語-述語関係、内外、上下、善悪、正誤という
低次な二元論的思考に束縛されている。
これでは、多次元変容流動するクオリアをとらえることはできない。
クオリアをとらえるには言語を使わない生命体の認識方法に学ぶことができる。
生命には主客も自他もない。
内外もないから、表現(Exprsiion)も印象(Impression)もない。
ここが大事な点だ。
人間にはそれが想像しにくい。
生命はひとつの状態から
別の状態へ全存在ごと変容していく。
からだごと成りこむのが生命のやり方なのだ。
認知と行動が別物ではなくひとつである。
これにならうことだ。
<成りこみ>という舞踏の技法はこの生命の技法である。
サブボディメソッドでは、この成りこみ技法を、
言語の届かないあらゆる深層クオリアの認知技法として拡大深化させた。
生命を知ろうと思えば生命に成りこめばいい。
頭で考えるのではなく、からだ全体で成り込み、
からだに起こる変化すべてを味わいつかむ。
言語を使った頭だけの認識ではない。
からだごと変わり、それを味わいつかむことが、
クオリア認知即成り込みという生命の技法なのだ。

*******************

写真は、Kate Macleod "Becoming"

2007年11月23日

●死が怖いものでなくなる



衰弱体に成りこむ毎日が続いている。
からだの闇のもっともか弱い、
消え入りそうなクオリアを探し、全身で成りこむ。
すべてのチャンネルのクオリアが
消えていきかけるからだになる。
目が見えなくなり、声が出なくなる。
情動が消え、生存の欲望さえ萎んでいく。
最後に生命ゆらぎが掻き消え、
あらゆるクオリアが感じられなくなる。
生と死との間のあらゆる出来事を精密に味わい深める。
これを続けていると、だんだん死とはなにか、
生と死はどう違うのかが、からだに染み込んでくる。
生きようとする微細なクオリアが生命なのだ。
それがなくなると物質に返る。
でも、それも微細に順々にたどると、
そう悪いものでもない気がしてくる。
生と死の間の精妙なクオリアを
すべて味わい尽くせたら幸いである。
これを死ぬまでゆるゆると楽しめばいい。

**************

写真はチベットの聖地カイラス山。
この山をめぐる五体投地の巡礼や、
日本の密教の千日回行では、
生と死の間のクオリアの隈隈を味わい死を乗り越えていく。


2007年11月22日

●無数の共振タッチをフレキシブルに使う




共振タッチ技法を探求し始めて3年になる。
最初は緩やかに触れゆらぐ狭義の共振タッチと
指圧の二本立てで始めた。
探求を進めるうちに、本質は生命の共振にあり、
細胞と細胞の間で起こっている共振を
ただ増幅することにあることがわかってきた。
人と人の触れ合いの仕方は、無数にある。
そのうちのひとつにこだわってはいけない。
触れ方のバリエーションを研究し続け、
フレキシブルに応用できるようになることが必要である。
まったく触れずに距離を置いて起こるかすかな細胞間の
生命共振に耳を澄ますことから、
不即不離の距離でのタッチ、
触れてわずかに皮膚をずらすタッチ、
わずかな振動を増幅していくタッチ、
手のひら、掌底、肘、膝足を使うさまざまな指圧のタッチ、
クレニオセイクラル(頭蓋仙骨療法)の2グラムタッチ、
頭蓋、肋骨、骨盤の開け閉めの補助、
仙骨関節や股関節をゆるやかに伸ばしつつ捻るひねりのばし、
のばしまわしなど、無数のタッチがある。
マッサージ技法となると世界中に数え切れない。
これらを研究し身につけ、相手の状態に応じて
フレキシブルに適用すべきである。
いまでも、介護病院などでは、
決まりきったマッサージ技術しか学んでいない人が、
ほとんど動けない患者に強いマッサージやリハビリ運動を施して、
患者に苦痛を与え続けている現実がある。
手技の道は深く、それに携わる人は、
患者の命との生命共振からはじめて学び続けて欲しい。



2007年11月21日

●衰弱体の快楽




今月は毎日衰弱体になることからはじめている。
からだの闇のもっとも微弱なゆらぎに耳を澄ませる。
もっとも弱弱しいクオリアにからだをゆだねる。
そして、その動きにしたがい、乗り込んでいく。
出てくる動きはもっともみすぼらしい
ほとんど動きにもならないものだ。

だが、これを続けていくとなんともいえない快楽がこみ上げてくる。
あらゆるこうあらねばならないという既成概念に囚われない
完璧な自由感がからだを満たす。
これは今まで知らなかったことだ。
衰弱の果てにこんな境地があったとは!
何が出てくるかわからないのが
からだの闇の底知れない面白いところだ。
私がこれに病み付きになったのは
この闇の深さだったかもしれない。


2007年11月20日

●自我では間に合わない場所に立つ



生徒とヒマラヤの自然の中に入っていく。
都会の公園ではない。
なれれば危険ではないが
山は45度の傾斜。川は急流。
野生動物はすぐ近くに寄ってくる。
はじめての人には厳しい。
こういう場所に都会の自我のまま
入っていくとにべなく拒絶されていると感じる。
だれも私を守ってくれないと泣きべそをかく人もいる。
そういう場所に入っていくには手続きがいる。
瞑想で自我を鎮める。
自己からさえも遠く、ただの命になる。
そうすると自然が受け入れてくれる。
自分のことを人間だと思い、
人間扱いしている限り、自然は開いてくれない。
人間は山の樹を見てもただの樹だと思う。
石や川の流れを見ても、
命のないただの無機物だと思うだけだ。
だが、生命はそれら植物や水の流れ、
空気の流れと長くコミュニケーションして生きてきた。
水や空気のゆらぎとともにゆらぎ、
振るえとともに振るえ、
流れとともに流れてきた。
そういう命に刻まれている共振性が開かれると
自然は人間をも受け入れてくれる。

こういう自我では間に合わない場所を見つけ立ち尽くすこと。
命になる修行はそこから始まる。
君の住んでいる国にもそういう場所は見つかるはずだ。

************

ヒマラヤの川の水はよく見ると垂直に踊っていた。

2007年11月19日

●氷河時代の生命記憶



11月になってヒマラヤも少し寒くなってきた。
奄美大島と同じ緯度なので、晴天の日中はぽかぽか一年中で一番心地よい。
だが、少し影に入ると空気や床の冷たさがからだを刺す。
寒さに触れると私たちのからだは震え縮み上がる。
細胞が身に着けている生理的反応だ。
この反応は生命が何度もの氷河時代を体験するなかで
自然に身に着けてきたものだ。

もっと寒くなれば、寒さを感知した遺伝子は、
即時遺伝子を発動して、
寒冷対応用のたんぱく質を造る指令を出す。
低温化でも効率的に働くたんぱく質だ。
温度だけではなく生命は気圧の変化にも対応する。
当地は、2000mの高地なので、気圧も低い。
空気のなかの酸素濃度も低い。
来た当座は坂道を登るたびにふうふう息が上がっていたが、
最近はそれもなくなった。
からだがいつの間にか高地適応したらしい。
マラソン選手の高地トレーニングにみられる反応だ。

この<縮退震え>も衰弱体への変成技法のひとつだ。
悪環境の中で生死の境をゆらいでいる生命になりこむ。
細胞ひとつひとつの震えに耳を澄ます。
もっともか弱くひ弱なクオリアだけが、
ほかのか弱き命とも共振できるもっとも強い共振力を持つ。
死者、狂者、障害者、少数者、先住民などの虐げられた人々と
どこまでも共振できるのは衰弱体だけだ。




2007年11月18日

●意識という脳内麻薬




サブボディ・メソッドの第一は、鎮まることだ。
日常体の多忙でざわめきに満ちたあり方から、
心地よいゆらぎに身をゆだねて、意識を止め
思考モードから、リズニングモードに切り替える。
からだの闇のかすかなかすかな
ゆらぎやそよぎに耳を澄ます。
やがて、ミクロン単位のからだの細胞の生命ゆらぎが
聴こえてくるまで鎮まりかえる。

これだけだ。入り口は。
簡単そうに見えるが、入学してもこれができないまま
やめていく人もいる。
何週間たってもまるで覚醒剤に犯されているかのように
意識を鎮めることができない人がいた。
授業が終わって部屋に帰ると毎晩脳内麻薬丼を
あおっているのではないかと思われるほどの人もいた。
忙しい文明圏での意識優先のありかたの外に出られないのだ。
こういう私も50年間意識の囚われから脱せなかったので、
意識の束縛の強さは知り尽くしていたつもりだが
まだ、私が気付いていない秘密がありそうだ。

この冬は、人々を意識に縛り付けている脳内麻薬から
いかに解放されうるかという坑道を掘ろう。
闇は深い。だが、これを解くのが火急の課題だ。
誰もが必ずサブボディモードに入れる坑道を見つけるために。



2007年11月17日

●40億年かけてできあがってきた心




ユングは人間の心の歴史を1万年というスケールで捉えた。
さまざまな神話から現代に続く元型を捉えられたのは
その独特の視座のおかげだ。

わたしは、生命が感じるクオリアを心の原型として捉える。
生命の内部に刻み込まれた内クオリアは、
この40億年間切れ目なく積み重なってきたものだからだ。
心をその根底から統一的に捉えようとすれば
40億年の生命史すべてを視野に入れる必要がある。
私たちのからだの闇でうごめく微細な生命傾向は、
遠い遠い起源を持つ。
快楽を求める生命傾向や、さらにその基底にある
生きようとするもっとも原生的な生命傾向は、
百万年やそこらの短い歴史では捉えられない。
バクテリアやアメーバも生きようとする生命傾向を持つ。
私が生命を学んだ粘菌先生(上図)から学んだ最大のことはそれだ。
かれらの生きようとする生命傾向と
私の心は一つながりにつながっている!
人間という思い上がりに凝り固まることほど
命として貧しいことはない。




2007年11月16日

●命の三つの海




生命と海は切っても切り離せない。
40億年前におそらく深海の熱水噴出孔付近で
誕生した生命は、その後4億年前に上陸するまでの
36億年間を海の中で過ごしてきた。
生命史の実に9割は海の中で生きていたのだ。

だから、生命は個体の発生の時には
この原初の海の環境が必要になる。
子宮内の羊水は原初の海を再現しているのだ。

そればかりではない。
成体となった後も、脳だけは
脳脊髄液のなかに浮いていなければならない。
その環境下で、はじめて40億年の生命記憶の
すべてを生かすことができる。

胎児や脳にとては、原初の海に浮かぶことで
ナトリウム−カリウムポンプによる膜電位を調節したり、
カルシウムウエーブによる細胞コミュニケーションを
昔身につけた方法通りに行えるのだ。
乾いた環境で生命調節を行う仕方を生命はまだ発明していない。

サブボディ瞑想でこの三つの海に浮かぶ命になりこむと
三つの海に浮かぶ原初生命、胎児、脳という命の三つの状態が
密接に共振していることがよくわかる。

私たちの脳も原初の生命も基本は何一つ変わっていない。
命の周りの外界とうまく共振して命を生き延びさせていく
方向には快感を感じて喜んで進んでいく。
そうでない方向には不快感を感じて避ける。
生命はこの快感原則によって、40億年間
常に新しい生存方法を創発しつつ生存を操縦してきたのだ。




2007年11月15日

●生命の共振指向性


生命は共振を指向している。
自分の細胞にその生命傾向を聴く。
光との共振、心地よい温度との共振、
他の細胞との心地よい接触への指向性。
これらは、下等動物では走性として捉えられているが
人間も多くの細胞からなる。
それらの細胞が何を指向しているか、
耳を澄ませばしっかり聴こえてくる。

今日はヨーロッパから新入生が二人到着した。
夜行のバスが遅れ、通常なら早朝到着の予定が昼になった。
インドでは通常のことだがはじめての人にはこたえる。
とくに外国へ旅したからだは無意識の違和感や警戒心から
アドレナリンに満ちたからだになっている。
この興奮をまず鎮めなければ何も始まらない。
午後いっぱいは、そっと触れ合うリゾナンスタッチ、
パートナーのからだに耳をつけて体腔音を聴きあい、
からだをそっくり相手のからだに乗せるヒューマンベッド、
心地よい姿勢でふれあいくつろぎあうヒューマンカウチ、
不即不離の距離でふれあい動くなど、
生命共振に耳を澄ます練習で午後いっぱいを費やした。

それで新入生の心身も落ちつき、長期の生徒が取り組んでいる
衰弱体の練習にも明日から溶け込めそうだ。

生命は共振を指向している。
これは動かしがたい事実だが、
ほとんど誰にも気づかれていない真実だ。
人間はまだ自分自身のことをよく知らないで生きている。

****************************

今日の画像は、粘菌先生のビデオだ。
ヒマラヤへ来た当座、これを見つめて何年も過ごし、
命とはなにかを学んだ。
私の中の師の中の師だ。




2007年11月14日

●眠りと覚醒の間の命の快感




眠りに落ちる一瞬前に、短いけれどもとても深い
快感を味わえることをご存知だろうか。
あまりに瞬間的な感覚なので、通常の日常意識は
気づかずにまたぎこしてしまうものだ。
でも、恒常的に意識を鎮め、こういう微細なものに
敏感になる訓練をつんでいくと、
はっきりと掴むことができる。
昨日書いた呼吸の快感よりもさらに深い。
いっしょに味わうと共振しあって
より深い快感が味わえる。
こんなおいしいものを
うかうかと見逃すのはもったいない。
眠りに落ちる瞬間、自我でも自己でもない
いのちの実質に触れる瞬間が訪れる。
命はいつもこういう深い快感とともにある。
だからこそ40億年間も生き延びてきたのだ。
この快感を味わうにはコツがある。
それは一瞬で過ぎ去る。逃がすな!
逃しそうになったら、引き返せ!
眠りと覚醒の間でゆらげ!
むさぼれ、これが命の快感だ。
このとき、生命の生のクオリアにもっとも近づいている。
自我を去り、自己でさえなくなって命になる。
考え事の世界に陥るなどもってのほかだ。
そんなつまらないことをしている暇はない。
貪欲に生命をむさぼり味わい尽くすんだ。
私も昔は不眠の権化だったが、
これをむさぼりつくすととてもよく眠れる。
だまされたと思って、ぜひ試して欲しい。
おいしい命のクオリアの中でもとびきりおいしいものだ。

2007年11月13日

●命の微細な快感




熱くも寒くもない、静かな場所に横たわる。
物理的にも心理的にも雑音が聞こえてこない場所がいい。
まずとことんからだを休める。
からだが静まったら、静かな呼吸に耳を澄ます。
できるだけ小さな息をする。
鼻先や口先に当たる新鮮な空気がかすかな快感に感じられる。
それを味わう。それだけ。
かすかなかすかな快感だが、何度確かめても消えることはない。
鼻や口の粘膜が皮膚呼吸をするとき、
かすかな快感を発しているのだろう。
命というのは何かにつけ生きていることを喜んでいる。
ひとつの細胞レベルから、
生まれてきたばかりの生命まで。
これを知ると呼吸が楽しくなる。
鼻先の快感と指先の快感が共振して増幅しあう。
愛する人のことを思うと、快感がいや増しに増す。
性的恍惚感にさえつながる。
妄想が湧けば湧くだけ楽しめばいい。
クオリアはすべて共振しあっている。
呼吸だけでとても幸せになれる術だ。

2007年11月12日

●微細さへの実感的想像力

ひも理論によれば電子やクオークは振動する微細なひもからなる。
この微細な世界を実感できる想像力を鍛えよう。


命が感じているクオリアは
他の何と比べても桁違いに微細である。
人間の脳があることを言葉を使って思うときには、
左脳と右脳を連絡する何百万というニューロンが
同時に電気的に興奮し連結発火しなければならない。
これに比べクオリアは、はるかに少数のニューロンの発火と
グリア細胞の非電気的な活動によっている。
言語活動によって生起する意識に比べ、
クオリア流動によって生起している下意識が
意識に比べはるかに微細なのはおそらくこの理由による。

古来、ヨガや仏教の修行では、日常の粗大な感覚をすべて止め、
微細なクオリアの流れに耳を澄ます微細身
(Subtle body)に変成することを第一の目安にしてきた。

プロセス指向心理学のアーノルド・ミンデルは近年特に
センシエントと呼ぶ微細な感覚を鍛えることに重点を置いている。
彼もまた、微細なクオリアを感知する微細覚の重要性に気づいているのだ。

物質やエネルギーなどの粗大な力とは全然別の微細な次元で
生命はクオリアを感じ交感している。
その世界に降り立たない限り、命やクオリアについて
理解することができない。

クオリアの世界に触れようとすれば、
現在の物理学で最小の長さとされるプランク長さの空間で振動している
ひもの振動を実感できる想像力を鍛える必要がある。

ひものサイズは、
1-33m=0.000000000000000000000000000000001
とされる。
クオークの、1-15m=0.000000000000001
というサイズに比べても、さらに千兆倍も小さい。
この桁違いの小ささを実感するのに
ブライアン・グリーンのサイトにいいアニメがある。

ここをクリック

この微小空間で振動するひもの共振パターンによって
クオリアの無限の微細な差異が生まれる。
今日はこの小さな世界の重大さを思った。
その世界を実感できる想像力の大事さを伝えたかった。


皮膚の構造。
一番外側の角質層(青い部分)は死んだ細胞からなる。

2007年11月11日


●命は死によって守られている


単細胞生物と多細胞生物の違いのひとつは、
多細胞生物は死んだ細胞とうまく共振して生きている点にある。
単細胞生物は生きた細胞たったひとつだが、
多細胞生物のからだでは、生と死が絶妙に共振している。

私たちの日常意識は本能的に死を忌み嫌う。
だが、それは私たちの命が死と共振していることを忘れているためだ。
私たちが人にさらして見せている皮膚は死んだ細胞だ。
表皮の第一層、爪、毛、歯、骨は死んだ細胞からなる。
私たちのからだは一面死んだ細胞によって守られている。
紫外線や酸素や渇きなど、生きた細胞にはつらい環境を
死んだ細胞が保護している。

この生死の絶妙の共振に耳を澄ましてみよう。
私たちはいつも死とともに生きているのだ。


ヒンドゥ教の最高神ビシュヌとその妻ラクシュミ。
昨日はこの福の神ラクシュミを祭るディバリだった。

彼らは多形的に変容する。
夢やサブボディが多形的に変容流動するように。
この多形変容性に命と人間を根源で動かす
クオリアの秘密が潜んでいる。


2007年11月10日

●クオリアの多形変容性


昨日はインド最大の祭り、デヴァリだった。
人々は豊穣の神ラクシュミを祝って、
一晩中花火とクラッカーで祝賀する。
日本の福の神十日恵比寿に多くの人が参り、
何億円もの賽銭を投じるのと似ている。

インドの神は、このラクシュミや、
その夫ヒンドゥーの最高神ビシュヌをはじめ夥しい化身を持つ。
仏陀でさえヒンドゥーではビシュヌの第9の化身とされている。
ラクシュミは日本に伝わり吉祥天としてあがめられた。
日本では、権化という融通無碍な化身概念で神仏両道をつないだ。
古代の神話や民話には、これに限らず、無数の変身・化身譚が出てくる。

昔、近代的な自己意識に囚われていたころは、
この融通無碍な権化概念が気持ち悪く理解できなかった。
だから、すべてを遅れた前近代意識の産物として切り捨てていた。
いまも、多くの意識優先の意識に囚われた人々は、
同じようにこれらの現象を切り捨てていることだろう。

だが、それこそ近代自我意識の幼さ、狭さの現われに他ならない。
人間が意識だけではなく、下意識の世界を持つことに気づき、
その豊かな創造性と共振性に満ちた世界を知りはじめると、
その世界が分節的な言語で捕らえられるものではなく、
異質の変容流動する論理を持つものだということが分かってくる。

その世界は、命が感じているクオリア流動からなり、
クオリアは、微細なひもの共振からなるために、
固定した実体を持たず、絶えず共振によって
多系的に変容し、流動しているのだ。

瞑想によってサブボディになりこんでいくと、
それが次から次へと目まぐるしく変容していくものであることが
からだで分かってくる。
古代の神話や、夢、そして、サブボディをつなぐものは
このクオリアの多形変容性にある。
これを掴みきらない限り人間について、
命について、何も分かったことにならない。
重ねて言う。
君は日本にいて今の意識に囚われている限り
命と人間からはぐれ続けるばかりなのだ。





受精後、受精卵は一週間かけて子宮の羊膜にたどり着く、
そして、神秘的な生命共振が胎児と羊膜の間に起こって着床が実現する。
胎児と母の羊膜は別の遺伝子を持っているのに、合体するのだ。
その瞬間を実感すると妊娠のクオリアがつかめる。


2007年11月9日

●女体に成りこむ坑口が開いた


長期研究生の一日授業を受けた。
われわれのからだは微細な共振するひもからできている。
なんと授業は、それを感じながら、
私たちが受精卵から胎児となるプロセスを追体験するものだった。
わたしは、60年前のある日受精卵となって母の膣をさかのぼり、
ようやく一週間後に子宮の羊膜にたどり着いた。
懸命にその受精卵になりこんだ。
受精卵も子宮の羊膜も共振するひもからできている。
7日目に受精卵である私は母の子宮の羊膜にもぐりこみ着床した。
その瞬間、受精卵であるわたしのひもの振動と
母の羊膜のひもの振動が絶妙の共振をして、
受け入れらる瞬間を想像して生命の神秘に打たれた。
なんという絶妙な共振が起こったのだろう!
わたしは熱い感動とともに私を身ごもった22歳の母のからだとなり、
下腹に新しい生命との共振を感じながら灰柱の歩行で歩いた。

わたしは母の踊りを創ろうと13年間試みては失敗してきた。
私がそれを踊らなければならないことは宿命付けられているのに、
いまだに何かが足りずに、母のからだになりきれず、
踊ることができなったのだ。・
それがこの日なんと生まれてはじめて
母のからだに成りこむことができた。
これまでのように女体を形だけでなぞろうとしても駄目で、
受胎における母体と胎児との生命共振の神秘に
女体の本質があるのだと思い知った。

私が自分のからだは生物学的に男だから、
妊娠はできないと頭で決めて試みもしなかった。
男のからだという思い込みが私を封印していたのだ。
その束縛がこの日解けた。
私は大きなものを生徒の授業から受け取った。


ウミユリの走るビデオ。
これほど楽しく驚かされた映像は見たことがない。

2007年11月8日

●走る樹木、ウミユリの花。


「花とは何か」
 世阿弥は言っている。
「花と、珍しきと、面白は同じものなり」
「秘すれば花、秘さずんば、花にあらず」

ウミユリは、普段はただの植物のような振りをして
深海でゆらいでいる。
そして、深夜、海底に埋めていた根のような下半身を
おもむろに抜いて走り出す。
人知れぬその姿を見たとき、
これこそ花のなかの花だと快哉を贈った。
ウミユリさん、
一生に一度はあなたくらいの
花を見せたいと研鑽を積む毎日です。

インドを車やバスで走ると、
道の両脇に数百年規模の大木がざらにある。
彼らがみな根を抜いて走り出す姿をよく想像する。
これもまた、花の中の花だ。







プロテオバクテリアは、
真核生物との細胞共生の道を選んで、
ミトコンドリアに変容し、
すべての細胞に細胞呼吸のノウハウを与えた。
偉大な発明者ほど気前がいいのだ。


2007年11月7日

●最大のライバル

実は、何を隠そう、プロテオバクテリアこそ
私の最大のライバルだ。
嫌気性バクテリアばかりの時代に、
酸素呼吸を発明したプロテオバクテリアのような
発明をすること。
そしてその発明を命に返すこと。
何を大それた、とお思いだろうけれど、
なに、今の人類は自我だの国家だのに縛られて
生命を呼吸することを忘れている。
生命が本来持っている原生力をすっかり忘れている。
生命には自己治癒力があるのに忘れて病院にすがる。
生命の共振力を忘れていがみ合い殺しあう。
生命の創造力を忘れてテレビやDVDばかり見ている。

人類に生命の呼吸の仕方を思い出してもらう方法を発明すれば、
すこしはプロテオバクテリアの大発明の
後塵を拝することはできるだろう。


このお方が生命史上燦然と輝く
呼吸の発明者アルファプロテオバクテリアだ。
20億年前にミトコンドリアとして
真核細胞の中で細胞共生をはじめた。
いまも君のすべての細胞の中で細胞呼吸をしてくれている。

命の気前の良さに感謝。

2007年11月6日

●最善のものを交換し合う関係


サブボディ共振塾の長期研究生は、
自分がもっともうまくサブボディモードに入っていける筋道や、
もっと深めていきたい練習法を日々探し求め研究している。
見つけたらただちに率先して授業を行ない他の生徒と分かち合う。
自分にとっていい練習がほかの生徒にも通用することを知るのは感動だ。
そして、微細な点を微調整して、自分の技法に育てていく。
この関係が生まれてきたことが今年最大の収穫だ。
自分が見つけたよい練習法は、私たちにとって最善の発見物である。
それを私有せず無償に交換し合う。
これこそ創りかった関係だったのだと、思い当たった。
それまでの公演活動をやめて、学校づくりに向かったとき、
私は無意識裡に、踊りを見せるだけの他者との関係に満足できず、
もっと深いほんとうの人と人の関係を創ることを求めていた。

それがこれだったのだと、7年目の今になってわかった。

思い出して欲しい。
生命史上はじめて酸素呼吸を発明したプロテオバクテリアは、
それを私有せず、ミトコンドリアとして細胞内共生することで、
呼吸の発明をすべての命に無償で公開したことを。
最善の発明はただちに命全体で共有する。
これが命なのだ。
ギブアンドテイクなどという生命史上最低の
けち臭い私有性を蹴散らして生きるのが生命だ。





上図は脳細胞でカルシウム濃度の変動リズムが
グリアやニューロンを活性化させ、
生命の一定の傾向が生まれる様子を示している。


欲望が生起するとき、脳の中ではただただ
命が共振を求めてゆらぎ立っている。
自我が利己的な何かを遂行しようとしているのではない。
ただ自我が欲望に囚われると
利己的な欲望しか見えなくなるだけだ。


2007年11月5日


●生命ゆらぎの微細な傾向から始まる


2年ぶりに欲望に関する授業をしてみて気づいた。
欲望というものを、40億年前の生命の最初の発生から
一つながりのものとして捉える必要があることに。

40億年前、生命は
それまでの死の物質世界の中で共振していたひも共振パターンの中に、
生き続けようとするごくかすかな傾向が生じたときに発生した。
その些細な傾向に従い、それを増幅していくと
いわゆる生存欲にまで至る。
この生存欲にごくわずかな傾向が生じて
さまざまな欲望にまで成長した。
快適さを求める快適欲、安全さを求める安全欲、
つながりを求めるつながり欲、そして、
創造を求める創造欲が生まれた。

生命は、その生きようとする傾向から、
さまざまな欲望まで一つながりにつながっている。
生命を肯定的に捉えるためには、
欲望をも肯定的に捉えねばならない。
欲望は私たちの自我にまといつくとき、
とても利己的で厄介なものとなる。
だが、だからといって、古典的宗教のように
欲望そのものを否定する方向では生命を捉えることができない。
生命と欲望は切り離せない。
双方を全肯定する思想を切り開く必要がある。
私は仏教の教えを大変尊敬するし、実に多くのことを仏教から学んだ。
だが、この一点において、私は古典的宗教から離れざるを得ない。


生命の持つ多形的な志向性が欲望の原基に存在する。
2007年11月4日


●欲望も欲望の対象も大事にする


共振語法で欲望現象を捉え続けると、
大きな変化が現れる。
自我や自己が欲望に駆られている状態では、
欲望は利己的なものとなる。
欲望とは命が感じる共振にほかならないのに、
その欲望に自我がまといつくと、
自分の欲望しか見えなくなる。
だが、自我を消して欲望を捉えると、
欲望はただ欲望の対象と
最善の共振関係を取り結びたいだけなのだ。
そして、欲望と欲望の対象があるというのも
自我にとってそう見えるだけで、
本当は両者が対等に共振しているのである。
欲望を大事にすると同時に欲望の対象をも最大限に大事にする。
両者は二つではじめてひとつの共振が成り立つからだ。
それが、共振原理に基づく欲望の本体だ。
欲望が利己的に見えるのは
単にわれわれが自我に囚われているからに過ぎない。
利己的な自我を投影すればあらゆるものが利己的に見える。
ひところはやった「利己的な遺伝子」という概念も
その人の利己的な自我を投射しているからそう見えるにほかならない。
共振原理を学んで、自我の曇りを払えば、
利己的なものなどどこにもないことに気がつく。
自我が欲望に捉えられて、利己的になりそうになったとき、
自分が欲望に囚われていることが透明に見えるようになってくる。

長い道のりになるだろうけれどね。
私はこの共振の原理の気づきを
粘り強く人々に伝えていくつもりだ。
自我に囚われた人に簡単に分かってもらえないのは
分かりきっているから、
いくら時間がかかってもへこたれることはないさ。





共振には主体も客体もない。
どちらからともなく共振が起こる純粋に対等な世界だ。
上のひもたちをじっくりと眺めてほしい。
超微細空間でひもたちは振動している。
実際にはひもとひもの間に上の図のようなスペースは開いていない。
互いがもっと入り組みあっていて、
ひとつのひもの振動は直ちに隣のひもに影響する。

この共振世界を真に学ぶには私という主語のない
<共振語法>を身に着ける必要があることに気づいた。


2007年11月3日


●共振語法を学ぶ

いままでなぜ、うまく欲望を扱えなかったのか、理由がわかった。
欲望現象を、「私が欲望する」というかたちで捉えてしまっては、
自我や自己という幻想に囚われたまま、欲望を扱うことになって、
命に起こっている欲望という現象に透明に触れられないからだった。
欲望を透明に見ようとすれば、自我や自己を発想の中心に置かない
<共振語法>を新しく学ばねばならないことに気づいた。

共振の世界には主体も客体もない。主も従もない。
どちらからともなく共振が起こる完全対等な世界だ。
この世界は自我にはなかなか理解しにくい。
だからいったん、私という主語を使わずに
すべての欲望現象を眺めることから始める。
「○○と△△がこういう共振をしている。」
――これが共振語法の原型だ。
食欲がありそうなときは、
「私の命と食物が共振しようとしている」と捉える。
あくまでも主体は共振であり、その無限のバリエーションだ。

それで少しは欲望が透明に見え出す。
この訓練をしばらく深めるつもりだ。




共振には主体も客体もない。
どちらからともなく起こる純粋に対等な世界だ。


2007年11月2日


●すべてを<共振>の観点から見直す

物理学のひも理論によれば、宇宙のすべての事象は
微細なひもの共振パターンの変化によって生成している。
このことは、命について考究すればするほど、
共振抜きに何も語れないことが分かってくる。
命は外界のあらゆるものとの共振のクオリアを
制御することで40億年も生き延びてきたのだ。

だが、これを言葉で捉えようとすると、
言葉に染み付いている主語述語構造が妨げる。
命に起こっている事象はすべて
命と外界のなにかが共振しているに他ならないのに、
言葉にすれば、私が見るとか、私が感じるとかと、
自己中心的な表現になる。
共振とは主体も客体もなく、どちらからともなく起こるものなのに、
主語述語から脱却できない言語構造はそれをゆがめてしまう。
そうすると本当に起こっている共振の実態を捉えそこなう。
人類はこの主語述語の二元論に染め上げられた言語思考に
束縛されているおかげで多くのものごとを誤解してしまう。
本当は人と人は対立などしていない。
わずかな共振パターンの違いが多様にあるだけであり、
人と人はその多様性を楽しめばいいだけなのに、
言葉を使うとあたかも自己と他者が対立しているかの
幻影に囚われてしまうのだ。

人類は何千年かけてでも
この自己が世界の中心であるという思い込みから、
そして主観的言語の囚われから、
脱却しなければならないだろう。


世界像と自己像を統握する座は、
体感野(赤)と運動野(青)の境界の付け根、
あらゆる部位に連絡しやすい脳の根幹部に位置する。

だが、自分の脳にそういう働きがあることさえ知らない脳研究者が多いため、
この座の存在を知る脳研究者は驚くほど少ない。


2007年11月1日


●世界像=自己像チャンネルからのメッセージ


生徒の一人が今週はどうも変だという。
「週の初めから自分のからだが自分でないようだ。
自分は自分の外から自分を眺めている感じだ。
サブボディにもなりこめない。……」

そういうときこそ、命が一番大事なメッセージを
届けようとしているときだから、
じっくり聞き込むように、と伝える。
そう、それはおそらく、世界像と自己像が
どこかでちょっとずれているというメッセージなのだ。
もっとも大事な問題に気づけていないとか、
すっかり忘れ去っていることとか、
意外な内視盲点のようなものが、しきりと
私に気づいてくれと訴えかけてきているのだ。
それは大概非常に気色の悪い妙な体感としてやってくる。
ただ、何かがうまくいっていないというかすかに不快な感じとして。
普段の日常体なら無視してまたぎこすのだが、
サブボディに耳を澄ます訓練を半年をして来た生徒だから、
きっちりかすかな異変キャッチすることができるのだ。

それがどういう問題かは明らかになるまで分からない。
ただただ耳を澄ませ続けることだ。
わたしもかつてそのような妙な体感が、
とんでもない大事な気づきのやってくる
前触れだったことが何度もある。