January 2008

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2008年1月12日

●方法の問題B[共振原理]

あらゆる現象を共振の相において捉える




何ものか別の命や非生命体になりこむことは、
そこで起こっている共振になりこむことである。
どういう共振が起こっているのか、という観点から
すべての現象を捉えかえす。
それによってすべての現象がそのもっとも根底的な
共振の相において透明になる。
たとえ意識にとっては主客、上下、内外、自他、正誤の
二項関係で受け取られる現象も、
その根源の共振の相において捉え返すことが重要である。
近代の言語意識は、共振を見落とすことによって
世界を主語述語の二元構造に低次還元して誤解してきた。
その低次還元法は、ついに二進法の発明によって現在の
コンピュータを実現してきた。
それは私たちにとって豊かな財産であるには違いない。
だが、いまは、それを超えて、非二元かつ多次元変容流動世界への
新しいアプローチが必要とされているときなのだ。
私たちの日常意識は限りなくこの二元論に侵食されている。
頭から尻の底まで、観念から感情まで、
二元論的幻想にどっぷりつかりこんでいる。
それを脱するのは並大抵のことではない。
困難の原因のひとつは、
意識が下意識に比べて何百万倍も強い点にある。
実際に命が感じているクオリア共振は、
意識が感じるものに比べて何百万倍も微細である。
私たちの下意識がクオリアを感じるとき、
ひとつのグリアとひとつのニューロンの共振が
最低限の単位になる。
クオリアは単細胞生命が感じているものが基礎になるからである。
だが、ひとつの言語的認識が成立するためには、
大脳のニューロンネットワークが、左右脳に渡って
何百万、何千万ものニューロンが同時発火しなければならない。
言語を使った思考を何時間も持続するためには、
ニューロンネットワークの同時発火のパターンを
無限に切り替えつつ持続することが必要になる。
生命体が使うエネルギーの大部分を
その発火の連続に使用しなければならない。
いきおい、下意識で、すなわちニューロンとグリアの間で
非電気的シグナルによって交わされている微細なクオリアは
意識レベルではマスキングされて感知することができない。
何百万倍も強い言語意識のシグナルの中で、
その何百万倍も微細なシグナルは意識から消え去ってしまうのだ。
意識を維持するためには、その基底で脳細胞の生命が感じている
微細なクオリアをまったく切り落とさなければならなかった。
とりわけ、近代西洋社会では自我意識を優先しなければならない
圧力が人々の生命を圧倒し、意識と無意識の乖離が起こった根因である

ゆらぎ瞑想によって、動きながら意識を止め、
未分化な全チャンネルのクオリア流動を全脳心身で体現する
サブボディモードになることによって、
この意識と無意識の近代的乖離から脱し、
意識が無意識的に捉える二項論理の幻想から自らを解き放ち、
命と世界の間で起こっている生のままの共振を体現することができる。

私の方法は、
たとえ、われわれの意識に主客や善悪のの問題として映るとしても、
それは多次元共振という複雑な現象をあるひとつの観点から
切り取った一面的な見方でしかないと転倒し続けていくことにある。
意識が二元論幻想に囚われるのはわれわれの命が
現代社会からそうあらねば人間としてやっていけないという
強烈な圧力を受けて変形してしまっているからである。
意識やエゴは近代社会に生きるわれわれを覆っている
もっとも強力な普遍的<元型>である。
意識が受け取る二元的幻想を、生命の非二元のレベルから
転倒するのである。
それを通じて、はじめて二項論理に囚われたツリー世界の現実と、
リゾーム状の多次元共振の生命世界との両方を
自在に往還する透明な知性にたどり着けるのだ。

以上は、今書き進んでいる「透明論」の短い予告編のようなものです。
この冬中に書ききれるかどうかわかりませんが、
そのエッセンスだけはお伝えできたと思います。


「ツリーリゾーム論理」創成の課題

サブボディ同士は一緒に動くことで、共振するサブボディ、
すなわちコーボディに変容し、互いに生命のクオリア共振を
味わいあうことができる。
その中で自他、内外、心身、類個の枠組みを超えた
クオリアの超伝導状態のようなものが出現する。
これを体験してしまえば、
自我を超えるとは何か、生命になるとは何かが
わずらわしい説明抜きにじかに体得できる。
そのサブボディ・コーボディ劇場は、
これまでの演者と観客が二分された近代の劇場のスタイルではない
別の形態を創出する必要がある。
近代劇場の観客席に日常自我を運んで自我が求める楽しみを期待し、
それが得られなければ遠慮なく批評する自我を砕破し溶融する
坩堝のようなサブボディ・コーボディ劇場を創出すること。
――これはまだ実現されていない。
ここヒマラヤでも追求しているが、それだけではなく、
サブボディ共振塾で学んだ人が、公演やワークショップを
していく実践の中で見出していってほしい。
劇場を実現したとしても、小劇場にやってくる人々を超え
さらに遠くの人にも、サブボディ=コーボディの
醍醐味を伝えるためには、新しい言語を発明しなければならない。
――これもまだ実現されていない、今後の課題に属する。
特殊なサブボディ=コーボディ状態でで味わっているものを、
それを体験したことのない人に伝えるためには
どういう言語を使用しなければならないのか。
通常の主客、自他の二元論にとらわれたままの
言語ではそれを伝えることがができない。
非二元世界の体験を伝えるためには、
常に新しい共振言語を発見し、創発しつづけることが必要だ。
いきなりありきたりの言語に翻訳しないで、
じっくり、命が感じているクオリアに
もっともぴったり来る共振言語が見つかるまで待つ。
夢の中では思いがけない変容がしょっ中起こる。
イメージの圧縮や置換、時空の変容が起こる。
それを伝えるためにはとびきりの直喩や暗喩の発明にかかっている。
時間をかけ、ゆっくりゆっくり
うまく伝わる言語が出てくるまで気長に待つ。
その中で、これまでの言語のツリー論理と
非二元かつ多次元のクオリア変容流動のリゾーム原理を
つなぐ「ツリーリゾーム論理」を創出する道を探す。
われわれは原理の異なる両世界の間の自在通訳者になる必要がある。

――ここから先は、方法原理の枠を超え、
「透明論」本文の課題となる。
また、知だけではなく、共振塾内外の実践を通じて始めて
見えてくるものも数多くひそんでいる。
今しばらくお待ち願わなければなりません。

――まだ未整理だが、これらがこれからの新しい知の形態、
すなわち、近代の非対称的知性と、古代の対称的知性とを統合し、
両者を自在に往還することのできる、
来るべき「透明知」を切り開く基礎になる。

2008年1月12日

●方法の問題A [クオリア原理]

からだごとなりこんで全チャンネルのまるごとクオリアからつかむ


4次元時空にはさらに7次元の微細空間が折りたたまれている。
命とクオリアはこの微細次元で共振している。

第一の「生命原理」に続く、第二の方法的原理は、
「クオリア原理」である。
原初生命は、40億年前の地球で、
物質のひも共振パターンが単なる物質を超えたときに発生した。

どう超えたのか。
他の物質をクオリアとして感受することのできる
ひも共振パターンが発生したのだ。
物質を構成するひも共振パターンも互いに共振しあっているが、
その共振パターンの中から、
自己の存続に役立つ共振パターンを選ぶことのできる
ひも共振パターンが現れたとき、生命となった。
生命は他の物質との間で生じる共振パターンの記憶を
微細次元でクオリアとして内部に保存することができた。
ひも理論によれば、
宇宙はわれわれの知る粗大な4次元時空のみならず、
微細な次元に巻き込まれた7次元の微細空間を含む11次元からなる。

ひも理論のエッセンスを読む(日本語サイト)

エレガント・ユニバース(英語サイト)

クオリアはその微細な次元におけるひも共振パターンの微細な差異を
生命が感知することを通じて、
生命とともに同時に共振的に生成する。
生命もクオリアも、
物質やエネルギーが属する粗大な4次元で生成するのではなく、
微細な7次元を含む11次元において生成する。
生命の発生を単なる物質過程として捉えようとする
これまでの試みが成功していないのは
微細次元という生命の真のありかを
その方法に繰り込めていなかったからである。

生命がクオリアを感知するとは、
実際に外界の物質から受けた微細次元での共振パターンの変化が
生命の中に入りこむことであった。
たとえば、原初細胞が太陽の光を受けたとき、
生命内部のひも共振が日光と共振してわずかに動きが速くなる。
そのわずかな変化を生命はクオリアとして感知し、
細胞内部の微細次元に内クオリアとして保存した。
光や熱などのエネルギーだけではなく、
外界の水や空気、自己を再生産するに役立つ物質の組成などを、
生命は感知し、細胞内に保存した。
それらの内クオリアのうち、重要なクオリアは
DNAあるいはその先駆形態と見られているRNAの
遺伝子内に書き込まれ、細胞分裂の際に
次の世代の個体細胞に受け継がれていった。
現在の科学では、「遺伝情報」と呼ばれているが
それは間違った捉え方である。
クオリアと情報は根底から異なるものである。
情報はコンピュータなどの機械によっても取り扱えるが
クオリアは生命だけにしか取り扱えない。
生命とクオリアが共振的に生成するとはそういう意味である。
機械はどんなクオリアに出会っても共振することはできない。
人間がクオリアを機械にでも扱える情報に変形して
与えることによってのみ機械は作動する。

私の第二の方法は、あらゆるものを情報としてではなく、
クオリアとして捉えることにある。
クオリアは生命にしか扱えない。
あらゆるものに生命として微細なクオリア共振を通じて接すること。
生命が感じ、使っているクオリアは
私たちの脳において、言語に変換される。
言語は機械にも取り扱える情報である。
現代の私たちの意識は、
自分が直接言語を使って思考していると取り違えているが、
その自己誤解は脳内でクオリアが言語に変換されるときに
そのもとなったクオリアが自己意識から捨象されるからである。

クオリアを捉えるためには、この言語意識を止める必要がある。
ゆらぎ瞑想を通じて、言語意識優先の意識モードから、
その基底でクオリアを感じ流動している下意識モードの
からだになって捉える。
下意識モードのからだのことをサブボディと呼ぶ。
下意識ではからだと下意識は別のものではなく
一体となっている。
頭で考えるのではなく、
すなわちいきなり言語で考えるのではなく、
命が感じているクオリアにからだ全体でなりこんで捉える。
もっと正確に言えば生命とクオリアの共振を体現する
サブボディになりこんで捉える。
微妙にゆらぎ、動き、流れつつ変容する
微細なクオリアの非二元かつ多次元のゆらぎの中に
からだごと入り込むサボボディとなることによってよってのみ
命とクオリアを直接捉えることができる。

では、このからだで捉えた命とクオリアの共振を
どう人に伝えることができるのか?
そのためには、多次元で変容流動するクオリアを、
言語に低次元変換することが必要である。

明日は、その技法を、
第三の方法原理である「共振原理」において述べよう。


10分でひも理論が分かるビデオを見る

2008年1月10日

●方法の問題@ [生命原理]

原初生命の根源から捉えなおす



からだの闇には無数のレベルの問題が多次元的に渦巻いている。
その闇にもぐり続けているうちに、わたしはほかの誰もが持たない
私独自の方法を見出していることに気づいた。
その方法は、生命、クオリア、共振、意識、下意識を貫き、
からだ、動き、映像、音像、情動、対人関係、世界像=自己像、
そして思考などすべてのチャンネルを貫通し、
ひとつながりの全体として捉える方法だ。
一言で言えば、あらゆる生命現象、人間に関する問題を
全体として捉え、その中のすべての関連を透明に見透す方法だ。

十数年間踊りながら「透明論」を書き進める中で
自ずから闇を掻き分ける方法を切り開かざるを得なかった。
今、わたしの方法の独自性がかなり明瞭になってきた。
それをメモとして書きとどめておきたい。
日本へ3週間ビザの更新のため帰らなければならないので、
これが今月最後の「ひらけ」になる。
しばらくこの方法で走りぬくつもりだ。
その方法は次の3点に集約できる。

1.[生命原理] : 原初生命の根源から捉えなおす
2.[クオリア原理] : あらゆる生命現象にからだごとなりこんで、まるごとクオリアからつかむ
3.[共振原理] : あらゆる現象を共振の相において捉える

今日はその第1点目について記す。

1.[生命原理] : 原初生命の根源から捉えなおす

意識や無意識、心、クオリアなど人間に関する
未解決の「難しい問題」を捉えるためには、
それを原初生命のもっとも根源的な
発生の姿において捉え返す必要がある。
そうすることによってはじめて、、
ひとつながりの全体として理解することができる。
心や意識とは何かを捉えようとする現代の科学者は、
複雑な人間の意識のみをいきなり対象化しようとしている。
たとえば、かつてワトソンとともにDNA螺旋を発見した
クリックはその後コッホとともに意識の解明に向かったが、
かれが始めたのは脳の視覚野の研究からだった。
それがもっとも彼にとって取っ付きやすかったのだろうが、
そんな高次な分野からはじめたのは根底的な間違いだった。
また、多くの脳科学者は、ニューロンネットワークの研究に携わってきた。だが、かれらがみなしているように
ニューロンネットワークが意識を生み出すのではない。

人間の意識といえ、脳のグリアとニューロンという
一個一個の単細胞たちが支えている。
意識は原初の単細胞の生命が感じていた
微細なクオリアのふるえにその最小の起源を持つのだ。
アメーバやバクテリアの命が感じているクオリアとは
どんなものか、そこで起こっていることは
私たちの脳細胞で起こっていることと原理的に同じはずだ。
人間の意識は、私たちのからだを構成する60兆の細胞が感じている
微細なクオリアが共振して生成している。
60兆分の一の個々の細胞が感じているクオリアとはどんなものか、
そこから始める必要がある。

原初の生命がどう外界と共振し、どんなクオリアを
捉えていたのかという根源からの理解なしに
人間の意識だけを捉えられるわけがない。

日本のクオリア研究の草分けとなった茂木健一郎もまた、
下意識や無意識の領域の研究をすっぽかして、
いきなり意識を捉えようとしているが成功していない。
かれはおそらく、下意識や無意識の重要性に
気づいてさえいない。
クオリアを人間の意識だけが感じるものと捉えるところに
根源的錯誤がある。
あらゆる生命がクオリアを感じている。
クオリアを通じて生命をコントロールしている。
そう生命の根源から捉えることで、
下意識の言語であるクオリアをも捉える道筋が開いてくるのだ。

そこで、つぎにクオリアを捉えるには
どういう方法があるかが問題になる。
頭で考えてもアメーバや粘菌が感じているクオリアは
人間の荒い意識にとっては微細すぎてつかめはしない。
第二の方法は舞踏者ならではのなりこみの方法だ。
それについてくわしくは明日述べることにする。



2008年1月9日

●音像チャンネルのマルチ連動性


毎朝のゆらぎを続ける中でからだの中を
心地よいまるごとのクオリア流が流れるようになったら、
喉をゆるめ、呼吸とともに体腔から自然に出てくる
音像流に従うとよい。
コツは習い覚えた人間の発声法に囚われず
生きものとしての声を出すことだ。
鯨かイルカになりこんでからだから出てくる音を聴く。
わたしは世界中を踊り歩いていたとき、
鯨の声とともに踊り続けた。
ポール・ウインターが録音した鯨の声と共振し続けた。
命の声を出すと、音像チャンネルが、
映像や動きのチャンネルに比べ
呼吸を通じ、より緊密に体腔内の内臓の状態や深部のクオリアに
連動しているという特性が発揮される。
よりまるごとの未分化なクオリア流に触れることができる。
顔の筋肉をゆるめ、かすかな情動のゆらぎや変化に応じて
顔を自在に変形すると、情動−感情−関係チャンネルなども
開いていき、なお面白い音像を楽しめる。
誰のからだの闇にも、自由自在に変容流動している
創造的なクオリアが満ち満ちていることを
実感できるのはこのときだ。


 ポール・ウインターの録音した鯨の声を聴くには左の△をクリック


2008年1月8日

●アート舞踏譜


昨日、オアンダの美術家・ラウラから彼女の作品を送ってもらって
眺めているうち、絵心がむくむくと掻きたてられてきた。
私は中学・高校と美術部にも属していたのだ。
(も、というのはほかにも、文芸部、社会科学研究部、
陸上部などにも入っていたからだが)
長らく絵を描くことはなくなっていた。
だが、共振塾では定期的に絵を描いてきた。
瞑想し、通常はからだのチャンネルに出てくる
サブボディの動きを映像チャンネルに翻訳する。
そして、ほかの人の絵に音像チャンネルで入っていって
声を出したり、動きにしたり、
サブボディはもともと全チャンネルが未分化で
一体となったまるごとチャンネルで動いているため
どのチャンネルに翻訳することも可能なのだ。

土方は膨大な言葉による舞踏譜を残したが、
同時に何十冊もの絵画の切抜きを貼り付けた
スクラップブックを残している。
今日はふと思いついて、
フランシス・ベーコン、ハンス・ベルナール、
ヴォルス、ゴヤ、ルドン、ターナー、ダリ、ピカソなど
土方のスクラップブックに出てくる画家たちを
Googleで画像検索してみた。
面白いようにさまざまな身体変容のイメージが続出してきた。

わたしはこれまで踊りを創るとき
言葉も映像イメージも使わず、
からだの体感チャンネルのゆらぎに従うだけで
創ってきたが、人によっては、言葉や映像と共振しながら
創っていくのが向いている人もいるだろう。

そういえば私も時々は特異な異次元変容を描いた
ロベルト・マッタの絵を見せたことがあったが、
これからはもっと積極的に絵画イメージを
使っていく方法もありそうだと気づいた。

これまでの「今月のアート」ページを、
「今月のアート舞踏譜」へと変容充実していく案がふと転げ出てきた。
それはやがて、言葉や音像とも絡み合って
「マルチチャンネル舞踏譜」が生成されていくだろう。
どんなものになるか、楽しみだ。




2008年1月7日

●クオリア海の航海




日常意識を止め、心地よいゆらぎの世界に浸されていくと、
やがて、無限にたゆたうクオリアの海に出る。
そこは、分別知に囚われた日常世界とは異なり、あらゆるものが境界を越えてたゆたう世界である。
そこは、非二元かつ多次元変容流動の世界である。
内外一如、自他一如、心身一如、類個一如、対称性の原理が支配する世界だ。
’いまここ’の現実に、’どこでもない異次元’が隣接し、時を超えて開畳する。
多くの芸術家、踊り手、哲学者、瞑想者がその世界に入り、そこが限りない創造性の宝庫であることを発見してきた。
シャガール(上)は、時空を超えたその世界を描き続けた。
土方巽はその世界にもぐり、生死の境でゆらぐ舞踏を発掘した。
哲学者のミシェル・フーコーは、近代の分節的な知性のすぐ2、300年前の時代には、類似の法則によって動く別種の知性の時代があった知の地層を『言葉と物」で掘り出し、今の知の形態はすぐ次の別の知の形態に取って代わられるだろうと予測した。
哲学者のジル・ドゥルーズはその新しい世界の原理を、リゾームとして見出した。ツリー状の上下、内外、善悪の桎梏に封印されたこの現実を破る希望の原理を提示した。
精神科医のマッテ・ブランコは、分裂病者の研究から、対称性の原理を取り出した。部分と全体が一致し、非空非時の多次元構造を持つその原理は私たちの無意識の世界と分裂病者の世界の共通性を見出した。
芸術人類学の中沢新一は、古代の神話がその対称性の原理に貫かれていることを捉え、人類が再びその対称性の原理を取り戻す大きな歴史の流れを切り開こうとしている。
ミンデルとジェンドリンは、かすかな体感に耳を澄まし、センシェントなフェルトセンスを捉えることが、その世界に入る坑口であることを発見し、すでに長い坑道を掘り進めている。
上記の人々はみな、クオリアの無限の海を航海するサブボディ・メソッドの先駆者たちだ。
非二元=多次元変容流動のクオリアの海の航海術も、
ずいぶん深化充実してきた。
十数年前に無手勝流で単独潜水を決行し、
ずいぶんひどい目にあった私のような愚は
繰り返さないですむようになってきた。
やっと安全に無限の創造性の宝庫に近づける時代が始まった。
この希望の海へ大胆に漕ぎ出そう。



2008年1月6日

●立ちゆらぎのすすめ

冬になるとからだが硬くなる。
そうなると動くのがおっくうになり、
いきおい思考チャンネルだけが開く日常体モードに引き込まれやすい。
毎朝、日当たりのいい場所か、火のそばなど暖かい場所を見つけて
立ったまま一時間ほどゆらぐとからだがいい状態になる。
このごろはここも少し寒くなってきた。
といっても日中の室温は15度を切ることは少ない。
わたしもこのごろよくやっている。お勧めです。

1 立ちゆらぎ

一番心地いい場所にゆったり立つ。
膝をゆるめ、少しずつゆらぎだす。
前後左右に小さくゆれる。
タツノオトシゴのように立ち泳ぎしているイメージがいい。
想像上のしっぽが誰かにゆすられるのでゆらぐ。
時計の文字盤の十二方向にゆらぐ。
膝からゆらぎ、腰からゆらぎ、胸からゆらぎ、頭からゆらぐ。
ゆらぎを始める場所が変わると受ける感じが少し変わる。
その微細な差異をあじわう。
どこからゆらいでもからだの前後左右斜めの筋が伸び、
なめらかにゆらげるようになるまで硬い場所をなくしていく。
誰かに尻尾を回されるので、からだも回る。
最初は直径10センチの円、30センチの円から50センチ、
1メートルと最大まで拡大していく。

2 各チャンネルを開く

体感チャンネル

ゆらぎながら、からだの各部の体感が変化していくクオリアを聴く。
はじめの硬いからだのクオリアから、
じょじょに柔らかくなり、次第に液状化していくとき、
どんな変化を感じるか、微細な差異を味わう。
もっとも心地よい流体化したからだになるまで続ける。
からだが流体化すると、心身にどんな変化が起こるか、
じっくり味わう。
その変化が毎日の楽しみになるまで続ける。

運動チャンネル

さまざまな仕方でゆらぐ。
ゆらぎが始まる部位を変えていく。
足裏からゆらぐ。膝から、腰から、胸から、頭からゆらぐ。
ゆらぎの次元を変える。
水平にゆらぐ。矢状次元にゆらぐ。戸板次元にゆらぐ。
時計の文字盤の12方向にゆらぐ。
速度を変える。もっともゆっくりした速度から、
すこし速める、遅らす。
最後は心地よくランダムにゆらぐにまかせる。
からだがその日のもっとも心地よいゆらぎを
勝手にみつけていくのに従う。
ときに動きを止め、体温や、硬さや、心拍や、血流、血圧の
変化に耳を澄ます。

映像チャンネル

じょじょに目を閉じていく。
半眼から完全に閉ざすまでさまざまな明暗でゆらぐ。
口をゆるめ、暗くなるにつれて意識モードから
下意識モードに変化していくプロセスを味わう。
どうすればもっとも心地よくサブボディモードになれるか、
研究しながらゆらぐ。

音像チャンネル

さまざまな呼吸でゆらぐ。
体底呼吸、複式呼吸、胸式呼吸でゆらぎ、違いを味わう。
口と喉をゆるめ、自然に起こる体腔音に従う。
自然な心地よい音像流がでてくれば、それについていく。
日によって出てくる音像流が変化するのを楽しむ。

情動チャンネル

ゆらぎながら、からだの状態に応じて、
からだを流れるかすかな情動シグナルが変化するのを微細に味わう。
どんなゆらぎのときに、気持ち悪い情動が感じられるか?
心地よい情動に満たされるのはどういうときか?
記憶や情景が出てくればそれを楽しむ。
ゆらぎにつれて、からだの流体化につれて
封印されていた記憶や情動が流れやすくなるのを感じる。


3 生命史をさかのぼる

ゆらぎながら、じょじょに人間から、
より原生的な生命のクオリアの味わいかたになりこんでいく。

人間の意識モードのクオリア

人間は大脳皮質で味わうクオリアがメインになっている。
通常の日常意識では、自分がクオリアを味わっていることが
等閑視されている。それをじょじょに破り、
言語意識の基底部でどうクオリアを感じているか、
注意深く観察する。
その場で感じているクオリアと、
脳のグリア細胞に保存されている記憶や夢などの
内クオリアとが共振しているのを感じる。
いまここではない時や場所に関する
内クオリアが奔流してくればそれに任せる。
下意識モードへの坑口が開いたことになる。

下意識モードのクオリア

ゆらぎながらじょじょに意識レベルを落としていく。
どういう変化が起こるか?
命が感じている微細なクオリアが少しずつ鮮明に
感じられるようになってくる。
下意識モードの心地よさの中で、
クオリアの海に浸る。
このとき、意識下では、大脳辺縁系や視床下部、脳下垂体と、
からだの各部の細胞との間で、ホルモンや神経ペプチドなどの
神経伝達物質を通じたコミュニケーションが行われている。
そのクオリアが情動としてからだからこみ上げてくる。
ドーパミンの快感、アドレナリンの興奮、セロトニンの落ち着き、
オキシトシンの親しみ、エンドルフィンの恍惚などが入り混じりあった
複雑なクオリアが意識を通さず、
上記の脳の深部と各体細胞のあいだで交わされている。
それをごく微細な体感の変化を通じて味わう。

動物段階のクオリア

獣や鳥などの動物は、大脳皮質よりも、脳幹や小脳などの
もっと本能的な反射でからだを統御している。
ゆらぎを深め、バランスを崩しそうになると、
からだが勝手にバランスを取っているのを感じる。
小脳の姿勢制御や運動制御の働きを味わう。
さらに、脳幹部で心拍や呼吸など循環系の生命機能が
コントロールされているのを感じる。
これらの深層クオリアは、大脳皮質とグリアとの相互作用ではなく、
脳幹や小脳と体細胞との直接の相互作用で行きかっている。

多細胞生物のクオリア

ゆらぎながら、仙腸関節や胸鎖関節を開閉しながら、
少しからだをしぼめ、より下等な多細胞生物になりこんでいく。
脳や脊髄神経が未発達な生物、やさらに下等な散在系の神経しか
持たない生物、アメフラシや貝などの生き物の
それぞれの細胞がどうクオリアを感じ、
交換しているのかを想像し、からだで味わう。

単細胞原始生物のクオリア

からだをさらにしぼめてゆらぎつつ
単細胞生物や、誕生間もない原始生命になりこむ。
細胞はたとえば日光を受ければ原形質が温まり、動きやすくなる。
冷えれば動きにくくなる。
原始生命はこのからだの状態や動きの変化そのものによって
クオリアを感じている。
高等生物のように行為と認識が分裂していない。
それは一個二重に一体化している。
この非二元状態の生命とクオリアの共振を感じる。
これがおそらく、もっとも根源的な
生命とクオリアの関係なのだ。
そして、本質的な関係であるといってもいい。
いまでも、人間の60兆個の個々の体細胞や、脳細胞は
このように一個二重のやりかたでクオリアを感じているはずである。
細胞レベルではクオリアを感じれば
細胞自体の状態が微細に変化する。
単細胞生物に起こっていることは他人事ではない。
われわれは60兆個の単細胞の集合体であることを瞑想する。

関連・生命遡行瞑想

2008年1月5日

●二元論を超える


わたしがつかんで離さないひそかに大事にしていることがある。
それはふっとかすめるいやな体感だ。
負の体感のなかには、必ずそれと逆の最善の要素が
小さく折りたたまれて秘められているということだ。
生まれてからおびただしい負の体験をして打ちのめされてきたが
その中からかならず、なにか拾って起き上がってきた。
わたしの中身はこけたときに拾ったものばかりだ。
特に今日の『からだの闇』に書いたような
「なにかわけが分からないがうまく行かない」という
いやな体感の夢は最も大事にすることにしている。
その体感こそは、いつも命あるいは自分のサブボディさん、
下意識さんがもっとも大事なことを
伝えようとしてきているものだからだ。
命の世界は善悪上下に分別された低次元世界ではなく
カラビヤウ空間(「共振論第7章」参照)のような
複雑な多次元時空だからだ。
その11次元j空を上のような複雑な形をしたひもが
共振しつつ伸縮しつつ振動している。
絶えず、上が下になり、内が外に反転する。
そういうところでよいも悪いもない。上も下もない。
すべて宙返り、裏返り、変容流動している。
それが世界の実態だ。
いやな体感だからと、日常意識の二元論的判断で
その負の体感を排除してしまうと
湯水と一緒に赤子を流してしまうことになる。
日常のカチカチの価値観に縛られて生きることほど馬鹿らしいことはない。
それは命をどぶに捨てるようなものだ。
負の体感クオリアこそ最大限の富だ。
正負は絶えず反転する。天と地が入れ替わる。
とんでもないこと、予想できないことが相次ぐ。
毎日そういうしなやかなからだになって動き続ける。
それが命とコミュニケートするコツだ。
命の持つ底知れない創造性を開くコツだ。
いいかい? 
わたしは机の前に座り続けてこの文章を書いてなどいない。
絶えず、十分か二十分ごとに日と踊りして
からだの裏表をひっくり返しつつ書いている。
からだの創造性を全開し続けるんだ。




2008年1月4日

●言葉を止め、クオリアを味わう


私たちが生命を理解しようとか、
生命に触れて生きようとすれば、
言葉を使った分別知の世界から別れねばならない。
なぜなら、命はそのもっとも原始的な形態にある
単細胞生物でも持っているものである。
かれらは、分節的な言語を使わない。
別のやり方で世界を理解し、世界と相互作用しながら生きている。
命を理解するには彼らとわれわれをつなぐ
共通なものを捉える必要がある。
単細胞生命と人間をつなぐ共通な
性質とはクオリアを使うことである。
クオリアとは命が感じるすべてのものだ。
感覚質とも呼ばれる。

毎朝、ゆらぎながら単細胞生命になりこむ。
彼らに合わせて、言葉を使わず、クオリアだけを感じるようにしてみると、
少しは命というものに近づける。(参照・生命ゆらぎ)
からだ感じている重さや、温度、硬さ、気持ちよさなど
からだの各部の微妙な体感に耳を澄ます。
頭の中で無意識に言葉が立ち上がってくると、すぐに止める。
それは慣れるまでなかなか容易ではない。
だが、命に触れるためだ。少しがんばってほしい。
慣れてくると、自分の頭のなかに言葉を使った思考が自動的に立ち上がってくる瞬間を捉えることができるようになってくる。
言葉を外から映画のように見ることもできる。
そして、言葉を止めた後に
命が感じているクオリアだけを純粋に味わう。
何を感じているかなど、
ことばで説明しようとすると台無しになる。
言語意識を止め、クオリアを味わう。
これが命に近づく、第一の坑道だ。
2008年1月3日

●からだほぐしからはじめること


朝目覚めたとき、寝ている間に硬くなった背骨や関節を
ゆらいでほぐすことからはじめる。
百丹三元や時計ゆらぎがよい。
心地よく甘い体感がからだ全体に満ちるまで続ける。
忙しさにまぎれて、これをしないで一日をはじめると、
結局一日を損失する。
からだや動きのチャンネルが開かないまま一日を過ごすと
その日は発想も硬く、いい考えも出てこない。
なぜか?
一日のはじめに、からだをはじめすべてのチャンネルを開くことで
はじめて、まるごとクオリアに触れることができる。
からだのチャンネルは命にとってもっとも原生的なチャンネルだから
その他のすべてのチャンネルを開いていくキーになるのだ。(参照)
逆に頭の思考のチャンネルはもっとも高度に分化したチャンネルだから
そこからはじめると、分化が基調になり、他のチャンネルをふさいでしまう。
面白い発想やひょんなアイデアなど、下意識の創造性は
チャンネル未分化な、まるごとクオリア流の世界から出てくる。
からだや動きのチャンネルを開かない日常体のまま一日を過ごすと、
下意識の創造性を閉ざしたまますごすことになり
結局、貧しい一日になる。
朝の小一時間のゆらぎがとても大切なのは
そのためなのだ。



2008年1月2日

●命を分有して生きている


現代人は命を自分の持ち物だと思っている。
真っ赤な誤解だ。
命は40億年前の発生以来切れ目なく続いている。
無数の種に分化し、無数の個体に分かれているが
すべての命はひとつながりにつながっている。
つまり個人のもちものなどではない。
では何なのか。
命は40億年をとうとうと流れている巨大な潮流だ。
私たち個体はその流れの一部をたまゆら分有している。

分有という概念は、
昔レヴィ・ブリュルの『未開社会の思惟』という
書物ではじめて知った。
未開社会の人々は<分有の法則>(Low of perticipation)
というものに従っている。
世界のすべてを分け持っていると考えている、という。
現代人の命を私有物だと考える考え方などより
はるかに優れた理解だ。
彼らは知っていた。
私たちはそれを忘れ去って久しい。

Low of participationは、
<融即の法則>とも訳されている。
母親と赤ん坊の心身が共振し、
ひとつながりにつながっているように、
人々の命はみな繋がって共振していた。
それが実際の本当の姿なのだ。
現代人は個人的な自我意識にとりつかれて、
あるがままの命のあり方を見失っている。
でも、いまでも瞑目して静かに命というものを感じ取ろうとすれば
それが自分ひとりのものではなく、あらゆる生物とともに
それを分有しているのだということを実感することができる。
大昔の仏教もそれを理解していた。
自我意識という現代人が普遍的に刷り込まれた幻想を
払拭すれば、あるがままのものを、
あるがままに受け入れることができる。
とても修行しなければならないけれどね。

*****

写真はレヴィ・ストロースの写真集『ブラジルへの郷愁』より、
1930年代のナンビクワラ族の家族。いまはもうない。
この写真集は人類がなくしてしまったものが何だったのかを思い知る、
涙が出てくるほどいい写真に満ちている。



2008年1月1日

●瞑目する


明けましておめでとうございます。
新年早々あなたは何からはじめましたか?
私は今日はただただ瞑目することからはじめました。
いつものようにゆらぎ、からだとこころをほぐし、
ただただ鎮まってゆくに任せました。
これまでにないもっともよい一年のはじまりでした。

今年があなたにとって、命の声が聴こえ、
命がもっともしたい生き方をはじめることができる
よい年になりますように。