Decenber 2007
| 2007年12月31日 ●ひらけと画像の出会いの面白さ |
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今年の9月にこのコラムをスタートしてから 毎日書くのが楽しみになった。 毎朝からだの闇に耳を傾けて いつもと変わった体感を聴く。 ほんの少しでも変わった感じがあればそれについて 聴き込んでいく。 すると大概、夜中にサブボディさんが見つけていた ちいさな気づきに出会う。 からだの闇には新鮮な発見が いくらでも満ちあふれていることを知った。 毎日それを書きとめてきた。 そして、ほぼ書き上げると、その日のキーワードで グーグル画像サーチで検索する。 共振とか、透明とか、このコラムを書かなければ 出会わなかったような面白い多くの画像に出会った。 その新鮮さがこのコラムを後押ししてきた。 意外な画像を発見することで、書く内容に新しい光が当たり 深まったことが何度もある。 すべては共振していることが 何度も確認された。 チャンネルを越えて、命は遊びまわっている。 私たちの意識がそれを知らないだけなのだ。 ***** 写真は「unexpected encounter」でググッて見つかった画像のひとつ。 懐かしいエッシャーとの「出会い」。 今日はこのほかにも多くの画像との意外な出会いを楽しめた。 キーワードさえ工夫すると、画像検索はとても面白い遊び場になる。 |
| 2007年12月30日 ●クオリアと情報 |
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クオリアとはなにか? クオリアは生命体が感じる赤なら赤独特の、 痛みなら痛みの感覚質だ。 それは情報と似ているが根本的に異なる。 クオリアと情報はどこが違うか? 情報はコンピュータのような機械にも扱えるが、 クオリアは生命体だけが感じられるものだ。 生命は外界のあらゆる事象と クオリアを感じることを通じて共振している。 クオリアは生命が感じることによってのみ生成し、 生命はクオリアを感知し、それを使うことによって 非生命から生命となった。 生命の生命らしさとは、 このクオリアを感じて生きているもの特有のぬめりにある(写真)。 生命は宇宙史上、クオリアと共振的に生成したものだ。 だが、現代のほとんどすべての科学者は生命とは何かも、 クオリアと情報はどこが異なるかも理解していない。 だからとんでもない間違いを犯す。 「情報伝達物質」という言葉を聴いたことがあるだろう。 神経伝達物質」とも呼ばれる。 生命体内の細胞から細胞へアドレナリンやドーパミンなどの ホルモンによってあるクオリアが運ばれる。 生体細胞はそれと共振することによって興奮したり 快のクオリアを感じたりする。 アドレナリンを与えられて興奮するコンピュータはまだない。 そういうものは原理的に存在しない。 生命だけがクオリアを感じ、 アドレナリンは生命だけが共振するクオリア伝達物質だからだ。 だから、これらの「神経伝達物質」を 「情報伝達物質」と呼ぶことによって、 生命と機械の根源的な差異が覆い隠されてきた。 今日の人間科学をもっとも駄目にしている原因はクオリアを知らず、 <情報>という非共振的概念にとらわれている点にある。 情報はもともと生命が感じている多次元的クオリアを、 二元論的言語に低次元変換して得られた記号にすぎない。 その事実を忘れ、 生命とクオリアが共振的に生成していることを 捨象した記号だけが一人歩きし、全科学を覆ってしまった。 生命とクオリアが共振的に生成しているという根源的事実が <情報>という非共振的記号によって覆い隠されてしまった。 クオリアと情報の混同によって、 科学者や現代人は自分自身のことを、 情報がインプットされることによって動き、 何らかの仕事をアウトプットする機械のようなものと、 多かれ少なかれ取り違えている。 命からもからだからもはぐれちまって とんでもない生を生かされている。 毎日毎日、テレビなどの分厚い情報網から流れてくる 共振なきヒューマノイド情報に洗脳されて、 全人類のヒューマノイド化は世界的に進行し続けている。 恐ろしいことだ。 この非共振情報による洪水から全力で逃れよう。 毎朝からだをゆらがせながら瞑想の時間を持ち、 命が外界のクオリアをどう感じているか、 それは命内部に保存されている内クオリアとどう響きあっているか。 クオリアの複雑精妙なゆらぎに聴き入ろう。 それだけがかろうじてヒューマノイド化が進む 現代社会で生命からはぐれずに生きる道だ。 ***** 写真は粘菌先生。脳も神経もなくても、重力、光、温度、湿度、ガス、科学物質など多彩なクオリアを感じ、判断して生きている。クオリアは人間だけの専売特許ではない。クオリア学者の茂木健一郎には生命全体からクオリアを捉える視点が欠けている。 |
| 2007年12月29日 ●カラビヤウ共振体になる |
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インターネットにつないだコンピュータに グーグルなどの画像サーチでお気に入りの 「Calabi Yau space」をダウンロードする。 画面の背景に設定してもいいし、印刷してもいい。 それを眺めながら、 この世のあらゆるものが微細11次元で 振動しているひもたちの共振パターンの変化によって 生みだされていることをからだで想像する。 ちょっとしたコツがある。 ひもは11次元方向に伸縮しつつ振動している。 11次元がどんなものか、 となりのひもが振動するとどういう影響を受けあうか、 11次元ものお隣さんがいる世界など想像できないだろう。 なにもかも想像を絶する。 だがともあれ、 想像を絶するものを想像するのが訓練だ。 想像力がぶっちぎれていくときの快感に身をゆだねる。 からだの任意の部分が となりのひもの振動に影響されて押し動かされる。 自分の動きはただちにとなりのひもに影響する。 11次元のお隣さんがいる。 可能な限り気づくようにする。 あらゆる部位が絶えず動かされ動かしている。 どの部位か、どんなタイミングかなど まったく予測できない。 そうして小一時間ほどゆらいでいると 自我など溶けてなくなって、からだもこころも 何ものにも囚われないいい状態になってくる。 それからだ、とんでもなく面白いことが からだに勝手に起こりだすのは。 心身、内外、自他、主客、類個などの あらゆる境界が溶け出して消えるにまかせる。 カラビヤウ共振体への変成だ。 うまくいけばもっとも心地よい変成を体験できる。 |
| 2007年12月28日 ●あらゆる事象を共振で読み解く |
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| ここをクリックすると、上のイラストが動き出します。 振動するひもの動画を見ながら 世界がこんな小さなひもの共振パターンでできているのだと 瞑想することをおすすめします。 動画はスピンしているだけだが、 実際のひもは11次元方向に共振し伸縮している。 超高速なのだが、時間が生まれる前の非時の次元なので 私たちには名づけることのできないスピードで。 非時非空を生きること。 私はそれで人生が変わりました。 |
あらゆるものは共振している。 ひも共振のレベルまで降りれば、 すべてが共振している共振場だけが存在する(図上)。 この宇宙のあらゆる事象はその共振場から生成する。 ひも共振のレベルから、日常生活のレベルまでは 0.000000000000000000000000000000001ものレベル差がある。 ひものサイズは、1センチメートルの十億分の一の十億分の一の十億分の一の百万分の一だ。 どちらの言い方をしても、ぴんと来る数字ではない。 でもそういう極微の世界があり、 そこで共振しているひもの共振パターンの変化によって 万物が生成していることを理解することはできる。 その領域はただひもの共振だけが存在する<共振場>だ。 そこはわれわれがなじんでいる三次元時空とはまったく別の世界である。 何より、個物は存在しない。主体も客体もない。 物質とエネルギーの分化さえ起こっていない。 クオークなどあらゆる物質や、重力や電磁力などのエネルギーは すべてひもの共振パターンの変化による。 生命もまたその共振場で生成した。 生命は物資でもエネルギーでもない。 生命が感じるクオリアも物質でもエネルギーでもない。 生命もクオリアも物質やエネルギーとは異なる第三の存在だ。 物質とエネルギーは同じものであることを アインシュタインが発見した。 E=mc2 という公式が意味するもっとも単純なものものは 質量に光速の二乗という巨大な数をかければ エネルギーになるという意味だ。 物質とエネルギーの見かけ上の差異は相対的である。 だが、その後物質やエネルギーと生命やクオリアとの変換式は 誰によっても発見されていない。 両者の間には途方もない桁違いがあるが、 どちらもひも共振から生成するものだと理解することはできる。 そのとき、生命から物質にいたるあらゆるものが ひもの共振から生成するとすれば、 それらすべての存在物を貫く法則があるだろう。 それは、エネルギーと物質、そして生命・クオリアが分化した後の 三次元世界の法則ではなく、それらが分化する以前の ひも共振の世界の共振原理ではないか。 あらゆるものは共振からなる。 意識を鎮めればそれを感知することができる。 近代の日常世界の意識は閾値が高すぎて、 よほど強い刺激しか感知しないが、瞑想やそのほかの方法で 意識の閾値を下げ、識閾を広げる訓練をすれば、 意識下で起こっている共振場の共振現象からの影響を 感知することができるようになる。 古代からの伝統的な瞑想世界における微細身や、 <気>と呼ばれたきたものは、 あきらかにこの微細な<共振場>での現象を捉えようとしたものだ。 今日でもジェンドリンが推進するフォーカシングの 世界の状況をからだ全体で感じようとする<フェルトセンス>、 プロセス指向心理学のミンデルの<センシエントな感覚>などは、 共通してこれら微細な領域のクオリアに耳を澄ませるものだ。 それら、微細なクオリアが<共振>あるいは<相互作用>として 生起していることは、彼ら両者にもうっすらと捉えられている。 今後の仕事は、彼らや伝統的な心身技法において捉えられてきた あらゆる事象を再度<共振>原理から読み解くことだ。 これまではまだ、せっかくこれら微細領域でのクオリアを捉えかけても それを記述する言語が、共振原理に基づいていなかった。 だから、主観だの客観だのという幻影にすぎない言語で 共振現象を捉えようとしてきたので無理があった。 主・客、内・外、上・下などの境界言語をはじめ、 全分野での事象をすべて共振場から脱構築し、 あらたなる共振の相のもとに捉えなおし、説明しなおす必要がある。 これは膨大な作業となるだろう。 何千年もかかるかもしれない。 そういう長い変化のプロセスが始まろうとしている。 |
| 2007年12月27日 ●宇宙からひもまでの想像力 |
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ヒマラヤの冬空は冴えに冴える。 ちょうど山並みの上にアンドロメダ星雲が 顔を出す季節になった。 肉眼で見ても、よく知られたカシオペアの下方の空で ボォッと異彩を放っている。 8倍の双眼鏡でも美しい楕円星雲が浮かび上がる。 アンドロメダを見るたび、 マクロの大宇宙から、ミクロのひも共振の世界まで 想像力の旅をする。 こういう想像力の枠組みが拡大したことが現代科学の最大の恩恵だ。 空間だけではなく40億年の生命の誕生から 150億年前の宇宙の誕生まで、 無窮の時間を馳せ上り馳せ降りることが できる時代になったのもうれしい。 おまけにひも理論によれば微細次元には 時がないか、あっても小さく巻き上げられているという。 非時についても実際に存在することを想像できるようになったのだ。 21世紀にわたる科学の発展が人類にもたらした最大のものは この想像力の拡大である。 じっさいに想像力で果てから果てまで旅できるようになるには 時間がかかるが、その恩恵は果てしがない。 それを解放するためにも、想像力が日常世界の枠内に 雁字がらめに絡め取られた日本から脱出する必要があった。 テレビや新聞を見たり、職場だの家族だのという 日常世界に閉じこもっている人間とだけ付き合うのが最もいけない。 そこは親和性に満ちているが想像力の墓場だ。 墓場から飛び出すときを図るんだ! アンドロメダ銀河と銀河系は 後約30億年くらいで衝突する運命にある。 これまで生命がたどって来た40億年の歴史と比べると、 われわれの生命に残された時間のほうが短いことになる。 さあ、その限られた時間の中で生命は何が一番したいんだろう。 |
| 銀河系とアンドロメダ星雲の衝突シミュレーション |
| 2007年12月26日 ●リビドーの逆襲 |
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夕べ夜中に犬の声で目覚めた。 しきりに吠え立てていた。 するとなんだか目覚める前はずっと 性的な交渉の夢に浸っていたことに気づいた。 しかもなんだか意欲がくじけてうまくいかないという ぱっとしない夢だった。 ぬめっとした体感がやけにリアルにからだに残っていた。 まだこんなありきたりな性的な夢を見ているのかと 毎朝明け方やってくる創造的な気づきとまるで違うので すこしがっかりした。 でもこんなものだろう。 夜中の時間帯はたいがいこういう夢にふけっているのだ。 そして、それに気づいたとき、 昨日の「ひらけ」にフロイドのリビドー説に異を唱えて、 世界との肉体的関係を性的と誤解していたのではないか などと書いたことに対し、 わたしのサブボディが性的リビドー丸出しの夢を見ていると 教えてくれたのだと気づいた。 性の闇の深さ。 リビドーからはおいそれと逃れられそうもない。 昨日のひらけを読む |
| 2007年12月25日 ●夢で世界との肉体的関係を味わう |
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今日共振日記の「山田詩を読む・異次元世界の歩き方」を書きながら ほぼ無意識裡に出てきた言葉がある。 夢をめぐる次の断定だった。 そこから少し進める。 「 夢は本当は体感チャンネルで見ている。 近代的な意識にとっては視覚映像チャンネルが優先されているので 意識されにくいが、 生命にとっては体感チャンネルのほうがもっと深い。 」 視覚的な夢に見えても、よく思い出せばどんな夢でも 独特のぬめりのある体感がうねっている。 夢の映像を思い出せなくても 体感を思い出せればそれで十分である。 わたしが毎朝浸るのは必死に夢の体感を思い出す作業だ。 あなたも覚えがあるだろう。 夢から覚めたら妙に力が入っていた経験は。 山田詩の場合でも、夢の映像的テーマは 車をめぐっているが、体感はむしろもっと 世界との肉体的関係のクオリアに満ちている。 私たちは本当は人間だけではなくいろんなものとの 肉体的関係を体感しているのではないか。 「ポヨンは鍵穴そのものかもしれない 人のからだには鍵穴のようなものが幾つかあって そこにキーを差しこむとあーんと口みたいに開いて ずるっとキーは奥まで達する するとからだは震えだしやがて回転をあげていく 」 なまめかしい官能的な体感だ。 フロイドは全てのリビドーを性的なものに還元しようとしたが 本当は世界との肉体的関係といったほうがいいのではないか。 上の夢もセックスをあらわしているかにも思えるが、 あるいはそれ以上のなまめかしい生きた世界と のっぴきならない交合をするときのような体感だ。 サブボディを踊るときは いつもこの世界との肉体的体感関係を踊っている気がする。 押しつぶされそうになったり、とても気持ちよく関われたり、 いのちはいつも世界と体感で関わっているのだ。 それがあまりにセックスに似ているから フロイドは誤解したのではないか。 この体感変容こそ夢の世界のもっとも普遍的共通言語である。 |
| 2007年12月24日 ●クリスマスの怖い起源 |
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クリスマスは、いまでは世界的な歓楽の祭りになった。 キリスト教徒でもないのに、と 若いころはクリスマスの商戦を苦々しく感じていた。 だが、意識では抵抗できない要素がクリスマスにはある。 人類にとってとても古い起源を持った伝統に根ざしている。 レヴィストロースや中沢新一にも クリスマスやサンタクロースの起源をめぐる考察があるが、 サイトでは、弓木暁火さんの「変身のための起源論」 によくまとめられている。 さわりを引くと、 「クリスマスとは、 @その装いは時代ごとに変わってきたが、核にあるのは、太古から普遍的な「冬至祭」の元型である。 A「冬至祭」とは、太陽・光・生命の「死と再生」の祭りである。 B冬至には、闇から「子供たち」や「老人」の死霊が還ってくる。彼らには贈り物をして、祝福とともにまた闇へ戻ってもらわねばならない。 …といったことを見てきました。このうち@Aの起源については、わりと簡単に解けそうです。 はるか太古の人類も、さまざまな巨石遺構が示すとおり、天文の動きには詳しかった。太陽=生命の力が最も弱まり、夜=死が極大に達したとき、そのサイクルの逆転を祈って、彼らがお祭りをしたとしても、何の不思議もありません。 ではその「太古」とはいつ頃か? それは恐らく、光のありがたみがとても貴重な氷河期まで遡るものでしょう。そうとするなら、「冬至祭」の伝統は、現生人類とともに古いといってよい。すなわちクロマニヨン人の発生いらい−ということです。 氷河期の長く厳しい闇のなか、彼らクロマニヨン人たちが、炎や緑の木を使い、光=生命のために祈っているさまを、まあちょっと考えてみてください。今も我々が冬祭り(ハロウィーン・クリスマス・新年祭)に、ひどく痛切な懐かしい感じを持つのは、きっとこのような古層の記憶に拠るのです。 で、いよいよBの謎です。すなわち「冬至に来訪する死者たち」とは何であるか? なぜ彼らは「贈り物をねだる子供たち」であったり、「悪い子を罰する老人」であったりするのか? ... この謎が解けた(と思う)のは、佐々木宏幹『シャーマニズム』を読んでた時です。そこではこんなことが書かれていた。 長く暗い氷河の時代、つまりシャーマニズムの時代、人々は厳しい移動生活を送っていた。そして育てられない子供や、足手まといになった老人は、移動のときにそのまま闇のなかへ棄てていった…。あわれな彼らは、もちろん飢えと寒さの中で、死んでしまうしかありません。だが人々は、彼らが明るい楽園へ行き、老人は一族の守護霊となり、子供たちは生まれ変わりの機会を捜すのだ…と信じ定めた。 どうです? これでこの謎にも、やっとチェックメイトがかかりました。 冬闇の中から現れ、「悪い子はいねーが!」と叫ぶ老人「ペール・ノエル」とは、まさしくもとは棄てられた祖老の霊、いま生きている子孫らの守護者なのです。そしてまた再来する子供たちとは、これも闇に棄てられて死んだ子らで、それゆえ人々は彼らに贈り物をして、慰め、おとなしく引き取ってもらうのです。 クリスマスとは、ほんらいは、けっこう怖いものだったのですね…。 氷河期クロマニヨン人たちは、この「冬祭り」の元型記憶を持ち伝えたまま、全地に広がってゆきました。そこで冬季のある北半球の中〜高緯度全域に、この習俗は拡散した。それだから、たとえば北米インディアンの間にさえ、サンタ・クロースにそっくりな「カチーナ神」が見られたりするのです。 」 クリスマスが、非キリスト教圏でもひろく受け入れられているのは もともと太古以来の冬至祭りの伝統に重なっているからだ。 遺伝子に刻み込まれたクオリアが共振するのは、 意識では抵抗できない。 クリスマスには氷河期を越えてきた人類の命が 暗黙裡に共振している。 死んだ子たちに贈り物をして、 さあ、これから日が長くなる。 ***** 今日はヒマラヤの十歳の恋人とクリスマスツリーをつくった。 幸せを感じた。 こんなことは何十年ぶりのことだろう? これまで60回のクリスマスの思い出がことごとく 薄雪のように掻き消えて思い出せない.... |
| 2007年12月23日 ●生きていることからはじめる |
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ただ生きていることからはじめる。 いつなんどきでもそこからはじめる。 もっともかよわい命のゆらぎから。 からだひとつあればはじめられる。 命を聴く耳があればはじめられる。 余計な観念からはじめない。 ただの命のゆらぎを聴くだけでいい。 ゆらぎに聴く。 どうゆらぎたいのか。 もっともかよわいゆらぎからはじめる。 ほとんど動きではない。 でもほんの少し毎日違う。 もっとも力ないゆらぎのバリエーション。 それを積み重ねていくだけでいい。 何年かたてばきみ固有の衰弱体の踊りができている。 |
| 2007年12月22日 ●ゆらぎ、この無尽蔵なもの |
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生命に耳を澄ますと、生命はいつもゆらいでいる。 それが、最初にキャッチできる命の特徴だ。 命は決して止まらない。いつもかすかにゆらいでいる。 ほんの少し元気が出たり、力を失って休息を欲したりと、 活と休の間をゆらいでいる。 受動と能動の間でゆらいでいる。 このかすかな生命ゆらぎの中に あらゆるクオリアの萌芽が含まれている。 そのかすかな傾向に従い乗り込んでいくと さまざまなクオリアに発展していく。 生命からのかすかなシグナルを、 なんらかのチャンネルに分化する以前の もっとも未分化な状態でキャッチすることが重要だ。 このメタレベルの状態のクオリアは命の原生的なクオリアだ。 そこでは生命にとっての世界像と自己像がひとつになっている。 世界像と自己増の間にすこしでもぐいちがあると 生命はかすかな不快感を感じる。 この原生的な不快感に耳を澄ますのが ジェンドリンが創始したフォーカシング・テクニックの要諦だ。 彼はそれをフェルト・センスと名づけた。 生命が感じるこの世界と自己との間の微細なギャップを、 時間軸に沿って展開していくのがミンデルのプロセス指向心理学だ。 いままでの世界=自己関係を守ろうとする第一プロセスと、 それを打ち破ろうとする新しい第二プロセスが いつも葛藤している。 その間に起こる出来事を増幅して、 解を見出すのがミンデルの特徴だ。 伝統的な瞑想は、ここで感じるかすかな不快感を むしろ抑圧する傾向にあった。 生命ゆらぎを、よいものと悪いもの、 気高いものと下劣なものに振り分けようとした。 そうではなく、生命ゆらぎのあらゆる面を受け入れるのが大事なのだ。 生命のあらゆる可能性と多様性を肯定し、 新しいクオリアを創造していくこと。 生は楽しいものなのだ。 |
| 今日のひらけ――ヒマラヤで気づいた小さなこと |
| 2007年12月21日 ●クオリアと情報 |
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クオリアと情報は一見似ているが、根本的な一点で異なる。 情報はコンピュータのような機械でも取り扱えるが、 クオリアは生命だけが取り扱える。 生命だけがクオリアを感じ、それに従ったり、 増幅したり、避けたりと、行動することができる。 クオリアをこう定義すると、情報との違いが明確になる。 アメーバや植物も生命である限りクオリアを感じている。 多細胞生物の脳のニューロンやグリアが 感じているのも同じクオリアだ。 コンピュータはクオリアを感じることができない。 ただ情報を扱うことができるだけだ。 情報は1または0のツリー論理で取り扱えるが、 クオリアは多次元変容するリゾーム論理で動いている。 それをツリー論理で捉えようとすると、 高次元を低次元に変換した低次写像しか得られない。 言葉はクオリアの低次元写像である。 それはあくまで近似解であることを忘れてはならない。 現代の「知性」と呼ばれる意識形態は、 この低次元写像を現実と取り違えることで成り立っている。 AI(人工知能)を作り上げようとする試みがことごとく挫折したのは、 クオリアと情報の差異への根本的な無知に根ざしている。 |
| 2007年12月20日 ●遁走の勧め |
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わたしの命がもっとも得意とするものは遁走だ。 小さいころから、ひどい目にあうたびに遁走術を磨いてきた。 ただのかくれんぼではない。 絶対これ以上傷つかないための、 絶対的な遁走場所を見つけるすべを磨きぬいてきた。 遁走の極意はこの世にない場所へ遁走することだ。 空想の世界に遊び、ひそみ、そこではじめて生きていける サブ人格たちを育てた。 生物のカンブリア大爆発の時期に 穴居生物群が出現した。 彼らこそもっとも親しいわが祖先の中の祖先だ。 わたしが生涯でもっとも多く踊った<石の踊り>(写真下)は 岩穴にすむ穴居生物になりこむことだった。 この姿勢で転がり、いざり、舞い上がり、舞い沈み、沈黙した。 ようやくこの石から自分を解放する時が来たとき、 伝染熱ができた。 ![]() 遁走は、創造の一形態なのだ。 穴居生物たちは、それまでにない生存方法を発明した。 安全な地底の暗闇、 ヒマラヤの奥地。 わたしの人生は遁走に次ぐ遁走の歴史だった。 生命にとっては遁走即創造なのだ。 今頃になってその値打ちに気づいた。 この気づきで、はじめて 創造の世界に出て来ようとしない サブボディの一群がわたしの中にあることの 意味が分かってきた。 創造だけに囚われていては、この遁走の名手たちの 存在意義が見落とされる。 人知れぬ場所に隠れ棲むことも大事なのだ。 |
| 2007年12月19日 ●ゆらぎ続けると異次元が開く |
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サブボディメソッドの一番の特徴は ゆらぎ続けることにある。 からだに耳を澄まし、かすかなゆらぎにしたがって ゆらぎ、動き続けていると、 じょじょに別のチャンネルにつながっていく。 いくつもの泡がつながっている多次元の泡宇宙にいて、 いつの間にか隣の泡の世界に入ってしまっているという具合だ。 映像や音像、情動の次元が開くこともあれば 「いまここ Now Here」の次元から 「どこにもない Nowhere」非時の次元へつながることもある。 土方巽もこれに気づいていた。 「 時間というものにはどこか停止したところがある。 空間に比較するとどこか停止したところがある。 しかし、その空間は動いているのです。 そして、その空間よりもなお、私の錯乱は肥大して来るんです。 こういう話をしている私は。 」 (講演・『舞踏行脚」より) この停止した時間を通ってからだの闇はいつも、 5歳の記憶、胎内の闇、父母未生以前の命とさえ 頻繁に対話している。 土方はその世界を渉猟する人だった。 ひも理論によって、時間次元のない微細7次元の存在を 知るまでわたしは、時のない世界など信じられなかったので、 気付けなかったが、微細なクオリアを聴き取る訓練をつめば 生命が保存している内クオリアは、すべて時のない次元を通じ、 相互に多次元的に連関していることが分かるようになる。 遺伝子に刷り込まれた元型や、 原生的な生命の傾向性なども すべてこの時のない次元に保存され、連関している。 創造が行われるのもこの非時の次元なので その極点ではつねに古い住人である元型が襲い掛かってくる。 秘されていた異貌の自己も、影の人格も、 忘れ去られたnot-meも、トラウマも、 炸裂する固有夢も、思い出せない記憶も、 すべてからだの闇の非時の異次元に潜んでいる。 サブボディ世界に入るとは、からだごとゆらぎ続けて これらの多次元変容流動世界を歩く 永遠の旅人になるということだ。 この特殊な多次元世界の歩き方を身に着けると きみはこの世界のトラベルガイドになることができる。 自分自身の踊りをつかみ出す道も この多次元変容世界をさまよう中にある。 ここを縦横無尽に動けるようになってはじめて、 土方巽がおのれの舞踏の創造の秘密を開示しようとした 『闇の舞姫』のような秘伝書を解く鍵が見つかる。 『闇の舞姫』は多次元変容世界をあるがまま描き出そうとした この世に類例のない書だ。 それを読もうとするものは自分自身のからだの闇をまさぐり、 さまよいあぐねて共振するものを探り当てるしかないのだ。 |
| 2007年12月18日 ●下手な考え、休むより劣る |
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「下手な考え、休むに似たり」という格言がある。 でも、下手な考えは休むより悪い。 休んでいる間に、脳は無意識裡にずいぶんいろんな仕事をする。 いらないクオリアと大事なクオリアを仕分けするのが睡眠中の仕事だ。 考え続けると、脳を休ませて無意識の仕事をさせることができない。 わたしが60歳にもなるまで何者にもなれなかったのは 私が哲学思想出身で、考えるという悪習から逃れるすべを 50過ぎるまで見つけられなかったからだ。 いまは一日のうちできるだけ多くを 惰眠と覚醒の間を漂うようにしている。 それがもっとも創造的になる方法だとやうやくわかったからだ。 |
| 2007年12月17日 ●胎児になる |
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胎児になる。 闇の中で未分化なチャンネルを総動員して 一心に聞き耳を立てている、 胎児の脳心身になりこむ。 目覚め際の朝の寝床の中がいい。 まだ意識がちゃんと立ち上がる前の おぼろげな前意識状態のまどろみがいい。 このときだけは瞑想しなくてもサブボディモードになれる。 一日に一度は胎児になる時間を作る。 未分化なクオリアが変容流動する胎像流こそ 命の声を聴くもっともよい坑道だ。 胎児の心になって夢に訊く。 いったい何を伝えたいのかい? 胎児のからだにになって命に訊く。 いちばんしたいことは何なのだい? 命やサブボディとのコミュニケーションをとり続けること それが一番大事だ。 |
| 2007年12月16日 ●内なる石に聴く |
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ここ二、三日続けて妙な夢を見た。 夢というより具合の悪い体感がやってくる。 今日になってその体感が薄紅色の内臓の形をとりながら 石のように硬くなってしまい、 他と交わることも溶け合うこともできなくなってしまった 人格の象徴であることがわかってきた。 それで今朝は起きがけに何時間か この石化した内蔵の感覚に聴き入ってみた。 石とは何か? 石は何を告げようとしているのか? なぜ、石になってしまったのか? この石のクオリアに耳を澄ましているうちに おびただしい気づきが迸りだした。 気づきがこみ上げてくるたびにメモをとった。 枕もとの小さなメモを何ページもめくっていった。 そのうちのいくつかを書くと、 ・石になってしまった人格はよほど強い攻撃を受け続けて 石に変質せざるを得なかったのだ。 ・この石化した人格は、解離して分裂した人格の間に 融合も統合もありえないことを告げようとしているかもしれない。 ・内臓が石に変質するとは、 命が命とは対極にある非生命とのあいだに ゆらぎ出てしまうことだ。 ・わたしは長い間石になって踊った。 あの石とこの石は何か関係があるのだろうか? ・わたしは自分の中に石になりたい衝動を感じて石になりこんだ。 石になりこんで人との関係から遁走したいという衝動だったろうか? ・石になりこむ踊りをいくつか創った。 コンタクトジャムなどの即興のなかでも しきりに石になって転がった。 あのとき石としてコミュニケーションを探っていたのだろうか? ・古代日本やインドでは石を拝んだ。 私の祖母も、南インドの山奥の人々も石を拝む。 このとき石とは何なのか? ・生命は自分自身と対極にある石を 礼拝の対象とすることで、生命と石との間にある 謎に問いかけようとしたのではないか? ・今では生命は40億年の歴史を持つものだと知られている。 だが、石はさらにそれ以上の歴史を持つ。 ・石に聴けということなのだろうか? そういえば最近石になって踊らなくなった。 ・庭にも石がある。 ここへ着たばかりのころはよく石に向かって踊った。 石に聴けということなのか? ・命にとって対極にある石こそ、 対偶のような大事なものなのかも知れない。 ・こんなふうに、石に聴くことでどんどん気づきが展開していく。 これはこういう手法でサブボディとコミュニケートする方法を 確立する可能性があることを告げているのかも知れない。 ・ユングのアクティブ・イマジネーションの技法に似ている。 サブボディ技法の場合はからだごと乗り込んで、 動きの創造にまでつないでいく点が違うのだ。 ・開示のされ方に二種類ある。 先日の衰弱体の場合はひとつのテーマをめぐって どんどん深まっていった。 ・今日は別のテーマにどんどん展がっていく。 これは展開のしかたのバリエーションを教えてくれているのだろうか? ・最近サイトが多重な人々が点でまちまちに創っていくせいで 時々味を落としている嫌いがある。 どんなときでも固有の美を発見していくことだ大事だ。 ・多重人格群はまだ成熟する以前の未熟な自我へのなりかけが 集まっている。まだ、全体の中で自分を押し出しすぎないことが 美の用件であることがわかっていないのだ。 ――まあ、こんなふうにどんどん続いていった。 ひとつひとつの気づきがひとつの「今日のきづき」 になりうる内容を含んでいる。 ・ちいさなメモはこんなときありがたい。 気づきがどんなささいなものでも一ページ使えるからだ。 B5ノートではこんなにページを使えない。 大きなノートと小さなメモの組み合わせの効用についても あらためて気づかせてくれた。 |
| 2007年12月15日 ●伸縮自在のフレキシビリティ |
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最低限の命であることから、人間であることまで、 命の伸縮自在性を獲得すること。 これが人類に新しく求められている生存様式だ。 われわれは人間であることを保とうとするあまり、 人間であることに囚われ過ぎている。 人間であることの最大限のありようとは、 人間であるばかりではなく 最低限のシンプルな命にも自在になりこめることだ。 いつでも自在に人間の殻を脱げること。 世界とともにふるえているだけの命になれること。 寝床の中で、一心に闇に聴き入っている 胎児の心に戻れること。 もっともか弱い、死に瀕した命になりこめること。 強い自分を押し出しすぎないこと。 共振に耳を澄ますこと。 土方が見出した衰弱体のありかたは そこまで私たちを連れだして行く。 そこはかつてフーコーが予言した、 「人間の死」の後に新しく発明されるべき生存様式だ。 フーコーの予言から40年。 私たちはとうとうそれを見出したのだ。 この生存様式において私たちは 自我からも国家からも解放された 人間のあり方を見出すことができる。 |
| 2007年12月14日 ●朝のもやもやを聴く |
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このごろ毎日、朝目覚めるか目覚めないかのあわいで、 一晩中サブボディさんがした仕事の成果に聴き入る。 一時間か二時間聴き入っているうちに、 はじめはもやもやとしたただの闇だった世界がすこしずつ 何らかのクオリアで波打ちはじめ、 やがて夜通し仕事の全貌が姿を現す。 大概、今日のひらけに書くような小さな気づきが多いが 今月は舞踏論や生命論の一章分に当たるような 大きな気づきも相次いでいる。 もやもやとした中から、なにごとか意味あるものが 姿を現してくる瞬間は感動的だ。 サブボディ(下意識のからだ)さんは、 毎日かならず何らかの創造的な仕事をしているのだ。 これをすべての人にも味わってもらえるように そのコツを書いてみる。 夜眠っている間に、私たちの脳は外界からの刺激のないところで 一晩中海馬に短期記憶として保存された内クオリアと、 大脳皮質各部のグリア細胞に保存された長期記憶の内クオリアとを グリア=ニューロン回路網を通して、 アトランダムに出会わせ、意味あるつながりを捜し求めている。 異なるクオリアの出会いによって 何か新鮮なクオリアが創出されたときは 何らかの神経伝達物質が出て強化され、 グリアに長期記憶として保存される。 重要な関連には、ニューロン網の新しい分枝が 一晩のうちに生長して、太いコネクションになる場合もある。 できたばかりのグリア=ニューロン回路網は、 何度も繰り返し使うことによって強化され、 より太いラインとして定着する。 朝目覚めた瞬間わたしは、漆黒の闇の中にこのできたばかりの クオリアのつながりを探る。 なにか不思議な体感がしたり、気になる徴候がないか じっと聞き耳を立てる。 一、このときのコツは、チャンネルが分化する以前の 未分化な胎児の心になることである。 胎児の世界は、胎感、胎動、胎覚、胎情、胎界などが未分化なまま アマルガムに変容流動している純粋クオリアの流れである。 意識が眠っている間の夜の脳のはたらきも、 すべてのチャンネルがひとつの統合された無境界・未分化なところで あらゆるクオリアが出会い・離れを繰り返している。 命にはチャンネルがないのだ。 その世界に降りていく。 一、チャンネル未分化なクオリアから、 何らかのチャンネルのクオリアに分化・析出してくる気配がする。 飽和液から結晶が析出してくる瞬間に似ている。 何らかのチャンネルのクオリアとなった瞬間、 意識にもそれと捉えられる。 そして、ひとつのチャンネルから別のチャンネルへどんどん チャンネル転換しながら展開していく。 そのプロセスに任せてついていけばいい。 ――二日前、その展開に任せてついていくと、いつのまにか 舞踏論第14章「衰弱体技法」の章が析出してきた。 すごいねえ夕べはこんなに仕事をしていたのかい?! と自分でも驚いた。 そのときも、激しいチャンネル転換が起こっていた。 サブボディに聴き入っていたときは、もっと カオスだったが、舞踏論として書き留めるときには、 かなり覚醒してきて、いつもの八つのチャンネルどおりに 記述が進んでいった。 一、チャンネル未分化な多次元のカオスであるリゾーム世界と、 チャンネルに分化した四次元・分別意識のツリー世界とを うまく往還する極意を身に着ける。 胎児の心と、人間の心を絶えず行ったり来たりできる フレキシビリティを鍛えること。 一、一日の間中、できるだけ人間の分別意識から遠ざかること。 とりわけ言葉を使って人と会話しないこと。 これが一番大事だ。 人間に戻る時間を最小限に保つ。これだ。 ひとりの静かな時間を大切にする。 まして、テレビや新聞や電話に触れることは、 命の創造性を自殺することだと留意されたい。 |
| 2007年12月13日 ●流動的な世界像=自己像 |
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一日に自分の領土を1000キロ走る狼や虎の 世界像を想像してみてください。 世界像はいつも高速に流れているはずだ。 流れに棲む魚にとっての世界像を思い描けるかい? 日本の池川から、フィリピン沖の深海流まで旅するウナギにとっての 世界像流に成りこんでみること。 何万キロもの渡りをする渡り鳥にとって 世界像と自己像はどのように連関しているだろうか? 移動する距離の大小が問題なのではない。 命にとってもともと世界像と自己像はひとつであり、 絶えず変容流動するものだった。 きみはいつのまにかその感覚を失っていないか? もし失っていたら、だまされたと思って 上に挙げた生き物たちになりこんでみてください。 きっと原初の命のふるえに触れることができるから。 命はいつも高速に変容する世界像流の中で自らを操縦・運転しつつ 自己像流を絶えず更新し続けている。 それは無意識で行われている。 きみの心は命が毎瞬間ごとに出会い判断している 微細なクオリアに気づいているかい? 日常思考におぼれて、世界と自己を固定したものと思い込む 怠惰にとらわれていないか? 命の持つ無限の創造性を忘れて、テレビ番組などにあやしてもらう 精神の赤子に退行していないか? ユングの<布置>という概念になぜか惹かれるにまかせて この二、三日を過ごした。 今日になってその理由がわかった。 なあんだ。 布置とは、私独自の世界チャンネルのありかたに そっくり重なるものだったからだ。 わたしは、サブボディの世界では、 世界像流と自己像流が絶えず密接に関連して 離れたり合致したりしつつ変容流動していることを知った。 サブボディメソッドの八つの主要チャンネルのうち、 世界チャンネルは世界像=自己像チャンネルと呼んでいる。 そして、世界と自己をこのように連関したものとして捉えるとは 取りも直さず世界を<布置>において捉えるということだったのだ。 長年ユングを読んできても、 最近まで布置という概念の重要性について気づかなかった。 分節的な言葉の世界では、言葉が違うと 自分の中でもまるで別物として別の部屋にしまわれていて、 今日まで出会うことがなかったのだ。 まったく関係ないと思われていたことの間に 深い関係性が発見されること。 これが<ひらけ>や<気づき>の もっとも一般的な現れかただ。 どれだけこのひらけが起こりやすい状態に 自分の命を持っていけるか。 それが一番大事な生きる技術だ。 |
| 2007年12月12日 ●静かなグリア |
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(昨日に続く) なぜ、グリアに記憶や学習などの 内クオリアが保存されていると推定するのか? 脳内にはグリアしか、記憶の保存場所の候補がないからだ。 ニューロンは知られているように、 電気信号でクオリアを伝達する。 目に入ってきた光のクオリアも、 鼓膜を震えさす音のクオリアも、 すべて電気信号に変換されて脳内を伝わる。 光のクオリアはその電気信号の微細振動部分として 伝達されていく。 音のクオリアもまた、電気信号として伝達される。 すなわち、ニューロンは電気信号でクオリアを伝達する 通路に他ならない。 通路に記憶や学習が保存されていては通路として役立たない。 だから、ニューロンはクオリアの保存場所では決してありえない。 ではどこなのか? 長い間謎だった。 その謎が今、解かれようとしている。 グリアは長年ただニューロンを保持しているクッションだとか、 栄養補給係だとかと理解されてきた。 グリアはニューロンと異なり、 電気信号を使わない静かな細胞だからだ。 だが、そのグリアが化学物質の放出を通じて、 脳内の局所環境を制御していること、 カルシウムウエーブをシグナルに活性化したり、 静まったりと活発に活動していること、などが知られてきた。 電気信号を使わないからこそ、 グリアはかすかな微細次元でのひも共振パターンの違いとして 保存される無数のクオリアの保存場所になりうるのだ。 わたしはヒマラヤへ来てから、 毎日そのかすかなクオリアに耳を澄ます生活を続けてきた。 だから、わかるのだ。 脳内に保存されている大昔のクオリアは 何十年経っても少しの遜色もなく輝き続けている。 毎日電流の通り道になっているニューロンでは、 記憶されたクオリアに変化を起こさず、保存できるわけがない。 しかも、何十年も変わらずクオリアを保存できるとすれば それは時の次元のない微細な7次元でクオリアが振動し続ける形で 保存されているからに他ならない。 これ以外にうまく記憶や学習といった内クオリアが 何十年も保存される仕組みを説明できる理論には お目にかかったことがない。 あったら教えてほしい。 |
| 2007年12月11日 ●グリア・ニューロン回路網 |
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ここ十年で脳科学はニューロンの時代から、 グリア・ニューロン回路網の時代へ大きく移り変わった。 この変革はまだ序曲に過ぎない。 グリアこそ命にとって記憶や学習によって得た 内クオリアを保存する場所であることが 近いうちに突き止められるだろう。 他の動物に対して、人間のグリアはぬきんでて多い。 ニューロンが大脳皮質で140億、中枢神経全体で100億と 見積もられているが、グリアはそのの十倍ある。 数え方によって400億から1兆といわれる。 ひとつのニューロンは約一万本ほどの他のニューロンと連結している。 そして、その十倍のグリアとも交通している。 内クオリアが保存されているのはグリア細胞の可能性が最も高い。 そこに微細次元で振動するひもとして保存されているのだ。 グリア細胞間を伝わるCa++ウエーブによって、 グリアのある領域が活性化され、そこに保存されている 特定領域の内クオリア(たとえば5歳時の記憶)がニューロンに伝わる。 ニューロンに移行した内クオリアは、 他のニューロンが別のグリアから受け取った別のクオリアと出会う。 このクオリアとクオリアの出会いは毎秒何兆種類も起こっている。 その中から特に意味ある出会いは、 異質な領域のグリア・ニューロン回路網の連結興奮をもたらす。 これがひらけや、ひらめき、気づきという体験になる。 下意識の創造性といわれるものもこの現象をさす。 私は毎日できるだけ多くの時間、脳心身を このクオリアの新鮮な出会いが起こりやすい状態に保っている。 それをサブボディ状態と呼んでいる。 その状態になると、待っているだけで次から次へと 新しい発見が相次いで起こる。 私の意識はそのときだけしゃしゃり出て急いでそれを筆記する。 意識の役割を指令者や思考者ではなく、 聞き役と書記係に限定することが 下意識の創造性を最大限に発揮する秘訣である。 昨日書いた布置や共時性という出来事も このグリア・ニューロン回路網で起こる 異質なクオリアの新鮮な出会いに他ならない。 詳しく書くと長くなるので詳細は別項に譲る。 昨日のひらけを読む |
| 2007年12月10日 ●ユングは気づいていた |
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毎年少しずつユングに対する共振的理解が深まる。 4年前神経症に苦しめられていたとき遁走先の南インドで ユングが死を賭して無意識と対決していた跡をたどって、 真っ暗闇の地獄でかすかな光明に導かれた気がした。 3年前には彼が人々を元型による囚われから解放するために 元型を研究していた熱情を知って胸が振るえた。 その後も、ただ一点、共時性についての ユングのこだわりだけはうまく了解できなかった。 だが、彼の布置(constellation)という概念を検討してみると、 彼は命が外界と相互作用して感じる外クオリアと、 外界との相互作用なしに感じる内クオリアが いつも互いに共振している事実に 先駆的に気づいていたことがわかって驚かされた。 布置とは、下意識の世界のありよう(内クオリア)に応じて 外界の事象(外クオリア)が現われてくる現象の機微を巧みに捉えている。 それは、共時性(シンクロニシティ)の面から いささか神秘的なニュアンスでこれまで扱われてきたが、 生命が感じるクオリアが、 つねに内クオリアと外クオリアが共振している点から見れば 布置も共時性もなんら神秘的でも不思議でもないことがわかる。 もともとそれらは共振的に生成するものだから ただの当たり前のことなのだ。 弟子の用意ができたときに師が現れるという「機が熟す」という現象や 旅先でなぜか「何かを語りかけてくる風景」に出会うのも、 人生の重大場面で「意味のある偶然の一致」が起こるのも そういう時はとくに内外のクオリア共振に 気づきやすくなっているからにほかならない。 じつはいつも内外のクオリアは共振的に生成している。 (これについてくわしくは、クオリア論の 「クオリアの幻現二重性」を参照ください。) 自我や主体意識に囚われている限り、 それが共振を感知する微細さから われわれを遠ざけているだけなのだ。 共時性の現象に気づくことがおかしいのではなくて、 じつは命の内外クオリアの共振に、 気づけなくなっていることのほうがおかしいのだ。 |
| 2007年12月9日 ●非時非空のクオリアの海 |
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今年の授業が済んだあと、 とても奇妙な浮遊感が訪れている。 9ヶ月間毎日全力投球の授業をしてきた。 もっともやりたいことをしてきたはずなのに、 からだの闇にはまだまだ未知の欲動が渦巻いているようだ。 授業が終わった瞬間、糸が切れた凧のように、 茫漠としたクオリアの大海に漂い出た。 いまここの時空から、どこにもない時空へ。非時へ。非空へ。 刻々とおびただしいほど異なるクオリアに出会う。 毎日、生命論や透明論の新しい一章が眠っている間に サブボディが書きあげられている。 とんでもない夢も見る。 夢は今年の授業で気づかなかったことを告げて 来年の練習のアイデアが次々と湧きでてくる。 数々の分身人格たちも猛然と活動しだした。 授業期間中は、教師人格の押さえがよほどきつかったのだ。 とんでもない多次元の旅で、何が出てくるかわからない。 しばらくは、この目くるめく旅を楽しもう。 サイトもわたしの中の誰が乗っ取って書くかも知れない。 しばらくは分身たちの乱痴気騒ぎも大目に見てやってください。 これら全員がわたしのサブボディたちなのだ。 ******************** 写真は大気圏外から撮った日没(NASA提供) 大洋上に立ち上る積乱雲が、人の踊りのように見える。 |
| 2007年12月8日 受信即発信の共振世界 |
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宇宙のすべてが共振するひもから 生成していることを想像してみてください。 すると、どこにも振動の発信源は存在しない。 すべてのひもが共振のネットワークに組み込まれているから、 発信するとは即受信の結果なのだ。 意識が主観的にどのように捉えようと、 受信即発信、発信即受信という現実は変わりようがない。 なかなか想像しにくいがぎりぎりのところまで 想像力を羽ばたかせてほしい。 するとこの共振世界の特異さが実感できるようになる。 受信者も発信者もいない。 主体も客体もない。 この共振世界はリゾームそのものである。 中心も辺境もない。 司令塔も指導者もない。 これが来るべき生存革命の運動原理だ。 ついに指導部も権力も発生しない運動原理が発見された。 生命共振に気づいた人誰もが 自分の命に最もやりたいことは何かを問い、 それを最もやりたい場所で、 最もやりたいやり方でするだけでいい。 自我や国家にとらわれない新しい生存様式がそこから始まっていく。 昨日のひらけをよむ |
| 2007年12月7日 ●静かな死のような眠り |
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7人の生徒がすべてサブボディを創り、 今年度の授業が終わった。 わたしは直ちに深い眠りについた。 よほど疲れていたのか、 打ち上げのパーティの間中死んだように眠りこけていた。 ひとつの仕事が終わった後の この心地よい眠りこそなによりの命の贈り物だ。 こんな日こそ死ぬのにもってこいの日だ。 願わくばこういうタイミングで死にたいものだ。 仮死と再生の間をさまよううちに 生命が次に何をしようとしているかが浮かび上がってくる。 そうなるとまた、次の創造欲のサイクルが始まる。 仮死の中、フォボスの夢でも見ながら思い切り異次元へとび、 命からの啓示を受け取ろう。 |
| 2007年12月6日 ●出家の道、在家の道 |
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本当は今日は「遁走のすすめ」を書こうと思っていた。 私の命は、自分が生きている場所が最適の場所でないと知ると、 命の最も根源的な生命力龍が、激しく尾をしばたいて脱出する。 私はこれまであらゆる場所から遁走に遁走を重ねてきた。 家からも、古くからの友人付き合いからも、スポーツ仲間からも、 日本からも、そして、世界からさえも遁走して、 挙句の果てに流れ着いたのがここヒマラヤだ。 だが、先週住処の米国に帰ったKatsからメールが来て、 6ヶ月もヒマラヤで過ごすと、 なかなか米国の生活に順応できなくなっている、という。 そうだろう。何もかも違う環境だからだ。 私一人なら、だた出奔し、出たきりになることも可能だったが、 生徒は自分の生活の場に帰りつかなければならない。 半年も学べば、何とか人々にサブボディメソッドを 教えることができるところまで到達した。 だが、それで食えていけるかは、土地土地によって異なる。 まして、先進国の生活にどう順応するかは、 生徒一人ひとりの苦闘に任されている。 出家の道ばかりではなく、在家の道も開いていく必要がある。 これから、ここを出た生徒たちとともに 切り開いていかねばならない大きい課題だ。 |
| 2007年12月5日 ●ここにいるよ |
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今日はアンスケの最後の授業を受けた。 彼女はリップル技法を使って、声のチャンネルを開きながら、 じょじょに私たちを過去の時空に導いていった。 「最初は今の声を出してください。 その声が青年の頃の声に変わっていく。 子供の頃の声に、赤ん坊の声に。 そして、動物の声に。」 導かれるに任せて私たちは子供の頃の声から 動物の声に変声していった。 「魚の声になります。魚の声は水中を伝わります。」 誰かがごぼごぼという声を出した。 その声は鯨の咆哮にそっくりだったので、 私は大好きな鯨の声を思い出した。 自分自身が鯨のように大海を漂いだした。 昔の友達の言葉を思い出した。 「リーさん、鯨ってなんて言っているか知ってる?」 「いいや。なんて言ってるんだい」 「ここにいるよ。」って言ってるだけなの。 "I'm here. You are there. We are happy!" 「すてきな会話でしょ。」 わたしはその頃ウィンダム・ヒルから出た鯨の声のCDを持っていた。 聴いてみると確かに彼女の言うように言っているように聴こえる。 純粋な生命共振の声だった。 わたしのサブボディの第一作はその鯨の声と共に踊るものとなった。 その後も、世界各地を旅するごとに鯨のCDを収集したが、 最初に聴いたポール・ウィンターと ポール・ハーレーによるものが最高だった。 鯨の声に聴き込んだ年季の桁が違うのが一聴瞭然だ。 お聴きください。 |
| 2007年12月4日 ●だまされやすい心 |
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今日生徒のラウラが最後の授業を行った。 いろんなサブボディボイスや、楽器を使って 最大限の音に増幅してから、それを止め、 「あなたの命のインナーサイレンスに耳を澄ましなさい」 と彼女は言った。 わたしのサブボディはいとも暗示を受けやすくなっていたのか、 その言葉に飛びつくように、インナーサイレンスに聴き入った。 それが思いのほか心地よかった。 昨日うかつにも3年前の神経症につながる記憶が決壊して 丸一日極度のアドレナリンモードが亢進し、 危険なからだの状態に陥っていたのだ。 それが吸い取り紙がインクを吸い取るように ラウラの言葉を吸い取って静まり返ることができた。 これこそ、土方巽が 「だまされやすい幼児の心になれ」 といったことだった。 野口晴哉が言った「天心」もこれだ。 私は人生で長いことこの下意識特有の 「暗示にかかりやすさ」を失っていたことに気づいた。 幼児のころ周囲の大人にだまされて 母や祖母の世界から引き剥がされたわたしは、 ずっとだまされることへの警戒モードが解けなかった。 50年間も自己催眠にかかれなかったのはそのためだ。 1998年、わたしが最初に発見した十体は このインナーサイレンスに聴き入る静寂体だった。 この静けさこそ、サブボディの世界への坑口だった。 |
| 2007年12月3日 ●弱く、弱く、もっと弱くなれ |
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7年前まで続けていた舞踏の世界公演を止めて ヒマラヤに共振塾建設をはじめたとき、 なにか命からひそかな声が聞こえた気がした。 今日までその声がなんだったのか、 うまく聞き取れないままだった。 7年目の今日ようやく届いた。 そのひそかな声を解読できた。 あのころの私の踊りは強すぎたのだ。 世界に向かって威嚇し挑みかかっていくような踊りだった。 踊り終わるとからだはアドレナリン満ち満ちて ぼろぼろになっていた。 命はもうおよし、十分踊ったよといってくれたのだ。 あのころの踊りを踊っているのは、私のからだに入ってきた 昔の死んだ友人たちであり、 それに共振する20歳のころの私だった。 飛んだり跳ねたり挑みかかったりしたのは 私の中の20歳の革命家人格が踊っていたからだ。 あれから衰弱体を追求しぬいてきて 今ようやくそれに気づいた。 私の踊りはもっともっと弱く、弱く、 自我から遠く、自己主張ではない踊りにまで 鎮まりかえる必要があったのだ。 そうならないとほんとうにか弱い命と共振できないからだ。 強者や健康者だけではなく、 虐げられ、生死の境をさまよっている命とさえ 共振できる踊りに降りて行かなければならないと、 命がささやいたのだ。 その声が聞き取れるようになるまでに 7年の衰弱体の探求の時間が必要だった。 昨日のひらけを読む |
| 2007年12月2日 ●生きるための鍵 |
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「生きるための鍵を見つけたいな、君と。」 という中島みゆきの歌(Cla[-]vis−鍵−)を聴きながら、 俺にとっての生きる鍵とはなんだろうと思い巡らした。 いくつか思い当たった。 「からだに聴く。生命に聴く」 ――野口体操の創始者野口三千三(写真)に学んだ。 これなくして今の私はないと言い切っていいほどの決定的な「鍵」だった。 「抱え込んだ疑問は自分ひとりで考えて解く」 ――吉本隆明から学んだ。 ほかの人の考えをなぞることと、自分で考え出すことの 決定的な違いを知った。 「エゴを捨て、相手の命とひとつになる」 ――タオ指圧の師、遠藤喨及氏から学んだ。 さまざまなエゴトリックからの脱出法を教えていただいた。 「生命は共振している」 家の外のこずえに留まっていたトビに教えてもらった。 おおい、何をしているんだい? と尋ねると、 世界と共振しているのさ。 と答えてくれた。 「ポケーとするのが一番大事」 息子の岡清火が20ぐらいのころにぽつんと言った。 そのころはまだ意識をとめて下意識状態に入ることを知らなかった。 ポケーとすることは人生の無駄。罪悪だとさえ思い込んでいた。 意識への囚われから自分を解きほぐすきっかけを与えてくれた。 数えてみればたったこれだけ。 生きる鍵といえるほど大事なことは そうそうあるものでもない。 |
| 2007年12月1日 ●脳内の三途川 |
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脳内にはあの世とこの世を分ける三途の川は流れていない。 命は四次元時空のこの世と、 時のない非時非空の次元を自在に行き来している。 命が感じるクオリアは、時のない微細七次元で永遠に振動し続けている。 一度長期記憶となったクオリアは 脳内のおそらくはグリア細胞のどこかに保存される。 命はそれをいつでも自在に取り出し味わうことができる。 死んだ母の顔や声をいつまでも変わらずいつでも味わえるのはそのためだ。 |