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| からだの闇を掘る |
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2008年5月10日
●命の流儀
ブログ「内田樹の研究室」でマイクロスリップについて述べられていた。
「マイクロ・スリップというのは、未知の入力に臨機応変に対応できるように、動きの決定をぎりぎりまで遅延させることである。
例えば、野球のバット・スイングにおいて、体軸は十分に旋回し、バットに十分なエネルギーは備給されているが、バットはボールと接触する最適のタイミングと空間座標を求めて、ぎりぎりまで「ためらっている」打者は、「えいや」とヤマを張って、バットをぶん回している打者より打率が
高いであろう。
すぐれたアスリートは「環境との接触面は最後まで、環境の変化に注意を向けている」というしかたで身体を操作することができる。
未知のものが不断に入力してくるような状況では、リジッドなシステムよりも、環境的与件の不意の変化に即時対応できるファジーなシステムの方が有利である。
マイクロ・スリップとは語義的には「エラー」にまでは至らなかった行為のわずかな「言い淀み」
のことである。」
この感覚はわたしには深く親しいものだ。
わたしは随分と前から、態度の表明をぎりぎりまで遅延させる生き方をしてきた。
意識では前もって決めずに、最後の最後にからだがどっちへ転がるかで生き方を決めてきた。
そのほうが確かなのだ。
だが、それはここで言われているように、有利かどうかという効率の問題ではない。
マイクロスリップは、単なる行動の特性ではない。
命はいつもマイクロスリップしている。
マイクロスリップはそのまま訳せば微小錯誤となるが、
この意味で佐々木正人が提唱する<微小探索>という訳語の方がよい。
命はいつも微小探索している。
命はいつもゆらぎ、よどみ、たゆたっている。
命は決定などしない。
命はいつも遅延しているのだ。
命は与えられた条件をすべて受け入れ、
しかし、常に動きながら、機を待ち、
創発によって突破していく。
それが命の流儀だ。
何においても、この命の流儀に学び続けることだ。
わたしは、いつもなにかを言いよどんでいる。
言いたいけれどいえないことをいっぱいかかえている。
やりたいけれど、まだやれないことが無数にある。
それでいいと思う。
機が熟すれば、それらは自ずから出てくる。
命の流儀では、動きながら待つというのがことさら大事だ。
座して待つのではない。
いやなことからはすたこら逃げ続ける。
逃げること、場所をずらしつづけることほど大事なものはない。
命とはかすかな試行錯誤の連続なのだ。
逃げながら、降りかかってきた条件をいつか創発によって突破する日を準備する。
逃げるとは適度な距離をとることなのだ。
日本国家から、わたしはヒマラヤに逃れたが、
それは適度な距離が必要だったからだ。
ここまで遠ざかってはじめて、
国家を突破する創発を、着々と準備することができるようになった。
命の流儀に基づくこと。
たゆたいといい、よどみというのは、
命が機を待ち続けていることを意味する。
命はいつも最適のタイミングをみはからっている。
そして、最適のタイミングで創発によって突破するのが命だ。
生命史で、プロテオバクテリアによる、酸素呼吸の発明、
シアノバクテリアによる、光合成の発明、
単細胞から多細胞生命への転生、
これらの命の創発が、絶妙のタイミングで起こって来たことを思うだけでいい。
人類が何千年も、国家というようなろくでもないものに虐げられてきたのも、
それを突破する最適のタイミングを見計らって来たからだ。
国家の死滅がまだ起こらないとすれば、それは今ではまだ早すぎるのだ。
自我がもっと徹底的に処理されるようにならない限り、
国家もまたなくならない。
自我と国家は双子の兄弟だ。
自我幻想と国家幻想は双子の兄弟なのだ。
だんだん、それが透明に見えてきた。
フーコーの慧眼がいまさらに底知れず深くまで届いていたことを知る。
「からだの闇」をもっと読む
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2008年5月10日
末尾部を少し改稿補筆しました。
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2008年5月6日
●エゴだけがテリトリーを持つ
自全(自分の全体)を旅し続けていると、ときどき意外なことに気づく。
自全を構成する構成員は数え切れないが、主なものをあげると、
からだを構成する60兆の細胞生命の共振から生まれるからだの微細な変化、
生命の傾向性、
欲望や衝動、
情動や感情、
創造性、
サブ人格たち、
エゴプロセス、
エゴとそれ以外のプロセスの間に生まれるエッジ(これはエゴが勝手につむぎだすものだ)、
エッジが長年の間に固まってしまった硬結(ブロック)、
超自我、
元型、
――などなどだ。
(それぞれに無数の多様性を持つがここでは触れない。)
自全ではこれらの無数の要素が共振し、絡み合い、無数の出来事が生じている。
だが、自全の中のさまざまな要素の中で、
エゴ(=自我)だけが自分のテリトリーを持つと思い込んでいる。
他のメンバーは自分のテリトリーなどにはお構いなしにてんでに共振している。
だが、エゴだけが、これは自分に属する、これは自分じゃないと、いちいち区別している。
それに気づくと、なんてこっけいなことをしているんだ、みんな自全の仲間じゃないかと
エゴをからかいたくもなるが、エゴは大真面目だ。
そもそもエゴは自分の中でエゴだけが存在していると思い込んでいる。
そのほかの要素が存在知ることにもうすうす気づいているはずだが、
等閑視している。無視すればないも同然だと思っているかのようだ。
かくして等閑視されたものはすべて下意識や無意識の闇の中に放り込まれる。
近代人の下意識の世界は、そういう(エゴにとって)みすぼらしいものでいっぱいになっている。
未開人の下意識はそうではない。動物や自然の存在と人間が等価に付き合う豊かな流動的知性と共にある。
近代人でも意識を止めれば、未開人と同様の流動的知性を取り戻すことができる。
長い訓練が必要だけれど、不可能ではない。
流動する自全と共に生きていると、
エゴが主張しているテリトリーの滑稽さが透けて見えてくる。
お前さんが思い込んでいることはみんな幻想なんだよ。
自全の中に自分と自分以外の境界なんてないんだ。
自全の他のメンバーは皆それを知っている。
知らないのはエゴ君、きみ一人なんだ。
現代の知識人はことごとくこのエゴに囚われている。
だから、知識人たちが見る世界は、彼らが囚われているエゴを投射して見ている。
エゴを止めるとそんなことも透明に透けて見えてくる。
たとえば、免疫というシステムがある。
免疫学者は、免疫とは自己と非自己を区別する機能だという。
それはそうなのだが、その機能だけが強調されると、おかしなことになる。
人間の生命とは60兆の細胞の共振体だが、それだけではない。
人体内や表面に60兆に倍する100兆以上の細菌が棲息している。
わたし達の実態はこれら60兆の細胞と100兆以上の細菌との共振体なのだ。
だが、そういう事実は人間にふさわしくないと無意識に非価値判断され、だれも触れない。
本当は細菌との共振の仕組みこそ生命の深く神秘的な事実であるのに、
そういう事実は覆い隠されてしまう。
免疫とは自他を区別するだけの機能ではない。
自他を超えた共振を支える仕組みでもあるのだ。
だが、エゴに囚われた目にはそういうことは映らない。
もうそろそろ、エゴという幻想に気づかねばならないときだ。
テリトリーを持つと思い込んでいるエゴに囚われているから、
国境を持つ国家の存在のおかしさにも気づかない。
自我という個体幻想と、
国家や国境という共同幻想は対をなして互いの存在を支えあっている。
かつて吉本隆明が解明した「共同幻想論」の成果は
フーコーの権力論の成果と共振させて、そこまで拡張される必要がある。
フーコーは近代西洋の自己という幻想が、臣民として国家を支えていることを解明した。
(以下改稿補筆しました。)
今後明らかにされる必要があるのは、個々のなかで、エゴを解体していく手続きなのだ。
わたしたちは自分や自我という幻想から解放されねばならない。
それにはまず、自我=エゴに対する違和感を長い時間をかけて育てていく必要がある。
自我や意識偏重の意識だけが人間のあり方ではないことを知らねばならない。
それらが重要視されるのは資本主義社会の原理に組み敷かれて生きる場においてだけだ。
それに囚われていることがどんなにばかげたことか、
今世紀の人々は既に思い知りつつある。
次の世紀までの世代が意識と下意識を等価に往還できる透明覚を育て、
その中でエゴなき社会関係が創発される日が来る。
そのとき、エゴと国家は一挙同時に死滅する瞬間を迎えるだろう。
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| サブボディ共振塾ジャーナル |
2008年5月9日
●衰弱サブボディ-コーボディ劇場
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衰弱体によるサブボディ-コーボディ劇場が始まった。
生徒のサブボディソロに続いて、全員が衰弱体の歩行で集まってくる。
それぞれ異なる次元をさまよっている。
そで振り合いそうになって、触れようとしても相手は異次元に属していて触れることができない。
関わることのできない存在に関わろうとするが関われない。
だが、ふと気がつけば同じ次元に並んでさまよっている。
あるいはふと前方に自分が歩いているのに出会うこともある。
あるいは前世の父母がよろばっている。
すでに自我や自己はすっかり失っている。
ただかすかな共振だけがゆらいでいる。
ガラスの目玉、
足裏のカミソリ、
頭上の水盤、
蜘蛛の糸に吊られた関節、からだの中の空洞、
奥歯の森、
脚のしげみ、
異界の声と響きあう体腔、
すがりつく妄念、
あきらめる妄執、
すべてはこの世とあの世の間で、行き場を無くしてさまよっている。
ふと気がつけば前世の母の後を付いている。
行きずりの人と並んで歩いている。
自己も他者もない。
ただほのかに響き合っている。
もっとも衰弱し、自我も自己もなくしたからだになってはじめて、
命の共振力を透明に見せることができる。
それ以外のからだでは、自我や自己が強すぎるのだ。
衰弱体の特徴である小刻みにぶれ続けるからだは決して写真に写ることがない。
その場で見る人にしか伝わらない舞踏になってきた。
これが舞踏の運命だ。
「共振塾ジャーナル」をもっと読む
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| 実技ガイド |
| <急>に至る道 |
| 実技ガイドの<急>に至る道を改稿しました。 |
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●<急>とはなにか
<序>から<破>を経て<急>にいたるいくつかの坑道がある。
ひとつめから見ていこう。
1.揉み寄せの<急>
<序破急>の<急>とはなにか。
世阿弥は言う。
「急と申すは、挙句(=最後)の義なり。
その日の名残(=別れ際)なれば、限りの風(終末にふさわしい趣き)なり。
破と申すは、序を破りて、細やけて、色々を尽くす姿なり。
急と申すは、またその破を尽くすところの、名残の一体なり。
さるほどに、急は揉み寄せて(=変化を多くして)、乱舞・はたら き、
目を驚かす気色(けしき)なり。」
『花鏡』
「ことさら、挙句(=最後)急なれば、揉み寄せて(=テンポを早め、畳みかけて)、手数を入れて(技巧的演技を集中させて)すべし。」
『風姿花伝』
「万曲の面白さは、序破急成就の故と知るべし。
もし、面白くなくば、序破急不成就と知るべきなり。
恐らくは、なおこの心、得ること如何(いかん)。
奥蔵心性を極めて、妙見に至りなば、これを得べきか。
(どうすれば、この心を得ることができるのか。
心の奥底にひそむ根源の性まで極め尽くして、不可思議の悟りを得れば、
序破急の要諦を体得しうるかも知れない。)」
『拾玉得花』
一つ目の<急>にいたる確かな道は、揉み寄せの<急>だ。
手数を尽くして、持てる技のかぎりを出して畳みかけていく。
すべて出し切れば、自分にとっても見る人にとっても、
最後まで踊りきったという終わりのクオリアを、
共有することができる。
これは、努力しだいで誰にも到達できるもっとも確かな道だ。
下記の、2、3、4の<急>に至るまでは、
揉み寄せを練習して、身に着けてほしい。
2.転生の<急>:(世界像=自己像チャンネルにいたる<急>)
踊りの<序>から<破>にかけては、
さまざまなチャンネルをへめぐっていく。
体感チャンネル、動きのチャンネル、映像、
音像、情動のチャンネル、関係像のチャンネル……と。
そのたびに、新しい次元が開け、自全のなかのさまざまな
未知の次元を開畳していく。
それが、自全を旅するサブボディの踊りだ。
そして、その旅は、最後に世界像=自己像のチャンネルに
いたることで、極致にいきつく。
世界=自己チャンネルは、単チャンネルとは違い、最大の複合チャンネルだ。
それではクオリアがまるごとクオリアとなって多次元の厚みを増す。
謎のすべてがそこで結びつく。
なぜ、ここまで踊ってきたのか。
ついに命のなりたいものになりこむためだ。
異界に転生する<急>だ。
どこにもない世界と自分を命が創発する。
その世界の住人となって生きて見せるのが転生の<急>だ。
ここにいたれば、何度も何度も繰り返しそれを踊ることだ。
それを続けていけばいつの日か謎が解ける。
その謎は踊り続けることによってのみ透明化する。
これが自全と世全に至るサブボディの旅の<急>だ。
3.臨生の<急>
衰弱体の踊りができるようになれば、
他界の死者に転生することで、<急>に至る。
他界から死者のまなざしでこの世界を見つめる。
それが臨生のまなざしだ。
健全なからだと自我の執着を脱ぎ捨て、
他界の住人に転生する。
そのとき踊り手は、個としての生命ではなく、
類としての生命に転生する。
死体となってはじめて、届けることのできる
まなざしがある。
臨生のまなざしを観客に差し向ける。
それが最後の舞踏だ。
生者の世界は、輝かしいクオリアに満ちている。
死者はそのクオリアと共振することができない。
生あるものだけがクオリアと共振することができる。
だが、生者はそれを忘れて、
何か楽しいことでもないかと劇場へ足を運ぶ。
その生者たちに突きつける。
きみの生こそが奇跡なのだ。
そこで生きろ!
そここそが命があらゆるものを創発する奇跡の場所だ。
土方巽は晩年のソロで
ひたすらそのメッセージを届け続けた。
輝きを失った日常の生に溺れる人々に
命の創発の輝きを思い出せと語り続けた。
その臨生のまなざしの意味は
愛弟子の芦川羊子にさえ理解されなかった。
そんなものだ。だが、受け取るべき人には確かに届いたのだ。
4.使命に至る<急>: 「幾万回でも踊れるか」と問う。
その踊りが<急>であるかどうかは
命にこの問いをぶつければすぐ分かる。
「この踊りを幾万回でも踊れるか?」
もし、命が「然り!」と答えれば
それは紛れもないきみの<急>の踊りだ。
倒れるまで踊り続けたまえ。
踊りとはなにか、なぜ踊るのか、――その答えはすべて踊り続ける中でのみ体得される。
それを踊るのがきみの使命だ。
使命に至ればいつ死んでも惜しくはない。
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