生命共振を世界に
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今日の更新
からだの闇を掘る




内なる革命

24時間の内なる革命

サブボディ・モードに入ろうとするとき、塾生が最初にぶつかるのは、下意識からしきりに日常的な思考が湧き上がってくることだ。その思考は、良い悪い、正誤、内外、自他、敵味方、美醜などの二元論的判断に拘束された日常思考は、非二元=多次元の生命共振の次元数が著しく減少した低次元思考だ。生命の生きるクオリアの世界は上下も善悪もない、多次元変容の世界なのだが、二元的な常習思考によって、そのあるがままの世界に入ることを妨げられる。サブボディプロセスでは、日常体のたがを一つ一つ外していく。原生体に出会うときは、からだのなかのもっとも低い生命傾向に身をゆだねる。とろけたいとか、なまけたいとか、這いずり回りたいとかというみっともない動きを探す。だが、まず、美醜を判断し、引き止める知性人が顔を出す。「お止め、みっともないことは。あなたは人間でしょ」最初の美醜・善悪・正誤に守られた「人間関門」だ。均整の取れた顔の奥に潜んでいる、サブ人格に出会い、異貌体に出会うときにはさらに激しくなる。胸や腰の秘関を動かして,奇妙な体型になり、顎や口や目をゆがめて、これまでしたこともない顔をする。だが、最初のうち塾生徒は顔ひとつ歪めることができない。日常体に張り付いた左右均整の取れた知性的なペルソナをなかなか外すことができないのだ。それを外そうとすると、かならず、あれこれ判断して言い立てる自我が止めにかかる。「止せ、みっともないことは」「馬鹿げた世界だ。今お前が入っていこうとしているのは」「だまされるな。なにか悪い仕掛けが待っているかもしれないぞ」「いやなことなどすることはないんだ。自分を守れ」「醜い自分になど出会う必要はない」まあ、ありとあらゆる理由が雨あられと降りかかる。自我は自分が支配できない影や副人格の世界に入るのを強力に妨げる。そこは怖い異境だと思い込んでいる。この関門で引き返していった生徒も随分いる。まだ、サブボディ共振塾に入る時期ではないのだと見送った。引き返してから、しばらくして戻ってくる人もいる。それを乗り越えて、いろいろな自分に出会う楽しさを知るまでには随分時間がかかる。それを通り過ぎれば急に自分の中の風通しが良くなるので分かる。だが、その世界に入り、なにか新しいことをしだそうとすると、かならず、いやな批評家が出てくる。シニカルに批評し、面白くないぞ、美しくないぞ。全然だめだ。お前には創造力がない。などと容赦ない言葉を浴びせて自分をぶっ潰しにかかる。なにか、未知の世界に飛び込もうとする勇気ある少年が出てきたときには、その少年の意気をくじく、老婆心の塊のような人がでてくる。お前にはまだそれをする準備ができていない。無責任なことはするな。人を巻き込んだらどうするつもりだ。などと、ありとあらゆる言葉で脅して引き止めようとする。その次は、からだから自我を去る恐怖に襲われる。通常日常自我は、自分のからだを支配しきっているつもりになっている。ところが、自我を止め、からだから勝手に出てくる動きに身を任せようとすると、自分を失っていくような強烈な不安に囚われる。どこか別世界に連れ去られていくような感覚がする。自分ではなくなる恐怖が湧く。もう、帰ろうと後じさりするやつが出てくる。ここを通り過ぎると、生命が共振しているわずかなクオリアを捉え、ありとあらゆるクオリアが訪れるのをそのまま受け入れ、それらに身を預けて動けるようになる。憑依体だ。この快感に触れ、憑依体を制御することができるようになれば、何だ、何一つ恐れることはなかったんだと気づく。失うものは何一つない。逆に、これまで自分のものとは思っていなかったさまざまなクオリアが次々と自分のものになっていく。このプロセスは命の全域にまで膨らんでいく。自分の中のほかの人格や、障害者のひとだけではなく、他の動物や、もっと遠い下等生物へ広がる。動物だけではなく、植物の、静かなクオリアにも触れることができる。やがて、生命は生きとし生けるものだけではなく、死者とも共振しているのを知る。以上のような思考や判断はわたしにもしょっちゅう訪れる。いつもは慣れているので、またねとやり過ごすだけでいい。だが、新しい試みを実験するときには強烈な批評家や老婆心の大群が押し寄せてくる。恐ろしい自己否定の圧力に見舞われる。

どうして、平和に生きている若い塾生に醜い障害者や怖い死体になれと押し付けるのだ。機嫌よく探れるサブボディではなぜ不十分なのだ。そんな動機が塾生自身から出てきているのならいいが、お前が勝手に誘導しているだけではないのか? お前一人の趣味のために、塾生を利用しようとしているのではないのか? お前の隠された振付家としての野望のためにかれらを使おうとしているのではないのか?わたしの超自我は長けていて、わたし自身の論理をことごとく逆手にとって責め立ててくる。サブボディのなかから自発的に出てきたものでないとだめだという、思い込みがわたしの中にある。だが、サブボディからでてくる気配は、あまりにかすかで、なかなかキャッチできるものでもない。だが、これまで、そろそろ頃合だろうと提案したものは意外とすべて塾生は受け入れてくれた。わたしのなかの老婆心的な危惧のほうがいつも過剰にわたしを引き止めてきていたことを知らされる。このほかにも書ききれないほどの無数の障害が日々訪れる。わたしの自我は激しく葛藤する。なんでこの面白さが分からないのだ?! だが、生まれてこようとするサブボディは胎児であり、胎児の示す反応は、無垢なので問題があるとすればすべてわたしにある。問題が起こったときは100%、産婆であるわたしが提起する調体法が不十分であることが原因である。けっして人に責任をなすりつけることができない、それが産婆の宿命だ。不断の自己革命が必要とされるゆえんだ。

 

24時間の産婆

一日24時間中、塾生たちのサブボディ=コ―ボディを思い出し、半眠半覚のドリーミングモードで「次は何だろう?」といのちに聴き続ける。すると面白いように毎日、わたしのサブボディは新しい実験の目覚ましいアイデアを思いつく。共振塾は従来の学校がもつ「教師 - 学生」というツリーシステムの革命を続けている。すべての塾生は共同研究者としてお互いのサブボディ=コ―ボディの誕生のためのよき産婆となり合う。未来社会の萌芽形態でもある産婆リゾームの共同体を築くことを夢見ている。

 

 

からだの闇を掘る



いのちの肯定

未来の倫理

いのちの共振の微妙な領域で何がどうあるべきか、もっとも救いとなる指針を提示しえたのはジル・ドゥルーズだった。

「自分を発現させすぎないこと、

他者と共にある自分を発現させすぎないこと、

他者を発現させすぎないこと、

発現したものをすべて世界に住まわせること

わたしたちの世界を多様にすること」(『差異と反復』1968、パリ)

ドゥルーズは、今日なお人類の教師である。これ以上の未来に役立つ倫理を提起した思想家はほかにいない。

生命を全肯定する

「ドゥルーズは、無条件に個体の生存を肯定するし、個体のいかなる変異も肯定する。」(小泉義之『ドゥルーズの哲学』(講談社現代新書)

わたしの実践はこの倫理をどこまでも押し進めるものだ。

 

生命の自己治癒力をうながす

あらゆる生命のうちで人間だけが病院に行く。他の生きものは自分で治す。

人間も生物として自己治癒力を持っているのに忘れている。病院を脱ぎ捨て、生命の自己治癒力を開こう。

 

 

細胞間のさまざまなコミュニケーション

自己治癒の仕組みには、40億年の生命の叡智が詰まっている。人体が持つ100兆の細胞は互いに共振している。上図のように、さまざまな方法でコミュニケートしている。人体のような複雑な多細胞共振システムでは、呼吸系、循環系、神経系、免疫系などさまざまなシステムを通じて多次元共振している。臓器から臓器へ、細胞から細胞へさまざまなメッセージ物質に乗ったクオリアが届けられる。悪い所があれば、その部分の細胞は救援信号を出す。するとその救援信号に応じて、免疫系の白血球が集合して問題になっているバクテリアや初期がん細胞などを食べて治癒する。

免疫システム

からだの細胞からの信号に応じて、さまざまな救援物資、生長ホルモンや栄養素が送られる。そして血流を通じて生長ホルモンや栄養素が送られ、眠っている間に修復される。だが、ときに体が凝ったり、精神的に解離されると、その全身共振の一部がブロックされ阻害される。怒りや過度な緊張に囚われていると、全身が交感神経モードになり、免疫系が停止し、問題に対処することができなくなる。多忙な仕事や問題に殺到されているときに、癌などに侵されやすいのはそのためだ。

 

全身呼吸とサブボディ探体

共振塾では、毎朝生命の呼吸、全身呼吸などからはじめる。そして、各種の調体・探体を通じて、全脳心身の共振を活性化する。からだの各部を多次元的に動かし、脳心身のあらゆる細胞に新鮮な血液を通す。

サブボディ技法の特徴は、からだだけの血行を良くするだけではない点だ。

からだを多彩に動かすことで、からだや脳細胞内の内クオリアもまた活性化される。

日常の意識が忘れている記憶や夢に触れ、さまざまにからだを動かす。とくに、なんだかよく分からないかすかな不快感や、触れたくないおそれの感覚にも毎日触れる。触れたくないことでも毎日触れていれば次第に馴染みになってくる。想起するということはその都度再編集することなのだ。

それによって、解離されていた記憶やからだの細部の凝結がほぐれる。

新しい経験と発見が毎日訪れる。いつも全脳心身間の多次元的共振を活性化し続ける。脳内の海馬では毎晩新しい神経細胞が生まれている。

新しいからだの経験があった日は、新生した神経細胞から、古い神経細胞に枝が伸び、結びつくことによって定着する。新しい心身の経験がなければ新生細胞は用がないものとして死んでいく。からだの闇の忘れていたクオリアをからだで動いて、全脳心身の多次元共振を活性化し続けることが

もっとも本質的な健康につながる。脳心身の微細な凝結をほぐし、解離を解き、これまでであったことのないクオリアとクオリアの新鮮な出会いによって新しい創造が毎日生まれ続けるからだになることだ。

 

海馬の新生ニューロンの生長をうながす

大脳の基底部にある海馬では毎夜新しい神経細胞が生まれている。20世紀末以前の脳科学では、成人の脳の細胞はただ死滅していくだけだと捉えられていた。とくにストレスに遭った脳細胞はたやすく死滅する。当時、インドで学校建設をしている最中に、激しいストレスから神経症に見まわれていたわたしは、こうして毎日大脳の神経細胞が死滅して二度と再生されないのかと、絶望に見舞われたものだ。百年続いた脳科学のドグマだった。

 

20世紀末の大発見

だが、20世紀の末に大脳の海馬で、毎夜神経細胞が新生していることが発見された。 

 

 

 新生ニューロンの成長

そして、ニューロンの新生は、多彩な運動や新鮮な経験によって促進されることが解明された。生きる希望が湧いてきた。よし、それでは死滅していくより速い速度で新生ニューロンを成長させてやろうと、研究を重ねた。

脳科学者は、何もない貧しい檻の中で育てたマウスに比べ、多数の運動具や迷路がある豊かな環境で育てたマウスの方が、新生ニューロンが旺盛に生長することを見つけた。新生細胞は日々の新鮮な経験を古い記憶が保存されている大脳皮質の細胞と結びつけるために必要なのだ。これに対して新鮮な経験を得ることができない貧しい環境で育てられたマウスの新生細胞は用がないものとして死滅していく。そうか、そうか。では思いきり毎日とんでもなく新鮮な経験をしてからだを動かしてやろう。からだの闇の探索が加速化されたのは、その頃からだ。共振塾では毎日、これでもかというほど、思いもつかない坑道を通ってからだの闇を掘る。そして、出会った新しいクオリアをからだで踊る。サブボディ技法を勇気づけ勢いづけてくれたのは、20世紀末の脳科学の発見だった。

 

 

 

ロッシの精神生物学

精神生物学者のロッシは、これら脳科学や遺伝子研究の進展に伴う新しい心身科学の先端を切り開いている。人間の生の心身相関の仕組みを、内分泌システム、免疫システム、神経システム、メッセージ物質などの複雑なシステムの総合として捉え、その複雑多次元なネットワークシステムの中を心身の変化から生じるメッセージ物質が縦横に駆け巡り、各細胞の核に折りたたまれている即時遺伝子を発現させては新しいたんぱく質を産生して事態に対処している脳心身の仕組みが解明されてきた。そこでは、新奇(Novelty)かつ神秘的(Numinousum)な体験をすればするほど、即時遺伝子を刺激して新しいニューロンを生長させることが見出されている。変化に富んだ場や体の動きを伴う子ことも神経生長に貢献することが確認されている。からだの闇にサブボディを探る作業は、まさしくこの新奇さと神秘にクオリアに満ちた世界だ。この探求を続けていくことが、大量死しつつある脳細胞を補完し、新しいニューロンを発現して生き延びていく道だということを知ることができた(ロッシについては『精神生物学』参照)。

からだの闇に潜んでいるさまざまな傾性を掘りに掘った。まったく動きたくない怠惰な傾性から、アメーバや想像上の原生生物になりこむ、原生体の探体や、影やノットミーと呼ばれる隠れた人格になりこむ異貌体、何かに強いられて動く傀儡体など、誰のからだの闇にも潜んでいる傾性に耳を澄ましてなりこんでいくサブボディ技法が開かれていった。とりわけ、自分の中のサブボディだけではなく、他の生徒のサブボディにも直ちに共振するコーボディは、思ってもみない新鮮な体験になる。そして、眠っている内にその新しい経験を古い記憶と結びつけるために海馬で生まれた新生ニューロンが、どんどん伸びていくのだ。

なによりわたし自身の命がサブボディ・メソッドを必要としたのだ。もちろん、わたしの生にとっていいものは、他の人の生にとってもいいに違いない。わたしがパフォーマンスを主とするダンサーから、サブボディの産婆という生に転身したのはそれによる。

サブボディの産婆とは、これら新生ニューロンの産婆となることでもある。苦しいエッジにぶつかることも、苦労してそれを克服することもすべて新鮮な体験となり、新生ニューロンの生長をうながす。気づかないところでその人の脳心身を活性化しているのだ。調体や探体はただのからだの運動ではない。全脳心身の共振を多次元的に活性化し、創造性に満ちたものにつくりかえることだ。自信を持ってより新奇な、よりわけのわからない神秘的な調体・探体を見つけてください。

からだの闇、自全の謎を探索する旅ほど、驚くべき新奇さと神秘さに出会えるものはない。わたしは、海底の生物の神秘や、高山の神秘、微生物の神秘の世界も、30代の頃にくまなく探訪してきたが、からだの闇には、その幾千万倍もの神秘と謎に満ちている。

サブボディにはじめて触れるときはだれもが違和感と心地悪さを感じるものだ。意識が切り落とし、周縁化してきたもので詰まっているからだ。だが、その当初の心地悪さを越えれば、日々新奇と神秘とまばゆいほどの命の豊穣に触れることができる。脳細胞が活性化し、未知のつながりを作り出し、日々新しい創造力を弾けさせていくことを体験するほど楽しいものはない。病んだ人、衰えかけた人、探究心に満ちた人、だれもに、ヒマヤラへ来たれと、呼びかけ続けるゆえんだ。

 

からだの闇を掘る




産婆

相手の問題を他人事とせず、わがこととする

わたしたちが試みている<共同産婆>という共同体を創る試みは、自分だけではなく、お互いのからだの闇に耳を澄まして、そこにサブボディー=コーボディの誕生の息吹を聴けば、その安全な誕生のために助け合うというものだ。

おなじような試みは、すでにわたしの指圧の師・遠藤喨及氏が創ろうとしているタオサンガにおいて早くから取り組まれている。 幾度もトライしては挫折し、そしてまた挑戦しようとしている。そのなかで何がもっとも大切なことなのかが、浮かび上がってきている。

<他者をケアするコミュニティ>を共創するということだ。

 遠藤: 僕が創りたかったのは、他者をケアーする修行コミュニティの場だったんです。そのような「場」は、そのグループの成員一人一人に、少なくともお互いをケアーする心と行動がなければ生まれません。

 -- そうですね。

 遠藤: 他者をケアーするにおいては、

 1)相手の問題を“他人事とせず、わがこと”すること。

 2)肯定的関心をもって、相手に問いかけること。

 3)相手の気持ちを想像し、共感しながら話を聞くこと。

の3つが基本になります。

 実にそのとおりだ。

だが、これを実現するには、多くのエッジを乗り越えなければならない。

 わたしたちは、これを一緒に乗り越えていくという課題に直面している。

 

共同産婆への道

前人未踏のからだの闇で自分の舞踏の内的必然を探るのがサブボディ=コーボディ共振舞踏であり、その誕生を安全に促すのが産婆の仕事だ。かすかなかすかな気配に耳を澄ます。どんなサブボディが自分のそして他の塾生のからだの闇で産声をあげようとしているか。そのかすかな兆候に耳をかたむけ、最善のタイミングでそれをつかむよううながす。一瞬でもタイミングを誤れば生まれかけのサブボディやコーボディが水に流れてしまう。スリリングな危機に満ちた仕事だ。自分で知っているだけでも数十に上るサブボディ=コーボディが生まれることなく目の前で水に流れていった。気付かなかったものまで入れればおそらくこれまでに幾千幾万のサブボディを知らずに水に流してきたことだろう。だが同時に自分や他の人のからだからの闇から見たこともないサブボディ=コーボディが出てくる瞬間に立ち会うのは人生で味わえるもっとも深い喜びだ。産婆冥利に尽きる。この苦楽を全員で共有する。わたしたちは今、ただ一人や二人の産婆がガイドするのではなく、共振塾にまだ残るツリー状の階層秩序を消し、全員がお互いのサブボディ=コーボディ誕生を助け合う真にリゾーム的な<相互産婆>、<共同産婆>に生長しようとしている。

冒頭に述べた<相手の問題をわがこととする>いのちの共同体にわたしたちがまるごと変成することが必要なのだ。

共振塾ではこれまでも授業の最初の日、お互いの希望と抱えている心身の問題を自己紹介で語り、シェアする。共振ヨガや、共同探体を通じて生徒ではなく、全員が共同研究者になることを目指してきた。それをもっと徹底して、自分のからだの闇だけではなく、全員のサブボディ=コーボディの集合的なからだの闇に耳を澄ます<相互産婆>になる方法を見つけ出そうとしている。

全員が24時間、ただ生まれようとしているサブボディ=コーボディの胎動に耳を澄ます。一心にその見えないものの気配と共振する。自我や判断が出たとたん生まれかけているサブボディ=コーボディは流産の危険にさらされる。待ったなしだ。ひと時も気を許せない。日常世界の「自分が大事」という姿勢から産婆共同体までの気の遠くなるような飛躍が要求されている。

 

からだの闇を掘る




けむり虫の歩行

『病める舞姫』を現代の各国の若い人々に受け継ぐことができるようにするためには、その長く難解な文章の精髄を、短い舞踏譜に結晶させることがもっとも実践的である。共振塾と各国でのワークショップを通じて実験してきたが、その第一弾の成果がこの舞踏譜「けむり虫の歩行」である。ギリシャのワークショップでは、これを十日間に分けて練習した。いかにからだの闇で起こっているかすかな生命共振のありように耳を澄ますか、土方巽が探求したのはその一点だった。日々の練習に役立ててくだされば幸いである。各自が『癇の花』や『病める舞姫』の中から深く共振する文章を選び出し、序破急を考慮しながら並び替える作業から始めることをお勧めする。そしてそこに自分固有のクオリアをじょじょに加えていけばいい。

1.「そうらみろや、息がなくても虫は生きているよ。あれをみろ、そげた腰のけむり虫がこっちに歩いてくる。あれはきっと何かの生まれ変わりの途中の虫であろうな」

2.言いきかされたような観察にお裾分けされてゆくような体のくもらし方で、わたしは育てられてきた。

3.からだの無用さを知った老人の縮まりや気配りが、わたしのまわりを彷徨していた。

4.からだの秘膜が細心の注意をはらいながら膨らんでいく。そして、得体のしれないものに出会うと縮まる。

5.足が見知らぬ世界に踏み込んでいく。からだから引き上げていく祖形めいたものがときときとした気品に混じって消えていった。

6.顔から、見えないものをとらえる無数の触角が生えて、伸び縮みする。

7.尾が背後霊のありかを探り、お伺いを立てている。

8.背骨が不意にずれたり、思いもかけぬ方向にねじられたりする。

9.わけの分からない世界に襲われ、喰われ、侵食されつづける。ときにからだが吊り上げられて、気がつけば見知らぬ世界に置かれている。

10.耳という耳、指という指を開き、いつどこから来るかわからない襲来に備えている。

11.額に目玉をつけていなければ、空気の中の見えない大きな生きものも見ることができない。

12.息の短い明暗が、からだの闇の動きにつながっている。

13.からだの中に得体のしれない虫や熱が忍び込む。湯気にさらわれ、雪に食べられ、鯰に切られ、川に呑み込まれる。

14.からだの輪郭をなくし、けむり虫になり、野菜畑の上を飛び、地上のもののどの形を借りようかと物色している。

15.蜜蜂の群れ、モグラのトンネル、伝染熱になる。

16.一人の婦人に睨みつけられ、からだが棒になる。

17.人間、追い詰められれば、からだだけで密談するようになる。

18.泥にはまり、泥の中で胎児になる。もうひとりの胎児の頭をねじりながら、子宮内の夢を見る。

19.無数のものがからだに乱入し、各部がてんでバラバラに変容するキメラのからだになる。

20.そんな中でからだに霞をかけて、かすかに事物を捏造する機会を狙っている。


 


からだの闇を掘る



けむり虫の歩行

『病める舞姫』を現代の各国の若い人々に受け継ぐことができるようにするためには、その長く難解な文章の精髄を、短い舞踏譜に結晶させることがもっとも実践的である。共振塾と各国でのワークショップを通じて実験してきたが、その第一弾の成果がこの舞踏譜「けむり虫の歩行」である。ギリシャのワークショップでは、これを十日間に分けて練習した。いかにからだの闇で起こっているかすかな生命共振のありように耳を澄ますか、土方巽が探求したのはその一点だった。日々の練習に役立ててくだされば幸いである。各自が『癇の花』や『病める舞姫』の中から深く共振する文章を選び出し、序破急を考慮しながら並び替える作業から始めることをお勧めする。そしてそこに自分固有のクオリアをじょじょに加えていけばいい。

1.「そうらみろや、息がなくても虫は生きているよ。あれをみろ、そげた腰のけむり虫がこっちに歩いてくる。あれはきっと何かの生まれ変わりの途中の虫であろうな」

2.言いきかされたような観察にお裾分けされてゆくような体のくもらし方で、わたしは育てられてきた。

3.からだの無用さを知った老人の縮まりや気配りが、わたしのまわりを彷徨していた。

4.からだの秘膜が細心の注意をはらいながら膨らんでいく。そして、得体のしれないものに出会うと縮まる。

5.足が見知らぬ世界に踏み込んでいく。からだから引き上げていく祖形めいたものがときときとした気品に混じって消えていった。

6.顔から、見えないものをとらえる無数の触角が生えて、伸び縮みする。

7.尾が背後霊のありかを探り、お伺いを立てている。

8.背骨が不意にずれたり、思いもかけぬ方向にねじられたりする。

9.わけの分からない世界に襲われ、喰われ、侵食されつづける。ときにからだが吊り上げられて、気がつけば見知らぬ世界に置かれている。

10.耳という耳、指という指を開き、いつどこから来るかわからない襲来に備えている。

11.額に目玉をつけていなければ、空気の中の見えない大きな生きものも見ることができない。

12.息の短い明暗が、からだの闇の動きにつながっている。

13.からだの中に得体のしれない虫や熱が忍び込む。湯気にさらわれ、雪に食べられ、鯰に切られ、川に呑み込まれる。

14.からだの輪郭をなくし、けむり虫になり、野菜畑の上を飛び、地上のもののどの形を借りようかと物色している。

15.蜜蜂の群れ、モグラのトンネル、伝染熱になる。

16.一人の婦人に睨みつけられ、からだが棒になる。

17.人間、追い詰められれば、からだだけで密談するようになる。

18.泥にはまり、泥の中で胎児になる。もうひとりの胎児の頭をねじりながら、子宮内の夢を見る。

19.無数のものがからだに乱入し、各部がてんでバラバラに変容するキメラのからだになる。

20.そんな中でからだに霞をかけて、かすかに事物を捏造する機会を狙っている。


 


からだの闇を掘る

 

独自の舞踏譜を創る

固有の舞踏譜を書く

これまで土方巽の舞踏譜「静かな家」と「病める舞姫」に取り組んできた。

今週、わたしたちは、それぞれ独自の舞踏譜の作成を始めた。土方の舞踏譜をからだで読み、出て来るサブボディのクオリアを言葉に置き換えて書き始めた。ちょうど昨日、これまでのサブボディ=コーボディのクオリアをすべてビジュアルチャンネルに変換して、サブボディ絵画を描いたばかりだったので、こんどはそれを言語に置き換えて書き出すのも抵抗なく行うことができた。

「静かな家」の<急>の部分である252627節には、静かな家のエッセンスとも言えるもっとも濃密なことばが書き込まれている。自在跳梁、密度を運ぶ、Xによる還元と再生、自他・内外の境界を超える非二元域など、ありとある重要な精髄が込められている。ごくごく短時間にすべてのクオリアを踊る世阿弥の言う<揉み寄せ>の急の最適見本がそこにある(この章2『静なか家』参照)。

固有の舞踏譜を作るという試みは共振塾の歴史の中ではじめてのものだ。それまでのわたしの言葉に対するコンプレックスのために閉ざされていた可能性がはじめて開かれた。なんと長い間わたしはそれにとらわれていたことだろう。ここ2,3年で何かが変わりはじめ、これまでの長い氷期の氷が溶け始めた。<クオリア言語>の発見によってゆっくりと言語チャンネルを開くことができるようになってきた。

固有舞踏譜の成果は目をみはるものがあった。各踊り手がおそらく濃密な舞踏譜とそれによる振り付けを創り出しつつあるようだ。各自が固有の舞踏譜を創り、それを全員で共創する。共振塾でははじめての実験だ。

1日目:自分固有の世界を他の人と共創するのに、もっとも大事なクオリアとは何かを見つけ、それをシェアする。一人5分間。これが突破口になる。

2日目:つぎに3つから5つの重要なクオリアを探り、それを序破急の舞踏譜にまとめる。十数人いたので一人7分間で、まる1日かかった。

あるものは言葉による舞踏譜、あるものはイラストによるビジュアル舞踏譜になった。シェアするに必要なイメージの絵や写真を探し、言葉では伝えきれないクオリアをシェアする。

3日目: できた舞踏譜に音楽をつける。一節ごと、異なる音楽、しかもできるだけ多様な音楽、自然音、機械音などを混成する。

4日目以降は、各人に応じた多様な発展になる。このコーボディパートを核とし、その前後にどの場面を持ってくるか、ソロやデュオにどうつなぐか、何を隠し、何を現前するか、大道具や小道具、コスチューム、メーキャップ、場面展開など、構成を共創しシェアしていく。

 


からだの闇を掘る

 

23      複眼

1 花の視線と花びらでつつまれた顔

2 眼球の中の小さな花

3 まつ毛でほこりを飼育する

4 剥製体として繁みの中にいる少女

5         繁みとクモの巣の中の少女と狂王

6         目の中の繁みの中の少女と狂王

こういう部分に関る体で嵐の襲来を待ち受けている、

まるで嵐がくる事を予感した子犬や、スプーンやホタルのように。そうして、それらに関る視線を舞踏家は持たねばならない。

この視線こそ、桃色インコの目玉である。

 

24(震え)

鏡をこするとゆれる花影があった

1 耐え忍ぶ剥製のとほうもないきたならしさ

2 牛と木のワルツが震えている

3 鏡をこすると背後からゆれる花影があった

4 震えている

5 路上の花摘-歩く盲犬

6 スプーン-老婆

7 震えている

8 方眼紙の網目に小さな花や小さな顔がかかっている

9 震えている

10 床にも空にも

 

25(悪夢)

悪夢こそはこの裸体なのだ

1 虫やらミショーの顔やら、少女と馬の顔やら、

電髪の女やら、馬鹿の顔やら、ボッシュが描いた人物の顔やら、助けてくれと嘆願する手やら

2 犬と花と影とトントントンと跳ねる虫

 

26      奇妙な展開のさなかで

1 手の中への求心的な恋愛を頭蓋の中に、すっかり置き変える

2 神経が棒になり、棒が乞喰になった。乞喰が旗を振っていた。それは大きな鳥であった。

3 首が馬の首になってのびると、指のゴムものびた。その作業のさなかに、点の眼と視点が変えられた。 X による還元と再生にさらされていたのだ。

その時は、背後に爪がザックリとささり、ゆくえははぐれて育ち、新たな還元により、小さなマイムがそこに誕生していた。

4 内部が外部へあふれ出し、あふれ出していったものが

仮面の港へ帰ってくる。仮面は森の中へ船出をするのだ。

5 額の風、額はとらわれている。手の葉、植物の軌跡を走り、わたしは、ついに棒杭の人となっていた。

6 淵図の中で、全ての事象の午前一時の中で、柳田家の孔雀は完成される。

 

27      皮膚への参加

1 小さな頭蓋の中の小さな花、それはそれは細い細い視線、神経は、頭の外側に棒を目撃した。

その棒を額で撰り分けている視線。

2 小さな顔で歩く盲はまるでサルのようだ。猿の頭に落雷。頭の中に小さな花が咲く、糸つむぎの唄が聞え出す。

3 引きのばされる老婆は一枚の紙になるだろう。老婆はその紙の上に蛾のように乗っかるだろう。

4 武将は女王になり、女王は関節の箱におさめられるだろう。

その箱の中からの生まれ変わりが、フーピーという踊り子である。

 

※各節の番号とカッコに入れた小見出し、および脚注は、理解の便宜上 筆者 が付加したものである。


からだの闇を掘る




16      場所を変えることの難しさ

体こそ踊り場であろう。手の踊り場、尻の踊り場、肘の裏の踊り場等

この場所が持つ深淵は、この踊り場にはさまってくるもの を克服し、からみつかせる事により成立する。例えば、柳田家があり、柳田家の庭にクジャクがいるという事をたいへんに貴重なものであるという発見をする。

また、カン工場という場所は、わたしにとってなつかしい 粉末というものによって語られる。それらが踊る際の、血液になっているのだ。

 

17(羅漢)

手ぼけの羅漢に虫がつく-小さな花-糸-貝-はかり

 

18(視線)

頭の中と眼の中を熟視する-その熟視の状態を熟視する-外側からそれを眺めれば停止したようにもみえよう-

視線へ-細い細い棒へ

 

19(関節の小箱)

関節の小箱-ハンス・ベルメール-武将-王女-虎

 

20(全体の花)

全体の花と皮膚への参加は均質なものである。

たれさげられた手の状態で全てが行為された場合の悪夢は裸体特有のものである。

21(はもん)

背後からも内部からも襲われて、路上の花を摘む。

震えて、床にも、空にも、そのはもんは、拡がってゆく。

 

22(ヘリオガバルス)

深淵図には複眼よりもむしろ皮膚への参加に注目されねばならない。

ただ一回のヘルオガバルスがある。

耐えるもの-それはめくるめく節度の別の顔であった。

 


からだの闇を掘る



7(馬肉の夢)

わたしは素っ裸で寝ている、そうして馬肉の夢をみたゆくえは何処へ行ったのか?狂王は箱におさめられる

箱のゆくえは細かい解体につながっている

髪毛の踊りる

Xによる還元と再生

目の巣について

羅漢

トンボ

虫のワルツを踊る髭、すなわちワルツの髭

グニャグニャの猫

ゆくえのグニャグニャ

これら全ては船の部分を構成している

鼻毛ののび太鳥と箱になった鳥

これらもまた船が化けたものである。

あるいは解体された船としてもながめられようわたしは遠い葉っぱや身近なナッパをみて飛ぶこれらがカン工場で嗅いだものである

 

8(嵐が去った朝)

嵐が過ぎ去った朝、もう誰もわたしを訪れない←わたしは立った武将がそのまま巣になっている

 

9(鏡の裏)

鏡の裏-光の壁

密度を運ぶ自在さの中には、めまいや震えや花影のゆれがひそんでいる。

 

10(メスカリン)

手の恋愛と頭蓋の中の模写は断絶してつながっている。

指さきの尖たんにメスカリン注射がうたれる。

そこには小さな花や小さな顔が生まれる。

細い細い糸のあみ物、無窮道のあみの目、炎を吐く鳥とこっけいな熊が、ゆらゆらと狂王に従う。

そのさなかに頭部がいま一つのゆくえを追っているのだ。すべてのマチエールは背後によってささえられている。複眼と重層化は混濁し一体のものとなる

 

11(キメラ)

ベルメール-こっけいな熊へ-馬の顔へ鹿の視線から-棒へ-乞喰へ-虎

鼻毛の鳥-花-狂王へ-複眼-ゆくえ虫ー犬へ-オランウータン-福助の耳へ耳がつつかれる-目まい-鏡の表裏へ複眼の中でいき絶えているもの

人形-仮面-パパイヤ-ほたる-板の展開小さな花などがある

馬の顔-少女の顔-犬-スプーン

虫と木の合体-背後へ-ふいに植物の軌跡で展開をはかるものへ

 

12      崩れる

叫びと少女-くずれてゆく前の震え

 

13      震え

その形態は独立している

 

14      メスカリン手

この手が持つ問題は、次第にはっきりするだろう

 

15      ゆるやかな拡散

いっ気に気化状態へもってゆかぬよう心掛けるべし気化状態の中でこそ展開がこころみられるべきだこの問題もやがてはっきりするだろう

 


からだの闇を掘る



『静かな家』ソロ覚書き 原文

1「赤い神様」

雨の中で悪事を計画する少女

床の顔に終始する

さけの顔に変質的にこだわる

○はくせいにされた春

○森の巣だ 目の巣だ 板の上に置かれた蛾○気化した飴職人または武者絵のキリスト○額をはしる細いくもの糸○乞喰

○猫の腰

○背後の世界

○ごみ処理場

○鏡をこするとゆれる花影があった

○納屋の中でもろい物音がくずれた

○カン工場

X による還元を再生

○鏡のウラ

 

        重要

「死者は静かにしかし限りなくその姿を変えるのだ。

かれらは地上のものの形をほんのふとした何気なさで借用することも珍しくない」

 

3「灰娘」

魂と精霊

 

ゆくえ

もう誰も訪れない

もう誰も眠れない

○かんの花

○過度の充実が来て彼女はとほうもない美しい者になった○死者たちのさまざまな習慣を覚えた○馬肉の夢

○座しきから引き出されてきた男

○イスに座って狂った大人子供=ケダモノ

○裸でカンチェンの出だしを踊る

○フラマンの寝技をつかう

○嵐が来た朝

○物質化

 

4(気化)

1番-花、雨、少女、全部使う 仮面、あるいは虫

人形-灰娘-洗たく-もう誰も訪れない

2番-走って鳥から少女、少女気化して座り技

3番-魔女 A 気化する

4番-赤いシャケの頭にかかわる魔女気化している

5番-馬肉の夢を見る大魔女気化している

6番-さまざまなゆくえが気化している水、お盆-遠い森-死者

 

5 精神のかげりとして捉えられたもの

きわめて緩慢な少女のびきったキリスト

のびきったままおろされたキリストカンチュイン

狂王の手-虫、鳥、棒坐せるカトンボ

これらはワルツによってほとんど踊られる

そうして X による還元と再生はあの遠い森や、目の巣から飛び立っている、なお死者は、これらのものにことごとく関与している。これらを舞踏するために、登場する何者かは、鳥のおびえ、虫のおびえに、通じていなければならない。

なお少女は馬の顔になり、そこで停止する。

また、今の少女は立ちあがり、トンボをへて人形に至る。

そこですべてのゆれは停止する。

 

6(カン工場)

鏡の表と裏にひそむ「カン工場」


からだの闇を掘る



癇の歩行

舞踏譜「癇の花」に掲載した土方巽が生涯をかけて収集した癇のクオリアをからだに通す共同研究をした。そこから抜粋して下記の癇の歩行の舞踏譜を創った。

癇の歩行

1. 灰柱の歩行

2. きしむ空気

3. 内臓からこめかみへ植物が這い上がる

4. それが鳥になってこめかみから飛び立つ

5. 行方をからだに入れる

6. 機関車がからだを通り抜ける

7. えぐられて溶ける

8. からだのなかのワイヤ

9. 壁に染み込む

10 裂ける

11. 岩の蝉の目

12. 引き裂かれた神様

13. 25年寝たきりのフラマン

この舞踏譜を練習したのち、わたしは皆に宿題を出した。土方の癇のクオリアの中から深く共振できるものを選んで独自の舞踏譜を創ってくること。最低3行、最大10行ほど。すると、次の日皆がほとんど独自のクオリアを集め、土方の癇のクオリアともうまく噛み合わせて、いくつものユニークな舞踏譜が出揃って驚いた。なんだ。やればできるのか。いまままで、舞踏譜をつくるという課題に挑戦しなかったのは、わたしが言葉が苦手だという、わたし自身の限界に規制されていたに過ぎなかったことを思い知った。いつもこれに思い知らされる。産婆であるわたしが皆の創造力の爆発を抑えつけていたことに。だが、これからはこの経験をもとに、どんどん舞踏譜による舞踏の共創に挑戦していくことができそうだ。今までにない新しい地平が開かれた

生命共振ジャーナル

 共振塾待機中!

読者の皆さまへ

共振塾サイトを訪れていただいてありがとうございます。春からの新学期開講を予定していましたが、残念ながら現在インド及び共振塾が位置するヒマーチャル・プラデーシュ州でコロナウイルスが増加しています。共振塾の定例舞踏コース再開はコロナが落ち着くまで見合わせます
でも、このような人間関係から隔絶される状態は、からだの闇に耳を澄ます、またとない機会でもあります。下記に最新刊の『舞踏革命 実技編』のPDFのリンクを付けました。ご自由にダウンロードして、毎日の瞑動の仕方を読み自習してくださることをお願いします。お会いできるのを楽しみにしています。

生命共振芸術センター

『舞踏革命・実技編』PDFをダウンロードする


からだの闇を掘る

『癇の花』

土方が書いた舞踏譜の多くは、彼の弟子たちの膨大な「舞踏ノート」に記されている。

その中から土方巽アーカイブの森下隆さんが、1300あまりの基本的な舞踏譜ワードをピックアップした。10年ほど前にそこを訪れたとき、森下氏が収集した1300の中から『癇の花』に関するものを探し出した。ここに紹介するのはその一部である。便宜上3つに分類したが、仮のものである。順不同にからだで味わってください。なお、土方は初心者向けの「舞踏練習譜」も多く書きのこした(第5章「歩行」参照)。

 

<癇>とはなにか

この言葉は日本語の意味も多義にわたる上、英訳不能なので、どう翻訳すればよいか、何年も試行錯誤を繰り返した。そのうちに<癇>の本質とは、<生命がうまく共振できなクオリア>であることが見えてきた。あらゆる問題や、その凝り固まりが<癇>なのだと、英語では、思い切って<KanDisability>と意訳することにした。<癇>を<生命がうまく共振できないクオリア>として捉えれば、土方の舞踏譜の言葉は、多くが広義の<癇の花>に関するものだ。共振しようとしても、うまく共振できないとき、生命はただそれに耐えて、よい共振方法が見つかるまで待つ。だがそのあいだに、うまく共振できないクオリアは、からだに変調をもたらす。さらに、それが続けば、長いあいだに存在自体が<癇>に変成する。『病める舞姫』では、そういう人々が主人公として出てくる。

ここでは、

        うまく共振できない癇の体感

        心身の一部に凝結した癇

        存在全体が変成した癇

3 部に分けて紹介しよう。これらの多彩なバリエーションをからだで踊ることを通じて、<癇>とは何かをつかみとっていただきたい。

        うまく共振できない癇の体感

土方は、生命が、何かとうまく共振できないときの、一瞬の微細な体感を、実に精確に捉えている。普段は見過ごしがちな、それらの奇妙な体感群に耳を澄まして探れば、誰もが固有の<癇>を見つけることができる。

きしむ空気

えぐられて溶ける

こめかみを植物がはう

こめかみから鳥が飛び立つ

どこまでも壁に染みる

ヒビが入る

ぶれた花がさまよう

むずがゆさ

もやの中へ消える

ゆくえをからだの中に入れる

メスカリンの神経の重層

  一瞬の網の目に捕捉

  下痢に雨が降る

  体の中の針金

  体の中を機関車が通過する

  余白で成り立つ

  俯瞰される

  光に襲われる

  光の蜘蛛の巣

  兎に囓られる踝

  内臓が体の外にぶら下がる

  内臓から鶴の首が伸びる

  内臓の水路を上に辿る

  剥離 

  吸い取られる呼吸

  埃の飼育

  墓守の顔に変貌

  奥歯に染みる隙間風

 しっぽが生えて開く骨盤

   接吻されている老婆

 曖昧なものを正確に包囲

 木目をたどる指先の感触

水晶に閉じ込められる

無数の視線の通過

空間を裂く視線

耳の内部をさまよう

焦げる羽

胸の小部屋に鍵がかかる

膿をずるずると引っ張る

追いかけられる馬鹿

遠くの森から少女が近づく

闇を携えせり上がる

頭蓋の中に木の葉がはらはらと落ちる

などはその象徴だ。

誰もが無視している些細なものだが、よくよく探れば思い当たる微細な体感群だ。土方は、からだの闇に、一心に耳を澄まして、これらのクオリアを取り出した。

 

        心身の一部に凝結した癇

そして、それらはやがて、くぐもり、ひきつり、凝り固まって、かさぶたとなる。心身は一如なので、心の凝結とからだの変形が一つになるのだ。これらのかすかな変調も、凝り固まると、さまざまな凝結や奇妙な形に、固形化する。土方は、からだの踊り場に起こる、これらの変形し歪んだ形を収集し続けた。これらが、もっとも典型的な<癇>である。

岩の蝉の目玉

引きつったかさぶた

あばたの男

つまむ奇妙な人

ぶれたまま固まる

よだれを垂らす子供

カサカサに乾く内臓

ギブスをはめた人

ゴヤの膿の顔

ざくろ歯の顔

ドライフラワーの顔

内部に塗り込められる顔

前方にぶれてゆく顔

右目と左半分が溶けている顔

暗い煤けた顔

森の顔

爪と歯の起源

目と口の中のほこら

真に救われない顔が出る

老婆の干しぶどうの目

肉の区分けをする男

 

        存在全体が癇に変成

これらからだの踊り場の変調が、凝結して<癇>となる。やがてそれが全心身に波及すると、不具や奇形となる。<癇>の最終形態だ。だが、目をそむけてはならない。近代の情報管理システムによる「差別語というめくらまし」で、見ないふりをして通りすぎてはならない。これら、見放された悲惨の極地を踊り、花に転化する「生命の舞踏」だけが、かれらの不幸と真に共振できるのだ。

25年間寝たきりのフラマン

いじけた若い墓守

せむし

だらしない少女

ぼおっとした馬

アウシュビッツ

オルガンを弾く幽霊

ソコヒの少女

フラマンの剥製

ミショーの人物乞食の崩壊

人形がぶすぶすと燻る

仮面の裏の熊の顔

内股のヤモリ

剥製化した蜘蛛の巣

土塊の人形の生成と解体埃でできている人

壁に塗り込められた人

子供の顔をくわえた幽霊

密度の牛

小児麻痺の狂人

崩れてしまいそうな危うい人

湯気の膿の衣を引っさげた法王

暗い瓶が危うく立つ

紙の上で踊る虫にアウシュビッツが重層する

背後の闇に包まれている少女

 

…など、存在全体が<癇>そのものに変容する。これらの<癇>をいったい、いかにすれば<花>に昇華することができるか。それらをただ並べるだけでは、美とはならない。のっぴきならない生命の、ほとばしりとしての必然の踊りの中で、最適の<序破急>を発見することによって、はじめて胸が震える<花>に転化する。共振したくて仕方がないが、できない、できない、できない…長い間できないまま、耐えて、待って、待って、待って、ついに一つの、のっぴきならない動きが創発される、その瞬間を捉えて踊ることだ。そのとき、醜い癇の蠢きが、得も言われぬ美に転化して、どんないのちも共振を禁じることのできな<癇の花>に昇華する。

この極意を極めよ。からだの闇でうずくまり、くぐもり、ひきつり、かさぶたとなっているクオリアを掘り出せ。そして、それがどう動き出したがっているのか、どんな共振を求めているのか、探り抜け。誰のからだの闇にも、<癇>は存在する。ただ忘れさり、気づけなくなってしまっているだけだ。

 


からだの闇を掘る



共振体

サブボディ=コーボディという共振体

これまで、述べてきた十体はすべてこれまで共振塾20年の歴史の中でサブボディ=コーボディとして探求されてきたものだ。サブボディは共振した途端、個人のからだではなく、共振するいのちとなる。サブボディとコーボディの区別も境界も消失する。それが共振体の境地である。20年かけてサブボディとコーボディの間の謎と秘密に取り組んできた。その結論が、サブボディとコーボディが違ったものに見えるのは、日常界の二元論的な分別の目によって違うものに写っていただけで、サブボディとコーボディは、非二元界ではその境界が消え一つになるということだ。たったこれだけのことが分かるまでに20年もかかった。だが、本当の歩みはこれからである。いまはまだ小さい生命共振のさざなみを、ヒマラヤから世界へ広げていかなければならない。これから何十年、何百年かかるか分からない歩みだ。いまはまだごく少数かも知れないが、やがて世界中の多数の人々が「人間」という幻想を脱ぎ、<共振するいのち>となる日がきっとくる。人間が個人としての自我や自己を脱ぎ捨て、共振するいのちとなるとき、世界は変る。それが<生命共振革命>だ。リゾームやノマドがマルチチュードになる日が来るだろう。そのとき世界は一挙に変わるのだ。

 


からだの闇を掘る



透明体

 透明さという非望

透明体はわたしのいのちの夢。未踏の最終課題だ。

20年ほど前のはじめの頃は、内に半分、外に半分等分に開かれたからだになることを目指していた。ヒマラヤへ来て10年をへる内にじょじょに、

非二元かつ多次元の生命共振には内も外もなく、ただ、なにものにも囚われず、からだの闇で起こっていることをすべて透き通るように見せることのできるからだの技法へと深化してきた。自我がわき起これば、わき起こっていることを自分にも他人に対しても見えるようにふるまう。産婆としての必要がこのとてつもない透明さを要求してくる。自分でそれに気づかずに、自我や感情に振り回されている限り、産婆はサブボディ=コーボディの胎児を殺す。どこまで行けるのかは分からない。だが、無限に各瞬間ごとに脱自し続けるしか透明になる道はないのだ。

 

透明な踊りへ

「透明さ」について、それがいかにすれば実現するのか、当初はまったくわからなかった。ただ、強い予感だけがあった。当初の頃に知らなかったものとは、

①「透明さ」を実現するためには、自我や自己を止める技法を身につけねばならないこと。

②そして、非二元かつ多次元世界で微細に共振している生命になること。

③微細クオリアによってのみ動かされる透明共振体になる多次元化と微細化の訓練を積むこと。

これらためにサブボディメッソドの休みない深化が必要だった。それによってようやく土方舞踏の豊潤な果実を味わう道が開いた。掘れば掘るほど、土方が驚くべき生命の謎の深みを探っていたことがわかるようになった。

土方舞踏の比類ない花はすべて、この深い謎と秘密によって支えられていることを。

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砕動風

砕動風は、十体のひとつではなく、からだの技法のひとつである。小刻みにからだの細胞がランダムに震える。ふるえには無限の階調がある。

そのふるえのサイズや強度の違いによって、「からだのくもらしかた」のテクニックや「けむり虫の歩行」となり、土方のいうからだじゅうに無数のクオリアが巣食う「巣窟体」ともなり、また<急>においては生死の間で狂おしく震える世阿弥のいう「砕動風」ともなる。土方の「癇の花」を踊るにも、この砕動風によってでしか踊り得ないものもある。上の写真の『疱瘡譚』のラストシーンは女性舞踏手たちの内股の細かい砕動によって踊られた。いまだ探求中の技法だが、多くの未知の可能性を秘めている。各自の必然によって、いつかこの技法を身に着けねばならないときが来るかもしれない。

 

からだのくもらし方

『病める舞姫』を踊るための身体変成技法

「そうらみろや、息がなくても虫は生きているよ。あれをみろ、そげた腰のけむり虫がこっちに歩いてくる。あれはきっと何かの生まれ変わりの途中の虫であろうな」。言いきかされたような観察にお裾分けされてゆくような体のくもらし方で、わたしは育てられてきた。からだの無用さを知った老人の縮まりや気配りが、わたしのまわりを彷徨していたからであろう。」

土方巽は、『病める舞姫』の雑誌連載が終わり、書物として出版するにあたって、上の節を冒頭に書き加えた。2年間にわたって書き続けてきたこの書を一語に縮めるとすれば「からだのくもらし方」とでもいうほかない未踏の身体技法で象徴しようとしたのだ。わたしは当初、この<からだのくもらし方>を、からだを雲や霞のようなわけのわからないもので包み、神秘化しようとする技法かと、捉えていた。だが、『病める舞姫』全巻を読み終えたのち、あたらめてこのことばにま向かうと、<からだのくもらし方>とはこの書で書かれたようなさまざまなからだと世界の共振によっていのちが変形するクオリアのすべてをからだの各所の踊り場や、秘膜層にまとうことだと腑に落ちてきた。熟練した舞踏家はすべて、からだの各所に、無数の固有のクオリアを溜め込み、着込んでいる。そして、ときに応じてそれらのクオリアの雲から、動きが生みだされてくる。そういうクオリアの雲を着込んだからだになることで、外から見ても、何が起こっているのか分からない神秘的なからだに変成することができる。

 

クオリアの雲をまとう巣窟体

土方巽の『病める舞姫』冒頭にでてくる<からだのくもらし方>という言葉に出会うまで、わたしはそれを巣窟体と呼んでいた。巣窟体とは、一言で言えば多次元で共振しているいのちのありのままのありかたを体現してからだ中が無数の異なるクオリアの巣窟となっているからだである。同様に<からだのくもらし方>とは無数のクオリアをからだの内外に雲のようにまとって、不分明な捉えようのないものに変成する技法である。

土方巽の「静かな家」における

「目の巣だ、森の巣だ、板の上に置かれた蛾」

が、巣窟体の非二元かつ多次元の重層的共振を端的に表している。生命が無数の見えない背後世界と共振している微細なクオリアを全て背負い着込んだ舞踏体である。

 

無数の背後世界をまとう

無数の背後世界の微細なクオリアに耳を澄ませながら、謎と秘密を運ぶ。他界、人間以前の海洋生物や単細胞だったころの世界、生命誕生時の原生世界、地底の世界、死の世界、天上の世界、無数の元型の棲む世界、ひも共振のカラビヤウ世界、忘れていたトラウマ、思い出せない記憶、など、ありとあらゆるからだの闇内外の異次元、異界を指す。これら異界との間で微細に震えている命のゆらぎに聴きこむ。そして、異界のクオリアをまとう。からだの各部、秘膜や秘腔、秘液の各層に、それらのクオリアが巣喰う。からだ中が外に出たがっているサブボディの胎児の巣となる。それら外に出たがっているサブボディたちの動きを最小限のサイズに留め、無数の異次元と重層的に共振する巣窟体に変成する。記憶や夢、からだの闇の原生体や異貌体の息吹、背後世界のクオリア、死者の呟きなどが無限に重層化した異界とのクオリア共振を運ぶ巣窟のからだに変成する。

群れで踊るとき、全員が「からだをくもらし」わけの分からないものに変成すれば、全体としては前に述べた「陰気な空気」を醸成することもできる。ふるえの強度が最小限に削減されれば「剥製の春」の世界を共創することができる。

 

生命共振ジャーナル
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元型体

元型と本能

元型は、本能に似ている。どちらも、遺伝子に書きこまれた種特有のクオリア共振パターンだ。本能はからだや動きの自動的反応をもたらし、元型は人類共通の想像力の共振パターンである。動物は本能だけを持つが、大脳が発達した人類の脳には想像力の共振パターンが刷り込まれている。蛇や獣に出会ってギクッとするのは本能であり、闇の中になにか得体のしれないものの気配を感じるのは元型の働きである。人間の力では及びもつかない出来事や力に対する畏怖が、特有のクオリア共振パターンを創りだした。人類は民族や文化の違いを超えて、神や、悪魔や天国・地獄という元型を共有している。ユングは個人的無意識よりもさらに深層に集合的無意識の層があると発見したがそこは種特有の共振パターンである元型に満ちている。もっとも原始的な元型は太母(グレートマザー)や、アニマ・アニムスなどである。精霊や、神、悪魔、英雄、トリックスター、老賢人、少女、天使、妖怪変化、魑魅魍魎など無数の元型がからだの闇の深層でうごめいている。時には動物の姿で現れる時もある。

ユングは、元型とは想像力の形式であり、内容ではないと繰り返し注意した。それは無限に変容し、姿形を変える。からだの闇の探索を続け、多くのサブボディやコーボディを掘り出してきたあかつきにかならず、何らかの元型に出会う時期が来る。それは無意識の働きなので、意識で予期することも統御することもできない。元型との出会いは予告もなくいきなり向こうからやってくる。なにものかに襲われると感じる時もある。とりつかれると感じて、誰もが身を引く。元型に出遭ったときのエッジ反応だ。

だが、そのエッジを克服して、元型を引き受けそれになり込み踊る。元型の力はこの上もなく強烈である。限り無く豊かであると同時に支配し食べ尽くす恐ろしさを合わせ持つ。取り憑かれてしまうか、それを創造に転化できるか、ぎりぎりのたたかいとなる。このたたかいは、無意識の力に囚われたままでいるか、それをコントロールし透明に脱ぎ着できる自由を獲得するかの別れ目になる。自我という現代最強の元型に囚われたままの人間でいるか、自我をはじめとする無数の元型から自由な生命共振を生きる未来の人間になるかの境目なのだ。すすんで元型に身を預けるとき、わたしたちは元型体となる。そこではサブボディとコーボディの違いも消える。自他分化以前のサブボディ=コーボディになる。非二元体である。それはとてもつもなく奇妙な心地と体感がする。自分が自分でなくなるのだから、最初はとても怖く何が起こっているのか奇妙な謎に包まれる。自分に何が起こっているかが透明に見え、自在に共振に身をゆだねられるようになったときそれは究極の透明体であり、共振体でもある。


 

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憑依体

憑依されたからだ

あれから50年以上が過ぎた。1967年10月8日、羽田弁天橋の上で、大阪府立大手前高校の同級だった京大生山崎博昭が倒れた。1960年6月15日の安保反対闘争で、東大生樺美智子さんが虐殺されて以来学生運動で出た二番目の死者だった。それ以来、わたしたちの闘いは過激さを増していった。そして、次々と死者が出た。京大の後輩辻敏明、高校時代の盟友橋本憲二が、内ゲバで命を落とした。高校時代、「死地へ!」という詩を書いて自分を鼓舞したわたしは死ぬことができず、わたしのすぐとなりにいた友人が命を落とした。20代、30代とわたしの眠りの中に彼ら死者が頻繁に訪れた。40代で踊りをはじめて京都に戻ったとき、かれらは一斉に殺到してわたしから眠りを奪った。じょじょにわたしは彼らがわたしのからだを通じて踊りだしたがっていることに気づいたわたしは、かれらにからだを明け渡した。

「よっしゃ、自由に使いな、

好きなように踊ってくれい!」

それからだ、彼らがどんどん踊りを創り始めたのは。俺の処女作「伝染熱」の真の作者は山崎博昭だ。翌年の「夢魔熱」は辻敏明が踊りまくり、「暗黒熱」には橋本憲二も出てきて俺のからだは大賑わいだった。わたしのからだを若くして死んだかれらがのっとったかのように世界中を疲れを知らずに踊り続けた。各国で踊るたび、俺たちは各地の死者と共振した。インド・ダラムサラでは、中国の支配に抗って死んだ200万人のチベットの死者たちと、ブダペストでは1956年のハンガリア革命の死者たちと、

パリやストラスブール、ヨーロッパの各地で第二次世界大戦の死者たちと、

東欧各地のユダヤ教会・シナゴーグで踊ったときは、戦後50年ぶりに開かれた堆くホコリが積もった教会の空間を無数のアウシュビッツの死者たちが飛び交っていた。生命の舞踏の中では生者も死者もない。まして不遇の死を遂げたクオリアほど共振しやすいものはない。憑依という現象は、生命にとっては何ら珍しいものではない。生命は生死を超え、時を超えて無数のクオリアと共振している。ただ、そんなことが起こっていることを理解することができるまでに十年以上かかった。利己的な自我に毒された意識を脱ぐには時間がかかる。だが、生命は世界中の人が、人間や自我を脱ぎ去る日まで踊り続けるだろう。自我や権力に替わって、生命共振だけで世界がうまくやっていける日まで生命の舞踏は止むことがないだろう。

長いデモクラシーの幻想に支えられた国家が、生命のリゾクラシーにとってかわる日がいつかは来る。それは確実だ。国家を支えてきた人間の利己的自我への囚われも、たかだかここ数世紀のことだ。こんな馬鹿げた状態への囚われを命が脱ぎさる日が来るのは目に見えている。奴隷制社会が消え、封建制社会が消えたように、資本制社会もやがては消え去る。

山崎博昭よ、辻敏明よ、橋本憲二よ、俺達の望んだ国家なき未来はきっとくる。安らかに眠れ。俺もあと少しで人間のからだという借り着を脱いで生命に帰る。


 

からだの闇を掘る



キメラ体

生存のキメラ

キメラ域から生命の深淵へ

忙しい日常の時間から降りる。するとごくごく微細な命のつぶやきが聴こえてくる。かすかな軋み、ねじれ、ほんの少しの違和感、そういうものに耳を傾ける。わたしの人生では父母の都合で、何回も母が変わり、家が変わり、住む場所が変わった。幼なじみや友人や同級生の顔がごそっと入れ替わった。その都度、幼い命は目もくらむような異界の暗がりに落ち込んだ。何回もその転落を経験するとやがて幼い命は学習しだす。この世界が一様な空間ではないこと。さまざまな生存条件が入り交じるキメラ状になっていること。そこで生き抜くには自分をさまざまに変形する必要があることを学ぶ。とりわけ、生まれ故郷だった和歌山を離れ、はじめて大阪という都会で棲息する人間に接したとき、まるでエイリアンの群れだと感じた。田舎では出会う人がみな見知った顔である。ひとはみなぶらぶらゆっくり歩いている。ところが都会では見知らぬ人が無表情に高速度ですれ違っている。田舎の人が人間ならば、ここの人は人間の形をしたロボットに違いない。もしここの人が人間ならば、田舎の人はいったいなんなんだ?思春期のはじめに都会に触れたとき、すざまじい亀裂を感じた。それは終生わたしの感受性の固有の傷として刻み込まれた。

おなじ傷を持った人はすぐ分かる。土方巽もそうだった。秋田から東京に出てきた彼は強烈な亀裂に直面したそして、からだの闇の奥深くにしまいこんだ。彼が踊るときにはその潜んでいる亀裂のクオリアが血液のようにほとばしり出る。金属棒で脳みそをかき混ぜられるような体感、周りの人皆が金属の神経で出来ているかのような違和感、だからことさら鶏を抱えたまま舞台の上を転げまわる必要があったのだ。何時までも芽が出ず立つこともできない種子になってうずくまり続けることが踊りだったのだ。偽の人間の皮を脱いで、死者に化けることが生き返ることだったのだ。

わたしにとっての和歌山と大阪との落差、土方にとっての秋田と東京の落差は、単なる田舎と都会の違いなどではない。まったく文化の質が異なるのだ。

秋田や和歌山の田舎とは古代から延々と変わらず続くアニミズムの世界だ。

そこでは死者と生者が共振して交感している。近代の都会にはそんなものはない。健康な生者だけがあくせくと生存競争をさせられている牢獄のような場所だ。わたしにも土方にも大阪や東京の生活はそんなふうに見えた。

最近なくなった畏友詩人の速水智也子さんも、和歌山の最奥・熊野の出で、おなじく熊野と大阪の巨大な亀裂を抱えて生きていた。何日も彼女のからだに成り込んで一緒に歩くと、どんな気持ちで生きていたのか、ありありと共振できる。死んだひとは生きていた時よりもはるかに身近な存在になる。

命に亀裂をもたらすキメラのクオリアは、何も田舎と都会に限らない。

自分の中の女性性と男性性、子どもと大人、思考と感情、強さと弱さ、高貴と下劣、

人間として複雑な布置の中で生きる中で、無数の亀裂が命にキメラを刻印する。日常体ではこれらの亀裂のクオリアは等閑視されている。そんなものはないと、大股で跨ぎ越すのが日常体だと言ってよい。それくらい粗雑でなければ自己だの自我だのという厄介なものを守っていけないのだ。

ある日、きみはそれらに守る価値がないことに気づく。自己だの自我だのとは、懸命にでっち上げ続けることによってのみ存続している幻想であることに気づく。その幻想を勇気を出して脱いだときに、からだの闇で行き違い齟齬し合っているキメラ状のさまざまなクオリアに出会うことができる。それらの収拾のつかないリゾームが自分の命の実情であることに出会う。そして、それを受け入れる。それだけでいいのだ。それだけでそれまでのニセの生存からおさらばできる。からだの闇で異質なクオリアが出会うたびに新しいクオリアが生まれる。それが生命の創造性だ。現代社会に適応しているニセの自分を脱ぐだけで、一生この生命の創造性と共に生きていけるようになる。跳ぶんだ、今。そんな命の声が聞こえてきたら、チャンスを逃してはならない。今の暮らしをやめて行き先なしの旅に出るんだ。それが命と一つになる道だ。

 

からだの闇を掘る


気化体

いのちの非望を踊る

長年の切望が気化するからだの奇跡を生んだ
土方巽は若い頃から、さまざまなからだの変容の可能性を探り続けていた。

気化するからだについても長年探求し続けた。だが、それを実現するのは、1973年の「夏の嵐」の中の「少女」ソロと同年秋の「静かな家」の最後のソロを待たねばならなかった。衰弱体がはじめて映像に捉えられた1972年の「疱瘡譚」ではまだ気化するからだは出てこない。気化体という技法はまさしく、死んだ姉と合一するための土方巽の畢竟の発明なのだ。
「静かな家」

2 重要

「死者は静かにしかし限りなくその姿を変えるのだ

彼等は地上のものの形をほんのふとした何気なさで借用することも珍しくない。」

 この無限変容する死者のほとんどすべては、気化体で踊られる。

「3 「灰娘」

魂と精霊

ゆくえ

もうだれも訪れない

もう誰も眠れない

○かんの花

○過度の充実が来て彼女はとほうもない美しい者になった

○死者達のさまざまな習慣を覚えた

○馬肉の夢

○座しきから引き出されてきた男

○イスに座って狂った大人子供=ケダモノ

○裸でカンチェンの出だしを踊る

○フラマンの寝技をつかう

○嵐が来た朝

○物質化」

 一行目が、精神と魂で始まり、最終行が物質化で終わることに注意。
物質化する以前の振りはすべて気化体で踊られる。 

「15 ゆるやかな拡散

 いっ気に気化状態へもってゆかぬよう心掛けるべし。気化状態のなかでこそ展開がこころみられるべきだ。この問題もやがてはっきりするだろう。」

「少女」はほとんどすべての振りは気化体と物質化の間で踊られる。
<気化状態のなかでこそ展開が試みられるべきだ。>
という自戒を銘記しよう。
「4 (気化)

 一番―花、雨、少女、全部使う 仮面、あるいは虫 人形―灰娘―洗たく―もう誰も訪れない

二番―走って鳥から少女、少女気化して座り技

三番―魔女A気化する

四番―赤いシャケの頭にかかわる魔女気化している

五番―馬肉の夢を見る大魔女気化している

六番―さまざまなゆくえが気化している

   水、お盆―遠い森ー死者」

気化体の全プロセス
以上を押さえた上で、気化体に触れた第4節を読む。一番は、気化のための心身の準備である。花、雨、少女と死んだ姉にまつわるあらゆる振り付けを通過しながら、じょじょに姉のクオリアと共振合一していく。

二番、土方の家では蕎麦の出汁を取るために鶏を飼っていた。鳥と少女はどちらも姉につながる。座り技とは、座位から足を上げ、足から気化していく第一段階だ。三番魔女Aとは、魔女の初心者だ。気化を試みるがまだうまく気化しない。四番土方は、気化を支えてくれるあらゆるクオリアを身体中に探す。第一節で、床の顔を続ける中で、時折からだの闇から顔を出す、鮭の顔をした異貌の自己が気化を助けてくる。五番土方の姉も夢見たであろう、もう一度家族で囲む馬肉の食卓を。故郷への切々たる死んだ姉の非望が、土方のからだに気化という奇跡をもたらす。あり得るはずのないことが起こる。それが二十年かけて練り上げた技術の粋だ。大空へ舞い上がった死んだ姉=土方は、上空でお盆に故郷へ帰る多くの死者と出会う。川や湖や海岸線などの水や遠い森が故郷への道標となる。
そして、死者は地上のものの形をほんのふとした何気なさで借用する。
気化するからだと物質化の間で踊られる「静かな家」の基礎はこうして築かれた。

 

からだの闇を掘る


 ベルメール

 傀儡体

傀儡―異世界の媒体

先史時代以来、各時代、各文化圏の人々は「ひとがた」をしたものに無数のクオリアを籠めてきた。旧石器時代以来人々が祀ってきたプリミティブなシャグジ石、縄文の土偶、秦の兵馬俑、古墳の埴輪、古代・中世のひとがた、江戸の人形浄瑠璃、ベルメールの壊れた人形像、各時代の人々は、「ひとがた」にこめた無数の微細なクオリアで、異界と交流し共振してきた。その異界とのクオリア共振を体現するのが十体のひとつ傀儡(くぐつ)体だ。傀儡とはもともと、操り人形を指す。だが、ここでは他の人によって操られるばかりではなく、異界の見えない力によって操られる死せる「ひとがた」への変成を意味する。単なるパペットやマリオネットではなく、異界のクオリアに動かされ、それを現実界にもたらす媒体となる。それは、現代の見えない共同幻想によって操作されている日常の人間の姿を映す鏡ともなる。自分の中で何ものかわけの分からない力によって動かされている体感を探れ。それが傀儡体への坑口となるだろう。

 

傀儡体の核心とは何か

1.物質化

2.訳のわからないものに動かされる

3.背後世界の媒体

つづめて言えばたったこれだけである。傀儡とはもともと死せる物体である。せわしない脳の言語思考や肺呼吸を止め、長く静かな生命の呼吸で死せる物体になりこむ。傀儡は死せる物体だが、そこに無数のクオリアが籠められている。傀儡がただの物体ではないのは、人がそこに籠めた思い、

すなわち死せる背後世界とのクオリア共振を体現しているからである。

傀儡を運ぶとき、それは背後の異界のクオリアをこの世に伝える媒体となる。なぜ、硬い物質にならなければならないのか。人間のからだでは背後世界や自然の無声の声を運ぶには不十分だからである。今世紀の山や海は泣いている。深い悲しみと怒りに燃えたぎっている。石や木や山にならなければ運べない背後世界からのメッセージがある。傀儡体は生命と自然との大きな関わりの中で、人のからだでは運びきれない重いメッセージ゙を運ぶために必然化した舞踏体なのだ。背後世界の微細なクオリアに耳を澄ませながら、体の底と、仙腸関節、胸鎖関節を引き締め、物質化したひとがたのからだを運ぶ。背後世界とは、単なる物理的な背後ではない。他界、過去の世界、生命誕生時の原生世界、地底の世界、死の世界、無数の元型の棲む世界、ストリング共振の世界など、ありとあらゆる異次元、異界を指す。これら異界との間で微細に震えている命のゆらぎに聴きこむ。生死の間でゆらいでいる生命が人間に伝えたがっている声に耳を澄ます。動かぬ傀儡のからだになりこみ、その無声の声を運ぶ。

沈み足、渡り足、にじり足

傀儡体にはそれを運ぶ固有の歩行がある。地下5メートルあたりに底丹田という想像上の重心がある。その重い重心ごと運ぶ。決して足を上げない。

むしろ脚の長さが伸びて地中に伸びていくように運ぶ。一歩ずつ重さがいやましに増す。下方に押す摺り足、<沈み足>である。足裏の感覚を研ぎ澄ませて、左右にからだがぶれないように運ぶ。左右へのブレをなくすには、母趾と、母趾球、そして踵を結ぶ一直線上で体重を移動する綱渡りの<渡り足>を使う。その他、足指だけでにじり進む<にじり足>、踵と母趾球を交互に横にずらして横移動する<ずり足>など場合に応じて使い分ける。いずれも、自分で歩くのではなく、重心がなにものかによって一定方向に一定速度で引っ張られていく。顔はその傀儡固有の面となり、面の背後世界のクオリアを満たす。観客の住む現実世界に向かって、異界をまとい、送り届ける媒体となる。やがて、動かぬ傀儡になにごとかが起こりはじめる。全身の秘関や秘筋が引きつっったり、ずれたり、崩壊やしなびや他の体とのキメラなどの変成がはじまる。そこから先は各人の創造となる。ボトムからの変成が無限にあるように、傀儡からの変容もまた無限のバリレーションがある。毎日無限の序破急を創造し続ける。

 

 

 桐塑人形「神ノ坐ス森」   

佐々木幹朗の『人形記―日本人の遠い夢』

人間を脱ぐ。何ものかにコントロールされているクオリアに従って傀儡(くぐつ・操り人形)体になる。2009年の授業で、傀儡体への変容を探っていたとき、松岡正剛の「千夜千冊」に、古い友人で詩人の佐々木幹朗の『人形記―日本人の遠い夢』が取り上げられていた。日本の人形の歴史は深い。松岡による佐々木の著書の親切な紹介に従って、その世界を久しぶりにさまよった。

「青い目のセルロイドの人形、林駒夫の桐塑人形、伏見人形、四谷シモンの人形、流し雛、ジュサブロー人形、土偶、浄瑠璃人形、フィギュア、夢二人形、松本喜三郎の生人形、霊鑑寺の御所人形、ムットーニ人形、結城座のあやつり人形‥‥。都合18種18形の人形たち。

 詩人の佐々木幹郎がこれらの人形たちに接する文章は丁寧で、その人形たちに接することのできない読者を導く先をよくよく心得てもいて、ぞんぶんに読ませる。衒いのない名文だ。「あとがき」には、この連載の仕事を通して「ひとがた」への旅が始まったことが静かに綴られている。」

なかでも、ひとつの人形のこの世ならぬ静謐さに驚いた。松岡も同じく驚いたらしくこう紹介している。

「本書のなかで最も美しい写真は、林駒夫の桐塑人形「神ノ坐ス森」だ。

佐々木幹郎もこの人形を見て電撃が走ったと書いている。」

  

  桐塑人形「神ノ坐ス森」 

松岡によると作者の林駒夫は、「林は「人形は情緒だ」と言い切っている。

その情緒が「型」になるのだとも言う。」と考えているらしい。

だが、わたしは舞踏家がこの人形になりこみ、その静謐さを運ぶ動きをただちに連想した。人形にこめられた情緒という人間的なものを超えて、異次元のクオリアが運ばれる。足運びは歩行ではない。直立のまますべるように動く。異界からのまざざしをさしむける。人間の世界から、人間以外のものらの世界へいざなう。それを見る者は、それによって人間である自分の姿が深い照り返しを受ける。傀儡になるとは、そのようなことだ。

アニミズム時代以来、人類は「人形(ひとがたをしたもの)」に無数のクオリアを注ぎ込んできた。人の形に似たものは、知りえぬ通路を経て異界と通じているとみなされた。ときに、人の力を超えたマナや精霊の宿るものであり、ときに、生きた人、死んだ人の精霊と一体のものだった。人形には100万年の闇のクオリアが時を超えて積み重なり共振している。そのすべての闇をになうものとして、あえて傀儡とよぶ。これを、パペットやドールと訳して理解してしまってはならない。傀儡とパペットでは担っているクオリアがまるで違う。そのとたん、クオリアがひからび、別物に変性する。ひとがたがはらんでいた闇をまたぎこし、近代劇場の操り人形や、現代のロボットに絡めとられてしまう。安易で簡明な言語はいつの間にか、それを使う者の意識も平板さに取り込んでしまう。難しくても日本語では傀儡と呼び、伝わりにくくても英語ではクグツ・ボディと呼び続ける。現代のフィギュア人形から、古代の土偶までをつらぬくもの。そう、人形から「ひとがた」へ。生命を持たない「傀儡」になり、そこに二重化された「ひとがた」のクオリアを運ぶこと。ひとがたは、この世と異界を往復するための媒体だったのだ。人類がひとがたにこめてきたあらゆる思いを背負うこと。土方巽にも、有名な「ひとがた」(1976)という作品がある。芦川羊子がもっとも冴えていたころの舞踏だ。土方は人間そのものが「人」という役を担ってこの世に来たのだと捉えていた。異界のいのちがひとがたをまとい、またひとがたを脱ぎ捨てることによってあらゆる異界の存在に変容することができるのだ。

 

   土偶「縄文のビーナス」 

  ひとがた (左;木製 右:紙製) 

「ひとがた」はまた、形代(かたしろ)ともつながる。そこに元型に喰われる危険が待ち構えている。松岡も言うとおり、

「ぼくもある意味では、ずっと日本の形代(かたしろ)を考えてきたようなところがあった。しかし日本の形代は、追いこんでいけばいくほど、日本の根元に蟠る「稜威」(いつ)にもつながってくるので、要注意なのである。」

「形代」とは、祭りのとき、神霊の代わりとして置く人形であり、また、ひとがたに切り取った紙や木などを人間の身代わりとして祈祷し、罪・穢れを移して、川や海に流す。人形にはさまざまな歴史段階の元型がとりついている。それを担いきることのできる傀儡体を発明すること。それが、きみの十体のなかの傀儡体創造の課題だ。

 

からだの闇を掘る

ボトム(体底)体

ボトムの謎

わたしは踊るとき存在の底から踊る以外ないと思っていた。それ以外の踊りなど見る価値も見せる値打ちもない、と。あるとき、これ以上ないというところまで小さく縮みこんだからだになりこんだとき妙に落ち着いた。これ以上はもう追い詰められようがない。開き直って、窮鼠猫をさえ噛む切羽詰った命になった。それがからだの底、ボトムとの出会いだ。

 

からだの闇は広大無辺だ。本当は底などない。無底だ。底というのは、ひとつの一時的な比喩に過ぎない。もっともか弱く、もっとも小さく閉じこもったからだになる。とりあえず、それを底と呼んでいるが、それに限ることはない。いろんな底があるだろうと思う。少なくとも、小手先だけの踊りではなく、もっと深いところからの踊りが出てくる場所だ。そこから踊りだす。

 

  土方の小箱体「疱瘡譚」1972

土方の小箱体

土方には「箱におさめられるからだ」というのがある。長い間謎だった。

その謎がようやく解けた。土方巽の最後の舞踏譜「静かな家ソロのための覚書き」の解読を塾生と共に進めてきた。そのなかではじめて発見したことがある。それが土方の関節の小箱だ。

狂王は箱におさめられる

箱になった鳥

関節の小箱―ハンス・ベルメール―武将―王女―虎

武将は女王になり、女王は関節の箱におさめられるだろう。

その箱のなかからの生まれ変わりがフーピーという踊り子である。

箱はなんども出てくるので以前から気になっていたがよく分からないまま、なんとなしに通り過ぎていた。だが、体読によって自分のからだを小箱に詰め込んでいくと、

「何だ、これは! ボトムボディとまったく同じ体感じゃないか!」

と気づいた。そうだったのだ。土方はとっくの昔からボトムボディを踊っていたのだ。それはおそらく彼が乳児期に入れられていた野ざらしの飯詰めという籠のなかで凍りついたからだの体験と共振していることも納得がいった。まるで自分の発見でもあるかのように思い込んでいた自分が恥ずかしい。土方の踊りはそのボトムボディと気化体、獣体、異貌体、巣窟体などのキメラ変容によって構成されている。それらの総称として土方は衰弱体と呼んでいたのだ。

衰弱体がなかなかつかみにくかったはその内容が以上のようなさまざまなからだのキメラや巣からなるからだということも分かった。22歳のとき土方の舞踏公演を見てからちょうど40年経つ。ようやく、ほんの少しからだで分かってきた。

 

 飯詰め  

飯詰――土方舞踏の原点

幼少期、寒風吹きすさぶ秋田の田んぼの真ん中に飯詰(いづめ)に押し込まれ、逃げ出さないように縛られて放置された体験が、土方にとって舞踏の出発点になった。歩こうとしても足は凍りつき、動けない。動くこと能わぬからだから、願いだけが身体から離れて飛翔する。動けぬからだが土方のボトムであり、そこから離魂しさ迷いだす願いが、気化するからだの原点だ。

土方の最初のソロ「種子」は、その動けないからだのまま舞台の上をただ転げまわるものだった。それは土方のボトムであり、癇のサブボディであった。モダンダンスやバレエの常識では種子はやがて発芽し、生長し、花を咲かせるだろうことが期待された。だが、土方はそういうモダニズムの期待を見事に裏切ってみせた。芽を出すことも、動くこともできない衰弱したからだにさえ土方はこれまで誰も見出さなかった花を咲かせた。それが後の「癇の花」という舞踏独特の美となった。癇の花が、舞踏の原点である所以である。からだのなかに、きみ固有の癇を探せ。動けないもっともみじめな、情けないクオリアを探せ。じぶんではどうすることもできない生命の原生的なクオリアを探せ。おびえやふるえ、めまい、ゆらぎなどコントロールすること能わぬ体感や情動こそ生命の舞踏の出発点である。わたしたちの命はわけの分からぬものばかりに囚われている。思考の癖、からだの変な習癖、嗜癖、欲望、衝動、妄想、悪夢それら一つひとつを解いていく踊りこそ、きみの命にとって踊らねばならない必然の踊りとなるだろう。

大野一雄のボトム

大野一雄さんの写真の中から、あえて一般に流布されている両手を上げて空に広がっている写真以外のものを見つめる。どうか、これをいのちの目でとくと味わって欲しい。 大野さんのあの独特の極めポーズだけが世界に流布し、あたかもそれが大野さんの舞踏スタイルでもあるかのような誤解がひろがっていることに長い間強い危惧を抱いてきた。 西洋の大野さん系の舞踏家から影響を受けた人々の舞踏スタイルも多かれ少なかれ、その流布された写真ポーズから影響を受けている。それを見るたび身を切られるように辛くなる。なんと文化は伝わりにくいものか、と。それはたしかに、大野さんの踊りの中の花のひとつには違いないだろう。だが、花が花だけで花になることはありえない。 花は目には見えない暗闇の中の秘密や謎に支えられてはじめて花となるのだ。 大野さんは踊りの中で膝から下の世界を模索し、死者と対話し、 生死のエッジとま向かう中から、最適の瞬間をつかんであのポーズをとったのだ。

 大野一雄の息子の義人さんはいう。

 「『膝から下の世界」という世界を一雄はもう一つ持っている。そこにもう一つの宇宙がある。 『膝から下の世界』というのは大事です。モダンダンスなんかでは、上に、重力に逆らってというふうな思いが強いでしょう。 一雄の場合は、本人がそう感じたとき、反対に落下します。その時の落下する速度は凄いです。あっという間に床に行ってます。」

 (『大野一雄 魂の糧』)

だが、写真家にとって、うつむいて膝から下の世界をまさぐっているような図は、おそらく絵にならないと判断されたのだろう。 謎や秘密に触れているみすぼらしい姿の写真など数えるほどしか撮られていない。その写真家の美意識や判断が大野さんの舞踏の世界を歪め、 上滑りのBUTOHのイメージを世界にまき散らしてしまった。 大野一雄の舞踏のもっとも深い花と謎と秘密は、そこにあるというのに見過ごされてしまうこととなった。その誤ったイメージに毒された西洋圏の舞踏家や生徒に数多く出会った。そのとんでもない悲しい誤解を解くために、大野さんの写真の中から両手を上にあげていない写真だけを探して上に紹介した。ほとんど無視されて撮られていないから、見付け出すのに苦労した。見やすい大きい花と違って、謎も秘密も目には見えない。それに触れた命が微細にふるえているだけだからだ。ただ、日常意識を止め、思考をやめたときにだけ、 生命が震えるように何か見えないものと共振していることが感じ取れる。そして、本当の花もその心の目にだけ映る。いや心というとまだ人間の枠内を離れることができない。こころでさえなく、いのちになって大野さんの舞踏世界の奥底を感じてください。 人間の持ち物をすべて投げ捨てないと触れられない世界がこの世にはあるのです。

 

ボトムボディの元型

ボトムとは、さまざまに変容する元型がなにか小さな姿に凝縮し物質化したあり方だ。それに気づいたのは、ミンデルの処女作『ドリームボディ』をパラパラとめくっていたとき、彼が見た「メルクリウスについての論文を書いている夢」の話が目に入った。メルクリウスは、水銀の精で、変容の神である。ミンデルによれば、夢においてメルクリウスは道化、聾唖者、老賢人、妖精、魔法使い、あるいは雄鹿として現れる。ミンデルは、メルクリウスを瓶に閉じ込めるグリム童話について論じたユングの「精(スピリット)メリクリウス」という論文を紹介していたが、瓶という字を見てはっと気づいた。そうか、グリムの瓶や、アラジンの壺、土方の箱、わたしのボトムである石は、すべて一体のものだったんだと。

そして、石とは旧石器時代から神や精霊が宿る依代であったことも。中沢新一が「精霊の王」という名著で紹介しているシャジク石もまた、瓶や箱と同じ精霊の依代である。

 

縄文土偶には小さく凝縮された形と大きく拡張された形がある。まるでアラジンの魔法のランプに閉じこもっている精霊と大きく膨らんだ魔人ではないか。ボトムボディはこれらの無数の精霊クオリアの凝縮形態だったのだ。わたしたちが最小の苦しいボトムの姿に成り込んだときに共通して味わう不思議な体感は、この精霊が閉じ込められた瓶や箱や石の元型の体感だったのだ。そこに閉じ込められた精霊や死者が出てきたがっている元型的なクオリアの傾性が、ボトムに共通する不思議な体感の正体だったことに気づいた。その気づきから、さらにからだから勝手に出てくるかのように感じられる自発的な動きのクオリアにはみな、人類共通の元型的な無意識が絡み付いていると捉えると、すべてを透明に見渡せることに気づいた。元型を総覧すると、ひとがたをした自己元型、天国地獄などの世界元型、シジギー(ペア)やアニマ・アニムスなどの対元型、群れの元型などに分類できるが、それを形態的に見れば、魂や精霊などの気化元型、それが閉じ込められた石や瓶や箱などのボトム元型、そこから出てくる妖怪やお化けなどの異型元型、そして、それらすべてを自在に行き来する変容元型に分類できる。これらの分類は便宜上の仮のもので、非二元世界のものを分類することなどは本質的にできない。分類したとたんそこから抜け出て別のものに姿を変えるからだ。これらすべてを生命クオリアの共振として解くこと。解くとは、謎をより深層へ解き深めることだ。狭い人智によって言語化され固定化された低次元の静止状態から、その本来の多次元非二元状態へ活性化し解き放つことだ。

 

ボトム元型とアニミズム

2 重要

「死者は静かにしかし限りなくその姿を変えるのだ彼等は地上のものの形をほんのふとした何気なさで借用することも珍しくない。」

 

土方の最後のソロ「静かな家」は、魂や精霊、気化したからだとなった死者が、任意に地上の物質や人のかたちを借用して形あるものに成り込むことからなっている。これは人類最古の心であるアニミズムの世界に入り込むことなのだ。『病める舞姫』でも、冒頭のけむり虫に象徴されるように、

あらゆるものは「生まれ変わりの途中」 にあるものとして登場する。「誰にも見えない空気中の大きないきもの」こそが変容の主人公なのだ。

少年土方は、鉛玉やひものような、

「うさん臭いものや呪われたようなものは、(その見えない精霊が)

休んだ振りをしているのだ」

と見えないアニミズム世界に対するスパイのような目を働かす必要があった。わたしたちもまた、土方の未踏の舞踏を学ぼうとすれば、石や鉛玉などのうさん臭い事物になり込むことによって、アニミズム世界の秩序にからだごと入り込むことが要求される。気化してさまよう透明な精霊と、それが休息する媒体としての石や山や木や箱や瓶やランプなどのボトム元型が、太古から続いてきたアニミズムの主要登場人物である。ボトム元型は世界中にあまねく存在する。おそらくグレートマザーマザーのようなひとがたを取る以前の大母と並んでもっとも古い層の元型が路傍の石や、大樹の元に置かれた石などに象徴されるボトム元型だ。日本では消失しかけているが、インドではいまだにいたるところに路傍の石が祀られている。ボトムになり込み、もっとも古い人類の心になりこみ探る。ボトムボディには人類700万年の心の秘密が詰まっている。土方が誘っている未踏の舞踏とは、現代の狭い心身のあり方を脱ぎ、700万年の人類史の各段階の心身を自在に行き来しうる融通無碍な透明体になることなのだ。

 

 

 

 

からだの闇を掘る

 原生体

もっとも原生的なからだ

からだの闇の中のもっとも原生的な生命傾向をさぐる。ほとんどうまく動けない、のろのろとしか進めない、そんな傾向は誰の中にもある。現代の人間社会ではそれらは下等な、なまけものの傾向と蔑まれて、受け入れられない。だが、生命にとってはもっとも原生的な傾向だ。生命はうまく動けなかった長い時期を過ごしてきた。あらゆる生命傾向が共存できる豊かな多様性に満ちた世界を創るためにはこれらの原生的な生命傾向は欠かせない重要なものだ。未来の世界ではどんな鈍くしか動けないからだでも、どんなみっともない動きしかできないからだでも蔑まれることなく多様な生き方が共存できるようにならなければならない。トカゲの動きにも、ウミウシの動きにも、障害者の動きにもかけがえのない独特の美があるのだ。それを美と受け止められないとしたら、それはきみが現代社会の狭い美意識に囚われているためだ。原生体は十体を探る中で、もっとも最初に掘り当てることができるサブボディだ。

 

粘菌体

粘菌(変形菌)は、ときにアメーバ状(図左)ときにキノコ状(図右)になって、中の胞子を飛ばす。ホコリカビとも呼ばれる。わたしにとって、もっとも魅力的なリゾームの先生、いやいのちの先生だ。アメーバ状のリゾームと、キノコ状のツリーを自在に行き来する、リゾーム=ツリーの名手だ。

原生体には、粘菌体のほかにも魚体、両生類体、爬虫類体、獣体、植物体など無数にある。それらへの変成法は、第4章「調体4番 密度を運ぶ」を参照。 

 

生命共振ジャーナル
 
 
からだの闇を掘る

土方巽「少女」1973

 衰弱体

舞踏の原器としての衰弱体

衰弱体は、舞踏にとってもっとも重要な変容である。土方はそれをメートル原器のような、舞踏の原器と呼んだ。それは、異界へ通り抜けるための必須の体だ。粗雑な人間の体のままでは、異界へ入ることも、異界からのシグナルを受け取ることもできない。わたしはヒマラヤに引き籠って、意識の止め方を学んだ。人間の意識のままで踊ってはならない。自我だの自己だの、国籍だの、人格だの、性別だの、年齢だのという人間の条件をすべて脱ぐことを学ばなければならない。命は物質ではない。情報でもない。物質と情報を脱いではじめてあらゆるものと微細に共振しているいのちになることができる。時を超えて共振する命のクオリアそのものになるのだ。それらが衰弱体になる必須事項だ。生命の呼称で呼ばれる舞踏とは、衰弱体で踊られる舞踏である。

衰弱体の内的必然

衰弱体は単なる身体技法ではない。衰弱体にならなければならない必然性が自分の中に見つからない限り形だけ習っても形だけに終わる。もちろん日本の伝統芸能にはまず形から学んで、その型がからだに滲み込む中でその必然を体得するという時間がかかる方法があることは知っている。だがそれは心身の変成とはなんであり、いかに起こるのかが師自身にさえつかめていなかった時代の話だ。だが、土方が衰弱体を発見してから半世紀が過ぎた今は、土方がたった一人で潜ったからだの闇の沈理がかなり明らかになってきた。それは日常世界の三次元的論理や二元論的判断とは根本的に異なる論理であるが、その異なる論理をつかみ出す仕事が進んでいる。それを沈理と呼んでいち早く探求し始めたのが土方巽だ。

「自他の分化以前の沈理の出会いの関係の場へ下降せよ」(未発表草稿)

ほぼ同時代に人間の終焉を予言したフーコーや、ドゥルーズ・ガタリが発見したリゾームやノマドという概念は土方の言う自他分化以前の関係の場そのものである。そこでは個と群れが混然一体化し、自我や自己が消し飛んでしまう。自他が混然一体化する集合的無意識の元型を探ったユングと

そのの弟子、ミンデルのプロセス指向心理学、アメリカの催眠療法の一人者だったエリクソンの弟子ロッシの精神生物学、近代以前の未開社会の沈理を探ったレヴィ・ストロースと、その弟子中沢新一の対称性人類学など

各方面からからだの闇の沈理の特性が明らかにされてきた。

それは現代物理学の超ひも理論が解明しつつあるひも共振の論理と似ている。ひももまた、三次元や四次元の低次元論理ではなく11次元という多次元で共振している、根本的に異なる論理をもつものだからだ。宇宙の謎の解明と生命の謎の解明は共振して進んでいる。あらゆるジャンルの枠に囚われず、縦横無尽に闊歩できる真の自由な生命だけがその全世界的な共振を感じることができる。もう古い伝統に縛られている時代ではないのだ。

 

なぜ衰弱体になる必要があるのか

3.11生命共振記念日に

強くありたいという自我の習癖を脱ぎ捨て、 限りなく弱くなること。 衰弱したいのちになること。 弱くなればなるほど、 強い自我がまたぎ越してきた、 弱り切ったいのち、侵され憔悴しきったいのち、 壊れかけたいのち、死に瀕しているいのち・・・ らの、微細にふるえる癇の花に気づくことができる。 自分もまた、おなじく微細に震えているいるからだ。

そう、「自分」の強さと、共振力が反比例していることに気がつく。そして、世界中の悲惨が国家や自他をこえて、ひとつにつながっていることに。

 生きとし生けるものがひとつのいのちであることに、からだが目をさます。 土方巽も、1968年の伝説的なソロ、 「土方巽と日本人ー肉体の叛乱」を踊り終えて、 周囲は賞賛の嵐が吹き荒れ、門下生が日本中から詰め寄せてくる中、はっと気がついた。こんな強い英雄的な踊りをしている限り、からだの闇に棲む死んだ姉さんは、振り向いてもくれないことに。 夢枕に立った姉さんのささやきが聞こえたのだ。

「くにおちゃん(くにおは土方の幼名)、

お前が踊りだの表現だの無我夢中になってやっているけれど、

 表現できるものは、何か表現しないことによってあらわれてくるんじゃないのかい。」

そういってそっと消えていった。

「ぐったりしたこころ持ちにならなければ、 人の行き交いはつかめぬものらしい。」

 『病める舞姫』に記された一行は、その土方の人生の転回を語っている。

 強い舞踏から、衰弱体舞踏へ。 自分を表現しようとすることから、 表現しないことによってはじめてあらわれてくる生きとし生けるものの、死に瀕する「癇の花」との共振へ。

誰にも転回はある。 3.11がその転回になった人も多い。 思い出そう。もっとも悲惨な目にあったときのいのちの震えを。あらゆるいのちが微細にしかし限りなく多彩に震えていることへの気づきを。わたしたちが掘り抜くべき未踏の坑道の入り口がそこに開いている。その坑口を降りるか、またぎ越すかはあなた次第だ。

毎年の3月11日は、その坑口の存在に気づかせてくれる今に生きるいのちの共振記念日なのだ。

生命共振ジャーナル
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からだの闇を掘る

静寂体になる

すべては静寂体になることから始まる。日常の思考の習慣やからだの無意識の緊張を解きほぐし、からだの内外を変容流動しているごくかすかなクオリア流が感じられる静まりかえったからだになることが、下意識やいのちのもつ無限の創造力を開く基本だ。静止した静かさだけではなく、あらゆるかすかなクオリアに共振できる用意ができているのが静寂体だ。だが、ただ静まろうとしてもなかなかしずまれるものではない。日常体は、社会的存在として無数の無意識の緊張と思考や感情によってがんじがらめになっている。そのこわばりや結ぼれをすべて解きほぐす必要がある。共振塾では、新入生を迎えたときは、まずとことんリラックスして、心身の緊張を解きほぐすことから始める。そして、からだの表層筋・深層筋の無意識のこわばりを十全にときほぐす徹底した深層ストレッチと脱力にょろを行う。社会に流布しているストレッチは、スポーツやエクササイズ用に、表層筋のみのストレッチにとどまっている。それだけではなく、心身の奥の社会的人間としての習慣的こわばりを解く必要がある。日常体は自分の意識や自我によって自分の体をコントロールしているという幻想にとらわれているが、それは真っ赤な妄想だ。いかに無意識の社会的威勢や鎧によってからだが武装されているか。それらを深層から解きほぐすには、自分を人間だと錯覚している幻想を脱ぎ、原初のいのちになる必要がある。いのちは、人間一人にひとつあるのではない。個々の細胞それ自体がいのちを持っている。40億年前に誕生してから現在まで、さまざまな種に分化多様化しながらいのちのながれは途切れることなく続いている。いのちは数えられるものではないのだ。おとなのからだは百兆個の細胞からなるいのちの共振体である。それら百兆の細胞生命の精妙な共振に耳を澄ます。からだのこわばりや、硬結、痛みなどは、各部の細胞の血流不足と各種の生長ホルモン・自己治癒物質などの不足からやってくるものがほとんどだ。多くの部位が日常体にとって忘れ去られている。その部位は社会的な防御姿勢や日常的な作業によって習慣的に硬結してしまっている。無意識の情動によってこわばっていることもある。それらすべてに耳を澄まし、少しずつ解きほぐしていくのが深層ストレッチと脱力にょろである。調体ゼロ番の呼吸法、とりわけ生命の呼吸と、操体呼吸が心身を深層から解きほぐすのに役に立つ。

生命の呼吸

からだを構成している百兆個の細胞の内呼吸に耳を澄ます。各細胞が新鮮な酸素を得ると、ほんの少し活性化し、ゆるみ膨らむ。ひとつひとつの膨らみは目に見えないほどだが、百兆個の細胞が緩んで膨らむとからだぜんたいのサイズもわずかに膨らむ。上下左右前後の三次元方向に十数秒かけてからだがゆっくり膨らむのを感じる。それが生命の呼吸だ。外呼吸(=肺呼吸)のリズムは、生命の呼吸のリズムと自由に共振している。ときには、きわめてゆっくりした肺呼吸と、生命の呼吸を同期してみるのもよい。

操体呼吸

橋本敬三によって発明された操体法の呼吸は、吐きながらからだを伸ばし、最大限にのびきったところで息を吸い伸びた部位の細胞に新鮮な空気を送る。数秒保息してから、どっと脱力する。脱力するときはからだが流動化するに任せる。

野口三千三はこれを<にょろ>と呼んだ。この操体呼吸とにょろによる脱力流体化を体の各部位に対してみっちりと行う。これに専念していると、自ずと日常思考は鎮静化し、からだのわずかな変化に耳を澄ますことができるようになる。

逆腹式呼吸とボトム呼吸

思考や感情が嵩じ、それに囚われているときは、腹式呼吸または逆複式呼吸、ボトム呼吸を長時間続けるのがよい。物理的な動きを止めたとき、からだの内外を、かすかなクオリアが変容流動しているのに気づきそれに耳を傾ける。

深調体一番 微細ふるえ

続いて、からだじゅうの細かい部分がランダムにまんべんなく微細に震える微細ふるえ調体に入る。もっとも心身に心地よいサイズと速度を見つけるのが大事だ。仰臥位、伏臥位、側臥位、四ツ位などさまざまな姿勢でこの微細震えを楽しむ。

これを20分ほど続けていると、からだがおのずから心地よさに心身をあずける下意識モードの状態になる。いのちはこの心地よさに抵抗することができない。それまで囚われていた思考や感情のこわばりがとろけ、消え去るまで続ける。これが毎日のはじめに行うとよい静寂体への調体だ。踊り手だけではなくだれにもおすすめできるものだ。

 

からだの闇を掘る
 
 
 
Hijikata Tatsumi Hosotan part 2 (1972) 土方巽 
疱瘡譚 Part 2 癩1 
からだの闇を掘る
 
 

2021年2月19日

 

時代の証言集
『きみが死んだあとで』出版!

 

映画『きみが死んだあとで』がまもなく全国上映される。
それに伴って映画の中で行われた、わたしを含む8人の山崎博昭に
関わる友人たちのインタビューが書き起こされて書物として発行されるこ
とになった。このほど映画監督の代島氏から、著者校正のための原稿が送
られてきた。それを掲載します。映画と本のなかでわたしは当時の名前、
岡龍二で登場している。

 

 

護送車のバックミラーに写った顔を見たら憑かれた顔で

「これが二十歳の俺なんやなあ」って。

 

岡 龍二さん

(大手前高校の同学年)

 

十三番目に撮影したのが岡龍二さんだった。大手前高校時代に山﨑博昭さんも参加した「マルクス主義研究会」の中心メンバーは全 員撮影したかった。岩脇正人さん、佐々木幹郎さん、北本修二さん、向千衣子さん、三田誠広さん、黒瀬準さん、そして岡龍二さん。岡 さんはインド北部のダラムサラで舞踏学校・共振塾を主宰していた。

ぼくとカメラマンの加藤さんは2019年 4 月中旬、ニューデリーへ飛んだ。ニューデリーーダラムサラ間の移動にはもっと時間

がかかった。険しい山岳部を抜ける深夜バスに揺れること 10 時間、ぼくらはほとんど一睡もできずに朝陽を浴びたダラムサラのバス停に着いた。ダライ・ラマ 14 世が暮らす亡命チベット人の街には、日本とは違う「気」が流れていた。

ヒマラヤ山脈をのぞむ岡さんの舞踏学校兼自宅の建物は「ハウルの動
く城」を思わせた。そして、岡さん本人は城を動かす火の悪 魔・
カルシファーのような不思議な、そして魅力的なひとだった。
岡さんを撮影する前に、ぼくは複数の高校同級生から岡さんにま
つわるエピソードを聞いていた。それはすべて「貧乏物語」だった。

「京大を受験するときに受験料が払えなかった。だから、
友だちみんなでカンパした」とか「電車をキセル(無賃乗車)
して駅員に捕まった」とか。父が消えてからは、母親が女手ひ
とつで男の子三人を育てたという。岡さんはその長男だった。

1969年の『アサヒグラフ』に掲載された原稿で、
岡さんは高校時代の山﨑さんをこう描写している。

《デモがあったあくる日、奨学金を受取りに行った学生部の
窓口の前で偶然出会ったぼくらは、お互いの機動隊に蹴られた
足の傷やアザを見せ合いながら、「昨日は酷かったなあ」といっ
て話し始めた。

 

「やっぱり貧乏ってことかなあ」と、もらったばかりの三枚の千円札
を恨めしそうに眺めながら闘いの動機を語り始めた君に、僕は共感し
てしまった。》

岡さんはいまも山﨑さんに共感しながら、「山﨑博昭の記憶」を

踊りつづけている。

 

全文を読む

生命共振ジャーナル
 
宇宙| スムリティ
 
コンディショニング#4運搬密度
16 February, 2021

Dear Friends 

The Butoh Course will resume on Monday, 8th March!

Lets listen to the Life and dance together! 

Subbody Resonance Butoh Course 

When: [Spring semester] 8th March - 28th May,2021

[Summer semester] 7th June – 28th August,

[Autumn semester] 6th September – 26th November

[Winter semester] 6th December – 25th February 2022

Monday – Friday

10:00-17:00

[Duration] One day, One week, One month, One semester and One year course are available

[Where] Life Resonance Art center

Jogiwara village, Macleodganj, Dharamsala, Himachal Pradesh, India


 



Read more "Sinking into the darkness"

 

生命共振ジャーナル
 
シャクティスムリティ
 

Dear Dancing friends

 



How is your dancing spirit? Is it still alive?

I guess everybody is facing hardship.

Recently, fortunately, it is calming down in India and Himachal Pradesh a little bit.

We don’t know what will happen next, the third wave will come or won’t, nobody knows.

We decide to resume regular Butoh course in this chance as the following.

Please activate your dancing spirit and dance together in this opportunity at Himalaya.

 

Subbody Resonance Butoh Course

 

When: [Spring semester] 8th March - 28th May,2021

[Summer semester] 7th June – 28th August,

[Autumn semester] 6th September – 26th November

[Winter semester] 6th December – 25th February 2022

Monday – Friday

10:00-17:00

[Duration] One day, One week, One month, One semester and One year course are available

[Where] Life Resonance Art center

Jogiwara village, Macleodganj, Dharamsala, Himachal Pradesh, India

[Tuition; Foreigner]

One day          1,200rs

One week        5,400rs

One month      19,000rs

One semester  51,000rs

One year       180,000rs

(Indian people are discounted 40% from the above)

[Tution: Indian]

One day               720rs

One week          3,240rs

One month      11,400rs

One semester  30,000rs

One year       100,000rs

 

[Reservation for Foriegner]

(Early reservation is discounted 20% from the above in the case of one semester and one year course).

Reservation for one semester: 40,000rs

Reservation for one year course: 144,000rs

 

[Resvation for Indian]

Reservation for one semester: 24,000rs

Reservation for one year course: 80,000rs

 

Send the fee to the following bank account

Bank Name : State Bank of India,

Branch : Mcleodganj

Account Holder Name :  Ryuji Oka

Account Number :  31687887679

Bank Code : 04250

Swift Code : SBiNiN BB 676

IFSE/ NEFT/ RTGS : SBIN  0004250

MICR Code : 17600 2009

The address of the bank is

State Bank of India, Mcloedganj,

Teh. Dharamsala, Distt. Kangra, H.P. India. pin 176215

The address of the Receiving person is

Ryuji Oka,

Village Jogiwara, Post Office McleodGanj,

Dharamsala, Distt. Kangra, H.P. India. Pin 176219

 

[Acommodation and meal]

The tuition above is only for the class, it does not include accommodation or meal.

You can stay at the guest house near the school. The fee is around 6,000-12,000rs per month.

You can cook by yourself for the lunch at school kichen or use cheap restraint in the village.

 

Hope to see you soon!

Life Resonance Art Center

 

p.s.

Attached the newest PDF of the Practice Guide of Butoh Revolution for your study. Enjoy it!

 

 

舞踏革命 リゾーム リー

印刷版・電子版とも、アマゾンでお求めいただけます。

印刷版 3456円 (574ページ)

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電子版 1800円

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この二十年、ヒマラヤで書き続けてきた舞踏論のすべてを一冊に凝縮しました。

「舞踏は、土方巽によって、日本で誕生した。本書は、今や世界的になったその「舞踏」の本質を追究し、自らインドのダラムサラで学校を開いて実践し続けるLee(リゾーム・リー)が、その本質に「生命の共振」があることを発見し、真実、舞踏こそが人類を解放し得る方法であることを示している。その意味で、まさに本書は「革命の書」である
。」

この度、アマゾンでお手軽にお読みいただけるようになりました。 



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