生命共振を世界に
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生命共振ジャーナル

 共振塾待機中!

読者の皆さまへ

共振塾サイトを訪れていただいてありがとうございます。春からの新学期開講を予定していましたが、残念ながら現在インド及び共振塾が位置するヒマーチャル・プラデーシュ州でコロナウイルスが増加しています。共振塾の定例舞踏コース再開はコロナが落ち着くまで見合わせます
でも、このような人間関係から隔絶される状態は、からだの闇に耳を澄ます、またとない機会でもあります。下記に最新刊の『舞踏革命 実技編』のPDFのリンクを付けました。ご自由にダウンロードして、毎日の瞑動の仕方を読み自習してくださることをお願いします。お会いできるのを楽しみにしています。

生命共振芸術センター

『舞踏革命・実技編』PDFをダウンロードする


生命共振ジャーナル
 
 
からだの闇を掘る

得体の知れないリゾームになる

自分の中の思い出せないものに耳を澄まし続ける。そして同時にからだをあらゆる方向から誰かに動かされるに任せる。24時間瞑動し続け、日常ではあり得ない形を探り続ける。この2つを続けていると、かならず、あるからだのかたちや動きと、思い出せない記憶が不意に結びつく瞬間がある。それを見つけ自分のサブボディとしてからだに書き込む。この作業をとにかく続けることが大事だ。続けてさえいれば、三月もしないうちに 30分や一時間のソロはひとりでに出来上がる。その動きは大概奇妙な動きや形からなる。それと結びつく忘れていた記憶も、大概は奇妙な、薄暗い、うまく説明できないクオリアに満ちている。それらを意味や脈絡なく結びつけ、寄せ集めることで、自分でもよくわからない得体の知れないものになる。それがサブボディだ。ひとつのクオリアに結びつく動きが終わりかけると、つぎのサブボディの動きにつながっていく。こうして次から次へと奇妙な序破急の展開が生まれる。群れで踊るときはさらに自分のサブボディが他の人のサブボディと共振してコーボディになる。誰かの動きがからだに入ってきて、そのまま別の誰かにつながっていく。自由に連結し、自在に分離するリゾームになる。ときに思いもかけないところに跳んで行くこともある。予想もしなかった世界がひらけてくることもある。まったく構わない。意識で説明できるストーリーなどをつけてしまうと、とたんに意識的な意味が浮き上がってつまらなくなる。むちゃくちゃがいい。カオスがいい。得体の知れない見たこともないものにだけいのちは動かされる。観客に頭で納得されたら終わりだ。絶えず期待を裏切り続け、自分さえ驚かせ続けること。これがじょじょに透明になってきた生命共振舞踏の極意だ。

 

からだの闇を掘る

 粘菌先生たち

生命共振としてのクオリア

この書で<クオリア>というとき、それはわたしたち人間の意識のみならず、100 兆個の細胞のすべてが感じている、<生命共振としてのクオリア>を意味する。人間だけではなくバクテリアやアメーバのような原始的な生き物のいのちも、クオリアを感じ生存のために活用している。クオリアは細胞のいのちにとって、生きるためのメインツールなのだ。

このことに気づかせてくれたのは、わたしにとってのいのちの教師「粘菌先生」たちだ。2000 年にインドに移住したとき、わたしは故郷・和歌山の南方熊楠博物館を訪れ、そこに展示してあった「キイロタマホコリカビ」のシャーレを一つ分けてもらい、こっそりヒマラヤで観察を続けた。毎夜毎夜、粘菌を眺めて暮らした。餌になる米粉小麦粉などをシャーレに入れると、一晩の間に粘菌は見事な新しい地図を創る。

 粘菌先生の毎日の創造

その動きは、当時発見されたばかりの大脳の海馬で生まれた新生神経細胞が、脳内の栄養物質に共振して脳内にネットワーク網を伸ばしていく動きとそっくりだった。粘菌も大脳神経細胞もどちらも生命細胞であり、<栄養素クオリア>を求めて日々さまよっているのだ。わたしは粘菌先生から、細胞のいのちがどのようにクオリアと共振して活動しているかを目のあたりに学んだ。クオリアとは何か、という問いは、いのちとは何かという問いと同じだけ深い。

 

 

からだの闇を掘る

共振リゾームの輝き

共振リゾームを踊るいのちには、人類が5000年間束縛されてきたツリーシステムの束縛から解放された深い喜びと美しさがにじみ出る。自我や国家や宗教や企業などの階層秩序がどれほどいのちの共振性と固有性と創造性を阻害し続けてきたか。そしてその束縛を断ったいのちがいかに歓びに満ちて輝いているか。スペインのヒマラヤ山中でのはじめての共振リゾームの実験の中で、誰かが急流を滑り出した。みんながその面白さに飛び込んでいった。<共振リゾーム>を体験したひとは、そのなかでだれもがとびきりのいのちの輝きを見せていることに気づく。そして一生忘れない。この気づきを少しずつ世界に広げていく。未来はこのいのちの道の先に開かれるにちがいない。

 

脱領土化瞑動

脱領土化のとてつもない力

<脱領土化>技法はこれまでに体験したことのない自由を心身にもたらす。

自分のからだの各部が、勝手に自我の領土を離れ、別のものになる。あるいは外から異なるクオリアがからだの何処かに忍びこむ。この二つの現象は、主客のない共振として捉えれば同じことだ。それを共振リサーチのしかたで、全員が短い時間を固有の脱領土化のクオリアでガイドする。20秒、10秒、5秒と時間を切り詰めていくと、だんだん目まぐるしくクオリアが変わっていく。 それを全員が思い切り楽しむ。みんな自我の軛から離れると、面白いように想像力が飛び立つことを楽しめる。共振塾史上稀に見る創造力の爆発が起こった。ときどきこういうとびきりのことが起こるから、やめられない。

 

リゾーム共創のメタスキル

メタスキルとは、言葉で明言できないが、暗黙のうちに共有している共存在としてのあり方、いのちの態度のようなものだ。

1.いつも全員が全体の序破急を共創する上で、いつ、どこで、どんなクオリアをどうシェアするのが最善かからだで探りつづける。

2.自分であるか、ないかがどうでも良くなるところまで行く。自分で見つけたら率先ガイドし、他の人が見つけたらそれに最適のしかた(距離、タイミングの間、合わせ離れ)で共振し促進する。

3.最初の率先者、二番目の促進者、それ以外の追随者のどれをやるときも、同時に自分の秘密と謎を‘探求し続ける。

4.全体の序破急共創を忘れて、自分のクオリアにかまけすぎない。短く深く踊って、次のクオリアにジャンプする。

5.これらすべてを会得すると、栄えある未来の共振リゾームに生成変化することができる。

 

キメラ多様体になる

キメラへ。

ツリーを脱いでキメラ状のリゾームへ!

からだが幾千もの微細な部分に細分化される。そして、それぞれの部分が多数多彩な異次元と共振しながら、Xによる還元と再生によって、勝手にリゾーミング変成を始める。X還元と、幾層もの秘膜・秘液・秘腔・秘関・秘筋の、キメラ状のリゾーミングが混濁一体化するまで。だれにも捉えることのできないたった一つの秘密になるまで。

「10 (メスカリン)

  手の恋愛と頭蓋のなかの模写は断絶してつながっている。 指さきの尖たんにメスカリン注射がうたれる。そこには小さな花や小さな顔が生まれる。

  細い細い糸のあみ物、無窮道のあみの目、 炎を吐く鳥とこっけいな熊が、ゆらゆらと狂王に従う。そのさなかに頭部がいまひとつのゆくえを追っているのだ。

  全てのマチエールは背後によってささえられている。 複眼と重層化は混濁し一体のものとなる

11 (キメラ)

ベルメール―こっけいな熊へ―馬の顔へ

鹿の視線から―棒へ―乞喰へ―虎

 鼻毛の鳥―花―狂王へ―複眼―ゆくえ

虫―犬へ―オランウータン―福助の耳へ

耳がつつかれる―目まい―鏡の表裏へ

複眼のなかでいき絶えているもの

 人形―仮面―パパイヤ―ほたる―板の展開

  小さな花等がある

馬の顔―少女の顔―犬―スプーン

虫と木の合体―背後へ―ふいに植物の軌跡で展開をはかるものへ

 

からだの闇を掘る

 

車椅子舞踏 ハンガリー(2015-2019)

共振リゾーム

<共振リゾーム>とは何か

ここでしか言えないけれど、今世紀で一番重要な問題はね、だれがどうして世界を変える方法を発明するかってことなんだ。

<共振リゾーム>はそのための仮説の一つにほかならない。方向も座標もないからだの闇を手探りで掘りつづけて、やっと<共振リゾーム>という新しい道が開かれるところまで来た。40代で舞踏家として踊り始める前も、ずいぶん若い頃からわたしはからだの闇の底知れぬ謎と秘密に向き合い、掘り続けていた。<共振リゾーム>と<生命の舞踏>は、いよいよそれらすべての生きるためのあがきを統合することのできる道だ。

とりわけ、性の闇、関係の闇、世界という闇のすべてと格闘することのできる道だ。<共振リゾーム>は善悪・正誤・良否の二元判断から解放されたいのちの踊りを可能にするものである。きっかけはハンガリーで各種の障害を持つ人々と踊る車椅子舞踏だった。終わった後、参加者の一人が言った。「今の社会ではわたしたちは邪魔者か、手助けの対象として扱われている。このワークショップの中で、はじめてそんな障壁のない世界を経験した。」そうだ。わたしたちはこの世界からあらゆる障壁が消えるまで踊り続けるだろう。

 

未来の人間への道

共振リゾームは、単に踊りのあり方にとどまらない。それは現代の階層秩序に管理されたツリーの束縛からいのちを解放し、未来の人間の共振性と創造性に満ちた<共振リゾーム>という生き方への転換につながる。

 

<共振リゾゾーム>はなぜ面白いのか

いのちはほんとうにやりたいことをしているときにだけ、輝きを発揮する。

いのちに耳を澄まし、そのかすかな傾性に従うこと。いのちは、監督や振付家、教師などの階層秩序に支えられた権力や、経済的・政治的な事情などに強いられることを好まない。いのちはそれらの外的な力だけでなく、内側から駆り立ててくる自我や自己の衝動などに引きづられることも好かない。自我は、現代における最大最強の元型である。わたしたちはたえず、どのようにして脱自し、自我の囚われからみずからのいのちを解放するか、瞬間ごとに気を配り続ける必要がある。

いのちは、それら内外の力のどちらにも囚われず、透明になることによってはじめて、その無限の創造性、固有性、共振性を発揮することができる。

この十数年間の試行錯誤の中から見つかった<共振リゾーム>は、それを実現するもっとも理想的な方法のひとつだ。<共振リゾーム>は、ただ生命共振をつうじてすべてを共創する仕組みだ。そこには固定された指導者やリーダーはいない。中心も上下もない。わたしたちはひとりひとりが狼のようにたった一人でも生き延び、創造し、自由に連結し、柔軟に分離することができるリゾームになる。群れの中の誰かが、固定した役割なしに、ときに率先し、ときに促進し、ときに従うという、柔軟な役割転換をこなすことによって共創する。とてもかんたんな仕組みでいのちの無限の創造性を開くことができる。

からだの闇を掘る

リゾーム=ツリー

リゾーム⇔ツリー自在往還

リゾーム⇔ツリー自在往還とは、下意識と意識、非二元のクオリアと、二元的な言語や情報をうまくつなごうとするものだ。下意識の世界は多次元変容流動で、常にリゾーム状に変転している。これに対し、意識の世界はツリー状(階層秩序状)に構築され分別界で動いている。このまったく異なる二つの特性をうまく使ってからだの闇に降りる。

初期の頃わたしは、リゾームとツリー、クオリアと言語の二元論的な対立に囚われていたが、二元論などどこにもない。

クオリアと言語の中間の<クオリア言語>の発見が、二元論への囚われから解放してくれた(第7章「<クオリア言語>の発見)参照)。

 

リゾームとツリーの、両世界を自由に行き来する

クオリアと言葉の関連を透明に見る

クオリアと言葉には大きな違いがある。クオリアはいのちの共振であり、共振には主体も客体もなく、どちらからともなく起こる。言葉は頭の中で起こっている無限のクオリア変容を基礎に生まれる。

最初はあるクオリア群に特定の<ラベル>が結びつき、牛とか森とかの基本的な概念を表す<クオリア言語>が生まれる。下意識の脳内ではその<クオリア言語>が別の<クオリア言語>と共振し、と、と、と、というアンドで結びついて変容流動していく<クオリア思考>が起こっている。

それを日常言語の文法で整理し理性的な文章にする前に、からだの動きと、その原始的な<クオリア言語>でお互いの出会ったクオリアの変容流動をシェアするのが<クオリアシェア>だ。文法など無視して、クオリア思考のまま喋りシェアする。主語がすり替わったり、場面が突然変わるのもお構いなしでいい。そのクオリア思考は誰の脳にも起こっているものなので、からだの動きは容易にそれに付いていくことができる。<クオリア思考>は非二元多次元世界で共振しているので、前も後ろもない。上も下もない。階層秩序などまったく持たない。あるクオリアはいつでも流れから離れ、他の何とでも連結共振して一つになることができる。部分がいつでも全体になり、一つの全体がいつでもほかの何かの部分に繰り込まれることもある。クオリアには全体と部分、群れと個の違いもない。クオリアはそれらの制約を安安と飛び越えて自由に変容する。<クオリアシェア>によって互いの<クオリア思考>に共振できることの発見が大革命だった。

誰もが下意識の変幻自在なリゾーム=クオリアの世界と、言語意識のツリー世界とを自在に行き来できる二重の旅人になることができるようになった。サブボディ=コーボディのいのちに至るまでの苦難を共有しながら、いままでにないリゾーム共同体に近づいていくことが可能になった。

自他の壁を超えて

長い間言葉にすることはできなかったが、わたしが共有したいのは、わたしたちが囚われている自他の壁を超えて、 <他者を本当にわがこととして感じられるようになるにはどうすればいいか>という見果てぬ夢のような課題であった。だが、とうとう<クオリアシェア>によって実践的にそれに近づいていくことができるようになった。この課題は、現在の世界を未来の目から見る<未来からの目>からやってきた。わたしはそれをを埴谷雄高から学んだ。すべての問題が解決された未来社会から現在を見ることによって、何が問題になっているのかが透明になる。解くべき問題は自我であり、国家であり、二元論的な拘束である。 日常生活の目では、それを見透すことができない。だが、<サブボディ=コーボディ>や、<ドリーミングシェア>や<共振リゾーム>の実践を続けていけば次第に、次は何かが見えてくる。個人神話と世界神話の絡み合いの共創を通じて、全体としてどういう世界を生み出したいのか。どこへ行きたいのか? 次の課題がじょじょに透明に浮き出してくるだろう。だが、当面はただカオスでいい。リゾームのカオスがより集まり、うねり、高まり、プラトーとなってどこかへ動いていく。それだけでいい。それだけですでに何かの始まりなのだ


からだの闇を掘る

いのちになる。リゾームになる。

わたしたちは、自分が人間であると思いこむことによって、もろもろの人間的錯覚に囚われる。 近代社会では、強いものが良く、弱いものは悪い、健康が善で病気は悪、 健康が美しく、障害は醜い。それらの錯覚はまた、上と下、中心と周縁をもつ二元論的な階層秩序のツリーシステムに囚われている。だが、そんな幻想はただただ近代数世紀の人間が創り出して自ら囚われ苦しんでいる幻想にすぎない。 日常的な思考を鎮め、からだに耳を澄ませば、そんな錯覚は消え去る。からだじゅうにある100兆個の細胞は、みな40億年間の生命史のなかで蓄えてきた生命共振クオリアによって地球上のあらゆる生命と共振している。そう。ただ共振しているのだ。 生命共振には健康者と障害者、人種や文化の違いをわかつ境界はない。それどころか、人間と他の生命を分かつ境界さえない。すべてのいのちが苦しみ、喜び、ただただ分け隔てなく共振している。いのちになれば自分と他者という人間的境界も消える。サブボディはそのまま共振するコーボディとなる。これこそあるがままのいのちの姿である。いのちにはツリー状の階層秩序などない。リゾームはいのちのあるがままの原初だ。未来社会の萌芽形態である。いや、ただいのちのあるがままのあり様を回復するだけだ。わたしはいつか地球上に生命共振があふれる日が来ると信じている。


からだの闇を掘る

リゾームとは何か

リゾームはいのちの原初であると同時に、わたしたち「人間」の未来の姿でもある。現在のわたしたちが囚われているさまざまな桎梏を内側からも外側からも食い破り、いのちを解き放っていく運動そのものである。現代の「人間」を支えている「頭の中の一本の木」である「わたし」や自分へのこだわりを内的に覆し、同時に世界のあり様を変えていく現実的な動きである。リゾームは固定して捉えることはできない。単なるツリー状の階層秩序の反対概念であるのではない。そんな二元論はどこにもない。リゾームは常にツリー状の知性と関係を打ち破り、ツリーからリゾームへ変成していく生成変化なのだ。

リゾームの運動原理は自立と共振にある。たった一匹でも狼はリゾームであり、共振する群れでもある。いつどこでも他のからだや事物のどことでも自由に連結し、自在に分離してノマドとなる。中心も上も下も周辺もなく、蜜蜂の群れ、モグラの穴、伝染熱のようにいつのまにか世界に蔓延し、いくつものプラトー(高地)を形成する。リゾームは過去からも未来からも浸潤してくるいのちの抑えようのない動きなのだ。


からだの闇を掘る

リゾーム

砂漠で迷子

「砂漠があるの。その中に蠢くひとつの群れ、蜜蜂の大群、入り乱れるフットボールの選手かトゥアレグぞ族の集団。 わたしはこの群れの縁に、その周辺にいる――でもわたしはそれに所属している、 わたしはそれにわたしの体の先端で、片手か片足かで結ばれているの。 わたしには、この周辺がわたしに唯一可能な場所で、もしこの混乱の中心に引きずり込まれてしまったら死んでしまうこと、でも同じくらい確実に、この群れを手放してしまっても、死んでしまうことが分かっている。 わたしの位置を保つのはやさしいことではなくて、 立っていることさえとても難しいほどなの。なぜかっていうと、この生き物たちは絶え間なく動いていて、その運動は予測不可能で、どんなリズムも持っていないから。あるときは渦をまくし、北のほうへ向かうかと思うと突然東に向きを変えて、 群れをなす個体のどれ一つとして他の連中に対して同じ位置にとどまったままでいない。だからわたしも同じように絶えず動き続けている。――こういったことは皆ひどい緊張を強いるけれど、ほとんど目も眩むほどの強烈な幸福感をわたしにもたらしてくれるの。」

ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』第二章の冒頭に出てくる とびきりの分裂病者の夢だ。

サブボディとコーボディの関係にはこの夢の主人公と群れとの関係に似たところがある。 群れと個とが、成員とその集団というふうには画然と分かれていない。サブボディかと思うといつのまにかコーボディになってしまっている。コーボディはいつどこででも切断され、 単独サブボディにもなり、またいつでも群れになることができるリゾームだ。ミシェル・フーコーの「人間の終焉」を受けて、その後の知と生存の様式を<リゾーム>として提起したのが、ドゥルーズ=ガタリだった。1960年代の終わりから70年代にかけて、舞踏とフランスの現代思想はほとんど同じことを別個に追求していた。 人間は終わった。で、われわれの次のあり方はなにか、という課題だ。

「リゾームのどんな一点も他のどんな一点とでも接合しうるし、また蜜蜂の群れのように分離可能である。モグラの穴のように常に多数の入り口を持ち、どこへでもつながり、群れにも個にも姿を変え、 絶えず生成変化を続けている。」

土方が「静かな家」で到達したありとある背後世界と交感し、 気化と物質化の間で、無限の変容を続ける最後の舞踏と、ドゥルーズ=ガタリのリゾームは全く同質である。どちらも、今ある人間の日常のあり方からの必死の脱出を模索していた。この両者の等質性に直面したのは、おそらく世界でわたし一人だったかもしれない。

この<砂漠で迷子>をコーボディ=サブボディで踊る。全員がすでに死者になり、砂漠で迷子になったノマドの群れとしてさまよっている。その中で誰かがサブボディに変容すると、ほかの人々も共振して姿を変える。一人が群れに帰ると別の誰かが素っ頓狂な夢を見だす。群れもその夢に共振して違ったかたちに変わる。こうしてどんどん個と群の間で多数多様に変容していく。

……

これを通じて踊り手がサブボディとコーボディの不思議な関係を からだで味わい体得することができる。 いのちの謎は絶対に頭で考えていても届かない。からだでなりこむ以外ないのだ。

 


からだの闇を掘る

 

石庭のコーボディ

多次元共振する石たち

一つ一つの石は、個体でもあり、全体の中の欠かせぬ要素でもある。一つ一つの石は、別個の宇宙を象徴していると見ることもできる。見る人と石の間の共振次第で、なにものにでも変容する、多次元共振世界、それが石庭である。わたしは中学の頃から、何十回も龍安寺を訪れ、膨大な時間を過ごした。妄想癖は、少年期の海と、思春期の龍安寺で形成された。踊りを始めてからは、空間配置だけではなく、時間的な序破急の展開を龍安寺から学んだ。これ以上は言わない。行って何時間かそこに座ることをおすすめする。

みずからが多次元共振世界そのものになりこまないで生命共振を理解することなどできない。多次元共振世界では、重要なのは、ひとつひとつの石のみならず、石と石の間の<間>なのだ。そして見る人と石との<間>である。<間>とは一刻一刻変化する共振である。踊り手は舞台に入った途端、いついかなるときでも一つの石庭の一つの要素になる。そして、いかなるものにでも変容することができる。それによって無限のクオリア共振を生成する。他界の声を聴き死者となって紛れ込むことも、悪夢の一断片を踊ることもできる。石庭とは生命が非二元かつ多次元で共振している世界そのものになりこむことである。森羅万象が千変万化する。物質やエネルギーの世界を超えて、記憶や夢や妄想が、現実の関係と入り乱れ多次元的に交錯する。それが石庭という舞台なのだ。ここからさきは、前人未踏の闇である。だが、群れと個の謎、類的存在と個的生存の秘密が解けなければ命について何もわからない。生命はそれらの区別のすべてが無効になる非二元性を本質的に隠し持っているからだ。群れと森と石庭のコーボディとサブボディを往還する中でありとある共振パターンを体験することができる。

 

龍安寺石庭から学ぶ

龍安寺の石庭では15個の石がそれぞれ別個の宇宙を構成している。多数の異次元が共在している生命の実相にもっとも近いあり方だ。そして、個々の石は、ひとつの背後世界や、それぞれの石庭宇宙を構成する特異な異次元でありつつ、いつでも群れや森のコーボディに変容することもできる。もっともフレキシブルな共振パターンである。石庭コーボディという共振パターンは、すべての非二元かつ多次元共振世界の原理でもある。

目に見えるものしか見えない目で踊りを創ってはならない。

石庭から学ぶべきは、空間構成と時間構成における多様な距離感の味わいと<空無>である。この三つを組み合わせることで、あらゆる共振パターンが生まれる。少なくとも踊りを創造するに当たっては、今のところこの三つの組み合わせによるコーボディパートと、ソロやデュエットなどのサブボディを組み合わせることによってもっとも豊かな多様性と多次元性が生まれる。

 

発明伝染共振

面白い即興のためには、たった二つの原理があればいい。個々の細胞は自由に自分の動きを発明する。同時に他の細胞が発明した動きに自在に伝染される。この二つだけの原理で多細胞共振を発明していった群れとしての訓練時代を追体験しながら動く。出てくる動きも実に面白いものが次々生まれる。群れとして生きる方法を見出していくためには、成員の単細胞はみな自分たちが群れであることを生命共振によって分かち合っていることが必要だ。それと同時に各単細胞がそれぞれの独自性を発揮して生存方法を自由に発明していける環境でなければならない。群れであることに縛られて発明を忘れたら、新しい群れとしての生存方法を編み出すことができない。よい発明が起こったら、ただちに共振によって伝染され、その発明を自分たちのものとしていく。類と個の、生と死の、成功と失敗のぎりぎりのエッジをわたる30億年にわたる長い過酷な実験の中で、多細胞共振体への新しい生存方法が切り開かれてきた。発明それとも伝染という即興のルールは、20年前に個人がもっとも自由になることができ、かつ群れとしても面白い動きが出てくる最も興味深い即興ルールとして発見された。それを群体細胞の共振訓練として位置づけるとぴったりなことに気づいた。

実際、単細胞瞑想から、群体細胞共振を経てこの発明伝染即興をやってみると、塾生たちはこれまでのどの例にも増して自然にかつ生き生きとこの即興を楽しんでくれた。塾生がこんなに楽しそうに生き生きと即興するのを始めてみたといっていいくらいだ。発明と伝染の即興から20年かけて現在の<共振リゾーム>に発展した(第8章)。


からだの闇を掘る

 

森のコーボディ

多様性が共存する

生命発生後30億年以上経った後、単細胞から多細胞生物としての共振パターンが生まれ、カンブリア紀の種の大爆発を経て、地球上のさまざまな環境に適応した多彩な生物種が共生する豊かな生態系が生まれた。特定の環境下で特定の生態系が発展し多様化を進めた。海洋では海洋の、砂漠では砂漠の生態系が存在する。熱帯雨林はもっとも多様な生物種が共存する生態系である。絶えず豊かな水が循環し、多彩な種類の植物、昆虫、鳥、獣が多様な共振パターンを無限に発展させてきた。<森のコーボディ>は、このような豊かな生態系のもつ共振パターンである。

海洋もまた豊かな生物種が共生する<森のコーボディ>の一つである。

人間もまた、誕生当時はもっともか弱い種の一つであり、群れで行動することを余儀なくされた。そして、10万年ほど前にアフリカのジャングルとサバンナから出て、世界各地の多彩な環境に拡散していった。そのなかで採集、狩猟、農耕、放牧、商業、鉱工業、情報通信などの多彩な文化を発明してきた。わたしたちは、<森のコーボディ>という概念を、当初のモデルとした自然の生態系から、人類独特の農村や都市、工場やインターネットという無数の多様性を内包する人類特有の共振パターンまで拡張することができる。だが、あらゆる文化は両刃の刃である。人類の共同体は、それぞれに成員を拘束する規則や刑罰などの共同幻想とともに発展してきた。原始的な部族はおびただしい禁制や黙契によって成員を縛り付けた。それなくしてはその共同性を維持できなかった。宗教もまた、それぞれの禁制によって支えられてきた。現代になお残る国家はその負の遺産で凝り固まっている。人類最後の共同幻想が国家という怪物なのだ。わたしが日本を飛び出したのは、「日本国民」などという自分が望んだわけでもない制約に縛られるバカバカしさに耐え切れなかったからだ。だが、国家が存在する限り、ビザやパスポートという形で国家はいつまでも付きまとってくる。わたしたちのうちの誰が望んだわけではないのに、

人類は自らを縛り付ける怪物を生み出してしまったのだ。いつか遠い未来に、人類がこの怪物の死に立ち会う日も来るだろう。なくなればいいと望んで、未来からの眼差しで現在を見つめていればいればいつかはかならずなくなる。植民地主義や奴隷制がなくなったように、国家も消えるべきいっときの存在である。その中で、わたしたちが探求するべきは、豊かな群れとしての共振パターンを深めることだ。群れの豊かさとは、その成員を拘束することなく多様な共振パターンをさらに一層発展させ、多様化することのできる共同体である。その未来の解放に向けての探索が、共振パターンの多様性を発展させることのできる群れ、すなわち<森のコーボディ>という共振パターンである。

からだの闇を掘る

 

コーボディ1 <群れのコーボディ>

生死エッジを共有する群れ

生命はあらゆるものとのあいだで無数の共振パターンをもつ。そのすべてが40億年間の生命史で蓄積してきた生命の富だ。だが、いったいそれはどのようにして発展してきたのだろう。40億年前に誕生した生命が最初に獲得した共振パターンはどんなものだったろう。わたしはことあるごとに原初生命になりこんでそれを探ってきた。想像してみたまえ、まわりは一面死の世界だ。たまたま誕生した生命の細胞群だけが生きている。

ほんの少しのものとだけうまく共振できる。水やカルシウムイオンや、ナトリウムイオン、アミノ酸・・・うまく共振できるものは数えるほどしかない。そのほかのものとはまだどう共振していいいかわからない。そういうものに出会ったとき、うまく瞬間的に共振する方法が見つかれば生き延びることができる。さまなくば死だ。発生時のぎりぎりの生死のエッジに立たされていた。

生命にとってもっとも起源的な共振とは、この一瞬ごとの生死エッジのクオリアだった。うまく共振できるか、否か。成功か、失敗か。生か、死か。瞬間的によい共振パターンを見つけた細胞だけが生き延びてきた。おびただしい仲間が死んでいった。40億年間で生命が遭遇した厳しい状況、小惑星の衝突、地震、火山、洪水、氷河期などの厳しい状況下では、多くの生命が死に絶え、一握りの細胞だけが生き延びることができた。生命はボトルネックと呼ばれている幾度もの試練の中で選別され、分化し、新しい共振パターンを生み出してきた。各環境の各状況下で最善の特定の共振パターン群を共有した生命が種として生き延び発展してきた。あらゆる種はその種特有の共振パターンを共有している。その共振パターンを<群れのコーボディ>と呼ぶ。群れのコーボディになることは、生命にとってもっとも基本的な生き延びる方法だったのだ。群れのコーボディと、生死エッジのクオリアは一つである。生命は生きるために、群れになるという共振パターンを身につけたが、人類の群れは恐ろしいパラドックスに満ちている。軍隊のような殺すための群れもあれば、アウシュビッツのような殺されるための群れもある。そこでは個性も思想も顔さえも剥ぎ取られる。群れになりこまなければ分からないことが多すぎる。個とは何か、群れとは、類とはなにか?成り込み続けても、分からない深い謎もある。群れになるとは、これらすべての謎をからだで引き受け問うことなのだ。

からだの闇を掘る


<
クオリアシェア>


<クオリア言語>の発見


わたしは長い間、クオリアと言葉の二元論的対立に囚われてきた。だから共振塾では、「喋らない」という規則を設けていた。口に出さずとも頭の中で起こる「内語」にも気づいて止め、からだの闇に耳を澄まし、からだだけで互いに共振する訓練を積んできた。

だが、最近、非二元のクオリア流と、二元論的な言語との間に、中間的な<クオリア言語>という領域が存在することが発見された。そして、そのクオリア言語と従来からのからだの動きを使って、各人のサブボディ=コーボディ世界を共創することができることがわかった。二元論的な言語は、その基礎にある非二元のクオリア流を基盤としている。クオリア流そのものはわたしたちのからだを非二元に流動を続けているが、そのなかで、あるまとまったクオリア流は、人間の左脳にあるブローカ野やウェルニッケ野の言語中枢と結びつくことで、<ラベル言語>と共振する。牛や木や腕というようなもっとも基礎的なクオリアの塊に、「牛」とか「木」とかというラベル言語が結びつく。そして、サブボディモードでもこれらのラベル言語を並列的に連結することで、原始的な<クオリア思考>を行うことができる。

牛―野原―雲―花―狼―逃げる牛ー追う狼ー

といった<ラベル言語>で、非二元なクオリア流の流れにしたがって、「と」―「と」―「と」という単純なアンド展開で、連結していくのが<クオリア思考>だ。

おそらく日常思考の下部や夢の中では、非二元のクオリア流が、ときどきこの原始的なラベル言語を使った<クオリア思考>となって展開されている。

<ドリーミングシェア>の革命

共振塾では近年、これらのラベル言語とからだの動きを使って、さまざまな<ドリーミングシェア>の実験を積み重ねてきた。

砂漠―群れー水がないー探すー亀―流砂―地底―

などといった途方もない非論理的な展開も、全員がサブボディ=コーボディモードになれば、抵抗なくその非論理的な展開にからだごと従い、独特の世界を共創することができる。これは従来のサブボディ舞踏技法から、おおきく一歩を踏み出すものとなった。

この<クオリア思考>や<ラベル言語>が発見されていなかった以前の時期は、いったいどうしてコーボディ世界を共創することができるのか、暗中模索の連続だった。初期や中期の頃は、舞踏祭の創造過程で、往々にして、一人が振付家の役になって他の人の動きを指示するというこの世にざらにあるツリー的な階層秩序を再現してしまうという限界に何度もぶつかった。<ドリーミングシェア>は、その苦闘の中から、その限界を突破するものとして発見された。

ここ2,3年の間に多くのバリエーションが生み出されている。

<背後世界シェア>

<世界変容シェア>

<コーボディシェア>

<祖型クオリアシェア>

<リゾーミングシェア>

<非二元クオリアシェア>

<粒菌シェア>

<ノット・ミーシェア>

<背後世界シェア>

X還元シェア>

云々・・・・

これらを総称して<クオリアシェア>と呼ぶことにした。しかもこれは無限に拡張できることが分かってきた。各自の探体内容を、クオリア言語と動きでシェアすればいいだけなので、これまでのあらゆる探体内容を、<クオリアシェア>に転化することができる。今後もわたしたちは精力的にクオリア思考と動きによる<クオリアシェア>の実験を探求し続けるだろう。ここに、人類の長い桎梏であるツリー的な階層秩序を脱却して、リゾームの未来を切り開く希望の芽が埋まっているからだ。

 

<祖型ドリーミングシェア>

わたしたちは20万年前にアフリカから移住し、世界に拡散した人類の先祖たちの経験を瞑想し、追体験しつつ共創した。

この「出アフリカ」の旅は非常に難しく、危険や災害に満ちたものだったろう。それらの苦難のクオリアは祖型や元型としてからだの闇に刻印されている。

 祖型は元型よりもさらに深い領域に刻印されている体感だ。

 元型には、幽霊、怪物、地獄、神のようなイメージがある。

だが、祖型はイメージを持たず、ただ恐怖、震え、閉塞などの原始的な身体感覚として刻印されているものだ。

 わたしたちは、近くの河原で<祖型ドリーミングシェア>を行い、それぞれの世界を動きで共創した。シェアしたクオリアは次のとおりだ。

- 砂漠で迷子になる

- はじめての内部に入っていく

- モンキーバトル

- ハワイ島を見つける

- 音楽を見つけるタコ

- 体が溶け落ちる

- 岩の子宮の上の十の胎児

- 小さな動物がヒマラヤを登る

- 蛇の舌がわたしに触れる

- 川の音に耳を澄ましている岩になる

 わたしたちは、今年毎週のように、これらの原像を異なる方法で共有し蓄積している。学期末や年末にそれぞれの共創としてこれらの経験は統合されるだろう。

からだの闇を掘る

<コーボディドリーミングシェア > 1

  とうとう、長年探し求めていたからだの闇に潜んでいるコーボディを掘り出し、シェアする技法が見つかった。20年あまりの試行錯誤の末のことだ。鍵は調体方法にあった。

1. コーボディドリーミングシェアのための調体

さまざまな秘膜距離で共振する。それだけで忘れ去られていたコーボディクオリアをからだが思い出してくれる。

胞衣秘膜―触れるか触れないかの距離で共振する。いのちがさまざまな群れや共振体であった頃を思い出す。

子宮秘膜―羊水の中の双子の胎児となる

母体秘膜―個人距離で共振する

世界層の秘膜―遠く離れたいのちとの共振を思い出す

接合共振―強く押し合って深く触れ合う

2.コーボディドリーミング

からだの一部に耳を澄まし、いのちが群れだった頃のクオリアを思い出す。

いろいろな場所の中から、コーボディのクオリアにもっともふさわしい地形を選ぶ。

3.<コーボディドリーミングシェア>

からだの動きとクオリア言語で、自分のコーボディのクオリアをガイドする。他の人はそれにからだごと従う。たったこれだけのことだった。これだけでみんなのからだから次々と忘れていた群れの動きがあふれるように出てきた。わずか一日で多くの収穫があった。こんな大きな可能性が一挙に開いたのは20年ではじめてのことだ。

 

<コーボディドリーミングシェア >

10億年間の秘膜共振

<コーボディドリーミングシェア>の肝は、さまざまな秘膜調体を十分に行うことだ。とりわけ、生命誕生以来30億年間も単細胞のまま過ぎしてきた生命にとって、10億年前の群体細胞としての共振方法を発明したことはいのちにとって画期的な事件だった。触れるか触れないかの距離を保ちながら共同行動を取れるようになったのだから。多細胞生物へつながるこの発明の驚きはすべての細胞の記憶にはっきりと刻印されている。誰もがすぐに胞衣層の秘膜距離の共振を楽しめるのがそれを証している。さまざまな秘膜距離での共振練習の後、みんながそれぞれにとって印象深いコーボディを夢想し思い出し、シェアした。この秘膜共振調体が、これまで20年間も見つからなかったコーボディシェアを実現する鍵だった。

 

からだの闇を掘る


合わせ離れ

生命共振の基本的な練習は「合わせ・離れ」から始まる。

「合わせ」は同じ共振パタ-ンで共振すること。「離れ」とは、異なる共振パターンで共振すること。あらゆる共振はこのふたつの共振方法の間にある。これは踊りと踊り、踊りと音楽の間でも成り立つ。

展開の中で、はじめから終わりまで「合わせ」だけを続けるのが「合わせ・合わせ」、「合わせ」から始まり「離れ」に変化する「合わせ・離れ」、「離れ」からはじまり「合わせ」に変化する「離れ・合わせ」、「離れ」ばかりの「離れ・離れ」、そしてそれらの複合がある。

さまざまな音楽を流して、これらの共振パターンをすべて身に着ける。

踊り手同士の「合わせ」共振では、向き合って互いに線対称の鏡になり合う「ミラー」共振をすると、共振がどちらからともなく起こるものであることがじょじょにからだでつかめてくる。点対称の「ディスク」、後ろからついていく「かもめ」、その複合の「ブロークン・ミラー」、「2対3」、「3対4」そして自由共振に移行すると「共振リゾーム」になる。これらが次の「率先・促進・追随」技法につながっていく。

 

からだの闇を掘る


主体なき共振


クオリアとは生命と世界の間の共振そのものだ。共振には主体も客体もない。ただ、どちらからともなく起こる。そのことを主語述語構造に囚われた言語で言い表すことは不可能に近い。ただからだで捉えるしかない。生命という主体が重力や光を<感じる>のではない。重力も光も向こうからやってくるものだ。共振には受動も能動もない。どちらからともなく、ただ起こるものだ。それを人間の言葉では感じるとか、見るとかという主体幻想に囚われた言い方になってしまう。世阿弥は、感じるから、心をとって、<咸じる>という言い方でいのちの共振を表そうとした。この書でも世阿弥にならっている。そのような発明が必要だ。

わたしが共鳴や共感という言葉ではなく、無機的な共振という言葉を使うのも、心ではなくからだで勝手に起こっていることだというニュアンスを伝えたいからだ。東洋の<気>の本質も生命共振である。その意味では<クオリア>は<気>という伝統用語に限りなく近いが、<気>ということばを使わないようにしているのも、気を出すとか、気を使うといういいかたで、主体幻想に囚われてしまうからだ。ただ生命は共振を<咸じる>力がある。いや、そういってもだめだ。生命はただ共振している存在なのだ。これはいくら言葉で言おうとしても言うことができない。言おうとするときすでにもう、心が動いて主体になってしまうからだ。やはり、これは言葉ではなく、からだで掴むしかないものだ。踊りのなかで心も主体もない透明体になるしかないのだ。

 

からだの闇を掘る

あらゆる心身現象をクオリア共振として解く

からだの闇を旅していると、無数の奇妙な現象に出会う。

からだの闇に棲む影やノット=ミーと呼ばれる異貌の自己(Hidden Body)、原始的な下等動物のようにのろのろと蠢く原生体(Proto Body)、獣のような獣体(Animal body)、石のように凝り固まった体底体(Bottom body)、なにものかに動かされる傀儡体(Kugutsu body)、煙や精霊のように異世界をただよう気化体(Vaporized body)、弱々しい衰弱体(Weakened body)、などなどだ。そして、それらが他の存在と関係を持つ時に起こる投影や転移、ドリーミングアップなどの現象、なにものかに取り憑かれて動く憑依体(Possessed body)などの奇妙な現象が起こる。古代の人はこれらの現象を、なんらかの目には見えない魂や精霊のような実体的なものの仕業と誤解して恐れた。だが、現在のわたしたちはそれに囚われることなく、これらの奇妙な現象のすべてを生命共振、ただクオリア共振が起こっている現象として透明に見透かすことができる。トラウマのフラッシュバックや激しい情動に拘束される現象など無数の奇妙な現象に見舞われたとしても、想像的な内クオリアが情動と共振してさまざまなホルモンやメッセージ物質の組み合わせによってからだの物理的な状態を変えているのだと受け止めることができる。心身が情動に捉えられれば、起こっている現象を冷静に捉えることができなくなるのが普通だ。だが、わたしたちの透明技法は憑依やフラッシュバックや投影や情動不安が起こっている嵐のさなかに、その中心で無限に静まり返り、すべてをクオリア共振として捉える透明さを磨く。脱自して透明共振体になる。奇妙なクオリア共振の重層的な嵐に見舞われているさなかでこそ、透明体に生成変化するという必須の課題に直面する。

 

 

 

脱自と透明化

透明化は生き延びるために書かせぬ課題である。自分自身で沈静化する調体を編み出し実験しながら、苦しみのさなかで脱自し、クオリアの多次元=非二元共振を透かしみる。クオリアの嵐の中では胎児期から分娩前後の胎道を通過する世界変容のクオリアや、祖先が味わった危機や災害、さらに古い生命時代の氷河期や気象異変・地殻変動などの世界変動のクオリアとも遠く共振しているかもしれない。その多重共振を見透かす。

いまここでからだに起こっているクオリアと、原生的・祖型的あるいは元型的クオリアは常に同時に多重共振している。生命の舞踏とはこの無限に変容する生命共振のすべてを踊ることなのだ。

 

 

からだの闇を掘る

6.踊りを深める

踊りが深まるとはなにか

ガドゥが、3年間のサブボディ・コースを終了した。イグに次いで二人目の産婆の誕生だ。彼の踊りの深化に沿って、踊りが深まるとはどういうことかを、記しておきたい。

 

まず、第一番目は無限細分化だ。

最初、踊りが出てくるときはまだ大雑把なからだの動きにすぎない。踊り込むにつれて、どんどん新しいからだの踊り場が開発されてくる。そして、さらに微細なクオリアに震えるデテールの踊りが洗練される。この細分化は無限に深めていくしかない。

 

2つ目は、自在跳梁だ。

一つのクオリアにこだわることなく、「ここかと思えばまたあちら」と、まるで牛若丸のように、からだの闇のクオリアを、多次元的に跳びまわることができるようになる。もともと、彼の踊りの面白さは、女体と男体の間のとんでもない落差にあった。だが、彼はそこにとどまっていなかった。

目を見張る跳躍点となったのは、2011年の「ツトムくんの夢 A Dream of Calabi-Yau Fetus」だった。

それまでの女体と男体の変わり身だけではなく、胎児体からはじめ、無数のクオリアを自在にまとって、2時間にわたって変容の限りを見せた。もちろん、この探求も無限につづく。

 

Description: http://subbody.com/imagejap/120/Calabiyau_BW.jpg

ガドゥのボトム体は11次元にもつれたカラビヤウ空間のようだ

 

彼が師としたカラビヤウというのは無限の共振パターンを持つもっとも微細なひもの多次元多様変容体だ。いのちの多次元共振へにじり寄っていくには、もっともふさわしいイメージだった。彼の最近のボトム体は、まるで11次元でもつれているカラビヤウ空間のような、世界でたったひとつのからだに変成している。

 

3つ目は、透明さだ。

なににも囚われることなく、内からのクオリアにも、外からのクオリアにも、こだわらず、すべてを共振と捉えて、起こっていることをただ透明に踊ること。いのちに何が起こっているのかが、じぶんにとっても透けて見え、人にもそれを透けて見せることのできる技術が少しずつ身についてくる。

ガドウはヒマラヤでの最後の踊りで、円陣の観客の真ん中で踊った。観客には音が出る物が手渡されていた。かれは観客が出す音にただ共振して踊った。自分の思い込みや予定から自由になる試みだった。自我を消し、空無になる修練だ。

この課題に至っては、生きていては間に合わないと思えるほど底なしだ。深く掘れば掘るほど、それまで気付かなかった新しい困難にぶつかり、とんでもない謎に襲われる。元型イメージ、祖型情動・体動、それらの投影、転移・逆転移、ドリーミング・アップ、憑依、解離、トラウマのフラッシュバックなどが、自他の境界を越えて襲いかかってくる。すべての現象はクオリアの生命共振によって勝手に起こるものなので予測は不可能だ。産婆を続けていると、年々より難儀な問題に巻き込まれていく。ガドゥもこれからぶつかるだろう。それをひとつひとつ冷静に克服し、柔軟にすこしでもよい共振パタ―ンを探り続けることが出来るだけだ。

ガドゥよ、これからも精進をつづけ、からだの闇の豊穣を掘り続けてください。

 

生命共振ジャーナル
 
 
からだの闇を掘る


もつれ・結ぼれを解きほぐす


上のベルメールの絵には、うまくこの世に出てくることができなかった無数のサブボディ=コーボディがもつれ・結ぼれてからだの闇の狭いところに閉じ込められている。これがサブボディ=コーボディの原型だ。土方は、『静かな家』のなかで何度も何度も箱に詰め込まれ、そしてそこから転生してみせた。

「狂王は箱におさめられる 箱のゆくえは細かい解体につながっている

関節の小箱―ハンス・ベルメール―武将―王女―虎

武将は女王になり、女王は関節の箱におさめられるだろう。その箱のなかからの生まれ変わりがフーピーという踊り子である。」

サブボディ=コーボディたちは、互いに結ぼれ、時空を超えてもつれ合っている。出生時のトラウマが、悪夢と共振し、あらゆる原体験と共振し、もつれ、結ぼれ、正体もなくくぐもっている。自他の区別も、個と群れの区別も、時間の境界も超えて結ぼれ合っている非二元かつ多次元共振世界だ。共振塾では、自他の区別を超えて、サブボディ=コーボディのすべてを踊る。自分のサブボディだけではなく、仲間のサブボディ=コーボディもすべてわがこととして捉えて共振する。そういう自他・内外にこだわらない透明なからだを育てていく。そこには無数のエッジが待ち構えており、絶えず誰かがそれに襲われ動けなくなる。エッジや、古傷のフラッシュバックであるめんげん反応などをすべて一緒に解決していく。それは人生でまたとない貴重な体験になる。

 

いのちの不具・障害と共振する

数年間のもがきによって、サブボディ技法と土方巽の舞踏技法は、いつのまにかひとつに溶け合ってきた。 調体を複合し微細にからだに耳を澄ます傾聴技法を深めていく道に、『癇の花』や『静かな家』、『病める舞姫』が重なっていく。『病める舞姫』のなかの直接病める舞姫に言及している節を紹介しよう。

[19 病弱な舞姫のレッスン]

寝たり起きたりの病弱な人が、家の中の暗いところでいつも唸っていた。畳にからだを魚のように放してやるような習慣は、この病弱な舞姫のレッスンから習い覚えたものと言えるだろう。彼女のからだは願いごとをしているような輪郭でできているかに眺められたが、それとてどこかで破裂して実ったもののような暗さに捉えられてしまうのだった。誰もが知らない向こう側の冥さ、この暗い甦りめいた始まりを覚えていなかっただろう。だから教わって習うなどできないようなところで、わたしも息をついて育っていったのである。こういう病人を眺めさせっれると、弁慶の泣き処を棒のようなもので思いっきり殴られて、からだを解きほぐしたいといういう欲望が、からだから削ぎ出されてくるのだった。が、たいがいのとき、からだは無欲で畸形の影を跨ぐようにして動いた。

[ 舞姫に混有されてしまうわたし]

何にでも噛みつかれるからだを、構成し捉え直したいと思わぬでもなかったが、この寝たり起きたりの病弱な舞姫の存在の付け根にそって靡いてしまい、わたしはすぐにこの舞姫に混有されてしまうのだった。」

土方少年が病める舞姫に混有されてしまうように、二者だと思われていたものが一つになってしまうのが生命共振の奇跡だ。

小賢しい自我や思考の習癖を脱ぎ捨て、ただ生きているだけの命になる。 子供の頃、不具や障害を持ったいのちに最初に出会ったときの衝撃を思い出す。だれもが土方巽少年のように、すぐさまその舞姫に混有され、からだの一部が本当に動かなくなってしまうような生命共振の体験を持つはずだ。 『病める舞姫』との出会いが始まるのは、その純粋な生命共振への驚きからだ。自我意識の自他分別がその衝撃を隠す前のいのちになる。「わたし」と思ってしまってはもう遅い。 「わたしは彼じゃない。彼はわたしではない」という二元論的な自他分別の囚人になってしまうからだ。ただ生きているいのちになり、 言葉を覚える前のかすかな生命共振を思い出すことだ。

 

障害者から学ぶ

土方巽のもっとも古い弟子の一人である中嶋夏さんは書き記している。

「師土方巽は言った。舞踏家は身障者の身振りから学ぶ必要がある。彼らはけっして不自由なのではない。自分の一挙一動に無自覚な健常者の方が、実は狭小な身体観の虜なのであり不自由なのだ。弟子たちはこの教えに従い、屈曲した痙攣的な動きを踊りに持ち込んだ。それが暗黒舞踏の基礎となった。」(中嶋夏)

そうだ。わたしたちが追求し深めようとしている微細傾聴技法は、身障者の人々が、ひとつからだを動かすごとにからだに耳を澄まし、何が起こったかを捉え、次の一挙手一投足に集中する、まさしく彼らに学ぶ技法なのだ。

 

エッジを踊る

エッジに出会ったとき、どうすればいいか?

サブボディ世界の旅を続けていると、しばしばわたしたちはとても困難な境界(エッジ)に出くわす。からだの底からいやな感じが立ち込めてきて、それ以上進むことができなくなる。なにかがわたし達を強い力でブロックして押しとどめるのだ。こんなとき、いくつかのとりうる手立てがある。注意深くそれらいくつかの態度を取りながら進むことで、なんとかその困難を乗り越えることができる。

1.最初はただそれを認知するだけでいい

からだの闇で言いようのない不快な体感にぶつかって動けなくなったとき、最初は、「ただ、そこになにかブロックするものがあること」に気づくだけでいい。無理にそれを乗り越えようと自分を強いる必要はまったくない。からだのなかには無数のサブボディがあるのだから、別のサブボディに乗り換えて動けばいい。からだの闇は多次元の迷路でできているから、別のサブボディを踊っていると、そのうちいつか気づくことになる。いつしかふと後ろを振り返れば、前に直面してとても乗り越え不可能に感じられたエッジがそこにあることに。あるいは、はるか下方に随分小さくそのエッジが見えることもある。

2.注意深く耳を澄ます

すこしその不快な感じに慣れてきたら、耳を澄ましてみる。

(いったいこの不快な体感は何を告げようとしているのだろうか?) 

いつも命からのもっとも大事なメッセージは、この不快な、収まりのつかない奇妙な体感を通じて届けられる。日常体は、不快な感じには眼を瞑り忘れようとするのが相場だ。だが、サブボディ世界に通じれば通じるほど、命からのもっとも重大な声は、決まってとても不快な体感と共に届けられることが分かってくる。もっとも不快なものの中にもっとも大事なものが詰まっている。この逆説を受け入れることだ。――わたしは自分の経験から、そうアドバイスする。不快を我慢して耳を澄ましているうちに、とんでもない気づきがやってくる。そのときの光明に満ちた快感は、何もかも忘れさせてくれるほど強烈だ。例外なく、だれもがその喜ばしい気づきを体験することができる。わたしは自信をもってこれを勧めることができる。

3.最適距離を保つ

いきなりエッジを踊ろうとしてはいけない。十分にその力がつくまで、最適距離を保って何年でも待つことが大切だ。

4.エッジと友だちになる

やがて、いつもその距離にエッジがいることになれてくる。何年もたてばときには「やあ」と声を掛け合う友達になってくる。

4.エッジになりこんで踊る

自分がそのエッジを踊る準備ができたと思ったら、思い切ってその不快な体感になりこんで踊り、両面からじっくり味わってみる。両面というのは、エッジに脅かされていた自分とそのエッジそのもののことである。踊ってみればもともとどちらも、自分の全体の一員であったことがよく分かる。

タイミングを見つければ、ミンデル譲りの<エッジ・ワーク>に取り組むのもいい。(第12章 産婆 参照)

 

『癇の花』を踊る

以上のすべてを統合して、『癇の花』に辿りつく(くわしくはこの章5の「癇の花を踊る砕動技法」、第10章『癇の花』、第11章9「砕動風」参照)。

 

からだの闇を掘る


いのちのよじれと、よじれ返し


生命はこれまでの40億年の生命史のなかで、無数のうまく共振できないクオリアに出くわしてきた。そして、それとうまく共振できる共振パターンをいずれかの種が発明するまで待ち、それを共有することで困難を乗り越えてきた。
生命の3大発明はおそらく、酸素呼吸の発明、光合成の発明、多細胞共振の発明に尽きるだろう。

生まれたばかりの原初生命にとって酸素ガスがもつ強い酸化力は強烈な毒以外のなにものでもなかった。原初生命は酸素の脅威から逃れるために、最初の十億年は深海底や地底など、酸素ガスと安全な距離を保てる場所でしか生存できなかった。これが<よじれ>だ。生命はひたすら待ち続けた。そして、3億年前になってようやくプロテオバクテリアが酸素呼吸の仕方を発明した。これが<よじれ返し>としての生命の創造だ。その大発明はそれ以後瞬く間にほとんどの細胞と細胞内共生の仕方を見つけ取り込まれた。それが今日の細胞内の呼吸器官、ミトコンドリアとなった。これが<よじれ返しの共有>だ。このように生命の戦略はよい共振パターンが見つかるまでひたすら待ち続けることにある。

わたしたちのからだの闇にも、これまでうまい共振の仕方を見つけられずに待ち続けている歪みクオリアが無数に存在している。それを見つけ、どんなふうに歪みを打ち返したいのか生命に耳を澄ます。

それらをよじり返すわたしたちのサブボディ共振舞踏の創造は、この酸素呼吸の発明に比べればおどろくほど小さいかすかなものだ。だが、それが生命が抱え込んだ<よじれ>を、<よじれ返し>た創造である限り、いくら小さくても生命にとってシェアする値打ちのあるものだ。

土方の最後のソロも、彼の死んだ姉さんが、戦時中の日本国家の圧力で秋田を離れはるばる神戸まで行って身を売る娼婦にまでいのちをねじ曲げられた、土方は40年間待ち続け、ついにそのトラウマに対する生命の打ち返しとして『静かな家』という絶対的創出が生まれた。大野一雄の舞踏も戦争で死んだ仲間の命に共振するクラゲの踊りとして生まれた。それも不遇の死を死なねばならなかった戦友の生命が受けた歪みへのいのちの打ち返しとしての創造だったのだ。

踊らねばならない踊りとは、みな生命が受けた何らかの歪みとそれへの打ち返し、歪み返しとしての生命の創造なのだ。からだの闇を探れば誰のからだにも、無数の歪みのクオリアが詰まっている。それを見つけ精密に解いていくこと。多次元的な歪み返しのクオリアを重層的に身にまとっていくこと。それが生命の舞踏を磨き上げる長い修練になる。

いのちは<よじれ返し>の創造の連続によってじょじょに透明になる。

透明になるとは、内側の問題にも外側の問題にも拘束されないことだ。わたしたちは、内部のおおきな<よじれ>である自我や自己、自分の個性や性格だとみなされている小さな<よじれ>、社会や国家の共同幻想に囚われた階層意識やナショナリズムという<よじれ>、セクシュアリティの<よじれ>など、すべての<よじれ>を<よじり返し>、創造に転化することによって、はじめてそれらから自由になることができる。からだの闇の中の多くの束縛から解放されるために、わたしたちは無限の<よじれ返し>による創造を続けるしかない。わたしたちの生は<透明ないのち>になるための長い旅なのだ。

生命共振ジャーナル
 
 
からだの闇を掘る


問題に自分を喰わせるーカフカ


「きみと世界との闘いでは、世界に支援せよ!」 F.カフカ

「わたしは通常問題に自分を喰わせることによってそれを解決する」

F.カフカ

 

わたしが若い時分に影響を受けたフランツ・カフカの2つのことばを紹介しよう。ひとつめのそれは、以前に評論家の加藤典洋が、彼の書名にしたものだ。そのときはその意味をうまくつかめなかった。若いわたしは世界と自分との間に分割線を引き、つねにその線のこちら側に自分を置くという、自我の習性に囚われていたからだ。今になって、上の2つの言葉は同じ態度を意味していることが腑に落ちてきた。慣習的な自他や自分と世界の間に分割線を引くという幻想に囚われている限り、問題を根本的に解決することはできない。最大の問題はその二元的な分割線に囚われていることだからだ。二元論的な幻想の分割線を消し、その両側に自在に行き来する。そして、どちらの側からも踊ること。自分への囚われを脱ぎ、自分を脅かし、喰おうとする世界や問題に成りこんで自分の外側から踊ること。それによって、自我や自己という現代最大の元型の支配から透明に離れ、すべてをいのちの共振として受け止めることができるようになる。それがカフカが見つけた解決策だった。彼は世界を支援して世界の側からとことん彼を攻撃した。彼は自分の問題に彼を食い散らすに任せたのだ。それは二元論的な「人間」の囚われを脱ぎ、非二元かつ多次元的な生命共振への根本的な移行だった。

この方法で、彼は彼の小説、「変身」、「城」、「審判」などの傑作を生み出すことができた。これは「静かな家」を踊り、「病める舞姫」を書いた土方巽にも共通する生き方だった。近代社会の『人間』という妄想を脱ぎ、訓育された自他の区分や幼稚な自己と世界の対立という二元的幻想を脱ぎ捨てて、あるがままの生命共振を透明に踊る。それが生命の舞踏なのだ。

 

カフカと土方巽の共時性!

ある日、興味深い共時性(シンクロニシティ)が起こった。それも三重の。共振塾で土方の「虫の歩行」を研究していたときだ。その日の朝、わたしはからだの10経絡を開く調体十番をガイドした。初期の調体十番は小指の経絡から順に一本一本の経絡を意識しながら開いていくものだ。その四番目は人差し指を空に向かって開いた指の間から今の自分の問題に直面する。そこでわたしはいつも次のように言う。

「問題に直面しているとだんだん問題が大きくなってわたしたちを押しつぶし始める。問題に囚われた囚人となり、問題に食べ尽くされてしまう。・・・」

そして、その夜フェイスブックで上の写真に添えられていたカフカの言葉に出会った。

I usually solve problems by letting them devour me.”

見慣れないdevourという単語があったので辞書で引いてみると「(人・動物が、物を)むさぼり食う。がつがつ食う」とあった。それでとことん驚いた。

 「わたしはいつも問題にわたしを食べさせることで、問題を解決する」

今朝の調体十番で言ったこととそっくり同じだったからだ。そして、それは土方の「虫の歩行」ともまるごと共振していたからだ。虫の歩行では体中の皮膚を覆う虫たちが毛穴から侵入してからだを食い尽くす。それは『病める舞姫』の「世界に喰われ続けるからだ」という土方の少年期体験に基づくモチーフを舞踏譜にしたものだ。その途端に上のカフカの言葉に出会い、なんと、土方、カフカ、そしてわたしの間で三重の共時性が起こっていることに気づいて驚いた。共時性とは、生命共振が時空を超えて起こる現象で、生命のクオリアは3次元空間や4次元時空を超えて、多次元かつ非二元に共振しているので、どんな共時性が起こっても不思議ではない。それどころか、わたしはほとんど狂喜した。じつは、自分のなかの十個の問題に真向かい、それを踊るというのはわたしの処女作の「伝染熱」で用いた方法だった。塾生にそれを促した時、それまでにない深い踊りが塾生のからだの闇から次々と躍り出てきたので、はじめてすこし自信を持った。

カフカもまた同じことを言っていたことを知って、嬉しかったのだ。

そうだ。カフカは自分のからだで感じるごくかすかな違和感を増幅して、『城』や『審判』という長編を書き、その違和感にからだごと食べられ、侵食されるまで増幅することで有名な『変身』にまで結晶させた。わたしはまったく忘れてしまっていたが、あるいはこのカフカの言葉を若いころに読んでいたのかもしれない。彼の小説だけではなく、『カフカの日記』や恋人に書き送った『ミレナへの手紙』などもむさぼるように愛読していたからだ。それが無意識裡に、調体の十番のことばになって現れていたのかもしれない。そして、土方もまた、自分の問題にからだが喰い尽くされるに任せることによって問題を創造に転化してきた。だからこそ「虫の歩行」のような、くみ尽くせないほど秀逸な舞踏練習譜を残すことができた。あらゆる偉大な創造はみな、こうして生まれてきたとさえい言い切れるかもしれない。個々の創造者の生命がぶち当たり、苦しみ抜いた問題を、創造に昇華し、その解決法を暗示しているからこそ、全生命に共有される値打ちがあるのだ。共時性による気づきは、ときどきこのように深いところで共振している真実に気づかせてくれるかけがえのない体験だ。

 

カフカ流のやりかた

わたしもまた、いつもカフカ流に問題を解決しようとしてきた。この数年からだのなかのもっとも低い傾性にからだを喰われるままに任せてきた。

母なし児の幼児人格、わたしのなかのもっともやっかいな傾性だ。そしていま、その問題にからだじゅうを喰い散らかされ、もはやそれが限界まで達したことを知った。

(もうこれ以上、もち堪えられない!)

それに圧殺されてきたほかのいのちの傾性たちがいっせいに悲鳴を上げ始めた。からだの闇の附置が地殻変動を起こし、軋みの限界に達したのだ。

問題に自分を喰わせ続けていれば、いつかは必ずこの時が来る。従来のわたしなら、ここですかさず、表面人格系のだれかがでてきてイニシアチヴをとるところだ。ゆうべもたまゆらその気配を感じた。だが、すかさずその傾性を瞬時に抑制した。従来通りの人格交替劇によっては何も変わらない。二大政党の政権交代によって何も変わらないのと同じだ。そうではなく、透明になること。内側の特殊な傾性にとらわれるのでもなく、外側のあらゆる状況の変化にとらわれるのでもなく、透明になること。思考を止め、いのちに問う。

何を一番実現したい? いのちさんよ。

かすかないのちの息吹に耳を澄まし、わたしのいのちのあり方が根底的に変わらねばならない。たえずいのちに耳を澄まし、まだ一度も繰り返したことのないクオリアに出会い、それを創造に転化すること。それを自分に適用する。いつもやっていることだが、こんな深いレベルで行うのははじめてのことだ。その過程で新しいわたしが結晶してでてくるかどうか。ここが正念場だ。自分で実行できなければ、わたしの言っていることはすべて嘘になる。

からだの闇を掘る



うまく共振できないものを踊る

この項で、ようやくわたしたちは舞踏革命の精髄<癇の花>のための探体に入る。いのちがうまく共振できなかったクオリアはすべて忘れ去られたり、囚われになったり、からだの闇の底で軋んだり、よじれたり、絡み合ったりして無限に変形し続けている。それらをくまなく踏査することが<癇>のクオリアを探ることになる。

 

思い出せないクオリアの発掘

使われなくなった部位に隠れているクオリアを掘り出す

日常体は、数々の黙契に閉ざされている。人間の動きとはこんなものだと小さい頃から教えられ、その制約の中に封印されている。その封印を少しずつ解(ほど)いてなまのサブボディ=コーボディを開示していく。調体5番、6番、7番、8番、9番が役に立つ。

秘関(隠れ関節)、秘筋(深層筋)、秘神経の封印を解く

わたしたちのからだは100兆以上の細胞が群生する共振体である。それらは、長い生命の発展段階を経て分化してきた。からだの闇にはそれらの発展段階のすべての時期のクオリアが刻み込まれている。現在の人間の日常体はそのうちごくわずかしか使っていない。日頃使っていない関節や筋肉や神経を解くとそこから見事に長い生命史のなかで刻印されてきた多彩なクオリアが立ち上がる。

1.二十指趾の第4関節を三元に開く

手指の第1,2,3関節は誰もが動かすことができる。普段使わない手首の8つの小骨と手の間の第4関節を、三元方向に動かす。

物理的にはほんの1ミリか、それ以下のナノメートルしか動かない。それでいい。そこを動かそうとすると、退化しつつあるがまだ存在する過去の生物段階の動きがほとばしり出てくる。鳥や爬虫類や昆虫の動きが埋まっている。あるいはからだのやみ深く封印されていたnot-meや、影や、解離されていた異貌の自己が顔を出す。

2.手首、足首の八つの小骨が踊りだす

さらにその付け根には手首の八つの小骨がある。八つの小骨が三元方向に六道ゆらぎで動き出し、他の部位はそれに従う、手首、足首に秘められていた微細なクオリアが花開く。

3.肩関節、胸骨関節を変形する

肩関節を三次元方向に動かす練習は百丹三元で行ってきた。肩の位置を三次元方向のいずれかの極限位置で固定する。胸骨関節も閉じるか開くかして違った肋骨の形に固定する。窮屈だがからだの体感が根本的に変わり、

その形で動いているさまざまな他の生き物や想像上の生き物のクオリアがうごめきだす。劣等人格が封印されたノットミーや影の人格も出てくるかもしれない。

4.胸鎖、仙腸関節を開く

日常体は腕の付け根は肩関節であり、足の付け根は股関節であるという誤解に閉ざされているが動物としての腕の本当の付け根は、鎖骨と胸骨の間の胸鎖関節である。獣はみなここから動いている。

足の付け根も然り。股関節ではなく、仙骨と骨盤の腸骨の間の仙腸関節である。サブボディにここから三元方向に動き出してもいいのだよと教える。多彩な生き物の動きのクオリアがここには閉じ込められている。

5.顎、舌、口、喉、顔、首を三元に解く

人間としての知性的な顔立ちを保つために日常体の顔は左右対称の位置に固定されている。下顎の位置をあちこち極限まで変えれば、異貌の自己が現れる。舌の動きも解放する。さまざまな生き物の舌になりこむ。

口、鼻、喉を変えれば、違った生き物の体腔音が噴出す。違ったリズム、異様な呼吸で声を出してみる。その声が異次元に導いてくれる。

6.目を斜め・三元にただよわす

目もまた、水平左右対称の日常体の黙契から解き放つ。斜め上下にすばやく動かすと、ひょうきんな人格、ずるがしこい奴、妙なことを思いつく発明家に豹変する。目の裏側を見つめる。闇の光彩を追う。異界との間でゆらぐ目になる。他界からのまなざしで見つめる。自分のサブボディにふさわしい異貌の目を発見する。

7.脊髄関節を解く

もっとも基礎になるのは、脊髄のゆらぎである。百丹三元と六道ゆらぎなどでここの背骨が三次元方向に自在に動く訓練を続ける。その他の部位の隠れクオリアは必ず、脊髄の隠れクオリアと結びついている。それらのクオリアを制御する忘れ去られた神経を時間をかけてよみがえらせていくことが舞踏手の人生である。

 

自分の囚われに出会う

1.ゆらぎ瞑動をしながら、からだの各部に内呼吸を送り、からだの各部と対話しながら、自分がどんな囚われに囚われているかに気づいていく。大概の囚われは、からだの何らかの不全な体感とつながっている。

「何かがうまく行っていない」、「どこかおかしい」そういうからだからのかすかな不全なクオリアに耳を澄ます。

2.怒りは肩の辺りから後頭部を変質させる。悲しみは呼吸を塞ぐ。不安は呼吸を忘れさせる。こだわりはからだの各部に微細な硬結をもたらす。思考の習癖は頭の姿勢や目遣いを固定する。観念過剰は皮膚の体感を切り落とす。ありとあるこだわりや囚われ、よどみは、すべてのチャンネルをまわりめぐって、からだのチャンネルにも微細な異変を刻印している。それらのかすかな変なクオリアをひとつひとつ丁寧に取り出していく。

3.「自分はいったい何を実現したいのだろう」と、いのちに問いかける。その問いがいつもからだの闇でこだましているような状態を維持する。四六時中自全がその問いと共振している状態をつくるのだ。そのうち、いのちがいろんなチャンネルから応えだす。そのクオリアの兆しを捉える。

4.「いのちの一番実現したいことを妨げているものは何だろう?」とからだの闇に問う。その自問がいつもからだの闇で反響しているような状態を保つ。

5.以上で準備完了。あとはそれらの問いが絡み合い、取っ組み合い、さまざまに変奏していくに任せればいい。さまざまな気づきがやってくるはずだ。それらの気づきをすべて心に書き留めていく。すばやくメモをして忘れ去り、また探体に戻るのが一番いい。

6.ある時点で、「自分が囚われている問題はなにか?」、思い当たる限り列挙していく。問題群のクオリアとそれを記述した言葉をセットにしてからだの闇をまわす。それもまた、自分への問いかけの形になる。「自分はなぜ、怒りっぽいのか」、「なぜ、いつも堂々巡りをするのか」、「なぜ、人の言葉をよく聴くことができないのか」、「なぜ、自信が持てないのか」、などなど人によって問題の形は無数にある。とにかくそれを自分独自の言葉にしてからだの闇の中で反響させる。

からだの闇を掘る


五欲の旅

いのちには5つの基本的な欲求(傾性)がある。それらが満たされている状態と、満たされていない状態の両方を味わいながら、旅を続ける。

 

1. 共振欲(傾性)

生命としてのもっとも基本的な傾性は、よい共振パターンを求める共振欲だ。欲望というより、そういう傾性をもっている。単細胞の生命でさえ、環境との最良の共振パターンを追求し、それが見つかるまでは待つという非二元の傾性をもっている。細胞には五感の感覚器官も神経もない。からだ全体で非二元多次元なクオリアのよい共振パターンを求めている。この傾性が人間のさまざまな欲望や欲動の基礎にあるもっとも基礎的な傾性だ。灰柱で歩きながら、いのちが世界とうまく共振できているクオリアと、うまく共振できていないクオリアを交互に味わう。五欲の旅のはじまりだ。

2. 安全欲

次の3つの欲求は、多細胞生物が生きものとして持つ基本的な欲望である。灰柱で歩きながら、世界と安全に共振でき、安全欲が満たされているクオリアに耳をすます。しばらくして、その安全が何かによって脅かされる不全なクオリア、危険に直面しているクオリアを味わう。それがからだの一部、たとえば背骨の反応として出てくればそれを踊る。祖型的なおびえやふるえ、閉塞などが、深い深層筋に隠されているかもしれない。

3. 快適欲

歩きながら、心地よく快適なクオリアを味わう。食べ物、飲み物、呼吸、環境などが快適さに満ちている。そして、それらが満たされなくなる不快なクオリアを味わう。自分の普段の習慣や嗜癖について、それが満たされている快適さと、満たされない不快感をどちらも味わう。それをすべての秘腔の反応として踊る。腸、胃、肺、心臓、喉、口、鼻、舌などで。

4. つながり欲

生きものはすべて仲間とのよいつながりを求めている。性欲はつながり欲が特化したものだ。いのちに聴く。何につながりたいか、そして、そのつながりが満たされないときどうなるか、欲望はねじれ、くぐもり、さまざまな情動の虜になる。それらのすべてを味わい尽くす。さまざまな層の秘膜の踊りが出てくるだろう。

5. 個性化欲・自己実現欲(創造欲)

個性化欲(創造欲)は、人間だけが持つ。「100%自分になりたい」、「自分のもつすべての可能性を実現したい」いう特別な願望だ。自己実現浴とか創造欲と呼べるかもしれない。自分が十分に自分自身になることができているクオリア、そしてなにものかがそれを妨げているクオリアの両方を味わい踊る。その中で自分に問う。

「わたしとは誰か?」、「いのちは何になりたいのか?」、「なにを創造したいのか?」、「それができていないのはどうしてか?」

これらの五欲(傾性)をたっぷり味わい、踊るなかで透き通って見えてくるものがあるはずだ。その気づきを書き留める。それが大きな次の創造へのヒントになる。

 

生存五欲瞑動

調子がいいとき、あるいは悪くなったとき、生存五欲の一つ一つに問いかけていく。

もっとも原初的な欲望である共振欲に問いかけ、快適欲、安全欲、つながり欲、実現欲に問いかけていく。いのちがやりたいことと、実際にしていることがわずかでもずれるとからだにかすかな苛立ちが立ち込めるのですぐ分かる。

ジェンドリンが創始したフォーカシング技法はフェルトセンスとよぶかすかな不快感に焦点を当てて耳を澄ます技法だ。

プロセス指向心理学のアーノルド・ミンデルも、センシエントというあるかなきかのかすかなクオリアを重視する。1次プロセスと彼が呼ぶ合意的現実の中の自分と、2次プロセスと呼ぶ、ドリーミングプロセスの間で起こるさまざまなギャップが不快感の震源地だ。

それらはまず。非二元の不快なクオリアあるいはかすかな不全感としてやってくる。生存五欲瞑動はそれをさらに五欲について検討するものだ。それらがバランスよくゆらいでいるかどうかどこかに滞りが起こっていないかに耳を澄ます。どれかひとつの欲望が突出しているとき、あるいは逆に抑えすぎているときはそれに囚われている。生存五欲瞑動は、自分の中をすっきりと見通すことに役立つ。

 

からだの闇を掘る


背後世界を踊る

いのちの世界は、日常的な人間世界とはまったく異なっている。目に見える世界だけではなく、目に見えない背後の世界と共振しているのが命だ。現代の人間世界は、物質的科学がもたらす共同幻想に侵されて三次元的な空間に時間次元がひとつ加わった四次元時空という狭い世界観に縛られている。それが現代人の合意的現実とされている。

だが、命は単に3次元空間や四次元時空に縛られてはいない。命は物質だけでできているのではない。命が感じるクオリアは、時空を超えて共振している。幼児期の母の声、胎児期の生命記憶、死んだ人の記憶とも強く共振している。命は人間サイズの個体だけが持っているのではない。からだを構成する100兆個の細胞一つひとつが命を持っている。それらは40億年前に地球上で誕生して以来、一度の死も体験せずに生き続けている。

すべての細胞の年齢は40億歳なのだ。人間の細胞だけではない。草木やアメーバやバクテリアの細胞の年齢もまったく同じ40億歳だ。すべての細胞には40億年間の生命記憶が刻み込まれている。これら細胞に生命記憶として保存されているクオリアを内クオリアと呼ぶ。記憶や夢や妄想や想像はすべて内クオリアが構成する幻想的な世界のバリエーションだ。そして、細胞は同時に身の回りのあらゆる物質やエネルギーと多次元的に共振している。重力のクオリア、日光のクオリア、空気のクオリア、匂い、音、味のクオリアと今ここで共振している。このいまここで物理的な外界の様々なものと共振しているクオリアを外クオリアと呼ぶ。そして、この外クオリアは、細胞内に保存された内クオリアとも絶えず二重に共振している。(クオリアを内外のふたつに分類するのは、日常意識にも理解しやすくするための便法で、実際はクオリアは内外などにこだわらず、多次元的に共振している。)生命は実に多数多様なクオリアと多次元的に共振しているのだ。

いのちの舞踏を踊ろうとするとは、この生命の多次元共振を踊ることだ。

生死を超え、時空を超えて共振しているいのちの不思議を無視して生命の舞踏はない。この生命の多次元共振を踊る技法が土方巽が未来への遺言として「静かな家」に書き残した「死者の技法」だ。

「死者は静かにしかし限りなくその姿を変えるのだ。彼等は地上のものの形をほんのふとした何気なさで借用することも珍しくない。」

土方はその世界を踊るために、目に見える世界の背後の、生命が共振している内クオリアからなる幻想的な世界を背後世界と呼んだ。目に見える物質的な世界と、目に見えない不可視の背後世界からなる多次元的な生命共振が起こっている世界像を確立した。

死者の技法の図地兆

死者はその両者を自在に行き来することができる。人間が踊るダンスの世界では、目に見える図と地のふたつを意識するだけでよい。目に見える物質世界は、ある瞬間に焦点が当たっていると焦点が当たっていない背景であるのふたつからなる。この両者は瞬間ごとに刻々と変化する。

だが、死者として舞台に立つ舞踏手は、目に見える図とそのバックグラウンドとなる地のふたつを踊るだけでは不十分である。生命は常に不可視の背後世界と微細に共振している。この微細な共振クオリアを兆しと呼ぶ。

図と地に加えて、不可視の背後世界からの兆しからなる三者を透明に制御しつつ変容する技法が<図地兆>である(第8章「図地兆リゾーミング)参照)。兆しはごくごく微細なクオリアなので、粗大な日常意識のままでは感知できない。日常意識を止め、からだの踊り場にまといついている深層記憶や悪夢や妄想などの内クオリアが、時空を超えて多次元共振している微細な命のふるえに耳を澄ましてはじめてキャッチできる。

日常世界の背後に広がる生命共振の多次元世界との共振を媒介するのがごくごく微細な兆しである。背後世界と行き来する兆しをとらえるために、舞踏者はからだの闇を掘り、思い出せない記憶や、からだに刻印された悪夢や、喉首つたう欲動や、逃れられないトラウマを掘り出し、からだの踊り場に脈動する血液を通す。背後世界からの兆しを踊るかどうかが、ダンスと舞踏を分かつもっとも大きな違いだといってよい。

 

からだの闇を掘る


能動的想像(アクティブ・イマジネーション)

ユングの発見したアクティブ・イマジネーションという下意識探検の方法は、東洋の古典的瞑想法とも通じる意識と下意識を統合しようとする普遍的な方法の一つである。わたしもそれらから多くを学んだ。

世界中の無数の心身技法は、使うチャンネルの差異によって区分され得る。

チャンネルの総覧

チャンネルについてわたしは、ユングの弟子ミンデルから学んだ。 日常的な心身状態では、無意識のうちに、このうちどれかのチャンネルがメインになっている。

非二元(Non-dual)クオリアは、まだどのチャンネルにも分化していない生のいのちのクオリアである。ひとつひとつの細胞の命が共振しているのは、この非二元チャンネルである。個別の8チャンネルは五感を備えた多細胞生物特有のものである。

外向(Extrovert)チャンネルとは、今ここで心身が共振している外クオリアに焦点あたっている状態である。

内向(Introvert)チャンネルとは、細胞内に生命記憶として保存されている内クオリアがメインになっている状態だ。

瞑想や瞑動は、外向チャンネルを鎮め、内向チャンネルのクオリアに耳を澄ます状態になることだ。催眠も、内クオリアに従う心身状態を指向する。夢は、動きのチャンネルが静まっている睡眠中に、内向視覚チャンネルがメインとなって夢見の状態となる。フロイドの夢分析は夢を思考チャンネルで解釈したものだ。ミンデルのドリーミング・ボディは、夢とからだのチャンネルの一体性に着目して理解しようとしている。ユングのアクティブ・イマジネーションは、瞑想や自己催眠同様内向チャンネルを開いて、そこで得られたクオリアを思考チャンネルの言語や、映像チャンネルの絵画にしたものだ。これらすべては、意識と下意識の間の共振を探り、その間に良好な関係を再構築する心身療法となる。サブボディ技法は、上のあらゆる技法とは異なり、一部のチャンネルだけではなく、全チャンネルを開くことが特徴だ。体感、動き、視覚、聴覚、情動、人間関係、自己像=世界像、思考のあらゆる内向チャンネルのクオリアを開き、それがいまここで動いている体動の外向チャンネルのクオリアと共振創発すると、実際のからだの動きとなって現れる。それを統合するサブボディ=コーボディ創造において、はじめて解離しているわたしたちの意識と下意識とからだの全体を統合することができる。思考チャンネルにおける深い気づきは、創造を終えた瞬間に勝手に吹きあげてくる。それは最後に開かれるのだ。サブボディ=コーボディ技法はたんなる心身療法やヒーリングにとどまらず、人生を創造的なものに再編・転換する生存の革命技法である。サブボディ技法が、全チャンネルを使うものであるがゆえに、一部のチャンネルだけを開く、他の技法の特徴も理解できる。内向チャンネルに保存されている内クオリアは、その深層ではチャンネルの区分を持たない。上図の中心の非二元(Non-ual)クオリアの域に入る。図では小さいが実際は99.9999%以上が非二元クオリアだ。細胞記憶になど気づいていないだけだ。深い瞑想やサブボディ=コーボディモードの深淵では、あらゆるチャンネルのクオリアが混融一体化して現れる。単独で自分の下意識をひらくサブボディモードだけでは、この非二元の混沌世界には入れない。サブボディとコーボディが混然一体化する集合的無意識を体験することによって非二元クオリアの世界に入ることができる。共振塾でソロの舞踏だけではなく群れの踊りを重視するのはそのためだ。ソロの舞踏だけにとどまっていてはそこまで行けない。土方の『病める舞姫』の世界は、まさしくその深層の非二元クオリアを精密に描き出している。土方は独自に、ユングのアクティブ・イマジネーションと似た方法を発明して、深層の非二元クオリアをできるだけあるがままに精密に書き留めた。『病める舞姫』がそれまで他では見たこともない文体で書かれているのはそれによる(第11章参照)。

自己や自我の表現にとどまっている西洋的なダンスやパフォーミング・アーツではなく、「生命の呼称で呼べる舞踏」を目指した土方だからこそ「自他分化以前の沈理の関係」に精確に焦点を当てそれを捉え描き出すことができた。そこでは、二元論的な文法の規則を無視し、主体や客体がどんどん変容一体化したり、転換、入れ替え、混融、分離が融通無碍に起こっている。それを思考チャンネルだけで理解しようとしても、訳がわからないのは必至だ。無理にそれを行えば、非二元世界の特徴を破壊することになる。それは日常的な頭ではなく、それを止めて深いサブボディ=コーボディ状態となって、からだ全体で成り込むことによってのみ理解できる。また、それによって、『病める舞姫』という非二元クオリアの宝庫を創造的な舞踏譜に転換する作業も可能となる。

 

からだの闇を掘る


ドリームボディ

十分な瞑動調体の後、各人固有の原生夢の世界に入っていく。その人にとってもっとも根源的な夢だ。原生夢を探れば、その人が誰であるかのヒントを手にすることができる。一生のうち何度も繰り返し探検する値打ちのある領土だ。人生でもっとも印象深い夢、固有夢とか、原生夢と呼ばれる。なかには何回も見る反復夢もある。

夢見るからだをアーノルド・ミンデルはドリームボディと名づけている。ドリームボディとサブボディは切っても切り離せない兄弟だ。もともと同じからだの闇=下意識から出てくるものだ。両者にはほんのわずかの差異がある。夢の場合は体が動かない。映像チャンネルだけで見る。これに対しサブボディはそれにからだの動きを与える。全チャンネルを開いて、からだごと夢の世界に乗り込んでいくのがサブボディだ。

 

 

夢をクオリア言語で書く

夢を紙に筆記する。通常の夢日記を書くときは無意識裡に、映像的なストーリーに翻案されてしまったり、無意識にその意味を探ったりすることが多いが、映像やストーリーや意味に囚われず、ここではありなままのクオリア言語で書き留める。主語がいつの間にか入れ替わったり、文法から外れた文章になっても構わない。森―虎―逃げる、などクオリアとクオリアをつなげていくだけでいい。とりわけ夢の中のからだの体感や見えない背後世界との微細な生命共振に耳を澄まして書き留めるのがポイントだ。

 

ドリームボディ調体

そして、一連のドリームボディ調体を行う。濡れ雑巾かウエットスパゲッティのように床の上を何ものかに動かされる、受動体への調体からはじめ、

二人でペアになって転がりながら乗り越える二人スパゲッティ、それを全員で行い大気な海になる。誰かがその海の上を運ばれていくヒューマン・オーシャン、から、ヒューマンマウンテンなど、この20年で選びぬかれてきたサブボディ=コーボディへの調体だ。

そして、誰か一人が自分の夢の世界へ他の生徒を招待していく。それぞれが夢の世界の何かになりこみ、夢の展開に連れてどんどん変容していく。海や、通行人、古い屋敷、地下、子宮、宇宙、遊び、音、光、かたち、などなどに全員で参加して夢の世界を共創する。

この原生夢劇場は、20年前から世界の各地で行い、いまも毎年続けている。ところが、今日これまでにない奇跡が起こった。一人の塾生が自分の夢の世界に導いていった。二階で寝ているとなにか怖いものが迫ってきて、

海の中に漂い出すというような夢だった。そのうち彼女はしゃべるのをやめてどんどんひとりで夢の中に入って動き出した。他の生徒も漂いながらそれぞれの世界で動いていた。

その動きがあまりに美しかったので、わたしは時間を測るのも忘れて見とれていた。次から次へとこれまでにない新しい動きが出てきては、消えていった。気がつくとなんと45分も経っていた。ソロ舞踏としてみても見事なものだった。しかも他の生徒も時を忘れて踊っていた。

わたしは深く動かされた。こういう奇跡のようなドリーム・サブボディが出てくることもあるのか?! この20年間でも珍しい出来事だった。夢の創造者もサブボディの創造者もわたしたち自身ではない。いのちがその創造者なのだ。からだの闇でさまざまなクオリアが勝手に共振して出てくる。それを解放するのが、サブボディ共振舞踏技法である。

だが、いったいなぜ、今日に限ってこんな奇跡のようなことが起こったのか。顧みれば今日は生徒の多くが怪我や病気で休んで半数だった。だから、いつものようにストップウオッチで時間を限る必要に追われなかった。十人以上もが限られた時間内で共有しようとすると、どうしてもひとり10分とか15分とかに限らねばならない。だが、この日は欠席が幸いして、一人ひとりがたっぷりと夢の世界に漂い出すことができた。これまではわたしの交通整理警官のような役割が、奇跡が起こるのを妨げていたのだ。

すべて終わったら、半眠半覚瞑動をしながら、夢に問う。

 

からだの闇を掘る


原初生命へ遡行する

ゆらぎ瞑動などのよってよいゆらぎ心地に入れたら、自分が40億年前の最初の生命体になったことを想像する。

わたしたちあらゆる生命体は、この最初の生命から今日まで、まったくひとしい40億年の時間を背負っている。人間も昆虫もアメーバもひとしく40億年の変転を経てきて今の姿になったのだ。一分一秒たりとも変わらない。そして、40億年前の始原生命がまったく自分では動けず、ただただ周りの環界のなかで共振できるものを取り入れ、自分のからだをつくることをはじめたことを想像する。それから30億年間、単細胞生物として、まわりの環境からやってくるさまざまな刺激をただただ受け入れ、受け入れ続ける中で、万にひとつあるいは億万にひとつの割合で新たな対応性を創発して、多様な種に分化してきた生命の長い創発史を思う。生命とは基本的に億万の受容に対し、ひとつの創発というふうに、やってくるすべての条件を受け入れるなかで、万にひとつの創発を生み出すことによって、進化をとげてきたものだ。

ひとりが真ん中で横たわり、この瞑動を続ける。

他の人は周りから40億年間に原初生物に降りかかったさまざまな刺激を与える。雨、風、波、日光、地震、隕石、音響、地響きなどさまざまな刺激を序破急をつけつつ与え続ける。

中の受け手はこれらの刺激をすべて受け入れ味わう。

始原生命として受け入れつつ、なにか自分の中から創発していきそうなクオリアが生まれたらそれを伸ばす。まわりの仕手は、それを時に助長し、時にまったく無関係な刺激を振り掛ける。このプロセスを通じて、中の受け手は40億年間の生命史を追体験する。そして、自分の生命の固有性を創発する。いったいどんなクオリアを発明することでわたしたちはわたしたちになったのか。長い長いプロセスをたどりなおす。

そのあと、この半受動半能動、あるいはもっと正確に言うと、ほとんど受動、ほんの少しだけ能動という万受一能ともいうべき、生命のもっとも原生的なクオリアから自分のサブボディを探る。ほとんど自由が効かず、情けなくも、回りから翻弄され続ける、動けないクオリアをからだの闇に探る。もっとも弱弱しい動き、もっとも不自由な動きで必死に自分を運ぶ、自分固有の衰弱体を発明する。這ってでも、いざってでもいい。

ほんの少しずつ進もうとして進めない歩みだ。そのあたりにサブボディの底がみつかるはずだ。そこまで降りきれば、もう何も怖いものなどなくなるじゃないか。

 

 

 

からだの闇を掘る


生命記憶40億年の不思議

なぜ、わたしたちはからだが動かなくなる金縛りにあったり、リアルな体感を伴う空を飛ぶ夢、落下する夢を見るのか? なぜ、アメーバやプランクトンやくらげになりこんで漂うことができるのか。

生物だけではない。石や木や風や空気にさえなりこむことができる。なぜ、そんな体験したこともないあらゆるものになりこむことができるのか?

なりこみは舞踏の本質だ。

なりこんだときは、本当にからだじゅうが、そのものになりきっている。なぜ、こんなとんでもないことが可能なのか?

それは、わたしたちの体を構成する100兆の細胞のすべてが、それらの体験をしてきたからだ。かれらは生命誕生以来、40億年間の地球の転変を生き抜いてきた。途中で死んだ仲間もおおぜいいたが、今のわたしたちのからだを構成している細胞たちはみな、あらゆる転変地変をのりこえて生き抜いてきたのだ。40億年のうち、ほとんどの時間は海を漂っていただろうが、氷河期に凍り付いて年々も動けなくなったことも、乾いて空を飛んだり、落下したこともあったろう。それらの体験のクオリアはみな細胞内に記憶されているのだ。だから、それらの保存されている内クオリアが共振してどんな体験でも反芻できるのだ。小さなミクロン単位の細胞生命の中に、その秘密が隠されている。

わたしたちの実の年齢は40億歳なのだ。本当に細胞生命の中に、それらのクオリアが生き生きと保存されている。そして時を超えて発現することができる。それ以外にわたしたちが、飛翔夢や落下夢、金縛りを体験したり、あらゆるものになりこめる根拠は見つからない。わたしたちの生命の年齢は本当に40億歳だ。命のとんでもない不思議を感じ、感動する。

 

自分の全体を踊る

いのちの共振を踊る。いま、ようやく、わたしたちは生命の舞踏とは何か、率直に言うことができる。いのちは共振である。いのちはあらゆる境界を超えて、すべてのクオリアと共振している。人と人は共振し、人と物が共振し、見えない背後世界との間でいのちは微細に共振している。それはとても微妙だが、日常の二元論的思考を止めると、かすかにそれを感じることができる。共振には主体も客体もない。共振はどちらからともなく同時に起こる。そのすべての共振を踊れ!いのちの共振を踊ることで、わたしちは自我を脱いでいのちになることができる。いつも、ただただ微細な共振への気づきに耳を澄ます。そして、感じ取られたかすかな生命共振を微細なディテールや、部分の動きとして踊る。同じ共振パターンで共振することもあり、異なる共振パターンや、反対のパターンで共振することもある。間違いを恐れることはない。すべては共振である。いのちは非二元域で共振している。そこには正解も間違いもない。ただ、すべての共振を踊る。それだけでいい。これを通じて、かつてない共振美を開くことができる。自信を持ってこれを楽しもう。

 

 

 

からだの闇を掘る
 
 大野一雄の母


 

人間子宮

ある塾生の要請で、久しぶりに人間子宮ワークを行った。 胎児になるひとりを他の全員が子宮となって包み込み、グロフの見つけた分娩前後の4つの世界を体験するというものだ。

第Ⅰ期 大洋エクスタシーーいつまでも続くかと思われる胎内ゆらぎの悦楽

第Ⅱ期 楽園からの追放ー世界の急変・出口なし 

第Ⅲ期 死と再生の葛藤ーパニック・暴力性・生物的怒り・火山的エクスタシー

第Ⅳ期 死と再生の体験ー死と自我・深淵への旅・気付き。

出生後に体験する大きな出来事は、すべてこの4つの位相のどれかとつながり、共振増幅される。あらゆるクオリアは時空を超えて共振する。

いまここで起こっている物理的な体験の外クオリアは、 細胞内に保存されている40億年の生命記憶、それを10ヶ月に凝縮して追体験する胎内体験の内クオリア、そしてグロフのいう分娩前後の4つの内クオリアのいずれかと同時に共振し、予測できない速度と強度で共振増幅される。このワークが危険なのは、いつ、どの程度の強度で この共振増幅が起こるか、予測できないからだ。 細心の注意でのぞみ、何が起こっても全員がそれを自分の問題として受け止め、ともに解決しようとする共同性の下地が必要である。胎児期への縮退変容では、想像もつかない奇妙なことが起こる。他の人に起こったその現象を他人事として受けとめ、突き放すような人がいると台無しになる。人間子宮ワークでは自他の境界が消える胎児退行を共有するだけではなく、これを通じて、あらゆる強烈な人生体験のクオリアと、この分娩前後の4位相のクオリアが何らかの共振をしていることまで透明に透かし見るという課題を共有することができる(胎内時代の秘膜共振については、第4章5番「秘膜各層の由来」参照)。

 

 

胎界遡行

胎児と子宮が未分化だった、胎内世界へ遡行する瞑動探体。すでに述べた「胎内ゆらぎ」と「人間子宮」からの発展・深化が「胎界遡行」だ。そこは重層的な秘膜に守られた世界である。

 

秘膜とはなにか

秘膜(Hidden skin)は、子宮と胎児が一体化していたころのいのちにとっての世界認識の方法である。自分がまだ人間であると知らなかったころ、わたしたちは子宮のゆらぎと胎児のゆらぎが別物であるなどとは思っていなかった。世界も自分もすべて一体化していた。人間は二項論理による言語思考とは別に、非二元かつ多次元流動的ないのちのクオリア思考を持っている。それが秘膜の思考、夢の文法、もうひとつの世界認識の方法だ。

秘膜瞑動はトランスパーソナル心理学のスタニスラフ・グロフが見出した分娩前後の体験とも密接に結びついている。秘膜に刻み込まれたクオリアがとびきり深いのはそのためだ。

 

グロフの分娩前後の胎界Ⅳ期

Ⅰ期:大洋エクスタシー

子宮内の原初の海で心地よくゆらいでいるクオリア。生命が発生当初の単細胞生物から無脊椎動物時代の海中でゆらいで生きていたころの生命にとってもっとも懐かしいクオリア。すでに述べた「胎内ゆらぎ」はこれにあたる。

Ⅱ期:世界の終わり (子宮収縮の開始)

いつまでも続くと思われていた極楽世界に突然終わりが来る。世界が突然変化するクオリア。生命の安全を脅かす世界の変化がはじまる。逃げ道を探そうとしても見つからない。出口なしのパニックに襲われる。

土方巽が収集した<癇のクオリア>のひとつ「軋む空気」はこのいのちが最初に出会ったトラウマと固く結びつき、いつも二重に共振している(第9章 癇の花参照)。

Ⅲ期:生と死の葛藤

こんな変化は望まない。止まれ。元にもどれ、といくらあがいても子宮の収縮は止まらない。それどころかますます締め付けてくる。逃れ出る出口を探そうとするが見つからない。不快な体験が長引くと生命はこのときの恐怖に囚われる。

Ⅳ期:生と死の体験

収縮が長引くと、とうとう胎児は生物学的な怒りに囚われる。わたしを殺そうとするな! 殺そうとするならわたしはこの世界を破壊するぞ!追い詰められた恐怖が最後に爆発する。決死の覚悟で子宮底の膣に頭を突っ込みねじりあけていく。無呼吸のまま生死の境を辿る。安寧な子宮世界を自ら破壊する。みんな忘れ去っているが、だれもが凶暴な世界破壊者として人生を開始したのだ。

わたしたちの秘膜に刻み込まれているクオリアはすべて、おおむねこのⅣつの時期のクオリアに対応する。

Ⅰ期の大洋エクスタシーのゆらぎは、どの生物にとってももっとも親しいクオリアだ。人が動物と仲良くなるのは、このクオリアを共有するからだ。

Ⅱ期の世界変化は、世界が急に寒くなったり、嵐が始まる予兆の音が聞こえてきたり、戦争が始まって石や銃弾が飛んできたり、安全な棲家に何物かが侵入してきたり、―と、誰にも思い当たるありとあらゆる不快な変化、

不安の始まりのクオリアだ。

Ⅲ期の生と死の葛藤は、不快な体験がいつ終わるかわからないほど続いて

それが、永遠に続くのではないかという恐怖に転化したときに起こる。

神経症が発症するのはこの胎界Ⅲ期の恐怖がよみがえるからだ。インドでの学校建設の過程でわたしはそれをまざまざと体験した。閉所恐怖や高所恐怖、監禁状態への恐怖もこのⅢ期の体験と関わる。

Ⅳ期の生と死の体験は、世界と自分との対立のクオリアとして体験する。世界が自分を押し潰そうとしてくるクオリア。それに必死で抗うクオリア。

人が社会や家庭などの狭い世界で、わけのわからない力に押し潰されそうになるまで追い詰められたとき、無差別殺戮者に転化する事件となって現れる。誰もがそうなる可能性はある。だからこそ自我は激しくそれを否定して自分から解離しようとするのだ。

だが、人はどんな深い不幸や災難に遭っても、それを乗り越えることができる。切り捨てることによってではなく、①まず、その不幸や悲しみが自分の中にあることを認知する。②それに耐えることができる適切な距離をみつける。③ゆっくり時間をかけてそれと友達になる。④そうしているといつかそれと一緒に踊れるときが来る。

創造は不幸や悲しみを別物に昇華する。切り捨てて逃れようとすると、それは無意識界に潜んでいつか爆発的に襲い掛かる。人がある日神経症や心身症に襲われるのはそのためだ。そうではなく、からだの闇と適切な関係を見つけること。サブボディを生きることが、根源的な癒しになるのはそのためだ。創造だけがすべてを解決する力を持っている。(この課題は、第12章「嵐の中の透明覚」参照)

 

 

 

 

 

からだの闇を掘る


 

第6章 探体




踊る星を生むための混沌

わたしがわたしになることとなった、宿命的な言葉に何十年かぶりにfacebookで再会した。そうか、英語ではこういうふうに訳されているのか。

"you need chaos in your soul to give birth to a dancing star." 

Friedrich Nietzsche

16歳の頃、わたしが読んだ日本語訳は、たしか次のような言葉だった。

「汝の魂はなおも、踊る星を産むための混沌を孕んでいるか。」

フリードリッヒ・ニーチェ

 

何度読んでもいい言葉だ。この言葉が16歳のわたしのこころを鷲掴みにした。この事件によってわたしはわたしになった。この言葉は永劫回帰のように、その後何十年も、わたしのからだの闇でこだまし続けていた。若い頃はいくつもの職場や職業を変わったが、そのつど、こぼさないように細心の注意を払って、からだの闇のわけの解らない混沌を大事に大事に運び続けた。それを詩や文章にしようとも試みたこともあったが、うまく行かなかった。だが、じっとそれに耳を傾け続けてきた。そして、45歳のとき、とうとうわたしの踊る星は、ほんとうにからだからとびだして踊りだしてしまったのだ。そのとき、いずれ自分がこうなることをずっと前から知っていたような既視感に捉えられた。下意識の命は気づいていたのだ。その後もからだの闇の混沌を何より大事なものとしてそれに耳を澄まし続けている。この不透明な混沌をすこしでも透けて見えるようにすること。また、からだ(脳心身のすべて)で起こっていることが透けて見えるようなからだになることがわたしの課題だ。

―――

若い頃は、ただ混沌としてしか感じられなかったものも、いまでは少しだけ透明になって、多次元かつ非二元の生命共振と捉えるようになった。そう呼び替えることができるようになったことが何十年かの苦闘の少しの生長だ。底知れぬ闇であることは今も変わりないが。それが命のクオリアの多次元=非二元共振であるという正体が定かになって、つきあい方も深まった。この書の後の章では、ヒマラヤ20年の中で明らかになった、この非二元多次元のからだの闇を少しずつ解いていく実践的な方法が網羅されている。

共振塾におけるわたしの産婆としての主な仕事は塾生が自分のからだの闇の混沌に気づき、それに耳を傾け続けるという生き方に導くことだ。それこそ命の無限の創造性と固有性を開く最大の宝庫だと信じているからだ。16歳でこの言葉に出会った時は、まさか自分が踊り手になろうなどとは夢にも思わなかった。だが、無意識では気づいていた。人生のあらゆる時期にからだの闇の中に躍りだそうとしている何ものかが潜み、蠢いていることをうっすらと感じていた。一度出会えば二度と忘れることのない、そして生涯の間いのちを導き続けてくれる宿命的な出会いというものはあるものだ。

 

混沌、非二元、リゾーム

7年目の3.11フクシマディだ。あの日多くの人が混沌の中に突き落とされた。生き方が根本的に変わった人もいるだろう。毎年3月3月上旬に新学期を迎える共振塾では毎年第1週目にフクシマの災害のクオリアをつい追体験する。あの日何万もの人が味わったと同じように、何が起こったかさえ分からないからだの闇の混沌に真っ逆さまに落ちていく。そして、かすかな生命共振に耳を澄ます。太平洋の海底でいまも漏れた放射能に侵されて奇形化している小さな命になりこむ。

この混沌とはいのちにとっていったい何なのか?

土方巽はこの混沌をからだの闇と呼び、その闇を毟り続けて次々と舞踏を生んだ。古代仏教では、無(Nothingness)や空(Emptiness)、道教ではタオ(Tao)と呼ばれた。ヨガの行者の一人が、非二元と呼んだ。ギリシャ・ローマ世界ではウロボロス、中世錬金術ではユニテやプリマ・マテリア(始原のもの)とみなされた。それらはすべて、なにがしかの色や味や価値がつけられ、各文化の深層における共同幻想になっている。この混沌を表す非二元というもっとも中性的かつ普遍的な言葉に触れたのは、20年前にヒマラヤに来てからだ。それ以来、ヒマラヤで非二元のからだの闇の旅を続けてきた。十年以上続けているうちに、非二元とは、からだの闇の生命共振クオリアそのものだ、ということが腑に落ちてきた。

 

非二元多次元クオリアの雲(クラウド)をまとう

ありとあるクオリアを思い出し、からだのまわりにクオリアの雲のように漂わせる。そのクオリア・クラウドと、いまここの動きのクオリアが出会って<共振創発>による新しいクオリアが生まれる。後に出てくる「けむり虫の歩行」や「からだのくもらし方」とは、からだを極々微細に震わせながら、からだのまわりの幾重もの層に多数多様な「クオリアの雲(クラウド)」をまとって歩くことでもある。(第10章十体の10「砕動風」参照)

 

 

 

 

 

 

生命共振ジャーナル
 読者の皆さまへ

共振塾サイトを訪れていただいてありがとうございます。春からの新学期開講を予定していましたが、残念ながら現在インド及び共振塾が位置するヒマーチャル・プラデーシュ州でコロナウイルスが増加しています。共振塾の定例舞踏コース再開はコロナが落ち着くまで見合わせます
でも、このような人間関係から隔絶される状態は、からだの闇に耳を澄ます、またとない機会でもあります。下記に最新刊の『舞踏革命 実技編』のPDFのリンクを付けました。ご自由にダウンロードして、毎日の瞑動の仕方を読み自習してくださることをお願いします。お会いできるのを楽しみにしています。
 
 
からだの闇を掘る
 

土方巽があるときぽつんと、「軋むからだって、どんなんだろうねェ」と問わず語りに言った、と元藤曄子夫人が書いている。

 

土方は寝床の中でいつも骨を鳴らして、軋むからだのクオリアを探っていたという。

 

舞踏家とは、24 時間からだの闇に坑道を掘り続ける稼業だ。わたしも長い間、この軋みのクオリア坑道を掘り続けてきた。なぜこれにこだわってきたのか、言葉ではうまく言えない。ただ、通りすぎるわけには行かなかった。

 

振り返れば自分の踊りのほとんどすべてが、一言で言えばこの軋みのクオリアから生まれてきた。踊りはいつも、ごくごくかすかな軋みの感覚から生まれる。

 

軋みと一言で言っても、その内容は無限の微細なバリエーションがある。しかも、それらはもっともかすかな、不分明なクオリアなので、中々言葉では捉えにくい。

 

それはいのちにとって、外界とうまく共振できないクオリアの総称だ。寒気や怖気や圧迫や束縛など、何かとうまく共振できないとき、生命に軋みの

 

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感覚を覚える。いのちが歪む感覚といってもいい。

 

背中にゾクッと走る悪寒、

 

皮膚がアルマジロのように変質していく妄想、死んだ友達に、行くな!と叫んでいる、

 

突然体がつらくなるのだが、何が辛いのかさっぱり分からない、息子を空に放り上げて受けそこねて死なしてしまう夢、超自我の命令にいのちがけで抵抗する

 

踊りはいつも、いのちががどこかで軋む、かすかなクオリアからはじまる。何かと上手く共振できないクオリアは生命にとってもっとも重要なクオリアだ。それを敏感に捉えられないと、直ちに死をもたらすからだ。

 

軋みは、いのちにとってのっぴきならない根源的な経験である。それは、いのちが自らを歪ませ変形させることと引き換えに、かろうじて生き延びる行為だからだ。そして、人間レベルで軋みを捉えれば、もっと複雑になる。

 

からだの闇の自全(自分の全体)には、じつにさまざまな要素や傾向が渦巻いている。詳しくは実技ガイドの「自全瞑想」の項をご覧いただきたいが、自我や超自我や影やアニマなどの多くの元型たちが多次元的に重層している。それらの要素は互いには見知らぬ者同士で、それらの間はいつも軋んでいる。意識や自我にとって、下意識のサブボディはすべて見しらぬよそ者であり、存在など認めていないものばかりだ。

 

自我意識が見知らぬサブボディに感じるクオリアは、激しく否定するエッジクオリアだ。不快で堪らなくて、直ちに消えて欲しいと感じる。そして、それがもっとややこしいのは、軋みはそれらの間にあるだけではなく、それらの要素や傾向は、すべてそれぞれ別個の自己像と世界像がセットになった配置を持っていることだ。

 

軋みはそれらの要素と世界との間でも、しょっちゅう生じている。それらの要素も世界も、どちらも絶えず流動しているから、絶え間なく矛盾や軋轢が生じる。軋みのクオリアはそれらすべてが多次元的に重層し、かつ非決定の状態にある事によって生じている。

 

軋みをうまく一言で捉えられないのは、この複雑さによっている。いのちはいつもこの多次元かつ非二元の中にいるから、軋みがどこからくるか、分からないのだ。

 

ギギっとか、ムギュとか、ミシッとか、擬態語や擬声語などを駆使すればかなり近づく。だが、数え上げればキリがないほどおびただしくある。

 

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モゾ、ゾクッ、ジリッ、ピキッ、ゴワッ、モワー、グニュ、ヌメー、メソー、ベキッ、グムー、などなどだ。

 

日本人同士でもうまく伝わるか伝わらないかの、ぎりぎりにある微妙なクオリアだから、これらオノマトペが圧倒的に貧しい英語ではとても伝えきれるものではない。

 

外国の生徒が多い共振塾で、今までこの軋みのクオリアをうまく扱えなかったのは、言葉の壁にぶつかっていたこともあった。

 

2010 年になって、言葉で伝えるのではなく、コーボディの群れの体験の中で、からだごとその世界に持っていく方法が見つかって、ようやくはじめて軋みのクオリアを伝えることができるようになった。

 

土方はこの超複雑なものを一生かけて探り、からだで表わそうとした。最後の最後に、からだの闇から取り出した死んだ姉さんの秘密は、土方のいのちにとって最大の軋みだった。なぜ大好きな姉さんが、東北から都会に女として供出され、死なねばならなかったのか。無数の秘密に重層的に包まれたその謎を踊ろうとすれば、その多次元そのものを踊るしかないのだ。

 

「雨の中で悪事を計画する少女

 

はくせいにされた春

 

気化した飴職人または武者絵のキリスト背後の世界

 

X による還元と再生

 

と、かれの最後の踊りの舞踏譜である「『静かな家』ソロのための覚書き」

 

が、何百行にも及ぶ複雑な要素を重層させたものであることはそれによっている。

 

「これくらい重層しないと『森の顔』一つさえでてこない

 

土方の踊りは、もちろん顔だけではなく、からだ全体が多次元を重層してゆらぎ、しかも絶えず還元と再生を繰り返して姿をくらましている。何ものによっても捉えられない、たった一つの秘密と化す以外なかったのだ。わたしはそれに巣窟体という名をつけた。

 

それでようやく土方が何を踊っていたのかが、くっきりと捉えられるようになった。20 歳ではじめて土方の踊りに触れて、衝撃を受けてから 40 年たった今、ようやく土方の軋みの深みに共振できるようになってきた。何十年

 

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かかってもいのちにとって解かねばならない謎は、どんなに解きがたくともやがては解けるときがくるのだ。

 

土方にとっても、わたしにとっても、生きるとは無数の軋みを受け取ることであった。秋田で育った土方が 20 歳で東京に出てきたとき、味わったのは、金属棒で脳みそをかき回されるような体感だった。冷たい都会の人間関係にいのちが軋み、習おうとしたバレエの、立とうとして立てない感覚にからだが軋んだ。

 

普通の人は、そういう劣等感を克服して世界に自分を合わせようとする努力の中に、人生を消尽してしまう。創造家は、いのちの軋みをいつまでも忘れない。そして長い年月をかけて、生きるために必要な軋み返しの術を編み出す。

 

創造するとは、受け取ったいのちの軋みを、踊りに昇華して打ち返すいのちの行為なのだ。生きることがいのちにとって軋むことであれば、創造とはいつも軋み返しなのだ。

 

受け取った軋みのすべてを精密に味わえば、それが無限の多次元を重層してやってくるものであるかぎり、それを打ち返す創造もまた、それ以上に重層的非決定にある解けない秘密になる以外ない。舞踏がいつも非決定のゆらぎの中に身をくらますのは、逃れることのできない宿命なのだ。

 

きみのいのちにとって最も根源的な軋みのクオリアを探せ。いのちがゆすぶられてやまないような、必然の踊りはそこから生まれる。

 

 

 

 

 

 

 世界生命共振
 
 
 

Doushin Butoh Experience: One Day Butoh Workshop with Gadu Doushin

 

*** In compliance with CDC guidelines regarding coronavirus prevention, we are continuing our Doushin Butoh Experience on Zoom. ***

 

This one day Butoh workshop is for those want a first-time experience of Doushin Butoh. 

The essence of Doushin Butoh is “resonance,” that is experience beyond idea or concept that can only be felt. In this class, the students are guided in simple repetitive movements that we call “conditioning.” As students you will be guided into a movement meditation and experience the connection between your body, mind and the universe.
 

 This workshop requires no previous dance experience.  Anyone who would like to explore his or her hidden creative potentials is welcome! 

When:  Tuesday, April 20th, 12:30 - 2:00pm          


Where:  Zoom (You will receive login information after you register)

Tuition:  $20

To Register, please go to: https://doushinbutoh.com

If you have any questions, please Contact Us.

 

からだの闇を掘る
 
Hijikata Tatsumi / Hosotan 


18   人間概念の拡張

 

土方は、かれの晩年新しい生命の舞踏を担う舞踏家を育てるためのワークショップのために創った「寸法の歩行」や、「虫の歩行」のテキストに、次代の舞踏家への遺言をこめていた。

 

小さな細胞生命に成りこんで、「寸法の歩行」が要請する条件をからだに染み透らせてみる。すると、ここではもはや物理的な世界に属するからだではなく、その背後の幾多の他界、異次元を荷い、異界と共振するからだになる

 

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くぐつ

ことが要請されていることが分かる。これまで探求してきた傀儡体のあらゆ

 

る要素がこめられている。

 

そればかりではない。

 

土方が行おうとした革命は、現代の狭苦しい人間概念を大幅に拡張することにあった。未来の人間がもつべき世界像=自己像がここに盛り込まれている。

 

「寸法の歩行」

 

  寸法になって歩行する

 

ロ 天界と地界の間を歩くのではなく移行するハ ガラスの目玉 額に一つ目をつける

 

はや

  見る速度より 映る速度の方が迅い

 

  足裏にカミソリの刃

 

  頭上に水盤

 

  蜘蛛の糸で関節が吊られている

 

  歩きたいという願いが先行して

 

形が後から追いすがる

 

リ 歩みの痕跡が前方にも後方にも吊り下がっているハ ガラスの目玉 額に一つ目をつけるホ 足裏にカミソリの刃

 

  頭上に水盤

 

  奥歯の森 からだの空洞に糸

 

  既に眼は見ることを止め

 

足は歩むことを止めるだろう

 

そこに在ることが歩む眼 歩む足となるだろうオ 歩みが途切れ途切れの不連続を要請し

 

空間の拡がりを促す

 

「イ」の、寸法が変わらないからだとは、死せる傀儡そのものである。「ロ」は、人間として歩くのではない。背後の世界、天界、地界、からだの闇の異界とともに移行する。この世とあの世を媒介する傀儡として移行す

 

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る。

 

「ハ」の、ガラスの目玉もまた、傀儡のものである。そして、額のもう一つの目はこの世だけではなく、生命の属する多数多様な異界を透明に見通す第三の目である。それは皮膚や、その外に広がる秘膜各層の目のシンボルでもある。

 

「ト」の、蜘蛛の糸で関節が吊られているとは、異界の何ものかの力によって動かされる傀儡になることだ。一本一本の蜘蛛糸の動きを通じて他界と共振する。

 

「チ」は、自分の意思ではない。歩きたいという願いは、からだから離れたところにある。抜けた魂を取り戻そうと、その願いに必死に追いすがろうとする。

 

「リ」は、すでにこの時空には属していない。時を越えて、前方や後方に過去に歩いた痕跡がぶら下がっている。これはまさしく生命のクオリアの属する非時非空の世界だ。

 

「ヌ」は、奥歯の森。森とはすでに失われた東北の山奥や屋久島などにのみ残存する原生林の森だ。無限の生命が時を越えて折り重なり、重層する死と生命の森だ。その森とからだの空洞が蜘蛛の糸で共振している。

 

「オ」は、時空は連続していない。無限の時空がつながり、途切れる多数多次元の世界だ。

 

寸法の歩行が要請するのは、これら多数の異界を引っさげ、それに突き動かされて移動するからだだ。これが土方が残した、舞踏家のための世界像=自己像の条件だ。なぜそんなものを、現代に生きる人々に見せつけなければならないのか?

 

 

重層された異界をまとう世界像=自己像

 

きみの世界イメージが、四次元時空のこの現実世界ならば、きみの自己は日常体である。いのちからはぐれて、散々な目にあっているのにそれに気づくこともない。

 

きみの世界像がこの世ではない異界と交感していれば、きみの自己は現代の人間が縛られている桎梏を超えて異次元にひろがる。

 

世界像と自己像は一体化しているものだ。

 

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世界像と切り離された自己像(アイデンティティ)などありえない。だが、多くの西洋思想や心理学者や科学者は、世界像から独立したアイデンティティがあるかのように取り扱っている。その実は、無意識裡にありきたりの世界像にもたれているだけなのだ。

 

ハイデガーが「世界内存在」という概念を提起したのは、ずいぶん前のことだ。わたしの世界=自己像という考え方も、かれから示唆を受けた。だが、かれには人類が何万年もの間、アニミズム的世界観をつうじて、無数の異界と交感してきた生命クオリアの多次元的な世界を配慮しえていなかった。

 

現代生物学者の生命の定義が、単に物質過程だけに囚われていることも、生物学者が生命の非物質過程を解離していることを示している。

 

誰が考えても、生命が物質的次元だけに関わっているのでないことは明らかなのに、それは科学のテリトリーではないと、自ら狭い枠にひきこもっている。

 

どの分野の知も、生命の多次元的な全体を捉えようとしない。世界から切り離された自己、生命から切り離された人間、人類史から切り離された知、無意識から切り離された意識、解離され断片化した共同幻想の支配、それが現代なのだ。

 

生命の舞踏を志向した土方は、そのことに気づいていた。だからこそ、生死の異界のあいだで震えている舞踏体となることで、生命のほんとうの姿を示そうとしたのだ。

 

死の世界をまとうこと。

 

わたしたちの第一の秘膜である皮膚の表皮細胞も、死せる細胞である。わたしたちは死をまとい、死に守られて生きている。生命にとって死ほど身近なものはない。宇宙のすべては死の世界である。いつも生死の境で震えているのが生命の実態だ。

 

だが、そのことを忘れ、未知の世界への畏怖を忘れて久しい。まるで人間だけが存在しているかのように錯覚している。しかも現代の社会からは、死者、病者、狂者、障害者、犯罪者は、社会の外の病院や刑務者に隔離し、健康な人間だけが社会的存在を許されている。

 

あたかも健康な人間だけが世界を支配し、思い通りに変更できるという思い上がりが、この世に蔓延している。

 

奴隷制に支えられていた古代ギリシャ世界で、奴隷を排除した市民だけで 114


世界=人間像を構想し、その狭い「市民=人間」だけによる統治を目論見たのが、民主主義という幻想だ。その民主主義国家という共同幻想は、今なお最善の共同幻想として君臨している。

 

「人間=物質的世界観=民主主義国家」が三位一体となった人間元型が世界を支配している。それらが現代の人間から、生命の無限の創造性を疎外している。この三位一体の現代の共同幻想構造を根底から覆さないかぎり、これらの狭い枠組から解放されることはない。

 

土方は生命の舞踏を通じて、人間概念を大きく拡張しようとした。

 

 

「人間の条件をすべて捨てる。これだけは間違わないでください」

 

「人間はまだ、これから来る未知の秩序に、百万分の一も触れていない」

 

なのに、一体いつまで、こんな狭い幻の監獄で窒息寸前になっているのを我慢しているんだい?

 

舞踏家が現代に投げかけるのはその問いだ。

 

 

 

ヒマラヤ共振日記
 世界生命共振
 
舞踏とは? | Gadu Doushin
 
 

Beginning Doushin Butoh Workshop

 

*** In compliance with CDC guidelines regarding coronavirus prevention, we are continuing our Beginning Doushin Butoh Workshop on Zoom. ***

 

Beginning Doushin Butoh Workshop is designed as a pre-requisite for Doushin Butoh Workshop in order to learn the basic physical methods of Subbody Butoh Method and basic meditation techniques of Spring Forest Qigong. ​​​​​​​​​

This workshop will focus on the essential aspects of Doushin Butoh:

·  Quiet down the daily consciousness and listen to the subtle body signals

·  Go beyond our physical, psychological and social bounds in order to create movements that are novel and unique to the individual body

·  Resonate with other bodies

·  Go into meditative state using Spring Forest Qigong techniques 

Doushin Butoh Workshop is a group process and this workshop requires no previous dance experience.  Anyone who would like to explore his or her hidden creative potentials is welcome! 

When:  Thursdays 6:30 - 8:00pm          


2021 Schedule (dates are subject to change)

Spring Term: 
4/1, 4/8, 4/22, 4/29, 5/6, 5/13, 5/20, 5/27

Where:  Zoom (You will receive login information after you register)

Tuition:  $135

If you have any questions, please Contact Us.

 

 
生命共振ジャーナル
 
 

コロナの沈静化まで、共振塾再開を待機

インド、そしてヒマチャル州でも、再びコロナウイルス感染者が増加してきました。共振塾はこれが沈静化するまで、再開を延期することにしました。

ただ、今の時期はからだの闇に耳を澄ます習慣をつくる絶好の時期です。

舞踏革命実技編のPDFへのリンクを添付します。

再開までの時期、実技編の第4章調体を読み進み、ご自分で毎朝瞑動をしながら、からだの闇に耳を澄ます習慣を創り上げてください。

では再開を楽しみにしています。

生命共振芸術センター




 

からだの闇を掘る
 
Kazuo Ohno Butoh Soundtrack The Electereo 


大野一雄と土方巽





最後に大野さんにお会いしたのは、1997 年ごろの大阪公演だ。公演後大野さんは会場の出口に裸で立ち、観客に挨拶してくれていた。
 

日本を離れようとしていたわたしは、おそらくこれが最後だろうという気持ちで、大野さんのからだを抱きしめた。子供のように小さいからだだった。今日はそれから 15 年、大野さんも今ごろは冥界でクラゲとなって、旧戦友たちと泳いでいるだろう。

 

大野さんにまつわる、幾つかの思いを垂れ流す。

 


大野一雄のボトム

 

大野一雄は、不幸な誤解にさらされてきた。

 

好意ある追従という誤解に。

 

大野一雄さんの写真の中から、あえて一般に流布されている、両手を上げて空に広がっている写真以外のものを集めた。

 

どうか、これらをいのちの目でとくと味わって欲しい。大野さんのあの独特の極めポーズだけが世界に流布し、あたかもそれが大野さんの舞踏スタイルでもあるかのような誤解がひろがっていることに、長い間強い危惧を抱いてきた。西洋の大野さん系の舞踏家から影響を受けた人々の舞踏スタイルも、多かれ少なかれ、その流布された写真ポーズか

 ら影響を受けている。

 

それを見るたび、身を切られるように辛くなる。

 

 

何と文化は伝わりにくいものか、と。

 

それはたしかに、大野さんの踊りの中の花の一つには違いないだろう。だが、花が花だけで花になることはありえない。花は目には見えない暗闇の中の、秘密や謎に支えられてはじめて花となるのだ。大野さんは踊りの中で、膝から下の世界を模索し、死者と

 

対話し、生死のエッジとま向かう中から、最適の瞬間をつかんであのポーズをとったのだ。

 

134


大野一雄の息子の義人さんはいう。

 

「『膝から下の世界』という世界を一雄はもう一つ持っている。そこにもう一つの宇宙がある。

 

『膝から下の世界』というのは大事です。モダンダンスなんかでは、上に、重力に逆らってというふうな思いが強いでしょう。一雄の場合は、本人がそう感じたとき、反対に落下します。その時の落下する速度は凄いです。あっという間に床に行ってます」(『大野一雄 魂の糧』)

 

だが、写真家にとって、うつむいて膝から下の世界をまさぐっているような図は、おそらく絵にならないと判断されたのだろう。謎や秘密に触れているみすぼらしい姿の写真など数えるほどしか撮られていない。

 

その写真家の美意識や判断が、大野さんの舞踏の世界を歪め、上滑りの「BUTOH」のイメージを世界にまき散らしてしまった。

 

大野一雄の舞踏のもっとも深い花と謎と秘密は、そこにあるというのに見過ごされてしまう

 

こととなった。

 

その誤ったイメージに毒された、西洋圏の舞踏家や生徒に数多く出会った。そのとんでもない悲しい誤解を解くために、大野さんの写真の中から、両手を上にあげていない写真だけを探して上に紹介した。

 

ほとんど無視されて撮られていないから、見付け出すのに苦労した。

 

幸い手持ちの資料の中の、池上直哉氏の膨大な写真の中から、わずかながら集めることができた。感謝します。

 

見やすい大きい花と違って、謎も秘密も目には見えない。それに触れたいのちが、微細に震えているだけだからだ。

 

135


ただ、日常意識を止め、思考をやめたときにだけ、生命が震えるように何か見えないものと共振していることが、感じ取れる。

 

そして、ほんとうの花もその心の目にだけ映る。いや「心」というと、まだ人間の枠内を離れることができない。心でさえなく、いのちになって大野さんの舞踏世界の奥底を感じてください。

 

人間の持ち物をすべて投げ捨てないと、触れられない世界がこの世にはあるのです。

 

形と魂をめぐる伝統的な誤解

 

よく大野さんと土方の違いを説明するのに、「形が魂に追いすがる」と、「魂が形に追いすがる」という言葉が引用される。多くの西洋の友人は、それを真に受けている。

 

だが、それは頭のいい批評家がでっち上げた物語にすぎない。大野さんも土方も、どちらも上の両者を往還して踊っていた。

 

片道通行などあるわけがないのは、からだで踊ろうとしたものならばすぐに分かる。フィジカルな外クオリアと、メンタルな内クオリアが、一つに融け合ってはじめて動きが踊りに昇華する。

 

大野さんがニューギニアから引き上げてくる船上で、多くの戦友が飢えや疲労でいのちを落とし、海の藻屑と消えていったとき、かれらを踊ろうと心に決め、クラゲの踊りを繰り返した。

 

それを 21 歳の土方が見て衝撃を受け、「劇薬ダンス」と名付けた逸話はよく知られている。

 

それ以後 2 人の共振は、物質的なからだと目に見えない異界を往還して踊るという一点で結びついたのだ。

 

共振とはどちらからともなく起こるもので、主体と客体の違いなどない。

 

土方が突然、衰弱体舞踏に転換していった 70 年代は、2 人はもっとも遠くで共振していいた。その間、土方は 1974 年の『静かな家』で、気化と物質化を往還する衰弱体技法として仕上げ、その自在に変容し往還するものを<死者>と呼んだ。

 

1980 年代になって、大野一雄が「ラ・アルヘンティーナ」と「わたしのお母さん」という二つの代表作の振り付けを土方に頼んだのは、大野さん自身が自分に必要なものとは何かを、土方がよく知っていることを知尽していた

 

136


からだ。

 

土方が大野さんの代表作である二つの踊りに持ち込んだものを一言でいえば、ボトムである。

 

大野さんはもともと天性の即興ダンサーで、クラゲの踊りを踊らせたらいつまでも踊れる人であることを、土方はよく知っていた。

 

その大野さんの天性の踊りを、もっとも引き立てるものとは何か。それこそがボトムなのだ。

 

アルヘンティーナの冒頭、豪華なドレスをまとう大野さんを観客席に座らせ、首がカクカク動く傀儡の動きで立ち上がらせたのも、それがもっとも対照的にクラゲの踊りを引き立てるものであったからだ。

 

その後も、各章の繋ぎ目ごとに静止や棒杭だのというボトムを効果的に挿入した。

 

とりわけ、グランドピアノを運び入れ、その前に身じろぎもしない大野さんを立たせたのは、後半の鳥の踊りなどの大野さんの踊りをもっとも支えるものこそ、思い切り長い静止であることをよく知っていたからだ。

 

ともあれ、舞踏は土方と大野さんという稀代の共振からはじまった。それだけは覚えていていい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヒマラヤ共振日記
 世界生命共振
 
Kazuo Ohno mother flv 
からだの闇を掘る
 
 
 
Hijikata Tatsumi Hosotan part 2 (1972) 土方巽 
疱瘡譚 Part 2 癩1 
からだの闇を掘る
 
 

2021年2月19日

 

時代の証言集
『きみが死んだあとで』出版!

 

映画『きみが死んだあとで』がまもなく全国上映される。
それに伴って映画の中で行われた、わたしを含む8人の山崎博昭に
関わる友人たちのインタビューが書き起こされて書物として発行されるこ
とになった。このほど映画監督の代島氏から、著者校正のための原稿が送
られてきた。それを掲載します。映画と本のなかでわたしは当時の名前、
岡龍二で登場している。

 

 

護送車のバックミラーに写った顔を見たら憑かれた顔で

「これが二十歳の俺なんやなあ」って。

 

岡 龍二さん

(大手前高校の同学年)

 

十三番目に撮影したのが岡龍二さんだった。大手前高校時代に山﨑博昭さんも参加した「マルクス主義研究会」の中心メンバーは全 員撮影したかった。岩脇正人さん、佐々木幹郎さん、北本修二さん、向千衣子さん、三田誠広さん、黒瀬準さん、そして岡龍二さん。岡 さんはインド北部のダラムサラで舞踏学校・共振塾を主宰していた。

ぼくとカメラマンの加藤さんは2019年 4 月中旬、ニューデリーへ飛んだ。ニューデリーーダラムサラ間の移動にはもっと時間

がかかった。険しい山岳部を抜ける深夜バスに揺れること 10 時間、ぼくらはほとんど一睡もできずに朝陽を浴びたダラムサラのバス停に着いた。ダライ・ラマ 14 世が暮らす亡命チベット人の街には、日本とは違う「気」が流れていた。

ヒマラヤ山脈をのぞむ岡さんの舞踏学校兼自宅の建物は「ハウルの動
く城」を思わせた。そして、岡さん本人は城を動かす火の悪 魔・
カルシファーのような不思議な、そして魅力的なひとだった。
岡さんを撮影する前に、ぼくは複数の高校同級生から岡さんにま
つわるエピソードを聞いていた。それはすべて「貧乏物語」だった。

「京大を受験するときに受験料が払えなかった。だから、
友だちみんなでカンパした」とか「電車をキセル(無賃乗車)
して駅員に捕まった」とか。父が消えてからは、母親が女手ひ
とつで男の子三人を育てたという。岡さんはその長男だった。

1969年の『アサヒグラフ』に掲載された原稿で、
岡さんは高校時代の山﨑さんをこう描写している。

《デモがあったあくる日、奨学金を受取りに行った学生部の
窓口の前で偶然出会ったぼくらは、お互いの機動隊に蹴られた
足の傷やアザを見せ合いながら、「昨日は酷かったなあ」といっ
て話し始めた。

 

「やっぱり貧乏ってことかなあ」と、もらったばかりの三枚の千円札
を恨めしそうに眺めながら闘いの動機を語り始めた君に、僕は共感し
てしまった。》

岡さんはいまも山﨑さんに共感しながら、「山﨑博昭の記憶」を

踊りつづけている。

 

全文を読む

生命共振ジャーナル
 
宇宙| スムリティ
 
コンディショニング#4運搬密度
16 February, 2021

Dear Friends 

The Butoh Course will resume on Monday, 8th March!

Lets listen to the Life and dance together! 

Subbody Resonance Butoh Course 

When: [Spring semester] 8th March - 28th May,2021

[Summer semester] 7th June – 28th August,

[Autumn semester] 6th September – 26th November

[Winter semester] 6th December – 25th February 2022

Monday – Friday

10:00-17:00

[Duration] One day, One week, One month, One semester and One year course are available

[Where] Life Resonance Art center

Jogiwara village, Macleodganj, Dharamsala, Himachal Pradesh, India


 



Read more "Sinking into the darkness"

 

生命共振ジャーナル
 
シャクティスムリティ
 

Dear Dancing friends

 



How is your dancing spirit? Is it still alive?

I guess everybody is facing hardship.

Recently, fortunately, it is calming down in India and Himachal Pradesh a little bit.

We don’t know what will happen next, the third wave will come or won’t, nobody knows.

We decide to resume regular Butoh course in this chance as the following.

Please activate your dancing spirit and dance together in this opportunity at Himalaya.

 

Subbody Resonance Butoh Course

 

When: [Spring semester] 8th March - 28th May,2021

[Summer semester] 7th June – 28th August,

[Autumn semester] 6th September – 26th November

[Winter semester] 6th December – 25th February 2022

Monday – Friday

10:00-17:00

[Duration] One day, One week, One month, One semester and One year course are available

[Where] Life Resonance Art center

Jogiwara village, Macleodganj, Dharamsala, Himachal Pradesh, India

[Tuition; Foreigner]

One day          1,200rs

One week        5,400rs

One month      19,000rs

One semester  51,000rs

One year       180,000rs

(Indian people are discounted 40% from the above)

[Tution: Indian]

One day               720rs

One week          3,240rs

One month      11,400rs

One semester  30,000rs

One year       100,000rs

 

[Reservation for Foriegner]

(Early reservation is discounted 20% from the above in the case of one semester and one year course).

Reservation for one semester: 40,000rs

Reservation for one year course: 144,000rs

 

[Resvation for Indian]

Reservation for one semester: 24,000rs

Reservation for one year course: 80,000rs

 

Send the fee to the following bank account

Bank Name : State Bank of India,

Branch : Mcleodganj

Account Holder Name :  Ryuji Oka

Account Number :  31687887679

Bank Code : 04250

Swift Code : SBiNiN BB 676

IFSE/ NEFT/ RTGS : SBIN  0004250

MICR Code : 17600 2009

The address of the bank is

State Bank of India, Mcloedganj,

Teh. Dharamsala, Distt. Kangra, H.P. India. pin 176215

The address of the Receiving person is

Ryuji Oka,

Village Jogiwara, Post Office McleodGanj,

Dharamsala, Distt. Kangra, H.P. India. Pin 176219

 

[Acommodation and meal]

The tuition above is only for the class, it does not include accommodation or meal.

You can stay at the guest house near the school. The fee is around 6,000-12,000rs per month.

You can cook by yourself for the lunch at school kichen or use cheap restraint in the village.

 

Hope to see you soon!

Life Resonance Art Center

 

p.s.

Attached the newest PDF of the Practice Guide of Butoh Revolution for your study. Enjoy it!

 

 

舞踏革命 リゾーム リー

印刷版・電子版とも、アマゾンでお求めいただけます。

印刷版 3456円 (574ページ)

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「舞踏は、土方巽によって、日本で誕生した。本書は、今や世界的になったその「舞踏」の本質を追究し、自らインドのダラムサラで学校を開いて実践し続けるLee(リゾーム・リー)が、その本質に「生命の共振」があることを発見し、真実、舞踏こそが人類を解放し得る方法であることを示している。その意味で、まさに本書は「革命の書」である
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