生命共振を世界に
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生命共振ジャーナル
 お知らせ

秋期舞踏コース、10月4日(月)開始!

来月4日(月)より、週5日の定例舞踏コースを再開します。
インド政府はまだ旅行ビザを発給していませんが、インドに滞在中など
ご都合がつく方はこぞってご参加ください。

月曜ー金曜日、午前10時ー午後5時

[October course]

4th  to 29th October

[November course]

1st to 26th November

[December course]

29th November to 24th December

[January course]

3rd to 28th January 2022


経験ある方は、共同産婆に!
1年以上就学経験のある方は、授業料半額、かつ産婆として
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生命共振芸術センター



 

調体ゼロ番 呼吸

生命の呼吸

生命の多様な速度とリズム

命は実に多様なリズムで共振している。

これに対し、日常の意識状態では、大脳のニューロンとグリアの間で交わされるすばやくせわしないリズムに支配され、覚醒状態を保っているためそれ以外の長いゆっくりしたリズムに気づかない。とりわけ、考えたり、人と話をしたり、テレビを見たり、新聞を読んだりしているときは左脳の言語中枢と右脳のクオリアを感じている部分との間で激しいニューロン発火による電気信号が飛び交うため、からだやいのちのゆっくりしたリズムははるかにかすかなので感じることができない。

 

粘菌の原型質流動のリズム

粘菌のからだの中では原形質流動が行われ。1-2分サイクルで流れの向きが交替する。粘菌も、ロングタイドの生命の呼吸のリズムをもっている。

粘菌先生は生命について何から何までを教えてくれる、わたしにとって師の中の師だ。

 

 

生命の呼吸

わたしが塾生の何人かから学んだクレニオセイクラル・メソッドは、生命の呼吸に注目する。

肺の呼吸リズムとは別に、それよりもっと長くゆっくりしたリズム(30秒サイクルや100秒サイクル)でからだがくつろいで伸びていき、またしぼんでやすらいでいく生命のリズムをただ感じる。そのほかにはなにもしない。からだをゆっくりくつろぎながら広げていく。体液の流れがくつろぎながら広がっていく。そして重力を受け入れ、戻って静まっていく。潮の満ち干のように繰り返してされている命とひとつになる。すべての瞬間にからだを構成する100兆の細胞の共振パターンが刻々と変わっていくことを感じることができればなおいい。

生命の呼吸

生命は無数のリズムで、あらゆるものと共振しており、その中には、クレニオメソッドが見出した生命の呼吸というごくゆっくりしたリズムもあるということを感じる。

 

「人間」的囚われから自分を解放する

自分が何かに囚われていると感じたときはただちにこの「生命の呼吸」のリズムを思い出すのがいい。わたしたちは日常の自我や、解離されていた人格や、見知らぬ元型などにしばしば囚われる。そんなとき「生命の呼吸」を感じると、囚われていたものから距離をとり、自分が自分の命と共にあることを思い出させてくれる。何が起ころうとも大丈夫という天心の状態に心身を鎮めることができる。これは、あらゆるクオリアに身を預け、だが、同時にそれに支配されないための、必須の極意だ。生きる極意、新たな創造に向かうための極意だ。ただ、いのちになる。それを思い出し、それを感じるだけでいい。

 

瞑動

サブボディ技法の最大の特徴は、瞑動にある。瞑動とは動く瞑想である。なにものかに動かされる瞑想というほうがより正確だ。

静かに座りあるいは立ち、横たわり、からだのいちぶが誰かによって見えない糸で何らかの方向に動かされていくのを感じ、それに従う。胸の糸によって前に動かされ、背中の糸が後ろに連れ戻す。じょじょに前後左右斜め、あらゆる方向に動かされるままに従う。ときには頭が床につくまで動かされ、自由になった脚が思わぬ方向に動かされる。床の上を転がされ、予想もしない姿勢になっていくに任せる。

動かされるに任せながら、同時にからだの闇のクオリアの流れに耳を澄まし続ける。からだのどこかの細胞が忘れていた生命記憶を思い出して、思わぬ動きが出てくるかもしれない。出てくる動きに判断抜きで付いて行く。それが今日のサブボディ=コーボディだ。動きが出てくるようになれば各自調体から探体に移って自由に探る。

 



調体とは何か

調体とは、心身の状態をよい状態にもっていく作業である。良い状態とは、からだの内外のなにものにも囚われずに耳を澄ますことのできるからだを意味する。英語ではコンディショニングという。多くの方法があるので、いろいろ試してそのときどきの自分にもっともあったものを採用してください。

 

調体を毎朝の習慣にする

最初におすすめしたいのは、毎朝、自分固有の調体を探る習慣を創ることです。毎朝、からだの隅々にまで耳を傾けます。すると、どこかに凝りやこわばりがあるとか、かすかな痛みがあるとか、うまく耳を澄ませられない部位があることに気付きます。その部分に操体呼吸で、新鮮な空気を送ります。息を吐きながらその部分をゆっくりストレッチし、最大に伸びたところでその部位に呼吸を送り、しばし息を止めます。そしてどっと息を吐くとともに、<にょろ>の動きによって流動性を取り戻します。からだ中の問題が消失するまで毎朝続けます。この技法を会得し、毎朝適切な調体をする習慣が身につくと、 一年中最高の体調を保つことができます。その最高の状態の心身を稽古場まで持ってくるようにしてください。

 

共振ヨガ

 数年前から始めたことに、毎朝の共振ヨガがある。かつてはわたしか、ほかの産婆が毎朝の調体をガイドしていたが、 一人ひとりが自分や仲間のサブボディ=コーボディの誕生を助け合う相互産婆に生長するために、全員がそれぞれ短い調体を工夫し、それをシェアするようになったのが始まりだ。 そのためにも最初に述べたように、全員が調体を毎朝の習慣にすることが欠かせない。毎朝の自己調体で見つけたもっともいい方法を他の人とシェアする。これが共同探求、共同産婆の基礎となるものだ。

内にに半分、外に半分開く二重操作

ほかの人の調体を共有するとき、なにもしないでそれに従おうとすると、自我が起き出して、 批評や否定的な判断を始めることがある。退屈してそれに囚われることも起こる。その自我を鎮めるために編み出されたのが二重操作だ。 半分は他の人のガイドする調体に従いからだを動かしながら、もう半分は自分のからだの闇に耳を澄まして、からだの一部に別のクオリアの動きを付け加える。あなたのからだが同時に異なる二重のクオリアと共振している状態を創りだす。これは50%外に、50%内に開いている透明なからだの状態にもっていく稽古でもある。この二重操作を身につけると、共振ヨガを行いながら同時に自分固有の調体を探ることにもなるので、退屈に囚われることや、批評家が現れる余地もなくなる。

共振ヨガの中で、そレをガイドしている人のからだに入り込み、そのひとがどのようなしこりや囚われを解決しようとしているのか、共感的想像力によって、内側から感じてみてください。これは自分の問題だけに囚われるのではなく、お互いのサブボディ=コーボディの誕生を助け合う相互産婆になり合うための第一歩になります。

 


いのちの語法

毎日どのようにしていのちに耳を澄ますか。その方法について紹介しよう。

いのちから意識へいつもかすかなメッセージが届けられている。それは意識の語法とは異なる。言語を使わないで伝わるものだから、言語に慣れきった意識にはつかみにくい。だが、ひとたびいのちの語法を会得すれば、つねにいのちとコンタクトすることができる。わたしが外部からの言語情報の外圧のないヒマラヤで、探求してきたのはこのいのち独特の語法に耳を澄ますことだ。いくつか確かなものが見つかっている。

 

からだのなかのもやもや

朝目覚め前にからだのなかのもやもやとした体感を探る。すると、そこには一晩中いのちがやっていた仕事の残り香りが漂っている。夜中にいのちがする仕事は、その日に起こった新しい体験のクオリアを整理することだ。

新しい体験はひとまず脳の海馬というところに保存される。そして、一晩かけてそれらの一時記憶のうち長期記憶として保存するべきものと、廃棄するものに振り分けられる。どういう仕組みでその選別が行われているのか?

眠っている間におそらくいのちはその日に得た新しいクオリアと過去に保存した内クオリアとをひとつひとつ突き合わせどういう共振が起こるかを試している。そして既存の内クオリアとは異なる新鮮な共振が起これば、それは<新鮮なクオリア>として特定のグリアに永久保存される。そしてこの新鮮なクオリアに対し、既存のグリア一つひとつと突き合わせが行われる。夢の中でさまざまな映像やストリーリーが展開されているのは、この突き合わせ作業で起こっている出来事の反映だ。そして、その新しいクオリアと既存の内クオリアとの間で、強い共振が起こればその新しいグリアと既存のグリアとの間に、ニューロンの分枝が形成される。

それが奇妙で新鮮な体感として明け方のからだのもやもやのなかに漂っているあの独特のクオリアだ。もやもやのなかにこの<奇妙かつ新鮮なクオリア>を見つければ、それをつかんで離さないことだ。しばらくからだの闇のなかで揺すぶっていると、それがどんなものかが浮かび上がってくる。

それは新鮮な気づきや発見をもたらしてくれる。

 

<新奇なクオリア>―これが命からの第一の語法だ。

新しく長期保存された新入りクオリアは、だが、それ以外の無数のクオリアとはまだ、密接な関係確立していない。それは<どことなくしっくりこない>とか、<落ち着きの悪さ>というつかみにくい奇妙な体感として感じられる。明け方のもやもやの体感の中に、この<落ち着きの悪さ>のクオリアが見つかれば、それは新しいクオリアが創発された証拠である。それはまだ定住して周囲と確かな共振を確立していない。よい共振を探ろうと変容流動し続けている。落ち着きの悪さのクオリアをからだの中で転がしているとそのうちその新参クオリアが保存されている内クオリアと新しい共振を創発することが多い。

 

この<落ち着きの悪さ>が命からの第二の語法だ。

以上は一時記憶から長期記憶に変換されるプロセスでのかすかなクオリアだ。いのちの仕事は、だが、それだけではない。もっと根底的に、昼間の意識がなにかに囚われて行っていることに対しいのちが違和感を感じたときは<なんとなくそぐわない>とか、<かすかな不快感>のクオリアを発する。―これが共振する生命からの第3の語法だ。それは何かのクオリアと何かのクオリアがうまく共振していないことを知らせるクオリアだ。ここには根底的ないのちからのメッセージが含まれている。いのちはいつもあらゆるクオリアとうまく共振する方法を探っている。よい共振を求めようという傾性こそいのちにとってもっとも根源的な傾性、人間の言葉に直せば欲望なのだ。いのちから発する、<かすかなそぐわなさ>や、<何ともいえない不快感>のかたちで届けられるものこそ、もっとも大事ないのちからのメッセージである。フォーカシングのジェンドリンがいう「フェルトセンス」や、ミンデルの「センシエント」は、すべてこのいのちの語法に耳を傾けようとするものだ。このかすかな不快感をつかんだら握りしめて手放さないことだ。ごくごくかすかなものだが、このメッセージを解くと、大きな発見に至ることが多い。毎夜見る夢のなかでは、さまざまな映像やストーリーやビジョンとして現れてくる。だが、夢の具体的な映像やストーリーはその日に蓄積された一時記憶を長期記憶に変換するかどうかのより分け作業の最中にアトランダムに古い内クオリアと結びつけられ保存するかどうかの線上で発生したものなので偶然の産物であることも多い。夢を見たら、その夢の特異な映像やストーリーばかりではなくその夢に漂う体感クオリアをつかんで、からだの中でしばらく転がしているとそのまま消えていくか、前記の三大クオリア、

 

<新奇さ>、<落ち着きの悪さ>、そして<かすかな不快感>

のどれかに帰着するかする。この三つはいのちにとって大事なものだから、忘れないように握りしめてからだの闇で揺すり続ける。するといつしかそれと共振するクオリアが見つかって何を言おうとしているのかが解けてくる。数十年、いのちの技法を解こうとしてきた。ようやくみっつばかりの少しは確かなことをつかみ出すことができるところまできた。それらは酷似しているので見分けにくいかもしれないがあえて分別する必要はない。どちらにせよ、<なにかのクオリアとなにかのクオリアがうまく共振していないクオリア>である。共振を求める生命にとって祖型的な不快感に属するものだ。からだの中にそれまでになかった感じ悪いものが感じられたらそれこそ創造の大チャンスだと思えばいい。このいのちの語法に耳を澄ます作業を続けながら、ときどき、舞踏譜の章で紹介している土方の見つけた<癇の花>のクオリアを読み返してください。すこしずつ、共振が深まっていくだろう(第11章1『癇の花』参照)。


 

 



うまく共振できないクオリア

いのちがうまく共振できなかったクオリアを探る

自己不全感という最強のてがかり

からだの闇の中では非二元多次元のクオリアが絡み合いながら変容流動している。その間に微妙なギャップが生まれるとからだの底から不全感が立ち込めてくる。ごく微細な感じだが、そのサブシグナルは、何かがおかしいと告げている。こういうときは耳を澄ますチャンスだ。

 

一度も繰り返したことがないクオリアを探る

 「まだ一度も繰り返されたことのないものに出会うことによって、

あたらしい生の可能性を開くことができる。」(ジル・ドゥルーズ)

 『差異と反復』のなかのジル・ドゥルースの言葉を思い出す。 日常の自我や自己は毎日無数回同じクオリアを繰り返す。そして「自分」という幻想のアイデンティティを確認し続け、 無意識裡の反復によって自己を補強する。

これに対し、サブボディの探求プロセスでは、毎日違った坑道でからだの闇に潜り、まだ一度も繰り返されてないクオリアを掘り続ける。

この書の第4章以下に収められている多くの実技はすべて「思い出せないクオリアをからだで思い出す」ために工夫されている。そして、「まだ繰り返されたことのないクオリア」を探るものだ。

20年分の記録を総合すると、当初は1500ページを超えていた。そこから現在のページ数まで厳選した。どれも新鮮な体験が訪れるだろうことをお約束できる。お楽しみください。


 

 




非二元・多次元のクオリア

非二元域に耳を澄ます

からだの闇は非二元である。日常世界のように内外、心身、自他という二元的な区別がない。体感チャンネルと運動チャンネルも区別されていない。

下意識のからだ=サブボディ=コーボディモードに入るとは、非二元域に入るということだ。下意識域では、下意識とからだは、意識界のように分かれていない。心身の区別も、内外、自他の区別もなくなる。過去と現在、類と個の区別も消えさる。それどころか、日常世界では体感、運動、視覚、聴覚、情動、対人関係、世界=自己、思考などに分化しているチャンネルの区別も消える。感覚と運動がひとつになる。だから、ゆらぎやふるえなどの動きに身を任せながらからだの闇を変容流動しているクオリア流に耳を澄ますゆらぎ瞑動などの調体技法が生まれた。

からだをなにものかに動かされるに任せながら、からだの闇に耳を澄ます。感覚と運動が分化する以前の非二元かつ多次元共振をしている生命クオリア共振に身を預けていく。サブボディ=コーボディになリこむとは、非二元域に降りることなのだ。

静かな場所をみつけて、座る。あるいはどんな姿勢でもいい。そのときどきのもっとも心地よい姿勢を見つける。そして、座った姿勢なら、からだを前後左右にゆらぎはじめるに任せる。横たわった姿勢なら、かかとを床につけ足を上下に震えさせる。ゆらぎや震えをからだ全部に通していく。もっとも気持ちのよい速度とサイズを見つけてその心地よさに脳心身すべてを委ねていく。動きと心地良い感覚がひとつになっていく。そのうち、どんな動きでもいい、なにか動きが出てきたらそれに従う。どんどんからだ全体を預け、乗り込んでいく。目の裏にイメージが浮かんでくればそれについていく。

身体から奇妙な声や音が出てきたらそれも解放する。からだの奥から訳の分からない情動が湧きだしてくればそれを踊る。ほかの生き物や人物像が感じられればそれと踊る。

身の回りの世界が、別の世界に感じられれば、その変容についていく。あらゆるチャンネルのクオリアが、境界を超えて共振し始める。自他の境界も消え、一緒に動いている人のクオリアがからだに入っていくる。主観と客観の区別もなくなる。自分で動いているのか、なにものかに動かされているのかも定かでなくなる。からだの闇で巨大な地すべりのようなものが起こった。これが共振塾ヒマラヤで毎日起こっていることだ。その非二元のカオスの中から必然の踊りを探りだす、一生続く長い旅がはじまる。

 

チャンネルの分化以前の非二元クオリアへ

わたしはチャンネル理論をミンデルから学んだ。ミンデルの場合、視覚、聴覚、からだ、運動、対人関係、世界の6チャンネルだが、それに踊る場合に重要となる情動と思考チャンネルを加え、世界チャンネルを、世界像と自己像が密接に絡み合っている世界=自己チャンネルに修正して、合計8つの主要チャンネルを開くことをサブボディ技法の骨格に据えた。

当初このチャンネル理論は各チャンネルを順々に開いていくのに大変有用だったので、共振塾ができてから数年間チャンネルにそって授業を進めてきた。普段はいくつか少数のチャンネルに固まっているからだを、全方位に開くには役に立った。だが、2,3年前から、そのやり方がなんだか分析的過ぎて狭苦しく感じられ始めた。なんだかよくわからないが、なにか違うと感じられはじめた。そこでチャンネルを意識しつつも背景に沈ませることにした。そして、むしろ、秘関、秘筋、秘腔、秘液、秘膜などの各チャンネルが混然一体化したからだの踊り場を開くことに重点を移してきた。チャンネル理論の新しい活用のしかたが見え出してきたのは去年あたりからだ。いちど8つの主要チャンネルを開くことを学んだ上で、チャンネルが分化する以前の非二元域へ降りていく、これまでとは正反対の方向の坑道が開かれたからだ。わたしたち自身、胎児のころは、チャンネルが分化していない。目も耳も口も皮膚も胎水の中にあってひとつの感覚に溶け合っている。自己催眠や瞑動の深化によって、その胎児の頃の非二元的なクオリア流のなかに降りていく坑道だ。この坑道にうまく降りていくには、まだうまく言葉にならない微妙な技術が必要になる。この機会にできるかぎりそれを言語化しておこう。

 

1.祖型情動に耳を澄ます

日常的な人間の感情や動きではなく、生命としての原初反応的な祖型情動に耳を澄ます。これが第一の坑道だ。それらは意識や思考ではどうにも制御できない。

世界と共振して勝手に蠢いている。下意識でうごめく祖型情動は体感と動きがひとつに融け合い、チャンネルをこえている。土方の「静かな家」にはこれら祖型情動が詰まっている。

鳥のおびえ、虫のおびえ

「密度を運ぶ自在さの中には、めまいや震えや花影のゆれがひそんでいる。

 指さきの尖たんにメスカリン注射がうたれる。そこには小さな花や小さな顔が生まれる。

目まい―鏡の表裏へ叫びと少女―くずれてゆく前のふるえ背後からも内部からも襲われて、路上の花を摘む。ふるえて、床にも、空にも、そのはもんは、拡がってゆく」

細胞生命には体感と運動の分化はなく、もちろん視覚や聴覚も独立していない。すべてを皮膚で感じ取り、からだごとそれに反応する。そういう生命としての原初反応をからだの闇に探す。それが生命クオリアの非二元域へ降りていくひとつの有力な坑道だ。

 

2.夢の論理に学ぶ

誰もが見る夢や、白昼訪れる妄想は、日常世界とは異なる独自の論理で動いている。その夢や妄想に謙虚に学ぶことが第二の坑道だ。いつのまにか情景が変わり、夢のクオリアは絶えず変容し流動している。ひとつの世界から別世界へ理由もなくジャンプし、あるものが別のものにいつのまにか置き換わっている。ほんのかすかな気配から一挙に異次元が開畳する。そしてひとつの世界が一点に圧縮されたり、次元数を落として立体が平面になり、線分になり、点になり、逆に点や線や平面からいつのまにか次元数をまして膨大化する。じょじょに変容が起こることもあれば、一挙に世界全体が一変することもある。非二元界のできごとをたどるには、これらの異数の論理を身につける必要がある。クオリアの密度を自在に運び、百鬼夜行、魑魅魍魎のように自在に跳梁する極意を身につけねばならないのだ。

人間界の二元論的な論理に囚われていては生命のリアリティにおっつけない。

何度も何度も二度と見たくない悪夢の世界を踊り、夢の論理を教えてもらう必要がある。それは太古のアニミズムや神話に見られる「融即の論理」(レヴィ・ブリュル)に通じている。それを身につけるには数限りなく夢を踊り、妄想をからだに染み込ますことだ。二元的な制約に囚われた言語思考よりも、夢や妄想のほうがはるかに生命の非二元かつ多次元共振に近く、計り知れぬ創造性に満ちている。自分の見た夢や妄想を踊っているだけでは間に合わない。他の人の夢や妄想、ちょっとした思いつきにさえ自在に入り込み、どこからでも出入りできる透明なからだになるまで鍛えぬく必要がある。

 

3.土方の透明体

土方はその夢や神話の論理を、「自他分化以前の沈理」と呼んだ。

「静かな家」の<急>にあたる最終3章はこれら沈理によって導かれている。内部が外部となり、一部分と全体が自在に置き換わる。前後の脈絡はジャンプし、異界とつながり、いつのまにか箱に詰められ、そこから予想もつかぬものが現れてくる。それらの沈理をいくつかの原理に抽象化すれば、自在跳梁(ジャンピング・ワイルド)、密度を運ぶ(キャリー・デンシティ)、次元数や任意の要素を自在に増減するX還元と再生などからなる。

これらの沈理の変容技法を、頭でではなくからだの動きで自由奔放に駆使できるからだを透明体と呼ぶ。自我だの自己だのという人間的な条件を一切脱ぎ捨て、透明になることこそがなにごとかなのだ。

「25 (悪夢)

 悪夢こそはこの裸体なのだ

1、虫やらミショーの顔やら、少女と馬の顔やら、電髪の女やら、馬鹿の顔やら、ボッシュが描いた人物の顔やら、助けてくれと嘆願する手やら

2、犬と花と影とトントントンと跳ねる虫

26 奇妙な展開のさなかで

1、手のなかへの求心的な恋愛を頭蓋のなかにすっかり置き変える

2、神経が棒になり、棒が乞喰になった。乞喰が旗を振っていた、  それは大きな鳥であった。

3、首が馬の首になってのびると、指のゴムものびた。  その作業のさなかに、点の眼と視点が変えられた。

Xによる還元と再生にさらされていたのだ。その時は、背後に爪がザックリとささり、ゆくえははぐれて育ち、新たな還元により、小さなマイムがそこに誕生していた。

4、内部が外部へあふれ出し、あふれ出していったものが仮面の港へ  帰ってくる。仮面は森のなかへ船出をするのだ。

5、額の風、額はとらわれている。手の葉、植物の軌跡を走り、わたしは、ついに棒杭の人となっていた。

6、深淵図の中で、全ての事象の午前一時のなかで、柳田家の孔雀は完成される。

27 皮膚への参加

1、小さな頭蓋のなかの小さな花、それはそれは細い細い視線、  神経は、頭の外側に棒を目撃した、  その棒を額で撰り分けている視線。

2、小さな顔で歩く盲はまるでサルのようだ。猿の頭に落雷。頭の中に小さな花が咲く、糸つむぎの唄が聞え出す。

3、引きのばされる老婆は一枚の紙になるだろう。  老婆はその紙の上に蛾のように乗っかるだろう。

4、武将は女王になり、女王は関節の箱におさめられるだろう。その箱のなかからの生まれ変わりがフーピーという踊り子である。」

この三つの章は、土方が後世に残した透明体のための遺言である。

「どうだ。俺のぎりぎりの透明さに、きみも少しは近づけたかい?」

たじろぐわたしたちに土方の高嗤いが聴こえる。

「下手な思考を落として、耳を澄ましてみろ。きみのからだの闇でもまったく同じことが起こっているじゃないか。」

 

 

 

 




耳を澄ます

からだの闇の旅において、どういうクオリアに耳を澄ますべきか。この章では特に重要な3つのポイントについてガイドします。いずれも通常の言語意識の状態ではほとんど聞き取れないものなので、十分に瞑動を続けながら耳を澄ましてください。



とても微細なクオリア

からだの闇の微細なクオリアに耳を澄ます

情報モードから、耳を澄ますモードへ

 

ヒマラヤと日本を往還すると、巨大なギャップに突き当たる。生命クオリアに耳を澄ましている状態と、情報に囚われている状態。ヒマラヤで十年かけて創った状態と、たった一月の日本滞在で陥った状態。この二つの違いに耳を澄まそう。一体なにが違うのか? いままでわたしは、日常体とサブボディモードの違いを単純に思考モードから傾聴モードへの移行と捉えてきた。人間であるという状態から生命へ。だが、日本で起こったわたしの脳心身の変化は、そんな簡単なものではなさそうだ。 一番顕著な違いは、受け取る刺激の基本レベルがまるで異なることだ。十年のヒマラヤでの瞑想生活でわたしはあらゆる外部からの情報を遮断し、言語を止め、ただただからだの闇の中のごくごくかすかな生命クオリアに耳を澄ますことに集中してきた。

情報モードのからだ

日本での一ヶ月の滞在中に受けた膨大な情報の刺激は、その生命クオリアに比べて何兆倍も強烈なものだった。それをひとたび受けてしまうと、それまで静まり返っていた脳心身が異様に興奮し、強烈な刺激レベルにだけ反応するようになった。これをさして情報モードのからだと呼ぶことにした。情報モードは、からだの闇に耳を澄ますモードに比べて何兆倍も粗大な刺激レベルにチューニングされている。このチューニングレベルを根本的に何兆分の一まで微細化する必要がある。

微細傾聴モードのからだ

新入生の多くも、情報洪水にまみれる欧米の先進国からくる。日本で情報に被爆されたわたしと同じ状態にあると見ていいだろう。新学期が始まるまで、わたしは情報被爆で火照って興奮した脳心身を鎮静することに務めた。そして、新学期が始まってからまず一週間はとことん静まり返った脳心身状態に導こうとプログラムを組んだ。といっても、考えて創ったのではない。ただただ生命に聴くことにした。毎朝即興で、練習場に降り立ったからだを生徒とともに鎮め切ることに費やした。生命の呼吸、共振タッチ、指圧、秘膜、秘腔、秘関 などかすかなクオリアに耳を澄ますことが自然と中心となった。そのおかげだろう。ほぼ生徒全員が日常体の思考モードではなく、すみやかに下意識に耳を澄ますサブボディモードになった。これまでの年の新学期に比べて、かなり穏やかな始まりとなった。

生命に耳をかたむけることがもっと大事なことだからだ。言葉による細かい指示はその傾聴モードを阻害するのだ。わたし自身が思考を止めることができずに、どうして生徒が思考を止めることができるだろう。できるだけ言葉少なに、できるだけただただ耳を傾けることのできるからだの状態へ、鎮静化すること。これに注力したのがよかったと思う。それと、練習中に言語思考が込み上げてくるタイミングをかなり的確に指摘できるようになった。自分の出番を待つとき、いろいろな判断に囚われやすい。他の生徒の踊りを見ているとき、批評家が出てきやすい。こういう二言論的な思考や判断が出てきそうなタイミングを見計らって、「思考や判断が出てきたら、そっと鎮めること」とタイミングよく促すのがいい。これは自分自身では一日に何十度もやっていたことだが、それをその都度生徒と共有するのがいい。

 

細胞生命の微細共振に耳を澄ます

日常体と日常意識を限りなく鎮めていくと、やがて、からだのひとつひとつの細胞が感じているクオリアのゆらぎが感じられるようになる。わたしたちのからだは100兆の細胞のいのちと、その何倍もの体内外に棲むバクテリアのいのちからなる多重共振体だ。

ひとつひとつの細胞が、それぞれ別個の生命としてあらゆるクオリアを感じ、それに対応して生命を維持運転している。かれらはまだ未解明の仕組みのクオリア共振によって交感している。ひとつひとつの細胞は、重力、空気、光、音、温度、圧力、食物、毒物などの外界のクオリアと共振すると同時に、外クオリアは細胞内に刻まれた生命記憶などの内クオリアとも共振し、刻一刻と判断し活動している。

 

微細呼吸

限りなく意識と体を鎮め、それらのクオリア共振に耳を澄ます。もっとも敏感な口腔粘膜や鼻腔粘膜にほんの少し、1ccだけ空気を吸い込み、

粘膜細胞に起こるクオリアの変化を感じ取る。表皮細胞は死せる細胞だが、粘膜細胞は生きた細胞なので、酸素に触れたときのかすかな震えが共振しあっているのが感じ取れる。そこではいくつもの種類のクオリアが多重に共振している。粘膜の水分が空気に触れて気化するときに奪い取る気化熱によって感じる冷やっこい涼しさの温度クオリア、細胞が酸素を得て内呼吸によって活性するかすかな快感、大気中の無数の化学物質と共振するクオリア、そして、細胞内に刻まれた太古、酸素が猛毒であった時代の生命記憶による死を前にして生死のあいだで震えるクオリアなど、じつに多様なクオリア共振が起こっている。唇の内側に感じる微妙な味わいの震えはそれら多様なクオリアの同時共振による複雑な震えが総合されたものだ。言語意識はその微細さに比べるとはるかに強烈なエネルギーを持つのでそれを止めないとマスキングされて微細共振を感じることができない。わたし自身、最初は唇の内側で起こっている細胞の微細共振を直接感じることができるなどとは思ってもいなかった。だが、それは実際に可能なのだ。

やがて、口腔の半分まで空気を吸い、その感じが広がるのを感じ取る、

口腔全体、喉、肺、そして血液細胞によって酸素がからだの各細胞に送り届けられて体各部の細胞で起こっている微細共振に耳を澄ます。まるで体全体が巨大交響楽団のように共振しあってるのが感じ取れる。その中には、100兆の体細胞だけではなく、200兆のバクテリアの生命との共振も混じっているだろう。バクテリアたちもわたしたちの体細胞とまったく同じ生命発生以来40億年の生命史をもち、その間に蓄えた生命記憶の内クオリアを持っている。

 

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バクテリア間のナノワイヤーネットワーク
バクテリア間のナノワイヤーネットワーク

ネットの科学ニュースで、バクテリアの間で繊毛を通じて電子を交換してコミュニケーションを図っていることが発見されたことを知った。従来は微細な化学物質を通じて交信していると考えられていたのが、そればかりではなく、脳細胞のニューロンのように電気信号でも交信していることが知られるようになった。それはまるでわたしたちの脳そっくりのシステムだ。ニューロン間の電気信号によるコミュニケーションとグリア細胞間の化学物質によるコミュニケーション。それを総合したグリア・ニューロンネットワーク。―おそらくこれらは細胞生命の間で起こっている、もっと微細な(ひも理論でいう)ストリングの共振パターンの変化による総合的な生命共振の仕組みのごく一部であるだろう。

ナノワイヤーを発見したYori Gorby科学者も、「バクテリアのナノワイヤーに関する最も刺激的な仮説は、ナノワイヤーが、それとはまた別の原始的な(あるいは高度な?)コミュニケーション・システムの一部なのではないかということだ。」と、その不可視の仕組みを予感している。

この科学者が予感している「より原始的な(あるいは高度な)コミュニケーションシステム」こそ、クオリアを通じた生命共振に他ならない。細胞生命は発生以来40億年間もクオリア思考を続けてきた。

わたしたちの脳も下意識では細胞間でクオリア思考を行っている。いよいよその一端が明らかになりつつあることを思うとわくわくする。その全容が解明されるのはずっと先になるだろうが、それを待つ必要はない。意識を止め、近代意識にとらわれない透明な知性を開くことで細胞間の微細共振を直接感じ、味わうことが可能なのだ。それに日々耳を澄まし、もっと微細なことが感じ分けるようになるまで透明覚を研ぎ澄ましていく。この修行には終わりがない。

 

生体細胞共振

両掌を2,3センチの距離に近づけて、静かに聴き入る。すると両方の手がなにかを感じあってざわめいているのに気づくはずだ。日常意識では通り過ぎていることだが、静かに聴きこめば誰にもすぐ分かるほどの明確さでこれが感じられる。このときいったい何が起こっているのか。――掌の細胞同士が共振しあって喜んでいるのだ。これはごく自然な生命現象である。何十年もこの現象について考えてきてやっと答えにたどり着いた。具体的には、つぎのような手順で問い深めていく。

1.ゆらぎ瞑動などによって、十分日常意識を静めた後、自分の両手を2,3センチの距離に近づける。両手の間に何が起こっているかに耳を澄ます。

2.じつにさまざまな微細な体感クオリアを感じることができる。まずは温かさのゆらぎを感じとるだろう。そして、そのゆらぎがいかにも生きているものという感じを与えることにもきづくだろう。

3.よくよく耳を澄ましていると、ざわざわというざわめきが聴こえだす。両手の細胞がなにやらそれぞれ別個に咸じて、何らかの感じを隣接した細胞に送り、それがうねりのようなざわめきとなっているようだ。生きた細胞が近くにある別の生体を感知したとき、なんらかのシグナルを発していると考えられる。そのシグナルは共振しあって、ざわざわと、いつも生体特有のf分の一ゆらぎにゆらいでいる。

4.掌を、自分の手から、ほかの部位に移し、生体共振を感じる。部位が変わると、感じられるクオリアもわずかに異なる。

 

不即不離の共振

5.掌をほかの人のからだに2,3センチの触れるか触れないかの不即不離の距離に近づけ、なにを感じるか試してみる。やはりおなじように、生体特有の生きている感じをうけとることができるはずだ。そしてなにやら、自分の細胞と相手のからだの細胞が生体共振を起こし、細胞がそれを喜んで活性化していく感じも。

6.こののち、目隠しをしてじょじょに動きだす。映像チャンネルを閉じると、いやでも、非二元クオリアや原生的な体感チャンネルや運動チャンネルのクオリアが開かざるを得ない。さいしょは不安だが、時間を経ると次第に原生感覚を取り戻していく。

7.暗闇の中でほかの人に出会えば、2,3センチの皮膜の距離でその生き物を感じてみる。生体共振がもっとくっきりと感じられる。闇の中を互いに原生的な感覚を開きながらまさぐりあう。だれでもこれを体験すると、いいようのない喜びを感じる。みょうにうれしいのだ。わけは分からないけれど。実際に肌を触れ合うよりはるかにいい。微細で精妙な生体共振を楽しむことができる。

8.闇の中の透明なデュエット。かすかな原生的感覚だけをたよりに闇の中に生体共振感覚をまさぐりあう。それがそのまま美しいデュエットになる。ただ、からだに生体共振の喜びを蓄積していけばいい。

 

共振離見

9.不即不離の共振で互いのからだをまさぐりながら動く。動きつつ同時に、自分たちの姿を外側の視線から見る。前から、後ろから、横から、上から、地底から、離見する。

10.からだの内側へ入り込んで、胎像流クオリアが途切れなく流れているかを体感離見する。

11.相手のからだの中へ入り込んで、相手の中ではどんな胎像流のクオリアが流れているかを体感離見する。

12.目を瞑っていても、以上のすべてが、自分たちの動く姿とともに透明に感じられるようになるまで訓練する。

「耳を澄ます」の先人たち

こういう世界があることを教えてくれたのは多くの先人たちだ。からだに耳を澄ませることは、『からだに貞く』、『重さに貞く』の野口三千三、人類の潜在意識教育に賭けた野口整体の野口晴哉、まず、この両野口から学んだ。そして、土方巽だ。彼は「自他分化以前の沈理の関係へ降りていかねばならない」と書き、自らさまざまな下意識状態になりこんで、『病める舞姫』という微細な生命共振の世界を記した。彼は、当時彼だけが見出した下意識のいのちの創造性の秘密を弟子にさえ秘めた。

それから、『フォーカシング』のジェンドリンだ。からだの中のかすかな不快感に耳を澄まして、それが伝えようとしているものに聴き入ることをフォーカシングと呼ぶ。それを西洋文化圏で最初に理論化したのがジェンドリンだ。

ミンデルの「センシェントな」第二の注意力、あるいは明晰さ(ルシディティ)を鍛えるという方法も同様の道にある。これらはすべて、いのち命の声に耳を澄ます生の技法である。

1960年代に、ミシェル・フーコーは、『言葉と物』で現代の西洋的な知の終焉を予告した。人間という思い上がりの上に立った「人間の終わり」を告げる、新しい知の形態の出現を予言した。晩年は西洋精神にとっての『自己への配慮』の歴史を解明し、現在の自我と国家の相補的な関係を明らかにした。彼の盟友ジル・ドゥルーズは来たるべき「人類の新しい知の形態」を<リゾーム>として提起した。あらゆる二元論や知の階層秩序を突き崩していくそれは、生命の肯定と<いのちの配慮>へ向かう生の技法を指向していた。

わたしたちはそれら先人の歩みを踏まえ、現在の社会生活で主流となっている「わたし」という意識を止め、「人間」が囚われている自我や自己同一性を脱ぎ、<いのちになる>ことを目指す。生命共振というかすかなクオリアに耳を澄ますことのなかから、未来が開かれると信じる。

 



美とはなにか

いきなりとてつもない問いが舞い降りてきた。

踊りにとって美とは何か

 太古の踊りは神に捧げられた。そのもっと前はただ生命のほとばしりだっただろう。だが、太古の人類は生命に起こる無限のクオリア共振を、精霊や神のもたらすものだと理解した。いまでもインドの伝統ダンスはひとえに神に捧げられている。まさか自分の生命が共振して新しいクオリアを創造しているのだとは想像もつかなかったのだ。 そして、国家ができてからは、王が神の権威を占有し、踊りは神と王に捧げられるものとなった。いまだに伝統的な宮廷ダンスはそれを受け継いでいる。クラシックバレエは、この宮廷の社会秩序に従い、王子、王女、騎士、庶民という社会秩序を表現している。 近代のモダンダンスはこの社会秩序から解放された個人の自我の表現になった。社会的役割から解放された個が人類史に登場した。初期のモダンダンス、イサドラダンカンや、ラバンの踊りの持つ凄まじい破壊力はこれが美の革命だったことを物語っている。 そして、コンテンポラリーダンスにいたってさらに自我から自己へ、人間のもつ可能性のあらゆる問題を踊るものに拡張された。ピナ・バウシュは現代社会のあらゆる問題をあつかうダンスシアターを創出した。だが、まだそれは優れた芸術的資質を持った振付家がダンサーの動きを振り付け、総合するという古典的形態のもとにあった。そして、いまだに「人間」という現代最大の元型に縛られている。現代社会ではかつて同じ社会に共存していた不具や気狂い、らい病患者などを社会の表舞台から追放し、隔離し、健康かつ経済活動ができ税を払うことのできる人々だけを「市民」として扱っている。精神的・身体的ハンデキャッパーや、死者は人間以外の世界に解離されてしまった。その社会では五体満足な健常者による躍動する動きや姿形だけが健康な美とみなされている。ほかは醜いものというカテゴリーに封印されている。

 

 

 

 

 



他界からのまなざしで生命を見る

自分自身はもうこの生きた世界に属していない。どこか草葉の陰のような異界からそれを眺めている。他界からのまなざしに成り込む。

すると、目に入り耳に入るどんなことも、まばゆい生命共振であることが透けて見えてくる。生命が感じているクオリアの無限の豊かさ、どんな小さなこともどんなにまばゆいことなのかが痛いほど感じられる。他界からの死者のまなざしでこの生きた世界を眺めることによってだけ、生命の感じているかすかなクオリアの無限の豊かさを感じ取ることができる。この死んだ世界に自分の身をおく深い瞑動へ降りていこう。ふるえやゆらぎの調体からはじめ、やがてふるえもゆらぎも止まって、死んだからだになる。その死の世界からのまなざしで、生きたこの世界を眺める。するとごくごく微細な生命の震えの中にいかに豊かな階調があり、まばゆいバリエーションに満ちているかが感じられる。その微細なゆらぎに従いほんの少し増幅するだけで無限の踊りが生まれてくる。これがサブボディメソッドの根幹だ。土方巽もまた、そこから彼の最後の舞踏をはじめた。「静かな家」の探求のなかで土方の舞踏技法とサブボディ技法がひとつになった。これこそが晩年の土方が求め続けた「生命の呼称で呼びうる舞踏」なのだ。短期で身に付くものではないが、これこそがもっとも大事なことであることだけは受け取ってほしい。そこからどんなサブボディが出てくるか、それを創造にいかにつなぐかは本人たちの精進次第だ。

 

 

 

 

 

 



他界からのまなざしで生命を見る

自分自身はもうこの生きた世界に属していない。どこか草葉の陰のような異界からそれを眺めている。他界からのまなざしに成り込む。

すると、目に入り耳に入るどんなことも、まばゆい生命共振であることが透けて見えてくる。生命が感じているクオリアの無限の豊かさ、どんな小さなこともどんなにまばゆいことなのかが痛いほど感じられる。他界からの死者のまなざしでこの生きた世界を眺めることによってだけ、生命の感じているかすかなクオリアの無限の豊かさを感じ取ることができる。この死んだ世界に自分の身をおく深い瞑動へ降りていこう。ふるえやゆらぎの調体からはじめ、やがてふるえもゆらぎも止まって、死んだからだになる。その死の世界からのまなざしで、生きたこの世界を眺める。するとごくごく微細な生命の震えの中にいかに豊かな階調があり、まばゆいバリエーションに満ちているかが感じられる。その微細なゆらぎに従いほんの少し増幅するだけで無限の踊りが生まれてくる。これがサブボディメソッドの根幹だ。土方巽もまた、そこから彼の最後の舞踏をはじめた。「静かな家」の探求のなかで土方の舞踏技法とサブボディ技法がひとつになった。これこそが晩年の土方が求め続けた「生命の呼称で呼びうる舞踏」なのだ。短期で身に付くものではないが、これこそがもっとも大事なことであることだけは受け取ってほしい。そこからどんなサブボディが出てくるか、それを創造にいかにつなぐかは本人たちの精進次第だ。

 

 

 

 

 

 



ほんとうの癒やしとは何か

サブボディ舞踏の根幹は、からだの闇にもつれ、くぐもり、凝りかたまっているものらに、サブボディ=コーボディという動きと形を与えてひとつひとつ解き放っていく作業だ。上のベルメールの箱に閉じ込められたからだの絵がそれをイメージするのに役に立つ。数えきれないほどのサブボディが、からだの闇の狭い場所に押し込められている。いのちは非二元かつ多次元に共振しているから、互いにもつれ、凝り固まり、つながり合ってしまっている。少しずつ踊れるものから解きほぐし、複雑な絡まりの一部ずつ解き放ってやるしかないのだ。それを生涯続ける。全生的な創造と癒やしのダイナミックループを回し続ける。それが本当の癒やしだ。からだや心の一面だけに働きかけるもろもろのヒーリング技法やボディワークがその場しのぎのものにしかならないのはそのためだ。絡まりのあるものは、個人の下意識のサブボディとしてだけではなく、集合的無意識域のコーボディとも関連し、ひとつにこんがらがっている。サブボディとコーボディを区別できないのはそれによる。個人で踊るだけでは足りない。さまざまな群れと個の変容を踊る必要がある。結ぼれの根源は個人史起源のものだけではなく、700万年の人類史、そして40億年の生命史とも絡み合っているからだ。それらはサブボディ=コーボディとして踊り解いてやらなければならない。からだの闇にくぐもっているクオリアに耳を澄まし、ひとつひとつからだに聴きながらほどいていく。解ける順番は頭で考えても分かるわけがない。サブボディたちが一番よく知っている。

 




自在往還技法

自分といのちの間を自在往還する

ヒマラヤ20年の歩みの中で見つかった最良の生存の技法は、透明な自在往還技法である。特定のクオリアに囚われず、あるゆるクオリアと透明に共振する。それはあらゆる場面に適用される。自分と生命の間を自在共振し、非二元多次元のクオリアと、二元的なクオリアの間を自在往還する。リゾームとツリーの間を自在往還する。非二元リゾームの混沌の中から、サブボディ=コーボディを見つけ、創造に転化する。ひとつのクオリアから別のクオリアへ自在跳梁する。自分が出会ったクオリアだけではなく、他の人が見つけたクオリアとも喜んで共振する。サブボディとコーボディの間を自在往還する。これがついに見つかった<クオリアシェア>と<共振リゾーム>の共創技法だ(第7,8,9章参照)。

 

わたしであるかどうかがどうでも良くなるところまで

「わたしであるか、わたしでないかが、まったく重要でない地点に到達しなければならない」(ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』)

<クオリアシェア>や<共振リゾーム>の踊りの中では、すでにわたしたちはこの境地に達しつつある。だが、それ以外の場面でも、自分のことばかりにこだわるのではなく、他人の問題をわがこととして受け止め、ともにその解決に当たる。そういう互いに助け合う共同探求=共同産婆の共同体を創ること、それが当面の課題だ。この書の最終章「産婆になる」の最終節「脱自」までたどっていただくことによってその全貌が明らかになるだろう。




元型の起源

 

なぜ、元型のようなものが生まれてきたのか。生命史を振り返ってみよう。

生命はその発生以来、40億年の歴史の中で、実にさまざまな状況に出遭い、そのつど、無数の対応様式を創発し、生を持続してきた。生命はその原生力ともいうべき、よい共振パターンを見つけようとする傾性、生存衝動、生への欲動を持つ。それらは同時に無数の発現パターンとしての元型をもあわせ持っている。生命は、いわば、それを推進するエネルギーとしての原生力と、その発現のノウハウとしての元型力とが一個二重となった、原元二重のクオリアを遺伝してきているのである。

人類の祖先は700万年前チンパンジーから種を分かち、アフリカ大陸で長い石器時代の歳月をかけて、原生人類にまで進化してきた。およそ20万年前、アフリカの気候が変化し、人類の先祖は食糧危機に見舞われ、アフリカから脱出しなければ生き延びることができないほどの危機に直面した。「出アフリカ」の長い旅が始まったのだ。 「出アフリカ」の移住は数次にわたってあったと見られ、祖先たちは、アフリカから、アジア、ヨーロッパ、オセアニア、アメリカなど他の大陸にいたる長い艱難に満ちた旅を体験した。それは凶暴な肉食獣、多くの災害、洪水、地震、火山、津波、戦乱などに満ちたものだったに違いない。これらの苦難の経験が、<元型>として、C.G.ユングによって集団無意識と呼ばれたからだの闇の深部に刻印されることになったのだろう。

地獄、太母、悪魔、幽霊、キメラなどの元型は、民族の違いを超えてすべての人類のからだの闇に刷り込まれている。からだの闇の深部の探体を行うと、実に多数多様な元型に出会う。 元型はときにはわたしたちの創造をより豊かに、ダイナミックに彩ってくれる。しかし一方で、元型はとびきり強い支配力をもつ。もし元型のひとつに囚われてしまえば、たちまちわたしたちは創造の自由と柔軟性を失ってしまう。そういう人に数え切れないほど出会ってきた。おそらく、ユングもそうだったのだろう。かれは次のような異例の強い言葉で元型にとり憑かれる危険を警告している。

「元型の支配下に落ちた人間は必ず悪の餌食にならざるを得ない。」

 

18.祖型的な情動

元型はわたしたちのいのちに刷り込まれている人類史の遺産である共有イメージである。だが、さらに深い領域では、イメージにならない、おびえや震え、こわばりなどの祖型的な情動や体動が潜んでいる。

土方が、「静かな家」から『病める舞姫』にかけて特に注力して探求したのがこの<祖型的なもの>だ。それらは安全欲、快適欲、つながり欲、個体化欲などの欲望の傾性とも複雑に共振しあって、無数の変異を見せる。これらは人類史だけではなく、40億年の生命史の遺産というべきものだ。

 


元型の二面性

からだの闇にはおびただしい元型が棲んでいる。至るところに無数の元型パターンが待ち受けている。元型は、ユングによれば、われわれが遺伝によって継承している<集合的無意識>の内容である。概念内容がすこしずれるが『未開人の思惟』を研究したレヴィ・ブリュルはそれを<集団表象>と呼んだ。吉本隆明は<共同幻想>と名づけた。

元型は深い誤解に包まれてきた。注意深くユングの言葉を引用しよう。

「元型は、ア・プリオリに存在している。意識は元型に魅了され、まるで催眠にかけられたかのようにその虜になってしまう。」

                 (C.G.ユング『元型論』)                      

元型は強力な二面性を持つ。元型はまず、励まし、力づける。そして喰いい尽くす。それが二面性だ。元型に出会うと、まず、一定の共振パターンの中に誘い込まれ、一挙に世界=自己イメージがふくらむ。なんだ、こうすれば簡単じゃないか! 生命が何度もたどってきた道筋だ。安定しているに決まっている。だが、同時にそのパターンの中に閉じこめられる。容易にその道に入ることができる。だが、安易には出られない。人はそのようにして元型に出会い、元型に喰われる。元型はつねに促進と規制という二側面を持つ。

 




元型による囚われ

からだの闇には超自我以外にも多くの元型が棲んでいる。

 

11.アニマ・アニムス

おそらく、もっとも強力な元型のひとつだ。アニマは男性の中の秘められた女性的側面、アニムスはその逆で、女性の中の秘められた男性的側面である。だが、それらは無意識の闇深く潜んでいるので普段は気づくことがない。そして、男は自分の中の女性的要素を外部の特定の女性に投射する。

意識的に投射するのではなく、クオリアが勝手に二重に共振する。

それが恋だ。いや、くわしく言えば、恋愛には性欲やさまざまな未知の要素が絡み付いているので簡単には言いきれない。ただ、自分がいつも特定の偏った女性と恋に落ちることをつぶさに見ていくと、そこにアニマが絡んでいることが透けて見えてくる。アニマへの囚われからの解放はわたしにとって探求のさなかの未知の課題だ。何十年も取り組んでいるので、ほんの少しずつは透明になってきた。だが、いまだにうまく解き明かせたとはいえない。わたしのとって最後の創造はアニマの謎をめぐるものになるだろう。

女性にとってのアニムスへの囚われも同様に深い闇だ。いまは正直にそう申し上げることしかできない。ただ、この問題を解かない限り、透明ないのちに至れないことだけははっきりしている。

 

12. グレートマザー

グレートマザーは元型の一種であり、アニマとも関わる。超自我のような様相で現れてくることもある。超自我はすべて元型でもあって、両者の明確な区別は存在しない。グレートマザーはすべてを愛し、すべてを喰いつくす。愛と所有欲と破壊の区別がない。自分の愛する子供はすべて自分の自由になる持ち物だと考えている。

 

13.老婆心

老婆心は日本のような母系性社会に特徴的な超自我あるいはグレートマザーの日本的現れかも知れない。老婆の前では誰もが未熟な子供になってしまう。だが、どんな社会にも、過剰な用心を強調して新しい冒険を押しとどめようとする傾向は存在する。

アニマ、アニムスはじめ元型は、多次元的に共振していて、相互変容を起こしている。単純な論理では捉えきれない。

 

14.自己像の元型

影、神、女神、悪魔、モンスター、狂王、グル、キメラ、幽霊、精神、精霊、天女、エンジェル、地母神、偉大な母、賢者、英雄、トリックスター、アニマ、アニムス、少女、少年、赤児・・・

ユングは主に自己元型を探った。近代の自己というものが人々に定着する以前に、古代から人々は無限の自己像の元型をなぞってきた。老賢者や翁は精神元型であった。少年、少女は自己のうちの好奇心に満ちた共振性の元型だ。英雄やトリックスターという特異な力を示す元型もある。逆に影のようなみっともない姿の元型も潜んでいる。

群れの元型・世界像の元型

15.世界像の元型

自己像の元型と対応する形で、世界中のあらゆる民族文化は世界像の元型をもつ。ユングは世界元型にあまり注目しなかったが、天国、地獄という世界元型は世界中の民族に共有されている。洪水や戦争、天変地異という世界異変の元型も深く人類の心の深層に刻み込まれている。それは、母胎と一つになっていた胎児体験とも繋がっている。

 

16.群れの元型

世界像以外に群れの元型が存在する。戦争や地震、津波などの天変地異のなかで人類は否応なく共通の元型的な群れの無意識を体験する。わたしたちが幼い時期は、家族や親族という群れの中で育つ。家族体験のなかで生命の歴史の中で累積された群れ元型を追体験する。

リゾーム的に無限変容する群れの元型はサブボディ=コーボディ共創技法のような方法でなければうまく捉えることはできない。

ユングが亡くなってからもう何年になるのだろう。ようやく自己元型だけではなく、世界元型や群れの元型になり込みからだで探求できる時が来た。

ユングはわたしにとって特別の人だ。かつてからだの闇の旅で溺れて死にそうになったとき、唯一彼の無意識との対決の体験記だけがわたしにとって光明となった。いわば命の恩人だ。その恩人に恩返しをすることができる。わたしたちが群れの元型の支配力から自らを解き放つために、まずは群れのからだになり込み、群れの元型を自由自在にまとったり脱ぎ捨てたりすることができるようにならなければならない。サブボディ=コーボディにからだごとなり込み、群れのからだやそこから剥がれた個のからだを自在に往還する。群れと個、コーボディとサブボディの間をひっきりなしに往還する<共振リゾーム>はもっとも豊かな経験となる。集合的無意識の深い闇に、踊り手全員で潜り込み、無数の元型と格闘しながら創造を続ける。人類史上最大の群れの元型である国家の闇にいまだに世界中の人が囚われ、国家が起こす戦争をいつまでたっても止めることができない現在、これは人類全体にとっての火急の課題なのだ(第7,8章参照)。

 

17.人間関係の元型

人間関係チャネルでは、有名なオイデプスコンプレックスのような、父子関係の元型、母親コンプレックス、ダブルバインド、シンデレラ症候群、ピーターパン症候群などの成長過程に伴う<関係の元型>として現れる。

それらは、ときにのちに述べる投影や転移、ドリーミングアップなどの複雑なクオリアの二重多重の共振と重合することによって、複雑怪奇な人間関係のもつれ絡みを惹き起こす(第12章「嵐の中の透明覚」参照)。

 

元型の二面性

からだの闇にはおびただしい元型が棲んでいる。至るところに無数の元型パターンが待ち受けている。元型は、ユングによれば、われわれが遺伝によって継承している<集合的無意識>の内容である。概念内容がすこしずれるが『未開人の思惟』を研究したレヴィ・ブリュルはそれを<集団表象>と呼んだ。吉本隆明は<共同幻想>と名づけた。

元型は深い誤解に包まれてきた。注意深くユングの言葉を引用しよう。

「元型は、ア・プリオリに存在している。意識は元型に魅了され、まるで催眠にかけられたかのようにその虜になってしまう。」

                 (C.G.ユング『元型論』)                      

元型は強力な二面性を持つ。元型はまず、励まし、力づける。そして喰いい尽くす。それが二面性だ。元型に出会うと、まず、一定の共振パターンの中に誘い込まれ、一挙に世界=自己イメージがふくらむ。なんだ、こうすれば簡単じゃないか! 生命が何度もたどってきた道筋だ。安定しているに決まっている。だが、同時にそのパターンの中に閉じこめられる。容易にその道に入ることができる。だが、安易には出られない。人はそのようにして元型に出会い、元型に喰われる。元型はつねに促進と規制という二側面を持つ。

 

元型の起源

 

なぜ、元型のようなものが生まれてきたのか。生命史を振り返ってみよう。

生命はその発生以来、40億年の歴史の中で、実にさまざまな状況に出遭い、そのつど、無数の対応様式を創発し、生を持続してきた。生命はその原生力ともいうべき、よい共振パターンを見つけようとする傾性、生存衝動、生への欲動を持つ。それらは同時に無数の発現パターンとしての元型をもあわせ持っている。生命は、いわば、それを推進するエネルギーとしての原生力と、その発現のノウハウとしての元型力とが一個二重となった、原元二重のクオリアを遺伝してきているのである。

人類の祖先は700万年前チンパンジーから種を分かち、アフリカ大陸で長い石器時代の歳月をかけて、原生人類にまで進化してきた。およそ20万年前、アフリカの気候が変化し、人類の先祖は食糧危機に見舞われ、アフリカから脱出しなければ生き延びることができないほどの危機に直面した。「出アフリカ」の長い旅が始まったのだ。 「出アフリカ」の移住は数次にわたってあったと見られ、祖先たちは、アフリカから、アジア、ヨーロッパ、オセアニア、アメリカなど他の大陸にいたる長い艱難に満ちた旅を体験した。それは凶暴な肉食獣、多くの災害、洪水、地震、火山、津波、戦乱などに満ちたものだったに違いない。これらの苦難の経験が、<元型>として、C.G.ユングによって集団無意識と呼ばれたからだの闇の深部に刻印されることになったのだろう。

地獄、太母、悪魔、幽霊、キメラなどの元型は、民族の違いを超えてすべての人類のからだの闇に刷り込まれている。からだの闇の深部の探体を行うと、実に多数多様な元型に出会う。 元型はときにはわたしたちの創造をより豊かに、ダイナミックに彩ってくれる。しかし一方で、元型はとびきり強い支配力をもつ。もし元型のひとつに囚われてしまえば、たちまちわたしたちは創造の自由と柔軟性を失ってしまう。そういう人に数え切れないほど出会ってきた。おそらく、ユングもそうだったのだろう。かれは次のような異例の強い言葉で元型にとり憑かれる危険を警告している。

「元型の支配下に落ちた人間は必ず悪の餌食にならざるを得ない。」

 

18.祖型的な情動

元型はわたしたちのいのちに刷り込まれている人類史の遺産である共有イメージである。だが、さらに深い領域では、イメージにならない、おびえや震え、こわばりなどの祖型的な情動や体動が潜んでいる。

土方が、「静かな家」から『病める舞姫』にかけて特に注力して探求したのがこの<祖型的なもの>だ。それらは安全欲、快適欲、つながり欲、個体化欲などの欲望の傾性とも複雑に共振しあって、無数の変異を見せる。これらは人類史だけではなく、40億年の生命史の遺産というべきものだ。

 
 

Our Website: https://doushinbutoh.com

 

Doushin Butoh Workshop - Autumn Term

*** In compliance with CDC guidelines regarding coronavirus prevention, we are continuing our Doushin Butoh Workshop on Zoom. ***

Doushin Butoh Workshop is designed to explore the hidden potential of our body. Using movement meditation techniques from Spring Forest Qigong and body awareness techniques from Subbody Butoh, Doushin Butoh allow the practitioners to go deep into a meditative state and explore their body in a whole new way. 

This workshop will focus on the essential aspects of Doushin Butoh: 

  • Go deep into a meditative state by practicing Spring Forest Qigong healing movements and meditation
  • Increase the awareness of our body by practicing body conditioning techniques from Subbody Butoh
  • Go beyond our physical, psychological and social bounds and experience freedom of movements in our body
  • Experience oneness with everything around us and feel the natural flow of Qi in the universe
  • Experience Subtle Body by quieting down the daily consciousness and listen to the subtle sensations in our body 


Recommended Study:  Spring Forest Qigong Level One, Doushin Butoh Experience Workshop, Qi Flow class from Heart of Tao Resonance Art

When: Thursdays 6:30pm - 8:30pm Central Time US

  • Autumn Term 2021: 9/9, 9/16, 9/23, 9/30, 10/7, 10/14, 10/21, 10/28 (Schedule is subject to change) 

Where: Online (Zoom)

Tuition: $160

 

舞踏革命 リゾーム リー

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印刷版 3456円 (574ページ)

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この二十年、ヒマラヤで書き続けてきた舞踏論のすべてを一冊に凝縮しました。

「舞踏は、土方巽によって、日本で誕生した。本書は、今や世界的になったその「舞踏」の本質を追究し、自らインドのダラムサラで学校を開いて実践し続けるLee(リゾーム・リー)が、その本質に「生命の共振」があることを発見し、真実、舞踏こそが人類を解放し得る方法であることを示している。その意味で、まさに本書は「革命の書」である
。」

この度、アマゾンでお手軽にお読みいただけるようになりました。 



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